「峰つづき おほふむら雲 ふく風の はやくはらへと ただいのるなり」
厚い雲のように世界全体を巻き込んだ戦争が早く終わってほしい、という陛下の切実なお祈りのお気持ちを私たちは知ることができます。しかし、我が国は緒戦こそ勢いがあったものの、早期講和を実現させることができないまま、戦いが長期化したこともあって、徐々に劣勢に立たされていきました。
そして昭和18(1943)年5月29日には、アメリカ領アラスカ州西のアリューシャン列島の先にあるアッツ島にて日本軍が全員死亡するという、いわゆる玉砕(ぎょくさい)の悲劇が初めて起きてしまいました。
※下記の映像は4月19日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
戦争を肯定するつもりは毛頭ございませんが、
野球などの攻略方法などを見ていると
強いチームを相手にした時には、相手のペースに
呑まれる前に、初回から大量得点を上げて行かなければ相手チームに勝利することは出来ない様に、
稼げる内は怯まず、手を抜かず
死に物狂いで戦わなければならないはずですが、
戦争当時の日本の司令塔になった人物の
経験不足?が祟ったのか、采配が上手くなかったのでしょうね・
勿論、日本が例えあの戦争で勝利したとしたら
また新たな敵を作ることになるので、今とは違った
苦労を強いられたのでしょうけれど・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 大東亜戦争において、戦局が有利なうちに講和に持ち込めなかったことに関しては、第49回歴史講座で詳しく紹介しましたのでここでは省略しますが、玉砕の悲劇が起こった時点で、不利ではあっても早く戦争を終わらせられなかったことは残念至極ですね。
しかし、現地の部隊は盗聴を防ぐため、玉砕の直前に無線機を壊しており、もはや無線は通じないですし、何よりも電報を受け取る相手が誰もいません。にもかかわらず、陛下は「それでも構わないから、電報を出してほしい」と重ねて仰いました。なぜ昭和天皇は、もはや通じない相手への電報にこだわられたのでしょうか。
縁起の良くない話で申し訳ないですが、私を含めて人間は必ずいつかは死にます。長年一緒に暮らした肉親を亡くすことは悲しくつらいですし、ましてや、子に先立たれた親の悲しみは、はかり知れないものがあるでしょう。
そして、目の前に息を引き取ったばかりの遺体が横たわっていれば、子は親の、親は子の名を何度も叫びながら泣き崩れます。何度呼びかけようが、二度と返事をすることがないことなど分かりきっていますが、それでも呼びかけずにはいられません。
昭和天皇のご真意もそこにありました。我が国のために命をかけて戦い、そして散っていった兵士の一人ひとりが、陛下にとってはかけがえのない生命なのです。だからこそ、親が亡くなった子に対してそうするように、昭和天皇は二度と聞くことのかなわない、ねぎらいのお言葉を兵士たちにかけられたのでした。
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ぴーち こんにちは!
天皇陛下がそのことをご存知だったかどうかは
存じませんが、肉体は滅びても魂は
生き続けます。
勿論、人間は死んだらそれで終わりと
信じて疑わない人が大勢居る事も理解しております。
少なくとも昔から日本では
畳の上で亡くなる事が理想であり、またその死に様がこの世からあの世への死出の旅には適した
場所だと考えられて居ましたが、不慮の出来事で
否応無しに
失ってしまった肉体から離れなければいけなくなってしまった魂程、無念な思いは大きかったのでは無いかと察した場合、
より天皇陛下の思いは亡き兵士達への
鎮魂に多大な慰めとなったのではないかと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに鎮魂という意味でも、電報は大きな効果がありますよね。
民のために常にお祈りになられる陛下でいらっしゃいますから、仰ることも十分ありうると思います。
翌26日に作戦実行をお聞きになった昭和天皇は、「そのようにまでしなければならなかったのか!」と叫ばれ、しばし絶句された後に「しかしよくやった」と仰いました。このお言葉は決して特攻隊を称賛するのではなく、国のために生命を散らした兵士たちの尊い犠牲に対する、労(いたわ)りのお気持ちが込められていると考えるべきではないでしょうか。
昭和20(1945)年に入ると、我が国では極度の物資不足となり、航空機用のアルミニウムも足りなくなりました。このため、食器や鍋、あるいはヤカンなどの非軍事用のアルミニウム製品の回収運動が始まりましたが、日用品をすべて取り上げられては国民の暮らしが成り立ちません。運動をお知りになった昭和天皇は、国民生活への影響を心配されて「家庭で日常使うものまでは取り上げないように」と注意されたそうです。
また、国民の多くが食糧不足に悩まされている現実をお考えになった昭和天皇は、ご自身のお食事に国民と同じ配給を強くお命じになられ、代用食や水団(すいとん)などを進んでお召(め)し上がりになられました。
物資不足だけなら、苦しくても国民はまだ生きていけます。しかし、空から敵の軍隊に攻撃されてはひとたまりもありません。そして、その恐るべき事態が現実となる日がやって来てしまいました。
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ぴーち こんばんは!
天皇陛下のお心がよく分かるエピソードですね!
