御年78歳(当時)の天皇陛下は、同年2月18日に心臓の冠動脈のバイパス手術をお受けになり、3月4日に退院されたばかりでした。
大手術をご経験されたばかりのお身体でありながら、被災地に思いを寄せられ、式典へのご出席を強く望まれておられた陛下。そのお姿に、私たち国民の多くが感動するとともに、胸が一杯になりました。
「平和と安寧(あんねい)への祈り」をお続けになられる天皇陛下の大御心(おおみこころ)は、被災地のみならず、先の大東亜戦争における数多くの戦没者に対しても、強いご慰霊のご意思をお持ちになっておられることを、皆さんはご存知でしょうか。
※下記の映像は4月6日までの掲載分をまとめたものです。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
つい先日もフィリピンへ行かれた事も
報道されていましたし、去年でしたっけ?
パラオにも訪問されたニュースも有りましたね。
余りご様態も優れない中、それ程までに
陛下ご自身を突き動かす何かが
お有りなのだと感慨深く拝見させて
おりました。大変慈悲深い事です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
今上陛下の大御心に関して、これからしばらくのあいだ更新を続けますので、ご期待ください。
天皇・皇后両陛下は、平成5(1993)年4月に全国植樹祭へのご臨席で、ご即位後に初めて沖縄をご訪問された後、平成6(1994)年2月には硫黄島(いおうとう)で、戦後50年に当たる平成7(1995)年7月から8月にかけては長崎・広島・沖縄・東京で、それぞれ戦没者をご慰霊されました。
また、戦後60年の節目に当たる平成17(2005)年6月には、サイパンを慰霊訪問されましたが、いわゆる「バンザイクリフ」までお出ましになられた際には、岸壁まで歩まれた後に、多くの方々が身を投げた海に向かわれ、黙祷を捧げられました。
さらには、戦後70年の直前にあたる平成26(2014)年には、6月に沖縄、10月に長崎、12月に広島と次々とご訪問され、70年の節目となった平成27(2015)年4月には、日米双方で約12,000人が犠牲となった、パラオ共和国のペリリュー島で戦没者の霊を慰められました。なお、両陛下がペリリュー島をご訪問された4月9日は「天皇皇后両陛下ご訪問の日」として、ペリリュー州の祝日とされています。
そして、今年(平成28年=2016年)の1月には、大東亜戦争において約518,000人もの日本兵が犠牲となったフィリピンを、皇太子時代以来54年ぶりに、両陛下がご訪問されました。フィリピンでのご慰霊は両陛下の悲願だったとされ、両陛下の強いご意向により、ようやく実現したとのことです。
※下記の映像は4月6日までの掲載分をまとめたものです。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
そう言えば、パラオのご訪問の際、
現地の方達の歓迎ぶりは尋常な無い程の
熱意を感じました。涙ぐむ女性の姿も
あった様で、日本人に対しても、そして
殊更、天皇陛下への思いは日本人以上に
深いものがあるのだなと思いましたね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 パラオの皆様の親日ぶりは有難いですね。
国旗も我が国に似せてつくられたという話もあります。
平成7(1995)年1月17日に発生し、6,400人を超える死者を数えた阪神・淡路大震災が起きた際には、震災からわずか半月後の1月31日に、両陛下の強いご希望で、被災地の神戸にお入りになられました。
そして、地震と火災のダブルパンチによって壊滅的な被害を受けた、神戸市長田区の菅原市場(すがはらいちば)の変わり果てた様子をご覧になられた皇后陛下は、当日の朝に皇居のお庭でご自身が摘(つ)み取られた17輪(りん)の水仙(すいせん)を、瓦礫(がれき)のうえにそっと献花されました。
春の訪れとともに咲きはじめる水仙は、海外において「希望の象徴の花」とされていることから、皇后陛下の「困難に負けずに希望を持って復興してほしい」という御心(みこころ)が込められているのではないかと拝察します。
なお、皇后陛下が献花なさった水仙は、そのままの姿で永久保存され、神戸市の布引(ぬのびき)ハーブ園に展示されています。また、復興を遂げた菅原地区では、皇后陛下が献花された瓦礫の場所が「すがはらすいせん公園」として整備され、入口近くには記念プレートが設置されました。
※下記の映像は4月6日までの掲載分をまとめたものです。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
そう言えば、皇后さまが水仙の花束を
添えられている姿をTVで拝見させて
頂いた事が有りましたが、
水仙の花言葉までは存じませんでした。
正直、水仙を献花するというは、
珍しい光景だなと感じて居ましたが、
そういう意味合いを込めての献花だったのですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうだったんですよね。
皇后陛下のお優しいお心に、胸が一杯になる感動的な実話だと思います。
ちなみに陛下は、ビデオメッセージをマスコミなどが発表する際に「発表の途中で緊急の報道を必要とする場合は、中断してかまいません」とのご意向を示されたそうです。
ビデオメッセージの発表後、天皇・皇后両陛下は、3月30日の東京都足立区の避難所お見舞いを皮切りに、東京・千葉・埼玉の各避難所や、茨城・宮城・岩手・福島の被災地などを、被災者お見舞いのため各地を行幸(ぎょうこう、天皇陛下が外出されること)されました。
また、原発事故の影響で、関東地方で計画停電が行われた際には、皇居がある千代田区が計画停電の対象外になっているにもかかわらず、第1グループと同じ時間に電源を落として、国民と苦労を分かち合われたそうです。
※下記の映像は4月6日までの掲載分をまとめたものです。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
>昭和天皇の玉音(ぎょくおん)放送以来の、極めて異例・・
そうでしたか!確かに言われてみれば、
それまで一度も聞いた事が無かったです!
