このようないわゆる「ドンブリ勘定」を続けていては、いつまで経っても経費節減ができません。そこで、意次の時代になって初めて予算制度が成立したのですが、費用の割合はどうだったのでしょうか。
意次が自己の保身を図ろうとすれば、当然将軍家や大奥の費用を多めに計上すると思いますよね。ところが実際は全く逆であって、年を経るごとに減らされていきました。その一方で、町奉行などの民政に関する費用は据(す)え置かれていますから、結果としてかなりの経費削減に成功していることになります。
本当に幕府のためになる政治を目指すのであれば、将軍家や大奥のご機嫌を取ることなく、思い切った手段を実行する。意次の「政治家」としての優秀さがうかがえる政策の一つですね。
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ぴーち こんばんは!
確かに金銭感覚って生活していく中では
一番必要な要素ですよね。
そう言えば、離婚した夫婦の男性側の理由で
第一番目は、妻の金使いの荒さだと
有りましたが、何時の世でも
お金の有り難さは持ちあわせていないと
いけませんね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、そういう統計もあるのですか…。
予算という考えは重要ですね。
第52回歴史講座でも紹介しましたが、江戸幕府が公的な学問として採用した朱子学は、儒教に由来していました。
そして、その儒教でもっとも嫌われているのが、生産性が全くないうえに、「100円の価値しかないものを120円で売る」という行為自体が「卑(いや)しい」と見なされ、道徳的に認められていなかった、いわゆる「商行為」でした。
幕府の政策において、商業は「悪」とみなされているといっても過言ではなく、商人がどれだけ利益を上げても、彼らから所得税や法人税を集めるという発想自体がなかったのですが、意次は商人から直接税を集めるのではなく、彼らが扱う商品に税をかけることによって、幕府の収入を積極的に増やそうと考えました。
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ぴーち こんばんは!
なるほど、商売が卑しいと見なされた発端が
意次の政策だった訳ですね。
それでも幕府の為に、自分が出来ることを
探した結果だと思うので、
国にとっては無くてはならない人物だったのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
こうした発想の転換は素晴らしいですね。
こうした発想の転換に対して、商人たちは「独占的に流通ルートを認めてくれるのならば」と、条件付きで税を支払うことに応じました。かくして、幕府と商人たちとの思惑が一致したことによって、営業の独占権を与えられた「株仲間(かぶなかま)」が、幕府の幅広い公認を受けることになりました。
株仲間が扱った商品は油や紙にロウソク、綿などの日用品や、銅や鉄などの金属が中心であり、江戸では十組問屋(とくみどんや)、大坂(現在の大阪)では二十四組問屋(にじゅうよくみどんや)が結成されました。
彼らから集められた運上(うんじょう)や冥加(みょうが)によって、幕府財政も潤(うるお)い、商業の繁栄が経済規模を全国的に拡大させるとともに、景気を上向かせる要素にもなりました。
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ぴーち こんばんは!
やはり大阪は商人の街ですね!
今でもお商売に関しては大阪商人の
右に出るものは居ないのでは無いでしょうか^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはり大阪は商人の街ですね!
> 今でもお商売に関しては大阪商人の
> 右に出るものは居ないのでは無いでしょうか^^
確かにそうですね(笑)。
商人と幕府の思惑が一致した効果は大きいと思います。
東日本では小判などの金貨が中心の「金遣(きんづか)い」であり、両(りょう)・分(ぶ)・朱(しゅ)といった単位で通用していたのに対して、西日本では銀貨が中心の「銀遣い」で、しかも銀を貫(かん)や匁(もんめ)といった重さの単位で、量をはかって通用させる方法を採用していました。
このため、東西で取引を行おうと思えば両替をしなければならず、また金と銀との相場が必ずしも一定しなかった(これを変動相場制といいます)ために、金銀交換の制約になっていました。
そこで、意次は明和2(1765)年に明和五匁銀(めいわごもんめぎん)をつくり、実際の質や量に関係なく5匁の銀として通用させ、明和五匁銀を12枚、つまり60匁で金1両と交換できることとして、金と銀とを初めて一本化させましたが、残念ながらあまり流通せずに終わりました。
しかし、あきらめなかった意次は、明和9(1772)年に南鐐弐朱銀(なんりょうにしゅぎん)をつくり、朱という「金の単位をもつ銀貨」を流通させることに成功しました。南鐐弐朱銀8枚が金1両と同じ価値となり、我が国での通貨の一本化がさらに進められることになったのです。なお、南鐐とは「上質の銀」という意味です。
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ぴーち こんばんは!
