御年78歳(当時)の天皇陛下は、同年2月18日に心臓の冠動脈のバイパス手術をお受けになり、3月4日に退院されたばかりでした。
大手術をご経験されたばかりのお身体でありながら、被災地に思いを寄せられ、式典へのご出席を強く望まれておられた陛下。そのお姿に、私たち国民の多くが感動するとともに、胸が一杯になりました。
「平和と安寧(あんねい)への祈り」をお続けになられる天皇陛下の大御心(おおみこころ)は、被災地のみならず、先の大東亜戦争における数多くの戦没者に対しても、強いご慰霊のご意思をお持ちになっておられることを、皆さんはご存知でしょうか。
※下記の映像は4月6日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
つい先日もフィリピンへ行かれた事も
報道されていましたし、去年でしたっけ?
パラオにも訪問されたニュースも有りましたね。
余りご様態も優れない中、それ程までに
陛下ご自身を突き動かす何かが
お有りなのだと感慨深く拝見させて
おりました。大変慈悲深い事です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
今上陛下の大御心に関して、これからしばらくのあいだ更新を続けますので、ご期待ください。
天皇・皇后両陛下は、平成5(1993)年4月に全国植樹祭へのご臨席で、ご即位後に初めて沖縄をご訪問された後、平成6(1994)年2月には硫黄島(いおうとう)で、戦後50年に当たる平成7(1995)年7月から8月にかけては長崎・広島・沖縄・東京で、それぞれ戦没者をご慰霊されました。
また、戦後60年の節目に当たる平成17(2005)年6月には、サイパンを慰霊訪問されましたが、いわゆる「バンザイクリフ」までお出ましになられた際には、岸壁まで歩まれた後に、多くの方々が身を投げた海に向かわれ、黙祷を捧げられました。
さらには、戦後70年の直前にあたる平成26(2014)年には、6月に沖縄、10月に長崎、12月に広島と次々とご訪問され、70年の節目となった平成27(2015)年4月には、日米双方で約12,000人が犠牲となった、パラオ共和国のペリリュー島で戦没者の霊を慰められました。なお、両陛下がペリリュー島をご訪問された4月9日は「天皇皇后両陛下ご訪問の日」として、ペリリュー州の祝日とされています。
そして、今年(平成28年=2016年)の1月には、大東亜戦争において約518,000人もの日本兵が犠牲となったフィリピンを、皇太子時代以来54年ぶりに、両陛下がご訪問されました。フィリピンでのご慰霊は両陛下の悲願だったとされ、両陛下の強いご意向により、ようやく実現したとのことです。
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ぴーち こんばんは!
そう言えば、パラオのご訪問の際、
現地の方達の歓迎ぶりは尋常な無い程の
熱意を感じました。涙ぐむ女性の姿も
あった様で、日本人に対しても、そして
殊更、天皇陛下への思いは日本人以上に
深いものがあるのだなと思いましたね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 パラオの皆様の親日ぶりは有難いですね。
国旗も我が国に似せてつくられたという話もあります。
平成7(1995)年1月17日に発生し、6,400人を超える死者を数えた阪神・淡路大震災が起きた際には、震災からわずか半月後の1月31日に、両陛下の強いご希望で、被災地の神戸にお入りになられました。
そして、地震と火災のダブルパンチによって壊滅的な被害を受けた、神戸市長田区の菅原市場(すがはらいちば)の変わり果てた様子をご覧になられた皇后陛下は、当日の朝に皇居のお庭でご自身が摘(つ)み取られた17輪(りん)の水仙(すいせん)を、瓦礫(がれき)のうえにそっと献花されました。
春の訪れとともに咲きはじめる水仙は、海外において「希望の象徴の花」とされていることから、皇后陛下の「困難に負けずに希望を持って復興してほしい」という御心(みこころ)が込められているのではないかと拝察します。
なお、皇后陛下が献花なさった水仙は、そのままの姿で永久保存され、神戸市の布引(ぬのびき)ハーブ園に展示されています。また、復興を遂げた菅原地区では、皇后陛下が献花された瓦礫の場所が「すがはらすいせん公園」として整備され、入口近くには記念プレートが設置されました。
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ぴーち こんばんは!