>同じ時間に電源を落として、国民と苦労を分かち合われたそうです
このエピソードは伺った事があります。
人間、実際に経験してみないと
その人の思いになかなか寄り添う事が
出来ないものですが、それをあえて
実践なさった事に対しては敬意を表さずには居られません。
そう言えば私も、計画停電を
何日か経験させて頂きましたが、
滅多に出来ない貴重な体験でした。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、陛下の大御心のすごさを実感せずにはいられませんね。
計画停電は関西ではありませんでしたが、いつどうなるか分かりませんから、常に心しておくべきだと思います。
足かけ64年にも及ぶ、我が国最長の元号である昭和。しかし、その道のりは決して平坦ではなく、まさに「激動の昭和」の別名どおりの苦難の連続であり、なかでも最大の試練だったのが、昭和20(1945)年に終戦を迎えた大東亜戦争でした。
終戦後、我が国では戦争に対する責任問題が次第に叫ばれるようになりましたが、最大の責任者として昭和天皇の名を挙げる人々も少なくありません。しかし、これは本当のことなのでしょうか。当時の我が国で施行されていた大日本帝国憲法(=明治憲法)では立憲君主制とされており、大東亜戦争においても、内閣が決議したことを昭和天皇が事務的に承認されただけでした。
こうした歴史的事実からすれば、昭和天皇ご自身に政治的な戦争責任があるとは断定できないのが現実でしょう。しかし、政治的や手続的な問題とは関係なく、昭和天皇は戦争に対する道義的な責任をずっと感じておられていました。だからこそ、我が国は憲法の概念を超越した陛下の「ご聖断」によって、戦争を終わらせることができたのです。
今回の講座において、我が国の歴史に大きな足跡を残された昭和天皇のご生涯をたどることで、輝かしい日本国の歴史を、未来へとつなぐ一助となれればと思っております。
※下記の映像は4月6日までの掲載分をまとめたものです。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
そうですよね。
あの当時、天皇が絶対的権限をお持ちでしたら
もしかしたら、戦争は回避されたかも知れませんね。
それを考えれば、その当時の日本の制度が悔やまれてなりませんが、いくら天皇陛下であろうと
その制度を曲げてまでご自身の本心を押し通す事は出来なかった事に、きっと国民よりも
天皇陛下ご自身が一番悔やまれてならなかった
のではないかと思われます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 我が国は、ある意味律儀すぎるのかもしれませんね。
陛下と言えども、道を絶対に外されることがない。だからこそ我が国と言えるかもしれませんが…。
お七夜(しちや)にあたり、端午(たんご)の節句の日でもあった同年5月5日には、ご称号を迪宮(みちのみや)、御名を裕仁(ひろひと)と命名されました。「ゆたかに広く、おおらかな心で国を治め、人類の幸せのために尽くすことができるように」という願いを込めて、明治天皇がお名付けになったといわれています。
裕仁親王はお健やかに成長され、幼年期の頃から厳格な明治天皇の御前でも決してひるまれることなく、また伊藤博文(いとうひろぶみ)などの明治の元勲が挨拶(あいさつ)に参上しても、物怖(ものお)じなさらず堂々と応対されました。
未来の天皇陛下にふさわしいそのお姿に、親王が幼い頃からお世話をしてきた侍女の足立たかは、涙がこぼれそうになったと後に語っています。なお、彼女の名は、後に思わぬところで私たちの目に留まることになります。
※下記の映像は4月6日までの掲載分をまとめたものです。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
足立たか。
以前、黒田さんの所で勉強させて
頂いた事があったような無かった様な(^_^;)
後にどのような形で登場するか
改めて楽しみにしています^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 何度か出てはいますが、ずいぶん前ですからね。
今回の機会をぜひお待ちください。
