一般的には「中央集権体制をつくり上げるため、地方の独立組織であった藩を廃止し、政府直轄の県を置いた」という歴史的事実が知られていますね。
もちろん、そのような目的で廃藩置県が断行されたのは間違いありませんが、実は、廃藩置県には「もう一つの隠された目的」があり、それを学ぶことで、歴史のさらなる大きな流れを理解できるようになるのです。
ここからは、廃藩置県がもたらした「士族の受難」、さらにそこからも続く大きな歴史の流れについて、分かりやすく紹介していきたいと思います。





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ぴーち こんばんは!
士族の受難ですか・・
やはりそれまで行われて来た制度が
一変してしまうと、そこにこれまで
携わって来た者の役目を終える、或いは
変化してしまうことでしょうから、
それはそれで一大事だった事でしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、一大事でした。
廃藩置県から士族の受難につながる歴史の流れをじっくりと見極めていきたいと思います。
しかし、欧米列強による侵略から我が国の独立を守るためには、権限と財源の政府への一元化を、すなわち政府の命令を全国津々浦々にまで行き届けるために、中央集権化をめざす必要がありました。
このため、政府は明治2(1869)年旧暦1月に、木戸孝允(きどたかよし)や大久保利通(おおくぼとしみち)らの働きかけによって、薩摩・長州・土佐・肥前(佐賀)の4藩主に、連名で版籍奉還(はんせきほうかん)を出願させました。
版籍奉還とは、藩が持つ領地(=版図)と領民(=戸籍)を還(かえ)し奉(たてまつ)る(=朝廷に返上する)ことであり、朝廷=天皇にお返しするという形式に、すなわち天皇を前面に押し出すことで、他の諸藩も返還に応じやすくさせるという思惑がありました。なお、政府は同年旧暦6月に、諸藩に版籍奉還を命じています。





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ぴーち こんばんは!
確かに
国内が比較的平穏であるときには
それぞれ地方の役人が指揮を取って
活動していればそれで良かったのでしょうけれど、
外国を相手にするとなると、国内の
意向がバラバラであれば、そこに一気に
付け込まれてしまう危険性も孕んでいますものね
ぴーちさんへ
黒田裕樹 まさに仰るとおりです。
中央集権を急ぐ理由はそこにあったんですね。
政府が、藩が持っていた「領地」「領民」「政治の実権」のうち、「領地」と「領民」を返上させる一方で、「政治の実権」を残した背景には、いきなりすべての権利を奪ったのでは、各藩主の反発があまりにも大きいと判断したという事情がありました。
しかし、我が国における完全な中央集権化を目指していた政府からすれば、版籍奉還だけでは「不完全」であることに変わりはありません。
また、政府の直轄地である府や県では、年貢の徴収をめぐって一揆が多発したほか、諸藩でも、従来と変わらない徴税に対する庶民の不満が高まるなど、抜本的な改革が求められるようになっていました。
このため、政府は藩制度を全廃することを決断しましたが、すべての旧藩主から政治の実権を一方的に奪うことになりますので、慎重に対策を講じました。





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ぴーち こんばんは!
政府側の立場からすれば
「薄氷を踏む思い」だった訳ですね。
薄皮を剥ぐように
慎重に慎重を重ねた対策。
なかなか難しいですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
国政の運営は大胆かつ慎重でないと務まらないと言いますが、通常では不可能なことを可能にしてしまうところがすごいですね。
これによって、すべての藩は廃止されて県となり、知藩事は罷免(ひめん)されて東京居住を命じられ、各府県には、新たに中央政府から府知事や県令が派遣されました。
廃藩置県は大きな混乱もなく平和的に行われ、政府による中央集権体制が名実ともに整いましたが、このことは、我が国に在住する諸外国人から驚きの声があがりました。なぜなら、廃藩置県によって、我が国で長く続いてきた「特定の領主がその領地を支配する」という土地制度が根本的に改革されてしまったからです。
それまで当然のように持っていた領地への支配権を、わずか一日で無理やり没収されるのですから、激しい軍事的抵抗があってもおかしくなかったのですが、なぜ廃藩置県は劇的に成功したのでしょうか。