そう言えば、皇后さまが水仙の花束を
添えられている姿をTVで拝見させて
頂いた事が有りましたが、
水仙の花言葉までは存じませんでした。
正直、水仙を献花するというは、
珍しい光景だなと感じて居ましたが、
そういう意味合いを込めての献花だったのですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうだったんですよね。
皇后陛下のお優しいお心に、胸が一杯になる感動的な実話だと思います。
ちなみに陛下は、ビデオメッセージをマスコミなどが発表する際に「発表の途中で緊急の報道を必要とする場合は、中断してかまいません」とのご意向を示されたそうです。
ビデオメッセージの発表後、天皇・皇后両陛下は、3月30日の東京都足立区の避難所お見舞いを皮切りに、東京・千葉・埼玉の各避難所や、茨城・宮城・岩手・福島の被災地などを、被災者お見舞いのため各地を行幸(ぎょうこう、天皇陛下が外出されること)されました。
また、原発事故の影響で、関東地方で計画停電が行われた際には、皇居がある千代田区が計画停電の対象外になっているにもかかわらず、第1グループと同じ時間に電源を落として、国民と苦労を分かち合われたそうです。
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ぴーち こんばんは!
>昭和天皇の玉音(ぎょくおん)放送以来の、極めて異例・・
そうでしたか!確かに言われてみれば、
それまで一度も聞いた事が無かったです!
>同じ時間に電源を落として、国民と苦労を分かち合われたそうです
このエピソードは伺った事があります。
人間、実際に経験してみないと
その人の思いになかなか寄り添う事が
出来ないものですが、それをあえて
実践なさった事に対しては敬意を表さずには居られません。
そう言えば私も、計画停電を
何日か経験させて頂きましたが、
滅多に出来ない貴重な体験でした。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、陛下の大御心のすごさを実感せずにはいられませんね。
計画停電は関西ではありませんでしたが、いつどうなるか分かりませんから、常に心しておくべきだと思います。
足かけ64年にも及ぶ、我が国最長の元号である昭和。しかし、その道のりは決して平坦ではなく、まさに「激動の昭和」の別名どおりの苦難の連続であり、なかでも最大の試練だったのが、昭和20(1945)年に終戦を迎えた大東亜戦争でした。
終戦後、我が国では戦争に対する責任問題が次第に叫ばれるようになりましたが、最大の責任者として昭和天皇の名を挙げる人々も少なくありません。しかし、これは本当のことなのでしょうか。当時の我が国で施行されていた大日本帝国憲法(=明治憲法)では立憲君主制とされており、大東亜戦争においても、内閣が決議したことを昭和天皇が事務的に承認されただけでした。
こうした歴史的事実からすれば、昭和天皇ご自身に政治的な戦争責任があるとは断定できないのが現実でしょう。しかし、政治的や手続的な問題とは関係なく、昭和天皇は戦争に対する道義的な責任をずっと感じておられていました。だからこそ、我が国は憲法の概念を超越した陛下の「ご聖断」によって、戦争を終わらせることができたのです。
今回の講座において、我が国の歴史に大きな足跡を残された昭和天皇のご生涯をたどることで、輝かしい日本国の歴史を、未来へとつなぐ一助となれればと思っております。
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ぴーち こんばんは!
そうですよね。
あの当時、天皇が絶対的権限をお持ちでしたら
もしかしたら、戦争は回避されたかも知れませんね。
それを考えれば、その当時の日本の制度が悔やまれてなりませんが、いくら天皇陛下であろうと
その制度を曲げてまでご自身の本心を押し通す事は出来なかった事に、きっと国民よりも
天皇陛下ご自身が一番悔やまれてならなかった
のではないかと思われます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 我が国は、ある意味律儀すぎるのかもしれませんね。
陛下と言えども、道を絶対に外されることがない。だからこそ我が国と言えるかもしれませんが…。
お七夜(しちや)にあたり、端午(たんご)の節句の日でもあった同年5月5日には、ご称号を迪宮(みちのみや)、御名を裕仁(ひろひと)と命名されました。「ゆたかに広く、おおらかな心で国を治め、人類の幸せのために尽くすことができるように」という願いを込めて、明治天皇がお名付けになったといわれています。
裕仁親王はお健やかに成長され、幼年期の頃から厳格な明治天皇の御前でも決してひるまれることなく、また伊藤博文(いとうひろぶみ)などの明治の元勲が挨拶(あいさつ)に参上しても、物怖(ものお)じなさらず堂々と応対されました。
未来の天皇陛下にふさわしいそのお姿に、親王が幼い頃からお世話をしてきた侍女の足立たかは、涙がこぼれそうになったと後に語っています。なお、彼女の名は、後に思わぬところで私たちの目に留まることになります。
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ぴーち こんばんは!