明治45(1912)年7月30日、裕仁親王が11歳の時に祖父の明治天皇が崩御(ほうぎょ)され、その大葬の日であった9月13日に、乃木将軍は妻とともに殉死しましたが、その数日前に、将軍は裕仁親王に山鹿素行(やまがそこう)の名著である「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」を差し上げ、素晴らしい本であるから熟読されるように、と勧めました。
いつもと違い、ただならぬ気配が漂(ただよ)う乃木将軍の様子に、裕仁親王は「院長閣下(=乃木将軍)はどこかへ行かれるのですか?」と聞かれたそうです。後で将軍の殉死をお知りになり、祖父の明治天皇に続いて、大切な院長閣下まで失われた親王のお悲しみは、たとえようもないほど深かったに違いありません。
しかしながら、父君の大正天皇が即位され、ご自身は皇太子になられた裕仁親王は、その責任の重さをかみしめられながら、お悲しみを乗り越えられて勉学に励まれ、やがて成人された皇太子殿下は、大正10(1921)年に、ご病弱であられた大正天皇に代わって、20歳で摂政になられました。
※下記の映像は4月6日までの掲載分をまとめたものです。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
そうですよね。
今日のお話は天皇家という特殊な世界のお話ですが、一般家庭でも同じことが言えますよね。
成人した一人の大人と接した時に、
その方の幼少期にはどんな育てられ方をされたか、大方わかるものですね。
たまに反抗的な大人となってしまった事を
嘆いて親が「こんな子供に育てた覚えがない」などと嘆いたりしますが、人はいつだって育てたようにしか育たないもの。一番理解していないのは、そういう親自身だったりします(^_^;)
親であったり、周りの人間がその子供の将来の為に善悪や物を大切にする心などしっかりと教えてあげれば、今回のお話の様に、三つ子の魂百までもでは有りませんが、生涯その教えを守っていける人間に成長していくのだと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私もそう思います。
昭和天皇のご人格の形成に、乃木将軍は大きな貢献をされましたね。
年が明けた大正13(1924)年、摂政宮は以前より婚約されていた良子女王(ながこじょおう、後の香淳皇后=こうじゅんこうごう)とのご結婚式を行われ、震災の悪夢に打ちひしがれていた国民がこぞって喜ぶ慶事となりました。
しかし、禍福(かふく)はあざなえる縄のごとし。大正15(1926)年12月25日、かねてより療養されておられた大正天皇が、47歳の若さで崩御されました。深いお悲しみのなか、皇太子裕仁親王は直ちに践祚(せんそ、皇位の継承のこと)され、第124代天皇となられました。
同時に元号も「昭和」と改められました。昭和の由来は、中国最古の歴史書である書経(しょきょう)の「百姓昭明(ひゃくせいしょうめい)・協和萬邦(きょうわばんぽう)」であり、国民の平和と世界の繁栄への願いが込められていました。なお、江戸時代(1764年、田沼時代の頃)に同じ出典から「明和」という元号が制定されています。
昭和3(1928)年11月10日、新しい時代にふさわしく、京都御所で即位の礼が華やかに行われましたが、その一方で昭和2(1927)年には金融恐慌(きんゆうきょうこう)が起きるなど、我が国全体に不穏(ふおん)な空気が漂(ただよ)いつつありました。そして昭和4(1929)年には、昭和天皇にとって最初の大きな試練が訪れるのです。
※下記の映像は4月6日までの掲載分をまとめたものです。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
関東大震災の後のご結婚は国民の間に
希望の光をさぞかし見出した事でしょうね!
今回も大震災が起こった後に、
東京にオリンピックを招致出来た事で
批判も有りましたが、大なり小なり
日本国民の間には頑張ろうと言う
気力を頂いた気がしましたね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
禍福はあざなえる縄の如しと言いますが、絶望の後の希望ほど、有難いものはないですね。