以上は福岡県に伝わる有名な民謡(みんよう)「黒田節(くろだぶし)」であり、最近では私(黒田裕樹)の講演の代名詞ともなっていますが(笑)、筑前福岡藩(ちくぜんふくおかはん)の武士たちによって歌われ続けた後に、全国に広がったのがその由来(ゆらい)です。
福岡藩の藩祖(はんそ)は黒田長政(くろだながまさ)ですが、一般的にはその父であり、今年(平成26年=2014年)のNHK大河ドラマの主人公でもある黒田官兵衛(くろだかんべえ)の方が有名ですね。
黒田官兵衛といえば「天才軍師」として知られていますが、戦国武将として彼はどのような人生を歩んだのでしょうか。今回は、黒田官兵衛の生涯をたどりながら、そこから導き出される様々な歴史の流れを探ってみたいと思います。
なお、黒田官兵衛の諱(いみな)は孝高(よしたか)であり、また出家後の号である「如水(じょすい)」も知られていますが、当講座では「官兵衛」で統一します。
※下記の映像は6月9日までの掲載分をまとめたものです。





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確実なのは、官兵衛の祖父にあたる黒田重隆(くろだしげたか)が、播磨国(はりまのくに)の御着城主(ごちゃくじょうしゅ)の小寺政職(こでらまさもと)に仕え、重隆の子の黒田職隆(くろだもとたか)が姫路城(ひめじじょう)の城代となり、小寺姓を与えられ家老職となったなど、厚遇されたということでしょうか。
但し、職隆の頃の姫路城は小城でしかなく、現在のような豪壮優美(ごうそうゆうび)な城は江戸時代初期までの改築によるものです。
いずれにせよ、黒田氏は小寺氏の重要な家臣であり、姫路に本拠(ほんきょ)を置き、その名を高めてきました。そんな中で天文(てんぶん)15年11月29日(西暦1546年12月22日)に、官兵衛は職隆の嫡男(ちゃくなん)としてこの世に生を受けたのです。
※下記の映像は6月9日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち おはようございます!
私は「姫路城」を実際には拝見したことは
ありませんが、つい最近、大改装が行われて
屋根まで真っ白になってしまって、以前の黒い方が
良かった。。などと感想を述べている方のコメントを目にしましたが、これまで姫路城は何度も
その姿を変えて来たのですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、姫路城は小城から大幅に改築されて、現在のようになりました。
平成の大改修を終えると、どんな姿になるんでしょうね。楽しみです。
その後、官兵衛は永禄10(1567)年に父の職隆(もとたか)から22歳で家督(かとく)を継いで姫路城主になると、主君である政職の縁戚(えんせき)にあたる光(てる、または「みつ」)と結婚し、翌永禄11(1568)年には嫡男の松寿丸(しょうじゅまる)が生まれました。後の長政です。
なお、当時の戦国武将は、子孫を残す名目もあって側室を何人も持つのが慣例でしたが、官兵衛は生涯側室を持たず、光を愛し続けました。官兵衛によるこうした「愛情」は、後に大きな力を生み出すことになります。
その後、永禄12(1569)年に赤松政秀(あかまつまさひで)が3,000の兵力で姫路に攻め込んできましたが、官兵衛はわずか300の兵で奇襲攻撃をかけてこれを撃退(げきたい)するなど、大いに名を挙げました。なお、この戦(いくさ)は青山(あおやま)・土器山(かわらけやま)の戦いと呼ばれています。
しかし、長かった戦国の世も、この頃までには一人の英雄の誕生によって、確実に変化を見せ始めており、それは、官兵衛が本拠とする姫路を含む播磨においても例外ではありませんでした。
※下記の映像は6月9日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
確かに子孫を絶やす訳にはいかない理由で
側室を抱えるという風習は、必要なのかも
知れませんが、生涯、ただ一人だけに愛情を注ぐという事で齎される財産も大きいのでしょうね。
それは何なのかは気になりますが^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 一人の女性を生涯愛し続けたのは、紛れもなく官兵衛の愛情の強さといえるでしょう。
