日清(にっしん)・日露(にちろ)戦争で戦功を挙げた貫太郎は「鬼貫(おにかん)」とも呼ばれ、海軍大将を経て昭和天皇の侍従長(じじゅうちょう)を務め、二・二六事件で重傷を負いましたが奇跡的に回復し、昭和20年4月に77歳で内閣総理大臣に就任すると、様々な困難を乗り越えて我が国を終戦へと導(みちび)くことに成功しました。
鈴木貫太郎の生涯(しょうがい)はまさに波乱の連続ともいえましたが、幾度(いくたび)もの修羅場(しゅらば)を乗り越えてきた彼の人生をたどることによって、私たちは「目に見えぬ大きな力」がもたらした奇跡を理解することができるのです。
今回の歴史講座では、鈴木首相の人生をたどりながら、明治から終戦までの我が国の大きな歴史の流れを振(ふ)り返りたいと思います。





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ぴーち こんばんは!
鈴木貫太郎氏ですか・・
私は全く彼の名前すら存じません。
戦争当時、そのような偉大な功績を残した人物が
存在し、具体的にどのような活躍をなさったのか
興味が沸いて来ました^^
これからの記事の内容に期待したいです♪
ぴーちさんへ
黒田裕樹 鈴木貫太郎氏は、仰るとおり非常に目立たない人物なんですよね。
しかし、彼抜きでは今の我が国の繁栄か考えられません。これから26日まで講座を続けていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。
明治維新(めいじいしん)を経て本籍地(ほんせきち)である千葉県東葛飾郡関宿町(ちばけんひがしかつしかぐんせきやどまち、現在の野田市=のだし)に父母とともに転居した貫太郎でしたが、幼年期から少年期の貫太郎は体格の良さとは対照的に大きな声をあげて泣くことが多く、周囲から「泣き貫」と呼ばれていたそうです。
父の由哲は貫太郎を医者として育てたかったそうですが、医者をつらい職業と感じた貫太郎本人にその気はなく、そんな折に新聞記事で我が国の軍艦(ぐんかん)が外国で大歓迎を受けたことを知って「海軍に入れば外国に行ける」と思った貫太郎は、初志貫徹(しょしかんてつ)とばかりに両親を説得して、明治17(1884)年に海軍兵学校に入学しました。
しかし、当時の海軍は薩摩藩(さつまはん)出身の人材が多く、いわば賊軍(ぞくぐん)出身の鈴木貫太郎はその中で辛抱強く過ごさねばならなかったのですが、この折の苦労をバネとして彼はたくましく生き抜き、やがて海軍になくてはならない人物にまで成長することになるのです。





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ぴーち こんばんは!
鬼と呼ばれた人物でも、そういう時期があったんですね!
それでも、同じ泣くにしても、大声で堂々と泣いたとの事で、物事を常に声に出して発していくという
姿勢が根本的に備わっていたのかも知れませんね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 鬼と呼ばれた人物でも、そういう時期があったんですね!
> それでも、同じ泣くにしても、大声で堂々と泣いたとの事で、物事を常に声に出して発していくという
> 姿勢が根本的に備わっていたのかも知れませんね^^
なるほど、「泣き貫」にもそれなりの理由があったということでしょうね。
何事も人生に生かされるのかもしれません。
次に7歳か8歳の頃、釣りをしていた貫太郎少年が不注意から深い水たまりの中に吸い込まれてしまいました。このとき彼は泳ぎを知らなかったのですが、たまたま厚着をしていたことが幸いし、暴れているうちに衣服の浮力で頭が水面に出たことで、一所懸命もがいた後にどうにか岸に這(は)い上がることができました。
貫太郎の危機は海軍入隊後も続き、明治29(1896)年には海防艦(かいぼうかん)から真っ逆さまに海に落ちたり、昭和37(1904)年の日露戦争の冬には狭い艦内で炭火を起こしたことから一酸化炭素中毒を起こして倒れたりと、彼はその生涯で何度も九死に一生を得る機会に恵まれました。
そんな「運の強い」彼だったからこそ、後述する「二・二六事件」で重傷を負いながら奇跡的に生還したり、亡国の危機に直面した我が国を終戦に導いたりしたような離れ業をやってのけたのかもしれません。大器晩成とは、まさに彼のような人のことを言うのでしょう。