金と銀の価値の差を
金は上の下。銀は上の上
くらいの所に、もってくれば
丁度釣り合うという事なのでしょか^^
そう言えば、ヨーロッパのユーロ通貨の時も
きっと大変だったのでしょうね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 南鐐二朱銀は、銀貨を金貨と同じ価値と認めたことが大きかったようですね。
ユーロに関しては、イギリスが参加しないなど、当初から色々ありますね。
干拓事業の主な目的は新たな農地の開発でしたが、付近を流れる利根川(とねがわ)からの水路を開削(かいさく)して、江戸への物資輸送の近道を造ることも大きな目標でした。この事業が完成すれば、江戸と北方とを結ぶ船の航路の大幅な短縮が見込まれ、商品流通の活性化が期待されていましたが、無念にも天明(てんめい)6(1786)年に起きた大洪水によって、干拓は失敗に終わってしまいました。
一方、意次は長崎における貿易にも力をいれました。それまで縮小気味だった貿易の規模を拡大し、金銀を積極的に輸入するという、いわゆる外貨の獲得を目指したのです。しかし、輸入の量を増やそうと思えば、それに見合うだけの輸出量を確保しなければいけません。
そこで意次は、輸出品として国内で産出量が増えていた銅や、海産物としてイリコ(ナマコの腸を取り出して煮た後に乾燥させたもの)やホシアワビ(アワビの身を取り出して煮た後に乾燥させたもの)、フカノヒレ(サメのヒレを乾燥させたもの)といった俵物(たわらもの)を使用しました。外貨の獲得のために特産物の増産をはかることも、重商主義による一つの成果といえます。
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ぴーち こんばんは!
普通の人間なら、大洪水で終わってしまえば
落胆して立ち上がれそうにも有りませんが、
そこが意次の強みなのでしょうね。
そこがダメなら、また違う作を練りなおして
挑むその強靭な意欲はすごいと思います!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、意次の強みは、たとえ失敗しても、そこから這い上がる努力にあると思います。現代人も見習うべきですね。
意次は工藤平助の意見を採用して、それまで松前藩(まつまえはん)に経営を任せていた蝦夷地の直轄を計画しました。天明5(1785)年には最上徳内(もがみとくない)らを蝦夷地に派遣して調査をさせ、その結果、当時の民間商人が蝦夷地のアイヌを通じてロシアと交易していたのを知ると、意次はこれらの交易も幕府の直轄にしようと考えました。
また意次は、アイヌの生活の向上を目指して、農作業を教えようとまで計画するなど、アイヌの自立も目指していました。これは、アイヌの生活を安定化させると、藩の財政を支えるサケや毛皮などをとって来なくなるからという、松前藩の身勝手な理由で農民化を禁止していたのとは、全く正反対の政策でした。
意次の蝦夷地に関する政策は実に開明的であり、またロシアとの交易も視野に入れていたという事実は、我が国の自主的な開国をうながしたことで、吉宗によってまかれたタネが、意次の政策で芽を出して成長し、大きな花を咲かせる可能性を期待させました。
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ぴーち こんばんは!
ロシアが南下して来る事を懸念して
それならば、好戦的な構えよりも
むしろ友好関係を密にしてしまおうとする
意次の計画が功を奏したという事でよろしいでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰る考えではないかと思われます。このままスムーズにいけばよかったのですが…。
また、西洋医学の解剖書を訳した「解体新書(かいたいしんしょ)」が、前野良沢(まえのりょうたく)や杉田玄白(すぎたげんぱく)らによって完成されたのも、安永(あんえい)3(1774)年の田沼時代の頃ですし、エレキテルを復元するなど物理学の研究を進めた平賀源内(ひらがげんない)や、江戸時代の俳諧(はいかい)の巨匠の一人であり、画家でもあった与謝蕪村(よさぶそん)もこの頃の人物です。
これらのように、画期的かつ斬新な政治を行ったことで経済や文化を発展させ、幕府財政の好転をもたらした意次でしたが、政策の展開を苦々しい思いで見ている人物も少なくありませんでした。
彼らは、商人の力を借りることは恥であるとする「儒教と商行為」の呪縛から逃れられない人々や、元々は紀州藩の足軽に過ぎなかった家の男が老中まで出世しやがるとは何事だ、この「成り上がり者」めが、と意次を嫉妬(しっと)の炎で見つめていた、旧来の身分の高い人々でした。
また、これとは別に、田沼時代の政権末期の頃までに、意次は庶民から大きな反発を受けていました。なぜそんなことになったのでしょうか。「賄賂の横行で政治が腐敗したからだ」と思いがちですが、実は、意次個人にその責任を負わせるには、あまりにも酷(こく)な「自然現象」が本当の理由だったのです。
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ぴーち こんばんは!