そして、その愛情が妻だけでなく、もっと幅広い人脈に広がれば…。
また、信長が東から播磨をうかがう一方で、西からは毛利氏(もうりし)がその影響力を伸ばそうとしており、播磨の各大名は、織田につくか毛利につくかの選択を迫られるようになっていました。
そんな中、これからの時代の流れを読んでいた官兵衛は、主君の小寺政職(こでらまさもと)を説得して天正(てんしょう)3(1575)年までに信長に臣従を誓うと、信長の家臣であった羽柴秀吉(はしばひでよし、後の豊臣秀吉=とよとみひでよし)に見いだされ、以後は秀吉に、ひいては信長に従って、播磨や中国地方の平定に奮闘(ふんとう)しました。
信長や秀吉は官兵衛の活躍ぶりを喜びましたが、群雄が割拠(かっきょ)する播磨の平定はやはり難しく、天正6(1578)年2月には東播磨の別所長治(べっしょながはる)が信長を裏切り、居城である三木城(みきじょう)に立てこもりました。いわゆる三木合戦の始まりです。
※下記の映像は6月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
常に官兵衛は、時代を先読みし
どの勢力に加担すれば、生き残る道が開けるかを
模索していたという事でしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、信長に味方するところまでは時代の先読みが出来ていたとおもわれます。
しかし、この後に官兵衛は「痛恨の失敗」を経験することになってしまうのです。
村重の謀反(むほん)に対して、官兵衛の主君であった小寺政職(こでらまさもと)も同調しようとしたため、官兵衛は村重を説得しようと単身で有岡城に乗り込みましたが、逆に捕えられ、城内の土牢(つちろう)に入れられてしまいました。
有岡城に出向いたまま、いつまで経っても帰ってこない官兵衛に対して、信長や秀吉は「官兵衛は裏切ったのか」と不信感を抱(いだ)くようになりました。信長には人質として官兵衛の子の松寿丸を差し出しており、このままでは見せしめのために殺害される可能性がありました。
官兵衛の、いや黒田氏にとっても最大のピンチといえましたが、これらを救ったのが、普段から見せていた官兵衛の「優しさ」でした。
※下記の映像は6月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
優しさは
特に戦乱の世の中ならば、無用なものだと
一蹴されてしまうものなのでしょうけれど、
これまで
人に与えて来た優しさは
いざ自分がピンチに
陥ったときに、自分へ返って来るものだと
信じたいですね。
まさにこの時が、官兵衛自身自分の身を
助けることになった場面なんでしょうね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ことわざの「情けは人のためならず」を彷彿とさせるエピソードとなります。
そして、それは官兵衛の自身の行動にもつながってくるのです。
そんな官兵衛のひたむきさに絆(ほだ)された世話役の加藤重徳(かとうしげのり)は、いつしか官兵衛と心を通わせるようになり、何かと便宜(べんぎ)を図るようになりました。
また、主君が行方不明になった黒田氏においても、父である黒田職隆(くろだもとたか)を中心として家臣が一つにまとまり、絶対の忠誠を誓った「起請文(きしょうもん)」を提出するなど鉄の団結力を見せました。
こうした動きは、官兵衛が普段から周囲に気を配るなどの「優しさ」がなければ、考えられなかったことでしょう。官兵衛や彼を支えた家臣たちの願いは、天正7(1579)年10月の有岡城の落城によって叶(かな)えられたのです。
※下記の映像は6月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど。日頃からの人との密なお付き合いが
いかに大切であるか・・・
人と人との信頼関係がいかに一朝一夕では成り立たないものか、改めて考えさせられるエピソードですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なるほど。日頃からの人との密なお付き合いが
> いかに大切であるか・・・
> 人と人との信頼関係がいかに一朝一夕では成り立たないものか、改めて考えさせられるエピソードですね!