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ぴーち こんばんは!
なるほど!確かに強運の持ち主ですね!
きっと自分の天命はこういう事であるという
事を悟らせる為に
起こるべくして起こった現象なのでは・・と
思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私もそう思えますね。
運命というのは本当に存在するのではないか、と鈴木貫太郎の人生を振り返ると確信できます。
また、露骨(ろこつ)な旧薩摩藩優遇に嫌気(いやけ)がさした貫太郎は、明治36(1903)年に一度は海軍を辞めようとしましたが、その折に届いた「日露関係が緊迫(きんぱく)してきた今こそ、大いに国家のために尽くさなければならない」という父からの手紙に目を覚まし、改めて国家に忠誠を誓いました。
そんな貫太郎を、国家も必要としていました。日清戦争では威海衛(いかいえい)の戦いにおいて小さな水雷艇(すいらいてい)を駆使(くし)して決死の電撃戦(でんげきせん)を敢行し、我が国側の勝利に大きく貢献(こうけん)しました。日露戦争でも部下に猛訓練(もうくんれん)を課した後に、日本海海戦においてロシア戦艦スワロフに魚雷を命中させるなど、彼が率いた駆逐艦(くちくかん)は大活躍しました。
かくして日清・日露の両戦争に多大なる戦果を挙げた貫太郎は、周囲からいつしか「鬼貫太郎」、あるいは「鬼貫」と畏怖(いふ、恐れおののくこと)されるようになりました。その後の貫太郎は出世街道を歩み、大正12(1923)年には海軍大将、翌大正13(1924)年には連合艦隊司令長官(れんごうかんたいしれいちょうかん)、さらに翌大正14(1925)年には海軍軍令部長に就任するなど重職を歴任しました。





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ぴーち こんにちは!
世の中は何かと自分にとって敵になるものが
多いですが、
そんなとき、
自分の味方になってくれる人物が一人でも
いれば、どんなに波乱に満ちた人生になろうと
何とか突き進んでいけるものなのだなと改めて
感じるお話ですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
信頼できる上司や身内、あるいは仲間の存在は大切だと改めて考えさせられます。
「武骨者(ぶこつもの)の自分には到底(とうてい)務まらない」と貫太郎は辞退しましたが、昭和天皇ご自身のご希望もあり、最終的に彼は侍従長への就任を承諾しました。侍従長は軍籍(ぐんせき)が予備役になるだけでなく、前職の軍令部長に比べれば宮中席次(きゅうちゅうせきじ)のランクが30位も下がりましたが、それらをすべて承知のうえで彼は侍従長の職を引き受けたのです。
昭和4(1929)年1月に侍従長になった貫太郎は、いつしか「大侍従長」と呼ばれ、昭和天皇をはじめ周囲から厚い信任を受けることになりましたが、逆にこのことが彼を危険な目にあわせてしまうことになるのが、歴史の流れの恐るべき一面ではあります。
なお、貫太郎が侍従長に就任した同じ昭和4年の8月に、一人の男が陸軍の侍従武官として着任しました。苦労人として知られ、人望も厚かったその人物の名を阿南惟幾(あなみこれちか)といい、阿南自身も貫太郎の懐(ふところ)の深い人格に尊敬の念を抱(いだ)くようになりました。
この時期に貫太郎と阿南の両人が昭和天皇に仕えたという事実が、その後の我が国の運命を大きく動かすことになるのです。





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ぴーち こんにちは!
確かに階級も名誉な事ですが、
天皇ご自身から慕われ、側近としてお仕事が
出来る事の方が、はるかに名誉な事であると
思いますね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり名誉なことですし、格が低くなるからと言って断るような狭い料簡を、鈴木貫太郎自身が持っていなかったことも大きいと思われますね。
確かに大日本帝国憲法(=明治憲法)の第11条には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と書かれており、条文を素直に読めば、統帥権は天皇のみが有するという規定ですが、こうした軍部の主張には無理がありました。
なぜなら、一国の軍備について決定を下すことは統治権の一部であり、統治権は天皇の名のもとに国務大臣(=内閣)が行うものだからです。従って、軍部による主張は統帥権の拡大解釈に過ぎず、統帥権干犯問題は社会的地位の低下に危機感を抱いた、軍人社会の反撃の一つでしかありませんでした。
ところが、時の野党であった立憲政友会(りっけんせいゆうかい)が「与党の攻撃材料になるのであれば何でもよい」とばかりに、統帥権干犯問題を「政争の具」として軍部と一緒になって政府を攻撃したことで、話が一気に拡大してしまったのです。ちなみに、この時に政府を激しく非難した政友会の議員の一人である鳩山一郎(はとやまいちろう)は、鳩山由紀夫(はとやまゆきお)元首相の祖父です。





