事件発生に驚かれた昭和天皇は、直ちに当時の内閣総理大臣であった田中義一(たなかぎいち)に、関係者の厳正な処分と軍の綱紀粛正(こうきしゅくせい)を命じられました。
しかし、田中首相は陸軍などの強い反対を受けて、関係者を処罰することができず、結局事件をうやむやにしたうえで、翌昭和4(1929)年6月27日に調査結果を昭和天皇に上奏(じょうそう、天皇に意見や事情などを申し上げること)しました。
まだ28歳とお若かった昭和天皇のお顔の色がにわかに変わり、お怒りの声を発せられました。
「この前の約束と話が違うではないか!」
※下記の映像は4月12日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
そうですか!
いつも温厚であらせられる天皇が
声を荒げる姿は想像出来ませんが
きっとその時の様子を目の当たりに
された方達は、一同に驚かされた
事でしょうね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
そして、そのお怒りが、首相にさらなる追い打ちをかけることに…。
そのためには軍隊であっても当然規則を守らねばならないはずなのに、大きな事件を起こしたばかりか、その結果をうやむやにしようとする田中首相の報告を、昭和天皇はお許しになられなかったのです。そして、そのお怒りがさらなるお言葉を生み出してしまいました。
「辞表を出してはどうか」。
昭和天皇から直接辞職を迫られた田中首相は大きなショックを受けて、5日後の7月2日に内閣を総辞職すると、それから3ヵ月も経たない同年9月29日に死亡してしまいました。後に田中義一の死去をお知りになった昭和天皇は、お心の中で「しまった」と思われました。なぜなら、陛下が行われたことは、結果的に大日本帝国憲法で定められた立憲君主制に反することだったからです。
いくら曖昧(あいまい)な報告だったからとはいえ、昭和天皇が田中首相に直接辞職を迫られたことは「天皇による政治への介入」に他なりませんでした。これは「国王は君臨すれども統治せず」とする立憲君主制の原則を明らかに破ることなのです。まして、ご自身の発せられた言葉が内閣を総辞職させ、首相を死に追いやったかもしれないという結果が、日頃から責任感のお強かった昭和天皇に大きな影響をもたらすことになりました。
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ぴーち こんばんは!
こういうお話は難しいですね。
天皇陛下のお考えも尤もだと思いますしね。
軍と言えば、人と争う事が前提ですし
平和と言えば、人と仲良く暮らしていく事が
基本ですので、相反する考え方ですから
当然ながら、意見はぶつかって然りですけれど
そこに法という壁が存在すれば
いくら天皇陛下だからと言って
ご意見を通す訳にも行かないので
苦悩せざるを得ませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、難しいことですね。
立憲君主制の枠を決して抜け出そうとなさらなかった陛下のご決断が、我が国の危機をもたらすとともに、我が国を救うことにもなるところが何とも言えません。
象嵌師 昭和天皇が怒りをあらわにされたのは226事件の時だけだと思っていました。
象嵌師さんへ
黒田裕樹 田中首相の煮え切らない態度に対する陛下の激怒は、意外と知られていないですからね。
このことがきっかけとなって、226事件の「例外」につながったことになります。
「今後、内閣が私に上奏することは、たとえ自分の考えと反対の意見であったとしても、裁可を与えることにしよう」。
昭和天皇にとっては、立憲君主というご自身のお立場をお考えになってのご決断でしたが、時代は統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)に関する問題が深刻化しており、陛下のご決断は、結果として軍部の様々な行動を黙認されることにつながってしまいました。
これ以降、昭和天皇は、内閣とは無関係に、ご自身で政治的な問題に決断されることが2回ありました。そして、その2回ともが、我が国の運命を大きく変えることになるのです。
昭和8(1933)年12月23日に、ご待望の男児である明仁親王(あきひとしんのう、現在の今上天皇)のご誕生という慶事もありましたが、1回目のご決断の機会は、その2年2ヵ月後に起きた大事件の際に訪れました。
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ぴーち こんばんは!