私もそう思います。
官兵衛の普段からの人間性の素晴らしさがよく分かる話です。
官兵衛が救出された後、翌天正8(1580)年1月には三木城が落城し、信長は播磨平定に向けて大きく前進しました。また、牢内の世話役だった加藤重徳の次男が官兵衛の養子となって黒田一成(くろだかずしげ)と名乗り、後に黒田二十四騎(くろだにじゅうよんき)の一人として活躍することになりました。
また、起請文を書いた一人である母里友信(もりとものぶ)も黒田二十四騎の一人となったほか、民謡「黒田節」のモデルとされるなど、現代でもその名を残しています。
さらには信長を裏切って出奔(しゅっぽん)した主君の小寺氏に対しても、後に子の氏職(うじもと)を客分として迎えるなど厚遇しました。
有岡城での幽閉(ゆうへい)は官兵衛にとって痛恨の出来事ではありましたが、同時に家臣の鉄の団結力など、通常では得難(えがた)い経験を積むことになりました。小寺氏の事実上の滅亡で黒田の姓に復した官兵衛は、その後も秀吉配下として信長の天下統一に貢献することとなったのですが、思わぬ運命が彼を待ち受けていました。
※下記の映像は6月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
一度裏切られた人物の子孫といえども
通常でしたら、厚遇などあり得ない事なのでしょうけれど、そこを許す事が出きるということは
度量の広さの何ものでもない気がしますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
官兵衛の度量の広さと優しさが、身内や家臣以外の様々な人々の心を動かしたのだと思えます。
このとき、官兵衛は秀吉とともに中国地方の備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)攻略の最中でした。信長の死を知って悲嘆(ひたん)にくれる秀吉に対して、官兵衛は以下のように言いきりました。
「信長公亡き今、貴方様こそが天下を治めるべき人ですぞ」 。
官兵衛が本当にそこまで考えていたかどうかは不明ですが、主君の死で激しく動揺(どうよう)していた秀吉が、官兵衛の一言でショック療法を受けたかのように立ち直り、その後の「中国大返し」を成功させて光秀を討ち果たし、天下取りに名乗りを上げるようになったことだけは間違いありません。
※下記の映像は6月16日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
信長の生き様を垣間見た時、
やはり家臣から裏切られる人物と言うのは、
周りに対しての配慮が足りないように思えてなりません。
官兵衛にはやはり先見の明があったのでしょうね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 その後の彼の生き様が証明しているように、官兵衛に先見の明があったのは間違いないですね。
それだけ官兵衛が優秀だったといえますが、今回の彼の言動にはやはり謎が多いです。
吉川英治の『黒田如水』
- 黒田先生
青田です。
黒田官兵衛を描いた小説では
司馬遼太郎の『播磨灘物語』が有名ですが
吉川英治の『黒田如水』では、
この一言の意味は
『誰だったら、この戦国時代を終わらせることができるかを常に考えていた。』とあります。
黒田官兵衛が、秀吉には、絶対に敵わない力として
『運と魅力』だと常々、考えていたそうです。
その前提での一言だったのでしょうね。
青田さんへ
黒田裕樹 > 『誰だったら、この戦国時代を終わらせることができるかを常に考えていた。』
吉川英治らしい展開ですね。
現実にそのとおりになるのですから、官兵衛の思いもそこにあったのかもしれません。
この後、天正15(1587)年の九州平定によって豊前国(ぶぜんのくに)12万石の大名となった官兵衛は、新たな居城として中津城(なかつじょう)の築城に取りかかりましたが、間もなく領国で起きた一揆(いっき)を無事に鎮圧(ちんあつ)すると、天正17(1589)年には子の長政に44歳で家督を譲(ゆず)りました。
ただし、家督を譲ったといっても隠居(いんきょ)したわけではなく、翌天正18(1590)年の小田原攻(おだわらぜ)めの際には、当主の北条氏直(ほうじょううじなお)を官兵衛自らが説得し、開城へと導きました。
官兵衛の働きによって北条氏は事実上滅亡し、同天正18年に豊臣秀吉はついに自らの手で天下統一を果たすこととなったのです。
※下記の映像は6月16日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーちから黒田裕樹さんへお返事です^^ こんにちは!
人生50年と言われていた時代で
今でこそ44歳などはまだまだ若い世代だと言われていますが、当時は相当晩年になってから家督を譲ったことなのではないでしょうか?
それだけ官兵衛は命燃え尽きるまで、自分を必要としてくれる人物がいる限り、第一線で活躍していこうという思いが強かったのでしょうかね^^
管理人のみ閲覧できます
-
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時の44歳は高齢の部類に入りますからね。