足立たか。
以前、黒田さんの所で勉強させて
頂いた事があったような無かった様な(^_^;)
後にどのような形で登場するか
改めて楽しみにしています^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 何度か出てはいますが、ずいぶん前ですからね。
今回の機会をぜひお待ちください。
明治45(1912)年7月30日、裕仁親王が11歳の時に祖父の明治天皇が崩御(ほうぎょ)され、その大葬の日であった9月13日に、乃木将軍は妻とともに殉死しましたが、その数日前に、将軍は裕仁親王に山鹿素行(やまがそこう)の名著である「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」を差し上げ、素晴らしい本であるから熟読されるように、と勧めました。
いつもと違い、ただならぬ気配が漂(ただよ)う乃木将軍の様子に、裕仁親王は「院長閣下(=乃木将軍)はどこかへ行かれるのですか?」と聞かれたそうです。後で将軍の殉死をお知りになり、祖父の明治天皇に続いて、大切な院長閣下まで失われた親王のお悲しみは、たとえようもないほど深かったに違いありません。
しかしながら、父君の大正天皇が即位され、ご自身は皇太子になられた裕仁親王は、その責任の重さをかみしめられながら、お悲しみを乗り越えられて勉学に励まれ、やがて成人された皇太子殿下は、大正10(1921)年に、ご病弱であられた大正天皇に代わって、20歳で摂政になられました。
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ぴーち こんばんは!
そうですよね。
今日のお話は天皇家という特殊な世界のお話ですが、一般家庭でも同じことが言えますよね。
成人した一人の大人と接した時に、
その方の幼少期にはどんな育てられ方をされたか、大方わかるものですね。
たまに反抗的な大人となってしまった事を
嘆いて親が「こんな子供に育てた覚えがない」などと嘆いたりしますが、人はいつだって育てたようにしか育たないもの。一番理解していないのは、そういう親自身だったりします(^_^;)
親であったり、周りの人間がその子供の将来の為に善悪や物を大切にする心などしっかりと教えてあげれば、今回のお話の様に、三つ子の魂百までもでは有りませんが、生涯その教えを守っていける人間に成長していくのだと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私もそう思います。
昭和天皇のご人格の形成に、乃木将軍は大きな貢献をされましたね。
年が明けた大正13(1924)年、摂政宮は以前より婚約されていた良子女王(ながこじょおう、後の香淳皇后=こうじゅんこうごう)とのご結婚式を行われ、震災の悪夢に打ちひしがれていた国民がこぞって喜ぶ慶事となりました。
しかし、禍福(かふく)はあざなえる縄のごとし。大正15(1926)年12月25日、かねてより療養されておられた大正天皇が、47歳の若さで崩御されました。深いお悲しみのなか、皇太子裕仁親王は直ちに践祚(せんそ、皇位の継承のこと)され、第124代天皇となられました。
同時に元号も「昭和」と改められました。昭和の由来は、中国最古の歴史書である書経(しょきょう)の「百姓昭明(ひゃくせいしょうめい)・協和萬邦(きょうわばんぽう)」であり、国民の平和と世界の繁栄への願いが込められていました。なお、江戸時代(1764年、田沼時代の頃)に同じ出典から「明和」という元号が制定されています。
昭和3(1928)年11月10日、新しい時代にふさわしく、京都御所で即位の礼が華やかに行われましたが、その一方で昭和2(1927)年には金融恐慌(きんゆうきょうこう)が起きるなど、我が国全体に不穏(ふおん)な空気が漂(ただよ)いつつありました。そして昭和4(1929)年には、昭和天皇にとって最初の大きな試練が訪れるのです。
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ぴーち こんばんは!