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ぴーち こんばんは!
外国との争いが一段落したと思ったら、
今度は国内での抗争劇が勃発ですか・・
人間は一つの国の国民の
一人として生き続ける限り、いつでも
なにかしらの揉め事を抱えていきていかなければ
いけないものなんですね^^;
ぴーちさんへ
黒田裕樹 本当に争いが絶えませんよね。
それぞれが国家を考えていることは理解できますが、難しいものです。
だからこそ、私たちは歴史を直視して、良い面も悪い面も今後に活かさなければなりません。
大問題!
鹿児島のタク 「統帥権干犯」問題は、大事件ですね。明治憲法の小さな穴をついた…というか、明治憲法を実質的に作成した人々(伊藤博文など)は、将来こういう問題が出てくるとは思いもしなかったでしょう。もちろん、明治大帝も…。
それにしても、野党が“政争の具”としていたなんてひどすぎる…。知りませんでした。
個人攻撃はいけないかもしれませんが、鳩山由紀夫元総理の時は、“変”なことばっかりでしたね。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 統帥権干犯問題は痛恨の一撃でしたが、それを主張するよりも、自己の立場をわきまえずに私益で拡散した方が罪深いですよね。
仰るとおり、「あの一族」の際には不思議なことばかりが起きます。
かくして、政党政治を行う立場である政党人自らが「軍部は政府の言うことを聞く必要がない=内閣は軍に干渉できない」ことを認めてしまった「統帥権干犯問題」をきっかけとして、我が国では軍部の暴走を事実上誰も止められなくなってしまいましたが、さらに事態を深刻化させたのが、当時の青年将校を中心に軍部にはびこっていた「ある思想」でした。
なお、統帥権干犯が主張され始めた当時に海軍軍令部長を務めていたのは条約締結に強硬に反対していた加藤寛治(かとうひろはる)でしたが、彼の前任者こそが鈴木貫太郎であり、普段から「軍人は政治に関わるべきではない」と考えていた貫太郎であれば、もしかしたら統帥権干犯問題は起きなかったかもしれません。
統帥権干犯問題が表面化した当時は、世界恐慌(せかいきょうこう)と呼ばれた不景気が全世界を暗く覆(おお)っていましたが、アメリカやイギリスなどの広大な領土や植民地を持つ欧米諸国は、自国の経済を守る目的で他国からの輸入品に多額の関税をかけるという、いわゆるブロック経済の政策を進めました。
国内で自給自足できる国ならそれで良いかもしれません。しかし、我が国のように資源に乏(とぼ)しく、外国との貿易に頼っている国家にとって、ブロック経済は深刻な打撃になりました。その一方で、建国されてから日の浅い共産主義国のソビエト社会主義共和国連邦(現在のロシア)による政策は、地方出身者が多く、その家族が貧困生活にあえいでいた青年将校たちにとっては、魅力的に映りました。
かくして軍部では天皇を中心としただけで、実質的には社会主義である「国家社会主義」思想が主流となり、地主や資本家などの富裕層や、彼らと癒着(ゆちゃく)していると思われた政党政治家を激しく憎むようになりました。また、天皇に絶対の忠誠を誓っていた青年将校たちにとって、昭和天皇にお仕えしていた侍従長の貫太郎は「君側(くんそく)の奸(かん)」として、命を狙(ねら)われる存在と化したのです。





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ぴーち こんばんは!
資源が乏しいというのは、国として
大きなハンデでもあり
致命的でもありますね・・。
しかしながら、資源もお金もそうですが
そのものが無ければ、生きていく中に
工夫が生まれ
逆に豊富であれば、怠慢になりがちですよね。
そういう意味では、生きていく為の
知恵が絞り甲斐のある
国に生まれ育ったことを誇りに思う
べきなのかも知れませんね^^
それにしても、貫太郎氏のその後の運命が
気になります。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに我が国が抱えたハンデは大きいですが、その分工夫をするという精神が身についたことは良かったですね。とはいえ限度というものもありますが…。
> それにしても、貫太郎氏のその後の運命が
> 気になります。
次回の更新から衝撃的になってしまいますね…。
国家社会主義とは~青年将校の気持ち
鹿児島のタク おはようございます。
「国家社会主義」思想…えっ、当時の日本が社会主義だなんて…と思っていました。でも、すごい「格差社会」だったのでしょうか。
2.26事件を主導した陸軍青年将校たちは、自分の部下たちに自分の給与を与えたりして、苦労していたとのことを著作物で読みました。
「君側の奸」…青年将校たちは本当に純粋に、誠実にそう思っていたと思いますが、いかがでしょうか。
※ ドイツの「ナチス」を「国家社会主義労働者党」と言いますよね。これは、どういうことなのでしょうか。事態が日本と似ていたのでしょうか。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 当時の我が国は決して格差社会ではありません。強いて言えば、世界恐慌がもたらした不景気や、金解禁を強行した政治の失策などが、人々の貧しさをより一層強めたといえるでしょう。こんな時だからこそ、財閥にしっかりしてもらって失地回復を目指すべきなのですが、社会主義に染まった将校たちに目の敵にされてしまっては…。
青年将校の思いは純粋であっても、果たしてそれが本当に「昭和天皇のご意思」に合致していたかどうか、を冷静に判断するべきでしょう。全員がそうだとは言いませんが、事件後に処罰を受けた将校の一人は、自分の思い通りにならなかった陛下を死ぬまで卑下していたということですし。
国家社会主義は天皇を中心に据えただけで、実際には社会主義の思想です。天皇をヒットラーやスターリンに置き換えれば、そのまま外国の思想と化します。
事件前夜、貫太郎は夫人の「たか」と共に、駐日アメリカ大使ジョセフ=グルーの招きで夕食会に出席した後、夜11時過ぎに帰宅し就寝していましたが、未明に安藤輝三(あんどうてるぞう)大尉(たいい)が指揮(しき)する一隊が襲撃(しゅうげき)しました。
貫太郎を発見した下士官が兵士たちに発砲を命じ、貫太郎の左脚付根、左胸、左頭部に命中しました。激しい衝撃(しょうげき)を受けて倒れた貫太郎の周囲はたちまち血の海と化しました。
やがて指揮官の安藤がその場に姿を現し、下士官の一人が「中隊長殿、とどめを」と促すと、安藤は軍刀を抜き、貫太郎にとどめを刺そうとしました。その時―。
「お待ちください。とどめは止めてください。どうしても必要というなら私が致します」。
たか夫人が気丈に叫ぶと、安藤は軍刀を納めて、「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。全員気をつけ、捧(ささ)げ銃(つつ)!」と号令して兵士を引き連れ、去っていきました。