秀吉は確かに天下を統一しましたが、この後も大忙しでしたから、まだまだ官兵衛の力を必要としたのでしょうね。
宇都宮氏のだまし討ち
- 黒田先生
青田です。
黒田官兵衛は、大好きな武将ですし、
仁徳もある武将だと思います。
ただ、九州を統治する時に行った
宇都宮鎮房とその一族へのだまし討ちだけは
どうしても、納得できません。(人生最大の汚点)
調略で、宇都宮鎮房とその一族を救うことも出来たと思います。
肥後の統治に失敗して、切腹させられた佐々成政を考えると、黒田官兵衛で、あっても非常手段を使わないと治めるのが、難治の土地だったということでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、九州平定のためには非情な手段が必要だったのかもしれませんね。
文禄(ぶんろく)元(1592)年に始まった1回目の朝鮮出兵たる文禄の役(えき)に際し、官兵衛も軍監(ぐんかん)として渡海(とかい)しましたが、小西行長(こにしゆきなが)や石田三成(いしだみつなり)らとの確執(かくしつ)もあって思うような采配(さいはい)が取れず、文禄2(1593)年の帰国後に秀吉の怒りを買いましたが、官兵衛が出家したこともあって許されました。なお、出家の際に官兵衛は「如水円清(じょすいえんせい)」と号しています。
官兵衛の帰国後、朝鮮との間に一度は和議が成立しましたが、その後こじれたことで、慶長(けいちょう)2(1597)年に秀吉はふたたび朝鮮を攻めました。これを慶長の役と言います。
慶長の役において官兵衛はふたたび渡海し、釜山(プサン)の北に位置する梁山(ヤンサン)城を少数の兵で守りきるなど軍功を挙げたものの、官兵衛が帰国した後に秀吉が慶長3(1598)年に死去したのを理由に、日本軍は朝鮮から撤退しました。
秀吉の死によって、我が国で再び不穏(ふおん)な空気が漂(ただよ)い始めていましたが、時代の流れを読んでいた官兵衛は、徳川家康(とくがわいえやす)に味方する道を選びました。
※下記の映像は6月16日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
さすがの官兵衛も、仲違いする関係の
仲裁もままならないときがあるはずですよね。
秀吉の怒りを買ったとありますが、
それだけ秀吉は官兵衛に対して、多大な信頼を寄せると共に
過大な期待もしていたのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 朝鮮出兵に関しては、若い頃から秀吉を支えてきた武将が多かったため、官兵衛の言うことを聞かなかった、という側面があるようです。
秀吉もそれが分かっていたので、官兵衛を叱責するだけで済ませたのかもしれません。
家康の養女と結婚した長政は、関ヶ原の戦いにおいて切り込み隊長として西軍に猛攻(もうこう)を加えるなど活躍しましたが、豊前中津にいた官兵衛も、これに呼応(こおう)するかのように、九州で様々な動きを見せました。
中津城の防衛と、自身の判断での出陣を認める旨(むね)を、家康と事前に密約していた官兵衛は、石垣原(いしがきばる)の戦いで大友義統(おおともよしむね)を破り、同じく家康に臣従した加藤清正(かとうきよまさ)と連携(れんけい)して、島津氏に攻め込む構えを見せるなど、堂々たる働きぶりを見せました。
また関ヶ原の以前に、官兵衛と長政とが西軍の有力武将であった吉川広家(きっかわひろいえ)を説得し、本戦において毛利軍が動きを見せなかったなどの功績もあって、長政は筑前国52万石を擁(よう)する大大名となったのです。
なお、長政が中津城に凱旋(がいせん)帰国した際に、喜ぶ長政に対して官兵衛が「家康がお前の右の手を握っている間に、左の手は何をしていた。なぜ左手で家康を刺し殺さなかったのだ」と叱責(しっせき)したとされる話が有名ですが、これは後世の創作と考えられています。
※下記の映像は6月20日までの掲載分をまとめたものです。





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- 黒田先生
青田です。
黒田官兵衛は、どちらかと言えば、豊臣恩顧の大名です。
その黒田官兵衛が、豊臣秀吉の死去から
わずか2年後に起きた関ヶ原の戦いで
東軍についたのは、
「誰が天下を取るのが、世の中のためになるか。」を常に考えていたからだと思います。
これは、私の勘ですが
黒田官兵衛自身は、徳川家康のような性格の悪い陰険な人間は、大嫌いです。(笑)
ただ、これもまた、皮肉な話で、徳川家康の息子の徳川秀忠、結城秀康は、黒田官兵衛のことが大好きで、屋敷を何度も訪れたり、黒田官兵衛が亡くなった後も
黒田長政に黒田官兵衛の生前の教えを何度も尋ねたそうです。
青田さんへ
黒田裕樹 私も官兵衛の現実主義的な考えに賛同します。
確かに家康嫌いの要素がありますね(笑)。息子の長政はどうだったのでしょうか…。
黒田長政は
- 黒田先生
青田です。
黒田長政は、徳川家康が好きだったと思います。
黒田長政は、徳川家康と同じく
正直、性格は、あまり、良くありません。(笑)
〇 宇都宮氏をだまし討ちして、虐殺。
(宇都宮氏の呪いが噂されました。)
〇 徳川家康の養女を妻にしています。
〇 黒田騒動の原因を創りました。
〇 後藤又兵衛を放逐しました。
ぴーち こんばんは!