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ぴーち こんばんは!
はて?
どうしてでしょうか(^^ゞ
天皇直々のお言葉となれば
それに逆らう術は誰も持たなかったのでは
無いでしょうかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 天皇直々のお言葉となれば
> それに逆らう術は誰も持たなかったのでは
> 無いでしょうかね?
それがあったのも間違いないですが、他にも大きな理由があります。
詳しくは次回の更新をご覧ください。
まず挙げられるのは、当時の多くの武士たちが持っていた、「先祖代々続いてきた我が国を守らなくてはいけない」という強い使命感でした。ある意味「武士の集団自殺」ともいえる大事業は、一人ひとりの武士の気概によって支えられていたのです。
また、他に経済的な事情がありました。この頃の諸藩の財政はほとんどが破綻(はたん)しており、多額の負債を抱えていましたが、廃藩置県によって明治政府が肩代りすることになったのです。この他にも、旧藩主が華族として優遇されていたことや、旧藩士に与えられていた俸禄(ほうろく)を政府が当分の間保証した、という現実的な一面もありました。
なお、廃藩置県によって当初は3府302県が置かれましたが、その後統廃合が繰り返され、明治21(1888)年には現在に近い3府(東京・大阪・京都)43県となっています。





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ぴーち こんばんは!
なるほど、背に腹変えられない理由が
そこに存在していたわけですね。
確かに日本人は伝統やこれまでの慣例を
重んじる傾向が強いですものね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
歴史を動かすには、様々な裏事情が存在するものです。
しかし、我が国の軍事力を支えていた多くの武士をいきなり路頭に迷わせてしまえば、大混乱のうえに、諸外国の侵略を招くのは目に見えていました。
また、欧米列強にも負けない近代的な軍隊を編成することも考えていた政府にとって、武士に頼らないためにも、すべての国民が兵役に服するべきであるとする、いわゆる「国民皆兵」が重要であると考えるようになりました。
国民皆兵は、初代の兵部大輔(ひょうぶたいふ)の大村益次郎(おおむらますじろう)が唱えていましたが、明治2(1869)年に暗殺されると、その遺志を継いだ山県有朋(やまがたありとも)によって具体化されました。





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ぴーち こんばんは!
皆兵の意図は、
単なる外国だけに意識を向けた方策
ではなく、国内の氾濫も同時に防ぐという
苦肉の策だった訳ですか・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 一つの事象には、今回に限らず様々な思惑が絡んでいることが良くあります。
それを見極め、大きな歴史の流れを実感するのも勉強ですね。
徴兵令によって、満20歳に達した成年男子全員が、身分に関係なく3年間の兵役義務を負うという、近代国家としての兵制が整えられましたが、現実に軌道に乗るまでには、様々な紆余曲折(うよきょくせつ)がありました。
当初の徴兵令には様々な例外規定があり、戸主や官吏・学生などは兵役が免除されていたほか、代人料として、当時は高額だった金270円を納めた者も免除されており、「徴兵免役心得(ちょうへいのがるるのこころえ)」のような冊子(さっし)をつくって売る人物もいたそうです。
このため、実際に兵役についたのは、ほとんどが農家の二男以下でした。また、徴兵告諭の中の外国語を直訳した「血税」という言葉が、「徴兵されたら血を抜かれる」と誤解されたことで、全国で「血税一揆」などの騒動が起きるなど、当初は混乱が多発したものの、国民皆兵は次第に我が国に広がっていきました。