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ぴーち こんばんは!
なんと、まあ!
奥様の気丈な一言に、貫太郎氏は救われたのですか!
内助の功も、夫の危機が訪れた時には
盾となってなんとしても守ろうとする思い・・。
妻の鏡です!立派ですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、たか夫人の機転が鈴木貫太郎を救いましたね。
しかし、頭部を撃たれた貫太郎の運命はどうなるのでしょうか…。
貫太郎に命中した拳銃弾(けんじゅうだん)は、一発は眉間(みけん)から頭蓋骨(ずがいこつ)をぐるりと回って左へ抜け、脳の損傷を免れました。また別の一発は左胸から心臓すれすれに背面に回って止まり、こちらも心臓の損傷を防ぐことができました。
この他、たか夫人の機転によってとどめを刺されなかったことも、貫太郎の生還に大きく作用しました。かくして貫太郎は、またしても大きな生命の危機を乗り切ることができたのです。
なお、たか夫人は貫太郎の後妻であり、彼女が若い頃は幼年期の昭和天皇のお世話をしていました。天皇の侍従長と幼年期の世話係とが夫婦になり、夫の死の危機を妻がとっさの機転で回避(かいひ)する。これを運命と言わずして何と表現すべきなのでしょうか。





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ぴーち こんばんは!
つい最近でも、アメリカで実際に逃走する犯人が
警察官の頭を狙って、銃を放った事件が報道されているのを見ましたが、その警察官も頭部を撃たれたにもかかわらず、命に別状が無く済んだ様ですが、たまに頭部や胸部を撃たれても、奇跡的に助かるケースがありますよね。
そういうのは、仰るとおり、その方の運命であり、
貫太郎氏に与えられた使命が果たされない限り、
死は訪れないという事だったのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 その後の展開を思えば、「ここで死なせるわけにはいかない」という考えがどこかで働いたとしか思えません。
まさに運命だったのでしょうね。
大東亜戦争において、我が国は緒戦こそ勢いがあったものの、長期戦への準備がなかったことや、物量に勝る連合国軍との圧倒的な戦力の差はどうしようもなく、徐々に劣勢(れっせい)に立たされていきました。
そして、もはや敗色濃厚かと思われ始めていた昭和20年4月、前年に枢密院議長となっていた貫太郎は突如(とつじょ)として次の内閣総理大臣に推薦(すいせん)されましたが。しかし、武人の自分には政治は分からないし、何よりも「軍人は政治に干与(かんよ、関与と同じ意味)せざるべし」という明治天皇のお言葉をそのままにこれまでの人生を歩んできた彼にとって、自らが首相になることはできない相談でした。
そんな貫太郎に対して、昭和天皇は「鈴木の心境はよく分かる。しかし、この重大なときにあたって、もう他に人はいない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と仰られました。
「命ずる」ではなく「頼む」です。我が国の憲政史上、おそらくは陛下から「頼む」と言われたただ一人の人物であろう貫太郎は、亡国の危機が迫る中、難しい局面での内閣総理大臣の重責を担(にな)うことになりました。なお、このとき満77歳の貫太郎は我が国史上最高齢での首相就任であるとともに、元号が明治に改まる前に生まれた最後の総理大臣でもあります。





