そんな折の元文元(1736)年10月に近衛家熙(このえいえひろ)が死去すると、桜町天皇(さくらまちてんのう)の側近で、霊元法皇との関係が深かった一条兼香(いちじょうかねよし)が関白となり、朝廷内で大きな影響力を持つようになりました。
また、これより以前に、幕府は水戸藩が編纂(へんさん)した「大日本史」の出版許可を朝廷に願い出ていましたが、朝廷側の審査役だった大納言の一条兼香は、南北朝問題(「大日本史」では正当な皇統を南朝としましたが、実際の皇統は北朝だったこと)もあって、享保16(1731)年に出版を不許可としました。
にもかかわらず、幕府は朝廷の意向を無視して享保19(1734)年に大日本史を強引に出版してしまいました。顔を潰された格好になった兼香は激怒し、さらにはその兼香が朝廷で権力を持つようになったことで、朝廷と幕府には大きな溝ができてしまいました。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は3月4日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
確かに普段から何となく
気に入らないと思っている相手に
対しては、一触即発的な出来事が
起こったりした時には、ここぞとばかりに
その不満を爆発させる結果となりますよね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに普段から何となく
> 気に入らないと思っている相手に
> 対しては、一触即発的な出来事が
> 起こったりした時には、ここぞとばかりに
> その不満を爆発させる結果となりますよね(^_^;)
残念ながら仰るとおりですよね。
そんな時に、不幸にも両者の争いに巻き込まれてしまう人もいます。
宗春公の場合はどうだったのでしょうか…。
加えて、幕府が享保の改革で緊縮財政を続ける一方で、規制緩和を行うと同時に幕府の政策を先読みして安定した藩政を続ける尾張藩に対して、吉宗本人はともかく、彼を支えた老中の松平乗邑(まつだいらのりさと)は「尾張藩を放っておいては幕府の威信にかかわる」と敵視するようになっていました。
そんな中、ついに元文3(1738)年5月に、尾張藩家老の竹腰正武(たけのこしまさたけ)をはじめとする国元の藩重臣によって、宗春の藩主時代の命令をすべて無効とし、宗春藩主就任前の状態に戻すというクーデターを起こされてしまったのです。
クーデターによって動きを封じられた宗春に対し、幕府は翌元文4(1739)年1月12日に尾張藩の家老を呼び出し、領内の乱れを理由として、宗春に隠居謹慎を命じました。
後継には御連枝で高須藩主の松平義淳(まつだいらよしあつ)が選ばれましたが、その相続は「幕府が一旦(いったん)尾張藩を召し上げた上で、改めて義淳改め徳川宗勝(とくがわむねかつ)に下す」という形式で行われました。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は3月4日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
私は「将棋」や「碁」と行ったゲームには全くご縁が無かったのでルールも何も存じませんが、
このお話を聞いていると、昔の日本というのは
血脈を一番に重んじていて、国を治める為には
まずは自分の子孫をより多く残し、親族関係を
広めていく事こそが勝利の秘訣だったのですね。
まるで碁盤の目の上で起きているかの様なお話に
聞こえました。
きっと大きな野望を描いている人と言うのは、
頭のなかで攻め方を図式化して、編み出された方法に従って
戦略を企てているんでしょうね。。(自分はそう言うことに長けていない人間なので良くは分かりませんがw)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
宗春公の場合も、大仕掛けの戦略から逃れられずに、いきなり隠居させられたと言うべきでしょうか…。
ところが、最近の研究によって、本当の黒幕は吉宗ではなく、当時の幕政を実際に動かしていた松平乗邑(まつだいらのりさと)が、尾張藩の「お家の安泰」を第一に考えていた竹腰らをそそのかしたのではないか、と考えられているようです。
なぜなら、宗春の実力を高く評価して、尾張藩主の地位にまで引き上げたのは吉宗本人であり、また宗春隠居の背景には、乗邑による尾張藩への警戒と、当時の朝廷と幕府の確執とが深くかかわっている可能性があるからです。
また、吉宗は宗春が隠居させられる直前から、恒例の行事を代理人に任せて奥に引き篭(こも)りましたが、この背景には、自分が目をかけてきた宗春が、様々なしがらみから謹慎させられるのを直視できなかったか、あるいは自分の意に反して宗春に隠居の処分が下されることに対する「無言の抗議」であったとは考えられないでしょうか。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は3月4日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
確かに
世間の動向に疎くなってくると
(現在で言うと、余りニュースを見ないとか、
新聞を一社だけのものしか読まないので
偏った考え方になってしまうとか)
直ぐ側に付いている人の言葉に
耳を貸し、それを本当の事だと深く信じてしまう
ものかも知れません。またそれも
人間の愚かさでも有りますよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、洗脳は恐ろしいですね。
昨今ほどメディア・リテラシーが求められることはないと思います。
オバrev トップに立つ人の器の大きさを考えると、新説の方が納得出来ます。