関東大震災の後のご結婚は国民の間に
希望の光をさぞかし見出した事でしょうね!
今回も大震災が起こった後に、
東京にオリンピックを招致出来た事で
批判も有りましたが、大なり小なり
日本国民の間には頑張ろうと言う
気力を頂いた気がしましたね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
禍福はあざなえる縄の如しと言いますが、絶望の後の希望ほど、有難いものはないですね。
事件発生に驚かれた昭和天皇は、直ちに当時の内閣総理大臣であった田中義一(たなかぎいち)に、関係者の厳正な処分と軍の綱紀粛正(こうきしゅくせい)を命じられました。
しかし、田中首相は陸軍などの強い反対を受けて、関係者を処罰することができず、結局事件をうやむやにしたうえで、翌昭和4(1929)年6月27日に調査結果を昭和天皇に上奏(じょうそう、天皇に意見や事情などを申し上げること)しました。
まだ28歳とお若かった昭和天皇のお顔の色がにわかに変わり、お怒りの声を発せられました。
「この前の約束と話が違うではないか!」
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ぴーち こんばんは!
そうですか!
いつも温厚であらせられる天皇が
声を荒げる姿は想像出来ませんが
きっとその時の様子を目の当たりに
された方達は、一同に驚かされた
事でしょうね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
そして、そのお怒りが、首相にさらなる追い打ちをかけることに…。
そのためには軍隊であっても当然規則を守らねばならないはずなのに、大きな事件を起こしたばかりか、その結果をうやむやにしようとする田中首相の報告を、昭和天皇はお許しになられなかったのです。そして、そのお怒りがさらなるお言葉を生み出してしまいました。
「辞表を出してはどうか」。
昭和天皇から直接辞職を迫られた田中首相は大きなショックを受けて、5日後の7月2日に内閣を総辞職すると、それから3ヵ月も経たない同年9月29日に死亡してしまいました。後に田中義一の死去をお知りになった昭和天皇は、お心の中で「しまった」と思われました。なぜなら、陛下が行われたことは、結果的に大日本帝国憲法で定められた立憲君主制に反することだったからです。
いくら曖昧(あいまい)な報告だったからとはいえ、昭和天皇が田中首相に直接辞職を迫られたことは「天皇による政治への介入」に他なりませんでした。これは「国王は君臨すれども統治せず」とする立憲君主制の原則を明らかに破ることなのです。まして、ご自身の発せられた言葉が内閣を総辞職させ、首相を死に追いやったかもしれないという結果が、日頃から責任感のお強かった昭和天皇に大きな影響をもたらすことになりました。
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ぴーち こんばんは!
こういうお話は難しいですね。
天皇陛下のお考えも尤もだと思いますしね。
軍と言えば、人と争う事が前提ですし
平和と言えば、人と仲良く暮らしていく事が
基本ですので、相反する考え方ですから
当然ながら、意見はぶつかって然りですけれど
そこに法という壁が存在すれば
いくら天皇陛下だからと言って
ご意見を通す訳にも行かないので
苦悩せざるを得ませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、難しいことですね。
立憲君主制の枠を決して抜け出そうとなさらなかった陛下のご決断が、我が国の危機をもたらすとともに、我が国を救うことにもなるところが何とも言えません。
象嵌師 昭和天皇が怒りをあらわにされたのは226事件の時だけだと思っていました。
象嵌師さんへ
黒田裕樹 田中首相の煮え切らない態度に対する陛下の激怒は、意外と知られていないですからね。
このことがきっかけとなって、226事件の「例外」につながったことになります。
「今後、内閣が私に上奏することは、たとえ自分の考えと反対の意見であったとしても、裁可を与えることにしよう」。
昭和天皇にとっては、立憲君主というご自身のお立場をお考えになってのご決断でしたが、時代は統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)に関する問題が深刻化しており、陛下のご決断は、結果として軍部の様々な行動を黙認されることにつながってしまいました。
これ以降、昭和天皇は、内閣とは無関係に、ご自身で政治的な問題に決断されることが2回ありました。そして、その2回ともが、我が国の運命を大きく変えることになるのです。
昭和8(1933)年12月23日に、ご待望の男児である明仁親王(あきひとしんのう、現在の今上天皇)のご誕生という慶事もありましたが、1回目のご決断の機会は、その2年2ヵ月後に起きた大事件の際に訪れました。
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ぴーち こんばんは!