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鹿児島のタク 77歳ですか。すごいですね。喜寿ですね。
どうやってこの戦争を終戦に導くか、ご苦労なされたことでしょう。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、77歳でのご就任は大変な苦労があったと思います。
歴史上の終戦まであと4ヶ月。鈴木首相はどのように我が国を導いていったのでしょうか。
ぴーち こんばんは!
お陰様で無事、開通することが出来ましたm(__)m
色々とご心配をお掛けしました!
ところで、重傷を負いつつも、奇跡的に
回復する能力の高さも凄い方だったんですね!
しかも内閣総理大臣にその後就くなんて・・
まさに貫太郎氏は日本の夜明けに一役かう為に
生まれて来たという
使命だったのかも知れませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ネットの開通、無事に完了して良かったですね(^^♪
仰るとおり、鈴木貫太郎には大きな使命があったからこそ、ここまで生きながらえて首相の重責に就いたのかもしれませんね。
さて、鈴木内閣が成立した直後の同月12日に、アメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領が急死しました。当時の我が国にとって、ルーズベルト大統領は戦争相手の元首としてのみならず、前月10日の東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)では甚大(じんだい)な被害を受けるなど、憎んでも余りある存在でした。
しかし、大統領の訃報(ふほう)を耳にした鈴木首相は、当時存在した同盟通信社の記者の質問に答えるかたちで「大統領の死がアメリカ国民に対して意味する大きな損失は私にはよく同感できる。深い哀悼(あいとう)の意をアメリカ国民に向けて送るものである」との談話を発表しました。
我が国の同盟国であったドイツのヒトラーが、ルーズベルトの死に際して誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)の言葉を並べ立てたのとは対照的な、敗色濃厚の窮地(きゅうち)に立ちながらも品位と礼節を失わなかった、武士道精神の発露(はつろ、表面にあらわれること)たる鈴木首相の言葉は、世界中から称賛(しょうさん)されたのです。





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ぴーち こんばんは!
同じ日本人として、誇りに思う貫太郎氏の
文言ですね!
武士道精神に基づく生き方とも言えましょうか・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 同じ日本人として、誇りに思う貫太郎氏の
> 文言ですね!
> 武士道精神に基づく生き方とも言えましょうか・・
私もそう思います。
このような高潔な人物なればこそ、我が国を終戦へと導くことができたのでしょう。
品位と礼節
鹿児島のタク 鈴木貫太郎首相が示したような「品位」と「礼節」…日本の武士道精神に近いのだと思うのですが、現在の日本人も、このような精神の“電流”を持っていることを願っています。この“電流”をもっと強くした方がよいのではないでしょうか。微弱になっているように思います。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
「古き良き日本」の伝統も取り戻さねばなりません。
鈴木内閣は、表向きは本土決戦などの強硬策を唱えながら、その裏では密(ひそ)かに戦争終結を図ろうと努力していました。しかし、交渉がなかなか進まない間に、ルーズベルトの後継として大統領に就任したアメリカのトルーマンと、イギリスのチャーチル、そしてソ連のスターリンとが7月にドイツのベルリン郊外のポツダムで、第二次世界大戦の戦後処理を決定するための会談を行いました。これをポツダム会談といいます。
会談を受けて、7月26日にはアメリカ・イギリス・中華民国の3ヵ国によるポツダム宣言が発表されました。当時はソ連が対日戦に加わっていなかったため、中国を加えることでカムフラージュしようと考えたのです。
なお、鈴木内閣はソ連が参戦の決定をしていたことを見抜けず、ソ連に対して和平の斡旋(あっせん)を要請していました。このあたりにも当時の我が国の情報戦における決定的な敗北、インテリジェンスの欠如(けつじょ)が見受けられます。





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ぴーち こんばんは!
こんなに情報が溢れている時代でありながら、
現代でも日本は情報に対してどこか鈍感な
所がありますよね?
何が原因なのかは存じませんが、
やはり俗に言う「平和ボケ」が根底に
ある為なのでしょうか?^_^;
ぴーちさんへ
黒田裕樹 現代においては「平和ボケ」による注意力散漫も大きいとは思いますが、戦前と現在とで共通しているのは、いわゆる「スパイ」が政治の世界の奥深くまではびこっているのを許していることだと思います。
戦前はゾルゲや尾崎秀実がそうであり、現在では…。
いつの時代であろうとも、天皇なくして我が国の将来は有り得ません。このため、我が国ではポツダム宣言を受けいれるかどうか、態度を明確にしないまま連合国の出方をうかがうことにしたのですが、この裏にはアメリカによるとんでもない謀略(ぼうりゃく)が隠(かく)されていました。
実は、当初の宣言文には「日本が降伏すれば天皇の地位を保証する」と書かれていたのです。駐日大使の経験者で我が国の実情をよく知っていたグルーによって、我が国が宣言に応じやすいようにつくられていたのですが、土壇場(どたんば、最後の場面という意味)でアメリカ大統領のトルーマンが削除(さくじょ)しました。
トルーマンが「天皇の地位の保証」を削除した宣言が発表されたことによって、アメリカは宣言以前に決まっていた計画を実行に移しやすくなったのです。その計画こそが、悪名高い「原子爆弾の日本への投下」でした。