どうしても成功した者に対しての嫉妬心は
起こりやすい物ですし、また、起こりやすいけれど
一番醜い考えでも有りますよね。
嫉妬心を起こすという人間は、ただ成功したという
結果しか見ようとせず、それ以前の努力の軌跡を考えようとも、想像しようともしないですね。
結局、全く苦労というものを知らない人間なのでしょう。逆に
ある程度、自分で苦労しした人間は
嫉妬心を起こしにくいものだと思いますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私もそう思いますが、経験談として、自分の苦労を鼻にかける人間は、やはり同じく嫉妬する傾向にありますね。
ぴーち おはようございます!
そうですか。
いわゆるそれは慢心というものですね。
自分がしてきた苦労をすっかり忘れてしまっているか、或いは傍から見ている程、その人が
本当の意味での苦労を味わっては居なかったという
意味も有るかも知れませんよね。
いづれにせよ、一番恥ずべき心ですよね。
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 仰るとおりです。世の中には色々な人がいますからね。
しかも、噴き上げられた灰が成層圏(せいそうけん、対流圏の上にある高さ約10~50キロの大気層のこと)にまで達し、その後も長く留まって日光の照射の妨げになったことで、不作が助長されて大飢饉(だいききん)になってしまったのです。
この飢饉は、当時の年号から天明の大飢饉と呼ばれ、噴火以前の天明2(1782)年から天明8(1788)年まで長く続きました。
なお、浅間山と同じ年の1783(天明3)年には、アイスランドのラキ火山が同じように噴火しており、天明の大飢饉の理由の一つに数えられるとともに、北半球全体が冷害になったことで、1789(寛政元)年のフランス革命の遠因にまでなったと考えられています。
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ぴーち こんばんは!
悪い事もまた一つが起こると
次から次へと連鎖的に起こるものですね。
こういう時は、大体時の政治家が槍玉にあがる事が
多そうですが、意次はどうだったのでしょうか・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こういう時は、大体時の政治家が槍玉にあがる事が
> 多そうですが、意次はどうだったのでしょうか・・
残念ながら、仰るとおりの流れになります。
不幸の連鎖のおまけつきで…。
そして、当時は「天災が起きるのは政治を行っている人間のせいである」という考えが信じられていたので、これらの責任の一切を意次が背負わなければならなかったのです。
一揆や打ちこわしが多発する殺伐(さつばつ)とした世が続くなかで、意次の身にさらに悲劇が起きました。息子で若年寄(わかどしより)の田沼意知(たぬまおきとも)が、天明4(1784)年に江戸城内で襲撃を受けて死亡したのです。
意次の悲劇はさらに続き、後ろ盾(だて)となっていた将軍家治が天明6(1786)年に死去すると、政治に対する非難が殺到していた意次は老中を辞めさせられ、失意のうちに天明8(1788)年に亡くなりました。
そして、15歳で11代将軍となった徳川家斉(とくがわいえなり)を補佐するかたちで、意次にかわって天明7(1787)年に老中となったのが、松平定信だったのです。
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ぴーち こんばんは!
何時の時代も、悪い事の原因は「人のせい」
だと思うのは、人間の業ですね(^_^;)
仏教的に解釈すると、この世で自分の身に起きた
すべての悪因は、過去世で自分自身が積んできた業が原因だとは誰もが思いもよらない所がまた悲しい性でもあります。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 何時の時代も、悪い事の原因は「人のせい」
> だと思うのは、人間の業ですね(^_^;)
> 仏教的に解釈すると、この世で自分の身に起きた
> すべての悪因は、過去世で自分自身が積んできた業が原因だとは誰もが思いもよらない所がまた悲しい性でもあります。
確かに仰るとおりですね。
現世にも通じる教訓だと思います。