今日のお話を伺っていると
つくづく世の中と言うのは、どちら極端に
傾倒してしまうとバランスが崩れてしまうものなんだなと思いますね・・・
国の定めに則らなければいけないお立場だったとは言え、天皇陛下そのもののお考えは、極めて崇高で
清廉潔白なだけに、なかなかその通りに足並み揃える訳にもいきませんし、淀み過ぎてもこれまた
行き場を失うものですしね。
そこら辺のパワーバランスの舵取りは国として
大変だったのでは無いかと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですし、そんな陛下のご意向を無視して、コミンテルンの手先として我が国を戦争へと導いた人物も存在しましたから、かじ取りは本当に難しかったと拝察します。
国内で自給自足できる国ならそれで良いかもしれません。しかし、我が国のように資源に乏しく外国との貿易に頼っている国家にとって、ブロック経済は深刻な打撃になりました。その一方で、建国されてから日の浅い共産主義国のソビエト連邦(現在のロシア)による政策は、貧困の生活にあえぐ、特に優秀な軍部の青年将校にとっては魅力的に映りました。
かくして、軍部では天皇を中心とする社会主義思想が主流となり、地主や資本家などの富裕層や、彼らと癒着(ゆちゃく)していると思われた政党政治家を激しく憎むようになりました。先に紹介した張作霖爆殺事件や統帥権干犯の問題、あるいは昭和7(1932)年に首相の犬養毅(いぬかいつよし)が暗殺された五・一五事件も、こうした流れの中で起きたのです。
我が国での社会主義思想は、やがて陸軍における皇道派(こうどうは)と統制派(とうせいは)との派閥争いをもたらし、昭和11(1936)年2月26日の未明には、皇道派の青年将校らが首相の岡田啓介(おかだけいすけ)や大蔵大臣の高橋是清(たかはしこれきよ)、内大臣の斎藤実(さいとうまこと)、そして侍従長(じじゅうちょう、天皇側近である侍従の長官)の鈴木貫太郎(すずきかんたろう)らを次々と襲いました。
いわゆる二・二六事件の始まりです。
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これからの日本では、資源が乏しい国というレッテルから、自然豊富な日本という認識に変わるかも知れませんよね。
レアメタルの発掘。何と言っても、日本はリサイクル技術が世界でも類を見ない程に発達を遂げているので、現存する機材から希少価値の高い物質を取り出す事が出来ますし、そこら辺の観点からも
日本の将来は決して暗いものでは無い気がしています。いくら国土が広く、資源豊かな国であっても
それに対抗出来るくらいの頭脳があれば、きっと負けない気がしますね。
この時代は灯台下暗しだったかも知れませんが、
もっと日本も自国の事を見つめなおしていく時期に
来ているのかも知れません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 時代は変わっても、資源が国運を左右することに変わりはないと思います。
そのことを意識すれば、当時の我が国の苦悩もおのずと理解できますよね。
それだけに、昭和天皇のお怒りは激しいものがあり、直ちに「速やかに暴徒を鎮圧せよ」と命じられました。首相の安否が分からないことで、内閣不在で混乱が生じてもおかしくない事態を、陛下のお言葉によって収めることができたのです。
もし陛下の素早いご決断がなければ、我が国は皇道派によるクーデターによって政権が乗っ取られ、その後の運命がどのように変化したか分かりません。ただ、二・二六事件によって示された軍部の実力は、その後の内閣にも大きな影響を与え、事件後に組閣された広田弘毅(ひろたこうき)内閣によって、軍部大臣現役武官制が復活してしまいました。
これは「陸軍や海軍の大臣は現役の軍人に限る」という制度であり、もし内閣が軍部の意向に逆らうようであれば、軍部側は大臣を辞めさせたうえで、後任の人選を拒否することで、内閣を総辞職させることができるというカラクリがありました。
ところで、二・二六事件で重傷を負った鈴木貫太郎でしたが、とどめを刺されるところを、鈴木の妻の懇願によって一命を取り留めました。この妻こそが「鈴木たか」、つまり幼年期の昭和天皇のお世話をした「足立たか」だったのです。自身の妻によって生き長らえることができた鈴木は、やがて歴史の大きな舞台に再び登場することになります。
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分かりました!