先頭に立って
世の中を牽引するリーダーシップに長けている
人物と、決してトップでは無いけれど、
そのトップの裏方としてしっかりと支える
縁の下の力持ち的な存在に徹すると成功する
人物が居ますが、
官兵衛は、どうも後者として成功した人物
の一人の様に思えて来ました^^
青田さんへ その2
黒田裕樹 なるほど、黒田長政に関してはご推察の通りかもしれませんね。
彼の活躍で52万石となったものの、すべてが上手くはいかないようです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに官兵衛は裏方向きかもしれませんね。
ただ、彼自身の才能をバックアップしてくれる存在があれば、あるいは大化けできたかもしれません。
やがて病を得た官兵衛は、慶長9年3月20日(1604年4月19日)に、京都の伏見で59歳の波乱に満ちた生涯を閉じました。以下は官兵衛の辞世の句です。
「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」
自分の人生にはもはや思い残すこともなく、伝えるべき言葉もない。後は道に迷うこともなく、成り行きに任せて神のもとに向かうだけであるという、キリシタン大名らしい辞世の句といえそうです。
官兵衛の葬儀はキリスト教式で行われた後、長政によって仏式でも挙行されました。なお、官兵衛亡き後の黒田氏は筑前52万石の大名として、紆余曲折(うよきょくせつ)を経ながらも明治維新まで命脈を保(たも)つこととなりました。
※下記の映像は6月20日までの掲載分をまとめたものです。





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とまと え、黒田官兵衛って、キリシタンだったんですか?
(大河ドラマをちゃんと見てないのバレパレ)
また、以前のように、こちらで歴史の勉強をさせて頂きたいと思います。
よろしくお願いしますm(__)m
とまとさんへ
黒田裕樹 お久しぶりです。
拙ブログも開設以来5年が経過しましたが、何とか毎日更新を続けております。
今後ともよろしくお願いいたします。
ぴーち こんばんは!
官兵衛はキリスト教信者で、その子供には
同じ宗教の相続はされなかったんですか。
出来れば、いづれの宗教にせよ、子供にも
同じものを信じるように残せたら、良かった
かも知れませんが・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 官兵衛の息子である長政は、当初はキリスト教に入信していましたが、幕府の弾圧が厳しくなると棄教しています。官兵衛と違って現実主義者なのかもしれませんね。
しかし、今回の講座を通じて見えてきた官兵衛の実像は「筋を通し続けた武将」であり、彼の「優しさ」が家族に対する愛情や家臣の団結力を高め、さらには周囲の信頼を得ることによって、我が国を平和に導く役割を果たしたといえるでしょう。
また、彼は裏切られて長いあいだ土牢に閉じ込められるという苦しみを味わいましたが、その経験が彼の人間性をより高めるとともに、様々な局面における強(したた)かさを備えていったとも考えられます。
戦国武将として輝かしい出世を遂(と)げた、黒田官兵衛のサクセス・ストーリーを振り返ることによって、私たちは何を得ることができるでしょうか。
※下記の映像は6月20日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
ただの小心から来る心の弱さを「優しさ」だと
誤解して、結局泣きを見る羽目になる事が
有りますが、本当の優しさを見せてくれる人は、
心の強さや広さを持ち合わせているものですよね。
官兵衛はきっと様々な経験から、自分の器を
大きくしていった人物なのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、官兵衛は単なる「優しい」武将ではありませんでした。
その詳細については、次回(20日)の更新をご覧ください。
また、官兵衛自身が戦(いくさ)の達人であるとともに、「可能な限り兵力を損なうことなく戦争を終わらせる」ための様々な調略にも長(た)けていましたが、これらは諸外国との外交における大きな力となり得ることでしょう。
優しさや強さと共に、調略といった外交バランスにも優れ、さらには大きな挫折(ざせつ)などの様々な体験から身につけた、内面からにじみ出る「強(したた)かさ」も同時に併(あわ)せ持つ。
そのような人物こそが、我が国を正しい方向へと導く為政者として相応(ふさわ)しいのではないでしょうか。
※下記の映像は6月20日までの掲載分をまとめたものです。
(※第42回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[6月21日]からは通常の更新[=昭和時代・戦後]に戻ります)





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ぴーち こんばんは!
「可能な限り兵力を損なうことなく戦争を終わらせる」
この精神、大東亜戦争の日本軍にも活かして欲しかったですねぇ・・
ほとんど神です
- 黒田先生
青田です。
黒田官兵衛のような名君は、日本史上だけでなく、
世界史上でも、類まれです。
私は、戦国時代の奇跡だと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「可能な限り兵力を損なうことなく戦争を終わらせる」
> この精神、大東亜戦争の日本軍にも活かして欲しかったですねぇ・・
ぴーちさんのお気持ち、私も良くわかります。
緒戦の勝利の段階で講和を結べていれば、と悔やまれますね。
青田さんへ
黒田裕樹 > 黒田官兵衛のような名君は、日本史上だけでなく、
> 世界史上でも、類まれです。
> 私は、戦国時代の奇跡だと思います。
確かに仰るとおりですね。
現代の政治家にこそ、官兵衛のような人材が求められると思います。