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ぴーち こんばんは!
血税をですか・・(^^ゞ
当時の教育水準は今のように
高くは無かったでしょうから、
言葉の意味を誤解なさった方が
大勢居たんですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 教育水準については様々な意見があるとは思いますが、少なくとも外国語を直訳してすぐに理解できるというのは、相当な水準が求められると思いますね。とはいえ、その後に国民皆兵が定着したのは、現代とは全く異なる世界情勢を鑑みれば、当時としては及第点だったと思います。
明治2(1869)年、藩主や公家は華族、藩士や旧幕臣は士族、それ以外のいわゆる「農工商」の農民・町人は平民とされました。また明治3(1870)年には平民も苗字を名乗ることが許され、華族・士族との結婚が許可されたほか、職業選択や移転の自由も認められるようになりました。
さらに明治4(1871)年には身分解放令が出され、従来の差別的な呼称をなくし、平民と同じ扱いにしました。
こうして我が国で「四民平等」が実現しましたが、武士ではなく「士族」となったことが、廃藩置県や徴兵令と相まって、俸禄などの武士の特権を奪いやすくする流れをもたらしたのです。





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ぴーち こんばんは!
四民平等になった時から
職種も自由に選択出来る様に
なったのですか!
考えてみれば、この当時の人々に
とっては、天と地がひっくり返る
程の改革だったのでは無いかと思いました^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうですね。
実際には江戸時代の身分制後も、建前的なところがあったんですが、それが晴れて公認された効果は大きかったと思います。
これらの禄を合わせて秩禄(ちつろく)といいましたが、その支出額は国の歳出の約30%を占めており、先述のとおり、政府にとって大きな負担になっていました。
また、明治6(1873)年には徴兵令が定められたことで、士族とは無関係で兵力を確保できる見通しが立つようになったことから、政府は同じ明治6年に、希望者に対して秩禄の支給を停止する代わりに、一時金を支払う秩禄奉還の法を定めました。
現代でいえば、早期の希望退職者の募集に相当するこの制度によって、全士族の約3分の1の秩禄が整理されました。





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ぴーち こんばんは!
政府も対価を支払う事に対して
苦労した様ですね(^^ゞ
尤も、早期退職希望届けを出して
早期に退職金を受け取って
後で算出してみたら、定年まで
働いた後の退職金よりも少なくて
がっかりさせられたなんて言う話も
耳にしたことが有りますが・・(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 尤も、早期退職希望届けを出して
> 早期に退職金を受け取って
> 後で算出してみたら、定年まで
> 働いた後の退職金よりも少なくて
> がっかりさせられたなんて言う話も
> 耳にしたことが有りますが・・(^^ゞ
現代でもそういう話はよく聞きますね。
ただ、今回の場合はここで受け取った方が良かったんですよ。
なぜなら…。
秩禄処分によって、年間の5倍から14倍の額となる金禄公債証書が支給者に発行されましたが、5年間は現金化が禁止されたうえに、それ以後に証書が満期を迎えた後も、抽選に外れれば現金化できないという仕組みになっていました。
しかも、現金化が可能となるまでは年間の利息分しか支給されず、華族などの高禄者が投資などで生計を立てることが可能だった一方で、生活できない額の利息しかもらえなかった、多くの士族が困窮(こんきゅう)するようになってしまいました。
利息だけでは生活できない士族たちは、官吏や巡査、あるいは教員などに転身した一方で、証書を手放して得た一時金で慣れない商売に手を出したものの、いわゆる「士族の商法」で失敗する者があとを絶ちませんでした。