「足立たか」様のご正体m(_ _)m
記憶が蘇りました(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
何とも不思議な縁(えにし)ですね。鈴木貫太郎氏がここで生き長らえたことが、我が国の歴史を大きく動かすことになります。
昭和16(1941)年12月8日、日本軍はアメリカ領であるハワイの真珠湾を攻撃し、大東亜戦争が始まりました。これに先立って、戦争開始の閣議決定の裁可を求められた昭和天皇は、ご自身のお気持ちを封印され、立憲君主制に基づく大日本帝国憲法の規定どおりにお認めになられました。
戦争開始に伴い、昭和天皇は開戦の詔書(しょうしょ、天皇の意思を表示した公文書のこと)を発表されました。漢文体で書かれた文面は、当時の東條英機(とうじょうひでき)内閣によって原案が作成されましたが、昭和天皇はその文面をご覧になった後に、あるお言葉を付け加えられました。そのお言葉を拝読した際に、私たちは陛下の本当のお考えを知ることができます。
「豈(あに)朕(ちん)ガ志(こころざし)ナラムヤ」
(現代語訳:どうしてこれが私の望むところであろうか、いや望むところではない)
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そうですね。
最後の一言に天皇の止むに止まれぬ思いが
込められていて、なんとも遣る瀬無い思いが
して来ますね・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 陛下は最後まで戦争に反対されておられましたからね。
ご自身のお気持ちを、このようなかたちでしか示すことができなかった、陛下のご心中はいかばかりだったでしょうか。
「峰つづき おほふむら雲 ふく風の はやくはらへと ただいのるなり」
厚い雲のように世界全体を巻き込んだ戦争が早く終わってほしい、という陛下の切実なお祈りのお気持ちを私たちは知ることができます。しかし、我が国は緒戦こそ勢いがあったものの、早期講和を実現させることができないまま、戦いが長期化したこともあって、徐々に劣勢に立たされていきました。
そして昭和18(1943)年5月29日には、アメリカ領アラスカ州西のアリューシャン列島の先にあるアッツ島にて日本軍が全員死亡するという、いわゆる玉砕(ぎょくさい)の悲劇が初めて起きてしまいました。
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戦争を肯定するつもりは毛頭ございませんが、
野球などの攻略方法などを見ていると
強いチームを相手にした時には、相手のペースに
呑まれる前に、初回から大量得点を上げて行かなければ相手チームに勝利することは出来ない様に、
稼げる内は怯まず、手を抜かず
死に物狂いで戦わなければならないはずですが、
戦争当時の日本の司令塔になった人物の
経験不足?が祟ったのか、采配が上手くなかったのでしょうね・
勿論、日本が例えあの戦争で勝利したとしたら
また新たな敵を作ることになるので、今とは違った
苦労を強いられたのでしょうけれど・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 大東亜戦争において、戦局が有利なうちに講和に持ち込めなかったことに関しては、第49回歴史講座で詳しく紹介しましたのでここでは省略しますが、玉砕の悲劇が起こった時点で、不利ではあっても早く戦争を終わらせられなかったことは残念至極ですね。
しかし、現地の部隊は盗聴を防ぐため、玉砕の直前に無線機を壊しており、もはや無線は通じないですし、何よりも電報を受け取る相手が誰もいません。にもかかわらず、陛下は「それでも構わないから、電報を出してほしい」と重ねて仰いました。なぜ昭和天皇は、もはや通じない相手への電報にこだわられたのでしょうか。
縁起の良くない話で申し訳ないですが、私を含めて人間は必ずいつかは死にます。長年一緒に暮らした肉親を亡くすことは悲しくつらいですし、ましてや、子に先立たれた親の悲しみは、はかり知れないものがあるでしょう。
そして、目の前に息を引き取ったばかりの遺体が横たわっていれば、子は親の、親は子の名を何度も叫びながら泣き崩れます。何度呼びかけようが、二度と返事をすることがないことなど分かりきっていますが、それでも呼びかけずにはいられません。
昭和天皇のご真意もそこにありました。我が国のために命をかけて戦い、そして散っていった兵士の一人ひとりが、陛下にとってはかけがえのない生命なのです。だからこそ、親が亡くなった子に対してそうするように、昭和天皇は二度と聞くことのかなわない、ねぎらいのお言葉を兵士たちにかけられたのでした。
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ぴーち こんにちは!