国民と苦楽を共にというお考え方は
今上天皇にもしっかり受け継がれていらっしゃいますよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
先に紹介した、東日本大震災における計画停電のエピソードなどが、しっかりと受け継がれていることが良く理解できます。
わずか1回の空襲で約26万戸の家が焼かれ、12万以上の人々が死傷し、100万人を超える人々が焼け出されるという甚大な被害をもたらすなど、世界史上でも例を見ない、非戦闘員に対する大虐殺となりました。
空襲後、昭和天皇はご自身で被災地を訪問したいと希望なされ、約1週間後の18日に実現しました。空襲から間もない東京は焼け野原と化しており、焼け死んだ人々の遺体もそのままになっていました。陛下は被災者をお励ましになりながら、東京の変わり果てた姿に胸が痛む思いでいらっしゃいました。
「もはや一刻の猶予(ゆうよ)もなく、一日も早く戦争を終わらせないといけない」。そうお考えになった昭和天皇は、翌4月の小磯国昭(こいそくにあき)内閣の総辞職後に、次の内閣総理大臣として、元侍従長の鈴木貫太郎を指名されました。ご自身との縁(えにし)が深い鈴木ならば、この戦争を終わらせることができると期待されたのです。
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ぴーち こんばんは!
そうですよね。
悲惨な現場を目の当たりにされては
居てもたっても居られなくなる思い
は痛い程分かります。
何か出来る立場なら、すぐにでも
食い止めたいと思うのが人情
ですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですよね。
結果として、ここで鈴木貫太郎氏を首相に起用したことは正解でした。
それができたのも、様々な運命の流れなんですよね。
そして、昭和20(1945)年5月25日から26日にかけて東京が空襲にあった際には皇居にも飛び火し、明治天皇以来の宮殿が焼け落ちましたが、昭和天皇は「そうか、焼けたか。これでやっとみんなと同じになった」と仰られ、その後は昭和36(1961)年末に新しい御所が完成するまで、防空壕(ぼうくうごう)としてつくられた御文庫(ごぶんこ)でお過ごしになりました。
後に終戦を迎えても、我が国の経済が回復し、国民の生活が向上するまでは新しい御所の造営をお認めにならなかったのです。国民の安寧な暮らしを常に願われていた、昭和天皇の大御心(おおみこころ)をうかがい知ることができるお話ですね。
さて、その後も我が国の戦局は悪化するばかりであり、6月23日には沖縄における日本軍の守備隊が全滅しました。そして7月26日にはアメリカ・イギリス・中華民国(実際にはソ連)の3ヵ国によるポツダム宣言が出されました。
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ぴーち こんばんは!
私も陛下のお気持ちがすごくよく分かります。
と、
きっと
こんな事を書いただけではそれこそ
口先だけ分かっているだけだと
思われてしまうでしょう。
陛下も
多分
ご自分自身が身を持って体験される
事で本当の相手の気持ちがわかるものだという
事を分かっておられたので
あえて
共に苦労を経験されたのだと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私もぴーちさんと同じことを思っていました。
陛下の大御心の素晴らしさには、ただただ感謝の思いですね。
いつの時代であろうとも、天皇なくして我が国の将来は有り得ません。このため、我が国ではポツダム宣言を受けいれるかどうか、態度を明確にしないまま連合国の出方をうかがうことにしたのですが、この裏には、アメリカによるとんでもない謀略が隠されていました。
実は、当初の宣言文には「日本が降伏すれば天皇の地位を保証する」と書かれていたのです。駐日大使の経験者で我が国の実情をよく知っていたグルーによって、我が国が宣言に応じやすいようにつくられていたのですが、土壇場(どたんば)でアメリカ大統領のトルーマンが削除しました。
トルーマンが削除した宣言が発表されたことによって、アメリカは宣言以前に決まっていた計画を実行に移しやすくなったのです。その計画こそが、悪名高い「原子爆弾の日本への投下」でした。
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ぴーち こんばんは!
それでは、例えば
最初から無条件降伏の道を日本が選んだとしても
原爆投下は免れる事が出来なかったという事なんですか!
それでは日本は痛手を被りすぎですよね。
それは・・
後程貰いすぎた「借り」をアメリカへしっかり返さなければいけませんね!!
或いは日本が直接手を下さなくても、アメリカという国は
何かでその痛手は返される事になるでしょうけれど。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 最初から計画されていたのですから、あまりにも無慈悲な話ではあります。
我が国は恨みを水に流す民族性がありますが、アメリカの暴挙は、いつかは因果応報のときが来るのではないでしょうか。昨今の凋落ぶりを見ると、そんな思いがします。
我が国が降伏寸前であったにもかかわらず、まるで実験を行うかのように原爆を2つも落としたアメリカによる暴挙は、東京大空襲とともに国際法上でも決して許されることのない、民間人などの非戦闘員を対象とする空前の大虐殺です。
さらには、アメリカの原爆投下に慌(あわ)てたのか、ソ連がそれまでの日ソ中立条約を一方的に破って8日に我が国に宣戦布告し、9日から満州北部などへの侵攻を開始しました。
このままでは北海道をはじめとする我が国北部の領土がソ連に奪われてしまいます。我が国はまさに絶体絶命の危機に陥(おちい)ってしまったのでした。
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ぴーち こんばんは!
そうですね。
日本はいわゆる核爆弾の実験にされたのだと
思います。
人間は時に計り知れない無情さを持って
相手を攻撃したり、我が事では無いので
平気で(医療行為などで特に)
実験台にしようとする事実も有るようですよね。
まるで虫けらや、ハツカネズミなどの小動物を
扱うかのように。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > まるで虫けらや、ハツカネズミなどの小動物を
> 扱うかのように。
広島や長崎の原爆の場合は、日本人が黄色人種であり、人間でないという白人の傲慢な態度が投下を後押ししたとも言われていますからね。