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ぴーち こんばんは!
これは士族にとっては
死活問題ですね(´・ω・`)
背に腹変えられなくなった者達が
反乱を企てても可怪しくない状況にも
思えました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 背に腹変えられなくなった者達が
> 反乱を企てても可怪しくない状況にも
> 思えました。
そのとおりです。これも歴史の流れなんですよね。
詳しくは次回以降の更新をご覧ください。
また、これとは別に秩禄処分と同じ明治9(1876)年に、士族の帯刀を禁じる廃刀令が出されており、二重の意味でそれまでの特権を奪われた士族の憤激は、次第に強くなっていきました。
こうした流れに加えて、急進的な近代化にこだわるあまり、日本の伝統を粗末に扱おうとした当時の明治政府への、日本精神からの異議申し立てという一面もあったことで、国内において「士族の反乱」が相次いで起きるようになりました。
その最たるものが、明治10(1877)年に西郷隆盛(さいごうたかもり)を中心として起きた西南の役(=西南戦争)ですが、半年以上にわたる激しい戦いに政府軍が勝利したことで、我が国の歴史が大きく動くことになりました。





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ぴーち こんばんは!
やはりこういうお話を伺うと
政府に楯突いてもどうしても勝ち目が無い
庶民の遣る瀬無さが
なんとも遺憾に思います(T_T)
やはり時代の潮流には逆らえない
のですかね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、仰る一面は確かにありますね。
これも冷静な歴史の流れでもあります。
一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。
逆に、政府軍に敗れた士族たちは、自分たちが持つ武力では政府を倒せないことを嫌でも思い知らされる結果となりました。西南の役の後、士族たちは反乱をあきらめるかわりに、言論の世界で政府に対抗するようになりました。
すなわち、我が国で自由民権運動が本格化する大きな理由となったのです。





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ぴーち こんばんは!
そうですか・・
武力で勝てなければ、言論で打ち負かそうと
した訳ですね!
確かに腕力で敵わなければ、知力や言葉で
相手を負かそうと思うものですし、
人間の考えることなどは
昔も今も変わりは無いですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
今回の場合は平和的な対決となり、我が国でその後内乱らしい内乱がなくなったのは良いことだったと思います。
中央集権体制を構築すると同時に、士族の俸給を廃止したい明治政府
↓
しかし、藩主の持つ「領地」「領民」「政治の実権」をすべて奪えば反発も大きい
↓
まずは「版籍奉還」で「領地」と「領民」を取り上げ、旧藩主を知藩事とする
↓
その2年後に廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立
↓
武士の俸給を政府が肩代わりするが、早く廃止したい
↓
しかし、我が国の軍事力を支えた武士をいきなり路頭に迷わせば、諸外国の侵略を招く
↓
国民皆兵をめざして徴兵令を発布し、20歳以上の男性に兵役義務を課す
↓
(続く)





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ぴーち こんばんは!
士族の問題は、それまで
日本においての役割が大きかったでしょうから、
制度が変わったからといきなり下に置く訳にも
いかずに、政府が慎重に対応していった様子を
良く理解させて頂きました。
有難うございますm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 今回のように時系列にまとめると分かりやすいですよね。
政府による施策が行き当たりばったりではなく、実に巧妙だったかということです。
その一方で「四民平等」を実現させ、「士族」となった旧武士の特権を奪いやすくする
↓
ますは秩禄奉還の法で希望退職を募(つの)る
↓
徴兵令から3年が経ち、政府が自前で育てた軍隊が編成される
↓
政府が秩禄処分と廃刀令を断行し、「士族の受難」となる
↓
不満に思った士族が政府に反乱を起こすが、民間から徴兵した軍隊に敗れる
↓
士族は武力による抵抗をあきらめ、言論の世界で政府と対決する
↓
自由民権運動が本格化する
以上のとおり、大きな歴史の流れをたどることで、廃藩置県から自由民権運動までを分かりやすく理解できるんですよね。
当ブログでは、今後も機会があれば、授業研究に基づいた記事の更新を続けてまいりますので、よろしくお願いいたします。





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ぴーち こんばんは!
確かにこうして時系列で書かれていると
理解度が深まりますね!
結局、廃藩置県から自由民権運動までの道のりは
5年を要したわけですかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
仰るとおり、時系列で振り返ると分かりや牛ですし、5年の流れが良く見えてきますよね。