天皇陛下がそのことをご存知だったかどうかは
存じませんが、肉体は滅びても魂は
生き続けます。
勿論、人間は死んだらそれで終わりと
信じて疑わない人が大勢居る事も理解しております。
少なくとも昔から日本では
畳の上で亡くなる事が理想であり、またその死に様がこの世からあの世への死出の旅には適した
場所だと考えられて居ましたが、不慮の出来事で
否応無しに
失ってしまった肉体から離れなければいけなくなってしまった魂程、無念な思いは大きかったのでは無いかと察した場合、
より天皇陛下の思いは亡き兵士達への
鎮魂に多大な慰めとなったのではないかと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに鎮魂という意味でも、電報は大きな効果がありますよね。
民のために常にお祈りになられる陛下でいらっしゃいますから、仰ることも十分ありうると思います。
翌26日に作戦実行をお聞きになった昭和天皇は、「そのようにまでしなければならなかったのか!」と叫ばれ、しばし絶句された後に「しかしよくやった」と仰いました。このお言葉は決して特攻隊を称賛するのではなく、国のために生命を散らした兵士たちの尊い犠牲に対する、労(いたわ)りのお気持ちが込められていると考えるべきではないでしょうか。
昭和20(1945)年に入ると、我が国では極度の物資不足となり、航空機用のアルミニウムも足りなくなりました。このため、食器や鍋、あるいはヤカンなどの非軍事用のアルミニウム製品の回収運動が始まりましたが、日用品をすべて取り上げられては国民の暮らしが成り立ちません。運動をお知りになった昭和天皇は、国民生活への影響を心配されて「家庭で日常使うものまでは取り上げないように」と注意されたそうです。
また、国民の多くが食糧不足に悩まされている現実をお考えになった昭和天皇は、ご自身のお食事に国民と同じ配給を強くお命じになられ、代用食や水団(すいとん)などを進んでお召(め)し上がりになられました。
物資不足だけなら、苦しくても国民はまだ生きていけます。しかし、空から敵の軍隊に攻撃されてはひとたまりもありません。そして、その恐るべき事態が現実となる日がやって来てしまいました。
※下記の映像は4月19日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
天皇陛下のお心がよく分かるエピソードですね!
国民と苦楽を共にというお考え方は
今上天皇にもしっかり受け継がれていらっしゃいますよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
先に紹介した、東日本大震災における計画停電のエピソードなどが、しっかりと受け継がれていることが良く理解できます。
わずか1回の空襲で約26万戸の家が焼かれ、12万以上の人々が死傷し、100万人を超える人々が焼け出されるという甚大な被害をもたらすなど、世界史上でも例を見ない、非戦闘員に対する大虐殺となりました。
空襲後、昭和天皇はご自身で被災地を訪問したいと希望なされ、約1週間後の18日に実現しました。空襲から間もない東京は焼け野原と化しており、焼け死んだ人々の遺体もそのままになっていました。陛下は被災者をお励ましになりながら、東京の変わり果てた姿に胸が痛む思いでいらっしゃいました。
「もはや一刻の猶予(ゆうよ)もなく、一日も早く戦争を終わらせないといけない」。そうお考えになった昭和天皇は、翌4月の小磯国昭(こいそくにあき)内閣の総辞職後に、次の内閣総理大臣として、元侍従長の鈴木貫太郎を指名されました。ご自身との縁(えにし)が深い鈴木ならば、この戦争を終わらせることができると期待されたのです。
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ぴーち こんばんは!