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ぴーち こんばんは!
一番の元凶はトルーマンだったのですね。
トルーマン自身、日本を追い詰めることで
得られる自身の利益が他に存在していたのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 アメリカとしては、終戦後の日本占領のイニシアチブをとるためにも、ソ連に先駆けて徹底した攻撃を行いたかったことや、せっかく作った原爆の(それも二種類の)威力を確認したかったこと、さらには落とす国が黄色人種であることから、罪の意識が低かったことなどが挙げられますね。
いずれにせよ、断じて許されるものではありません。
つねまる 先生、はじめまして。
近現代史は絶対に「あと、読んどけ」で済まされたので面白いです。
先輩だか後輩だか不問にしてくださいなのですが、私は千里キャンパスの教室出身です。
司法書士事務所から通信教育で教員免許取得で先生なんて、すごいなあ。
わかりやすくて楽しい歴史、をしてくれる大人の教師に出会いたかったな。
背筋を伸ばして勉強します、先生!
つねまるさんへ
黒田裕樹 同じ大学の校友からのお言葉、恐縮です。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
我が国が降伏寸前であったにもかかわらず、まるで実験を行うかのように原爆を2つも落としたアメリカによる卑劣(ひれつ)極まる暴挙は、東京大空襲とともに国際法上でも決して許されることのない、民間人などの非戦闘員を対象とする空前の大虐殺(だいぎゃくさつ)です。
なお、鈴木内閣はポツダム宣言の受けいれをめぐって「no comment(ノーコメント、大人びた態度でしばらく賛否の態度を表明しない)」という意思を表明しましたが、これがいつしか「黙殺(もくさつ)」という言葉にすり替わり、これが同盟通信社によって「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳(ほんやく)され、さらにはロイターとAP通信では「reject(拒否)」と報道されてしまいました。
このことを受けて、ポツダム宣言に対する日本政府の断固たる態度を見たアメリカが、原爆の広島と長崎への投下を最終的に決断したとの見方もありますが、先述のとおりポツダム宣言の発表前に原爆投下は決定されており、むしろ投下を正当化するために鈴木首相の「発言」が「利用されてしまった」のが真実と考えるべきなのです。





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- 黒田先生
青田です。
トルーマンの無能ぶりは、日本だけでなく、
アメリカ軍人さえ呆れていました。
あのマッカーサー(ニミッツも)
広島長崎への原爆投下を批判しています。元帥たる自身への相談なく行われた上、
日本はソ連へ和平仲介を打診した1945年6月の時点で抗戦の意思がなく、
戦略的に無用であると考えたためです。
これは、マッカーサーは、人道主義者だからではありません。
彼は、戦略的に必要だと思えば、後の朝鮮戦争でも
原爆を投下することを進言しています。
日本だけではなく、アメリカにとっても百害あって、一利ナシの行為だったということです。
私は、考えようによっては、トルーマンは、ヒトラーと同一に思えてしまいます。
青田さんへ
黒田裕樹 トルーマンに関しては、前任者のルーズベルトの死で運良く(?)大統領の地位を手に入れたという劣等感があったため、自分を大きく見せるために、しなくてもよい原爆投下を強行したという説もありますね。
いずれにせよ、とんでもない話ですが…。
ぴーち こんばんは!
仰るとおり、本当に・・・
まるで動物実験でもするかの様な
仕打ちを日本は受けてしまったのですね。
話は変わりますが、
よく味方につければ、最強の人物なのに
敵に回すと最悪な存在になる方がおりますが、
アメリカと言う国を敵に回すと、本当に厄介ですね。
もしも
そういう国相手と真っ向勝負をしてしまった日本に少しは落ち度があったとしたらば・・。
そうだとすれば、もう少しあの戦争が開戦される前に
回避出来る策が考えられなかったものかと
今更ながら思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
我が国の戦争責任を声高に叫ぶのではなく、そうすれば戦争を回避できたのか、あるいはどうすれば有利なうちに講和できたのかなど、前向きな議論をすべきでしょう。
これ以上の悲劇を繰り返さないためにも―。
このままでは北海道をはじめとする我が国北部の領土が、ソ連に奪われてしまいます。我が国はまさに絶体絶命の窮地に陥(おちい)ってしまいました。
我が国を取り巻いた数々の非常事態を受けて、8月9日の夜に貫太郎はポツダム宣言を受けいれるかどうかを決めるために、昭和天皇の御前で会議を開くことを決めました。いわゆる御前会議のことです。
会議は鈴木首相の他に阿南惟幾陸軍大臣、東郷茂徳外務大臣など合計7人で行われ、東郷外相は宣言の受諾(じゅだく)を、阿南陸相はいわゆる本土決戦も辞さないと徹底抗戦をそれぞれ主張し、いつまで経っても平行線が続きました。
やがて日付も10日に変わり、開始から2時間経ったある時、鈴木首相は立ち上がって昭和天皇に向かい、こう言いました。
「出席者一同がそれぞれ考えを述べましたが、どうしても意見がまとまりません。まことに畏れ多いことながら、ここは陛下の思し召しをおうかがいして、私どもの考えをまとめたいと思います」。