吉宗と宗春、手法は違えど、国を良くしようとする志は同じだったからかもしれない。
オバrevさんへ
黒田裕樹 私もそう思います。
今回、第7回歴史講座を欠番扱いにして、新たに書き加えた理由でもあります。
しかし、屋敷の敷地は約4,600坪の広さがあり、宗春はここで焼き物を作ったり、書画を描いたりするなど悠々自適(ゆうゆうじてき)な生活を送った後、明和(めいわ)元(1764)年10月8日に69歳で亡くなりました。
なお、宗春の墓石には長いあいだ金網がかぶせられていたとされてきましたが、それは単なる噂に過ぎず、実際にはなかったということです。もっとも、幕府に遠慮したためか、宗春の謹慎は彼の死後も続けられ、没後75年が経った天保(てんぽう)10(1839)年になってようやく宗春の名誉が回復し、従二位大納言(じゅにいだいなごん)が追贈されました。
宗春の官位追贈によって、彼の墓碑(ぼひ)がつくり直されましたが、それが現在も残る宗春の墓です。なお、この墓碑は第二次世界大戦の空襲によって一部が焼けて欠損しましたが、関係者の努力によって平成22(2010)年に修復されました。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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※下記の映像は3月4日までの掲載分をまとめたものです。





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宗春の後継となった徳川宗勝は、先々代藩主の継友時代の法令を復活させ、質素倹約を奨励したため、名古屋の街は火が消えたような寂しさとなりました。
しかし、宗春による大胆な規制緩和と大幅な財政政策は、その後の幕府政治へと引き継がれていったのです。
延享(えんきょう)2(1745)年、吉宗は将軍職を子の徳川家重に譲って大御所となると、かつて宗春を謹慎へと追い込んだ松平乗邑が、家重によって老中職を罷免(ひめん)されました。
元文の小判改鋳によって財政を回復させた幕府でしたが、これは江戸南町奉行の大岡忠相(おおおかただすけ)による再三の献策によって実現したものであり、老中の松平乗邑は最後まで反対していました。改鋳による金融緩和の後、乗邑は農民からの租税回収を強化したため、先述したとおり、吉宗の政権末期には天領を中心に各地で一揆が頻発(ひんぱつ)していたことから、その責任を乗邑が取らされたかたちとなったのです。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は3月4日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
私は名古屋には一度キリしか出かけた事が
有りませんが、
パチンコ店などの風俗営業施設
が多く立ち並んでいた印象だけが有りました(^_^;)
こうした大元は、もしかしたら
この頃の繁栄が人々の気質として
残されて現在に至っているのかしら。。なんて思ってしまいました(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、そういう一面もありそうですね(^^ゞ
文化は様々なものをもたらしますが、その中でも「ものづくり」は素晴らしいですよ。詳しくは次の最終回にて。
宗春が亡くなった明和元(1764)年の頃には、幕府による規制緩和政策が徐々に成果を上げていましたから、宗春の最晩年になって、ようやく時代が彼に追いついたことになります。なお、この後のいわゆる「田沼時代」は幕府の財政が豊かになると同時に、平賀源内(ひらがげんない)や杉田玄白(すぎたげんぱく)、あるいは与謝蕪村(よさぶそん)らによって華やかな文化も栄えました。
宗春による政治は決して間違ってはいなかったのです。いや、それどころか彼が行った大胆な規制緩和と大幅な財政政策は、20世紀の経済学者であるケインズより200年近くも早いという先見の明があり、また彼がもたらした名古屋の繁栄と成熟した文化は、名古屋における結婚式の派手さや、その技術力の高さが「ものづくりの伝統」として、戦前の豊田織機(しょっき)やその後のトヨタ自動車にもつながったと考えられています。
地元の名古屋では愛され続けてきたものの、全国的には不遇な扱いを受けてきたと言わざるを得ない徳川宗春ですが、彼の真実の姿を明らかにするとともに、我が国で長く続いてきたデフレーションによる不況から本当の意味で脱出するためにも、今こそ宗春の政策に学ぶべきではないでしょうか。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は3月4日までの掲載分をまとめたものです。
(※第52回歴史講座の内容はこれで終了です)





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ぴーち こんばんは!
世の中には先見の明をお持ちの方は
沢山いらっしゃると思いますが、
誰よりもいち早く行動を起こし、それを実行して
行こうとなると、並々ならぬ努力と
命を掛けて貫き通すという気概が
なければ達成出来ない事ですので、
思いはあっても、その膨大な苦労の前に
人はどうしても立ちすくんでしまいがちです。
しかし、人になんと言われようと、どんな壁が
立ちはだかろうと怯まず、自分の意思を
貫けた人物、それが本当の先見の明のある
人物として崇められるのでしょうね。
なかなかそこまで捨て身になれる人物は
居ないという事ですかね・・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思いますし、それができる人物こそ指導者や政治家に相応しいのでしょうね。