そうですよね。
悲惨な現場を目の当たりにされては
居てもたっても居られなくなる思い
は痛い程分かります。
何か出来る立場なら、すぐにでも
食い止めたいと思うのが人情
ですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですよね。
結果として、ここで鈴木貫太郎氏を首相に起用したことは正解でした。
それができたのも、様々な運命の流れなんですよね。
そして、昭和20(1945)年5月25日から26日にかけて東京が空襲にあった際には皇居にも飛び火し、明治天皇以来の宮殿が焼け落ちましたが、昭和天皇は「そうか、焼けたか。これでやっとみんなと同じになった」と仰られ、その後は昭和36(1961)年末に新しい御所が完成するまで、防空壕(ぼうくうごう)としてつくられた御文庫(ごぶんこ)でお過ごしになりました。
後に終戦を迎えても、我が国の経済が回復し、国民の生活が向上するまでは新しい御所の造営をお認めにならなかったのです。国民の安寧な暮らしを常に願われていた、昭和天皇の大御心(おおみこころ)をうかがい知ることができるお話ですね。
さて、その後も我が国の戦局は悪化するばかりであり、6月23日には沖縄における日本軍の守備隊が全滅しました。そして7月26日にはアメリカ・イギリス・中華民国(実際にはソ連)の3ヵ国によるポツダム宣言が出されました。
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ぴーち こんばんは!
私も陛下のお気持ちがすごくよく分かります。
と、
きっと
こんな事を書いただけではそれこそ
口先だけ分かっているだけだと
思われてしまうでしょう。
陛下も
多分
ご自分自身が身を持って体験される
事で本当の相手の気持ちがわかるものだという
事を分かっておられたので
あえて
共に苦労を経験されたのだと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私もぴーちさんと同じことを思っていました。
陛下の大御心の素晴らしさには、ただただ感謝の思いですね。
いつの時代であろうとも、天皇なくして我が国の将来は有り得ません。このため、我が国ではポツダム宣言を受けいれるかどうか、態度を明確にしないまま連合国の出方をうかがうことにしたのですが、この裏には、アメリカによるとんでもない謀略が隠されていました。
実は、当初の宣言文には「日本が降伏すれば天皇の地位を保証する」と書かれていたのです。駐日大使の経験者で我が国の実情をよく知っていたグルーによって、我が国が宣言に応じやすいようにつくられていたのですが、土壇場(どたんば)でアメリカ大統領のトルーマンが削除しました。
トルーマンが削除した宣言が発表されたことによって、アメリカは宣言以前に決まっていた計画を実行に移しやすくなったのです。その計画こそが、悪名高い「原子爆弾の日本への投下」でした。
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ぴーち こんばんは!
それでは、例えば
最初から無条件降伏の道を日本が選んだとしても
原爆投下は免れる事が出来なかったという事なんですか!
それでは日本は痛手を被りすぎですよね。
それは・・
後程貰いすぎた「借り」をアメリカへしっかり返さなければいけませんね!!
或いは日本が直接手を下さなくても、アメリカという国は
何かでその痛手は返される事になるでしょうけれど。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 最初から計画されていたのですから、あまりにも無慈悲な話ではあります。
我が国は恨みを水に流す民族性がありますが、アメリカの暴挙は、いつかは因果応報のときが来るのではないでしょうか。昨今の凋落ぶりを見ると、そんな思いがします。
我が国が降伏寸前であったにもかかわらず、まるで実験を行うかのように原爆を2つも落としたアメリカによる暴挙は、東京大空襲とともに国際法上でも決して許されることのない、民間人などの非戦闘員を対象とする空前の大虐殺です。
さらには、アメリカの原爆投下に慌(あわ)てたのか、ソ連がそれまでの日ソ中立条約を一方的に破って8日に我が国に宣戦布告し、9日から満州北部などへの侵攻を開始しました。
このままでは北海道をはじめとする我が国北部の領土がソ連に奪われてしまいます。我が国はまさに絶体絶命の危機に陥(おちい)ってしまったのでした。
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ぴーち こんばんは!
そうですね。
日本はいわゆる核爆弾の実験にされたのだと
思います。
人間は時に計り知れない無情さを持って
相手を攻撃したり、我が事では無いので
平気で(医療行為などで特に)
実験台にしようとする事実も有るようですよね。
まるで虫けらや、ハツカネズミなどの小動物を
扱うかのように。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > まるで虫けらや、ハツカネズミなどの小動物を
> 扱うかのように。
広島や長崎の原爆の場合は、日本人が黄色人種であり、人間でないという白人の傲慢な態度が投下を後押ししたとも言われていますからね。