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ぴーち こんばんは!
なるほど。。
北方領土問題は存じておりましたが、
原爆投下などをされては困る国が日本だけに留まらず、ソ連までも慌てさせていたということに
驚きました!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 原爆投下によって、戦後の占領政策のイニシアチブを取られてしまうことにソ連が焦ったことが、卑劣な条約破棄による侵攻を招いたわけですね。
非常時には綺麗事を言っている場合でなく、また弱いものはやられっぱなしとなる。
だからこそ、国家を護るための防衛力は必須なのです。
「それなら意見を言おう。私の考えは外務大臣と同じ(=ポツダム宣言を受諾する)である」。
昭和天皇のお言葉が発せられると、大臣らの目から涙がこぼれ落ち、やがて号泣に変わりました。陛下も涙を流されながら、お言葉を続けられました。
「念のため言っておく。今の状態で阿南陸相が言うように本土決戦に突入すれば、我が国がどうなるか私は非常に心配である。あるいは日本民族はみんな死んでしまうかもしれない。もしそうなれば、この国を誰が子孫に伝えることができるというのか」。
「祖先から受け継いだ我が国を子孫に伝えることが天皇としての務めであるが、今となっては一人でも多くの日本人に生き残ってもらい、その人々に我が国の未来を任せる以外に、この国を子孫に伝える道はないと思う」。
「それにこのまま戦いを続けることは、世界人類にとっても不幸なことでもある。明治天皇の三国干渉(さんごくかんしょう)の際のお心持ちを考え、堪(た)えがたく、また忍びがたいことであるが、戦争をやめる決心をした」。





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ぴーち こんばんは!
仰るとおり、この世に生き残る事が
一番大切な事ですものね。
少しでも多くの人間が生き残ることを
希望する天皇のお心は十分理解出来ます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 世界の平和を常に願われた昭和天皇でいらっしゃいましたから、我が国が存続することで、ご自身の責任も果たさねばならないという、強いお気持ちがあられたのかもしれませんね。
我が国の条件に対して、連合国側は8月12日に回答を伝えましたが、その内容は「日本の政治形態は国民の自由な意思によって決められ、また天皇の地位や日本政府の統治権は、連合軍最高司令官に従属(じゅうぞく)する」というものでした。
この条件では我が国が連合国の属国になってしまう危険性があり、また何よりも天皇の地位の保証が不完全なままでした。この内容でポツダム宣言を受けいれるべきか、外務側と軍部側で再び意見が対立しましたが、ソ連による我が国侵略の脅威(きょうい)が間近な現状では、もはや残された時間はありませんでした。
そこで、貫太郎は14日に改めて御前会議を開きました。会議では自らの意見を述べる者も、またそれを聞く者も、すべてが泣いていました。陛下も意見をお聞きになりながら何度も涙を流され、しばしば眼鏡を押さえられました。そして、昭和天皇による2度目のご聖断が下りました。





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ぴーち こんばんは!
まさしく、苦渋の決断だったんですね。
それにしても、こういう場面での
素早い決断というのは、これまでに培われた
経験がいかに実のあるものであったのかが
判りますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、我が国の長い歴史で培われた経験における決断でもありました。
それだけに、昭和天皇のご苦悩が拝察されます…。
ご聖断が下った後、阿南陸相は耐え切れずに激しく慟哭(どうこく、悲しみのあまり声をあげて泣くこと)しました。昭和天皇はそんな阿南に対して優しく声をおかけになりました。
「阿南、お前の気持ちはよく分かっている。しかし、私には国体を護れる確信がある」。
昭和天皇によるご聖断は下りましたが、それだけでは明治憲法の規定においては何の効力も持たず、内閣による閣議で承認されて初めて成立するものでした。もし閣議の前に阿南陸相が辞任して、後任者の選任を陸軍が拒否すれば、軍部大臣現役武官制によって鈴木内閣は崩壊し、ご聖断をなかったことにすることは可能でした。
陸軍の強硬派は戦争継続のために阿南陸相に辞任を迫りましたが、阿南は以下のように一喝(いっかつ)しました。
「ご聖断が下った以上はそれに従うだけだ。不服の者あらば自分の屍(しかばね)を越えてゆけ!」