今日のお話を伺っていると
つくづく世の中と言うのは、どちら極端に
傾倒してしまうとバランスが崩れてしまうものなんだなと思いますね・・・
国の定めに則らなければいけないお立場だったとは言え、天皇陛下そのもののお考えは、極めて崇高で
清廉潔白なだけに、なかなかその通りに足並み揃える訳にもいきませんし、淀み過ぎてもこれまた
行き場を失うものですしね。
そこら辺のパワーバランスの舵取りは国として
大変だったのでは無いかと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですし、そんな陛下のご意向を無視して、コミンテルンの手先として我が国を戦争へと導いた人物も存在しましたから、かじ取りは本当に難しかったと拝察します。
国内で自給自足できる国ならそれで良いかもしれません。しかし、我が国のように資源に乏しく外国との貿易に頼っている国家にとって、ブロック経済は深刻な打撃になりました。その一方で、建国されてから日の浅い共産主義国のソビエト連邦(現在のロシア)による政策は、貧困の生活にあえぐ、特に優秀な軍部の青年将校にとっては魅力的に映りました。
かくして、軍部では天皇を中心とする社会主義思想が主流となり、地主や資本家などの富裕層や、彼らと癒着(ゆちゃく)していると思われた政党政治家を激しく憎むようになりました。先に紹介した張作霖爆殺事件や統帥権干犯の問題、あるいは昭和7(1932)年に首相の犬養毅(いぬかいつよし)が暗殺された五・一五事件も、こうした流れの中で起きたのです。
我が国での社会主義思想は、やがて陸軍における皇道派(こうどうは)と統制派(とうせいは)との派閥争いをもたらし、昭和11(1936)年2月26日の未明には、皇道派の青年将校らが首相の岡田啓介(おかだけいすけ)や大蔵大臣の高橋是清(たかはしこれきよ)、内大臣の斎藤実(さいとうまこと)、そして侍従長(じじゅうちょう、天皇側近である侍従の長官)の鈴木貫太郎(すずきかんたろう)らを次々と襲いました。
いわゆる二・二六事件の始まりです。
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ぴーち こんばんは!
これからの日本では、資源が乏しい国というレッテルから、自然豊富な日本という認識に変わるかも知れませんよね。
レアメタルの発掘。何と言っても、日本はリサイクル技術が世界でも類を見ない程に発達を遂げているので、現存する機材から希少価値の高い物質を取り出す事が出来ますし、そこら辺の観点からも
日本の将来は決して暗いものでは無い気がしています。いくら国土が広く、資源豊かな国であっても
それに対抗出来るくらいの頭脳があれば、きっと負けない気がしますね。
この時代は灯台下暗しだったかも知れませんが、
もっと日本も自国の事を見つめなおしていく時期に
来ているのかも知れません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 時代は変わっても、資源が国運を左右することに変わりはないと思います。
そのことを意識すれば、当時の我が国の苦悩もおのずと理解できますよね。
それだけに、昭和天皇のお怒りは激しいものがあり、直ちに「速やかに暴徒を鎮圧せよ」と命じられました。首相の安否が分からないことで、内閣不在で混乱が生じてもおかしくない事態を、陛下のお言葉によって収めることができたのです。
もし陛下の素早いご決断がなければ、我が国は皇道派によるクーデターによって政権が乗っ取られ、その後の運命がどのように変化したか分かりません。ただ、二・二六事件によって示された軍部の実力は、その後の内閣にも大きな影響を与え、事件後に組閣された広田弘毅(ひろたこうき)内閣によって、軍部大臣現役武官制が復活してしまいました。
これは「陸軍や海軍の大臣は現役の軍人に限る」という制度であり、もし内閣が軍部の意向に逆らうようであれば、軍部側は大臣を辞めさせたうえで、後任の人選を拒否することで、内閣を総辞職させることができるというカラクリがありました。
ところで、二・二六事件で重傷を負った鈴木貫太郎でしたが、とどめを刺されるところを、鈴木の妻の懇願によって一命を取り留めました。この妻こそが「鈴木たか」、つまり幼年期の昭和天皇のお世話をした「足立たか」だったのです。自身の妻によって生き長らえることができた鈴木は、やがて歴史の大きな舞台に再び登場することになります。
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ぴーち こんばんは!
分かりました!
「足立たか」様のご正体m(_ _)m
記憶が蘇りました(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
何とも不思議な縁(えにし)ですね。鈴木貫太郎氏がここで生き長らえたことが、我が国の歴史を大きく動かすことになります。
昭和16(1941)年12月8日、日本軍はアメリカ領であるハワイの真珠湾を攻撃し、大東亜戦争が始まりました。これに先立って、戦争開始の閣議決定の裁可を求められた昭和天皇は、ご自身のお気持ちを封印され、立憲君主制に基づく大日本帝国憲法の規定どおりにお認めになられました。
戦争開始に伴い、昭和天皇は開戦の詔書(しょうしょ、天皇の意思を表示した公文書のこと)を発表されました。漢文体で書かれた文面は、当時の東條英機(とうじょうひでき)内閣によって原案が作成されましたが、昭和天皇はその文面をご覧になった後に、あるお言葉を付け加えられました。そのお言葉を拝読した際に、私たちは陛下の本当のお考えを知ることができます。
「豈(あに)朕(ちん)ガ志(こころざし)ナラムヤ」
(現代語訳:どうしてこれが私の望むところであろうか、いや望むところではない)
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ぴーち こんばんは!
そうですね。
最後の一言に天皇の止むに止まれぬ思いが
込められていて、なんとも遣る瀬無い思いが
して来ますね・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 陛下は最後まで戦争に反対されておられましたからね。
ご自身のお気持ちを、このようなかたちでしか示すことができなかった、陛下のご心中はいかばかりだったでしょうか。