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ぴーち こんにちは!
貫太郎氏のご活躍も素晴らしいですが、
阿南陸相のこの時の覚悟も凄まじいものを感じますね。
この当時の閣僚は、皆が命がけで戦っていたのだなと改めて思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 貫太郎氏のご活躍も素晴らしいですが、
> 阿南陸相のこの時の覚悟も凄まじいものを感じますね。
> この当時の閣僚は、皆が命がけで戦っていたのだなと改めて思いました。
本当にそうですよね。
現代の(特に前政権の無責任な)閣僚とは月とスッポンです。
そして、詔書のすべての手続きが終わった14日午後11時過ぎ、総理大臣室を訪問した阿南陸相は、貫太郎に面会すると以下のように述べました。
「自分が陸軍の代表として強硬な意見を申し上げ続けたことによって、総理に大変ご迷惑をおかけしたことを深くお詫(わ)びします。私の真意はただ一つ、国体を護持したいと考えただけで、他意はございません。この点、何卒(なにとぞ)ご了承ください」。
阿南陸相の言葉を受け、貫太郎はかつての侍従長と侍従武官の関係のように、優しく語りかけました。
「阿南さん、貴方(あなた)の気持ちは私が一番良く分かっているつもりです。長い間本当にありがとうございました。国体はきっと護持されますし、皇室もご安泰(あんたい)ですよ」。





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ぴーち こんばんは!
なにやら今日の場面は
映画のワンシーンを思い浮かべてしまいそうになるいわゆる山場ですね^^
貫太郎首相の懐の深さが際立つお言葉に感銘しました!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なにやら今日の場面は
> 映画のワンシーンを思い浮かべてしまいそうになるいわゆる山場ですね^^
> 貫太郎首相の懐の深さが際立つお言葉に感銘しました!
確かに映画のワンシーンのようですね。
首相と陸相のやり取りは素晴らしいですが、実はこれが…。
「私もそう思います。この葉巻は南方の第一線から届いたものですが、私は嗜(たしな)みませんので総理に差し上げます」。
そう言って貫太郎に葉巻を渡すと、阿南陸相は踵(きびす)を返して去ってきました。その後ろ姿を見送りながら、貫太郎は心の中でつぶやきました。
「阿南君は暇乞(いとまご)いに来たのだろう」。
貫太郎の慧眼(けいがん、物事の本質を見抜く鋭い洞察力のこと)どおり、阿南陸相は昭和天皇から拝領(はいりょう)したワイシャツを身に着けると、翌8月15日午前4時40分に、すべての責任を取って割腹(かっぷく)自決しました。想像を絶する痛みや苦しみのなか、阿南陸相は介錯(かいしゃく、とどめを刺して楽にすること)を断り、午前7時10分に絶命しました。以下は血染めの遺書に残された阿南陸相の最期の言葉と辞世の句です。
「一死以テ大罪ヲ謝シ奉(たてまつ)ル 神州不滅ヲ確信シツツ」
「大君(おおきみ)の 深き恵に 浴(あ)みし身は 言いのこすべき 片言(かたこと)もなし」





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ぴーち こんばんは!
そうですねぇ・・
想像したくない程の
壮絶な場面ですねぇ・・
今日ばかりはノーコメントにさせて
いただきたい気持ちになりましたが、
天皇も阿南陸相のこの様な
責任の取り方にさぞお心を痛まれたことでしょう。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのお気持ち、お察しいたします。
事実を述べるときが、時として悲しいこともありますが、陛下のお気持ちに関しては次回の更新で紹介したいと思います。
「阿南には阿南の考えがあったのだ。気の毒な事をした」。
人望が厚かった阿南陸相の割腹自決は、陸軍全体に大きな衝撃を与え、若干(じゃっかん)の離反(りはん)はあったものの、その後の徹底抗戦への動きを封じることができました。阿南陸相は昭和天皇のご聖断を確かなものにするため、自ら命を絶つとともに、責任の重さから介錯を断って、最期を迎えるまで苦しみ抜いたに違いありません。
陸軍の最高責任者として、戦争への責任などが何かと問題視される阿南陸相ですが、昭和天皇のご聖断を受けて陸軍全体をまとめ上げ、最後にはすべての責任を一人で取ったその潔い姿勢は、立派なものであったというべきでしょう。
また、陛下の侍従長として長く仕えたことで、昭和天皇とまさに阿吽(あうん)の呼吸でご聖断を導き出し、本土決戦による我が国滅亡の危機や、ソ連の参戦による北海道などの侵略をギリギリのタイミングで防ぎきった、貫太郎の政治力も素晴らしいものがありました。
国民のことのみを考え、自らを顧みずに下された昭和天皇のご聖断の背景には、鈴木貫太郎や阿南惟幾といった、かつて陛下に直接仕えた「忠臣」による、我が国への無私(むし、私心や私欲のないこと)の行動もあったのです。





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ぴーち こんばんは!
そうですか・・。
ご聖断の裏にはそんな重々しいエピソードが
あったとは、考えもしませんでした。
そう考えると、現代のこの日本の発展と平和は
阿南陸相や貫太郎首相の命の上に成り立っている
と言っても過言ではない様な気がして来ます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そう考えると、現代のこの日本の発展と平和は
> 阿南陸相や貫太郎首相の命の上に成り立っている
> と言っても過言ではない様な気がして来ます。
私もそう思います。
昭和天皇のご聖断が素晴らしいのは当然として、陛下を支えた二人の忠臣の存在を、私たちは決して忘れてはならないでしょう。