しかし、いくら街が賑わっても、治安が悪くてはどうしようもありません。そこで、宗春は名古屋の町中に行灯(あんどん)をかけ、夜でも安心して歩けるようにしました。それまでの名古屋では真っ暗になった夜に女性や子供が乱暴されることが多かったのですが、そうした悲劇を未然に防ごうとしたのです。
宗春による「女性に優しい施策」は、遊郭(ゆうかく)の設置を公認させました。一見逆行するようですが、性への欲望を遊郭で満たすことによって、武家や商家で女中に手を付けるといった行為を防ぐ役割を果たしました。
また、当時の遊郭は、男性ばかりでなく様々な人々が出入りした歓楽街でもあり、文化の最前線でもありました。遊郭が賑わうことによって物の売り買いが増え、その結果として経済面での潤(うるお)いが領内に行き渡るという効果ももたらしたのです。
また、宗春の施策は地元ばかりでなく江戸にも及び、享保17(1732)年に参勤交代で江戸へ下った際、端午(たんご)の節句の5月5日に、再建したばかりの尾張藩上屋敷(かみやしき)の市谷邸(いちがやてい)において、藩祖(はんそ)の義直(よしなお)が家康から拝領した幟旗(のぼりばた)や、菖蒲(しょうぶ)で飾られた甲冑(かっちゅう)などを見てもらうために、江戸の町民を招き入れました。
大名の上屋敷を町民に開放することはもちろん前代未聞のことであり、吉宗の倹約令で沈滞(ちんたい)していた江戸の町民も、この日ばかりは大いに盛り上がったそうです。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は2月27日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
まあ、確かに
人間も動物ですので
他人の目が行き届かなくなった途端に
理性を何処かに置き忘れてしまう
人も多いでしょうね(^_^;)
本能のままになせる行動を
無理矢理に封じ込めるのではなく
ある程度、何処かで発散させてあげる
事でそれ以上の被害を最小限に留まらせようと言う
考え方は道理に適ったものだと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
女性のぴーちさんにご理解いただけたことを、男性の一人として感謝いたします。
鉄ちゃん爺や 黒田 初めまして~♪
私も大阪在住の黒田と申します。
鉄道と日本歴史が大好きな年金生活者ですけど。
私のブログも鉄道や日本歴史が多く登場します。
お気に入り登録をさせて頂き閲覧させていただきますので宜しく。
鉄ちゃん爺や 黒田さんへ
黒田裕樹 はじめまして、拙ブログへのご訪問並びにお言葉有難うございます。
同じ大阪の同じ名前同士のご縁で、今後ともよろしくお願いいたします。
1.国元ならともかく、江戸においても遊興にふけっている
2.嫡子の初節句の時、江戸藩邸にみだりに町人たちを呼び入れた
3.倹約令を守っていない
これに対し、宗春はごもっともとして受けいれながらも、以下のように反論したと伝えられています。
1.他の大名のように江戸では倹約するふりをしながら、国元で遊興にふけるような行動は取れない
2.節句祭りを町人に見せてはいけないという禁令など聞いたことがない
3.自分は他の大名のように庶民に重税を課すような政策はとっていない
いかにも宗春らしい反論と言えそうですが、時系列的な検証などによって、最近ではこの「三箇条の詰問」は後の創作ではないかとも考えられています。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は2月27日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
時系列的ですか・・
確かに尤もらしくアレンジされることは
これまでにも沢山事例はあったのでしょうからね。
真相はどうだったんでしょうかね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ここでは詳しく書けませんが、初節句の時期などを考慮すると、つじつまが合わないことが多いんですよね。
後世の創作が疑わしいのは、宗春公があからさまに幕府に逆らった形跡がないからでもあります。
例えば、宗春は享保20(1735)年に江戸並びに尾張在住の藩士に対して遊興徘徊(はいかい)と博打(ばくち)を禁止しましたが、その後、同じ年に幕府が大名や旗本に対して同様の命令を出しました。つまり、宗春は幕府からのいきなりの禁令で藩士たちが慌(あわ)てないように先んじて命令したのであり、庶民の楽しみを奪うような根本的な方針転換ではなかったのです。
また、翌享保21(1736)年には、藩内に3ヵ所あった遊郭のうち、最も高級な西小路の1ヵ所に統合したほか、新たな芝居小屋の造営を禁止しました。さらに元文(げんぶん)2(1737)年には名古屋と岐阜の城下に4,000両、続いて領内の村にも4,000両の借り上げを申し付けています。
宗春によるこれらの施策は、それまでの規制緩和政策を後退させるものであり、特に8,000両の借り上げは景気を悪化させると同時に庶民の恨みを買ったと一般的に判断されているようですが、これらも幕府の動きを事前に察知した、宗春による方針の転換でした。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は2月27日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど、普通の人間は何事も
つい目先の出来事だけに
囚われてしまいがちですが、宗春氏は
大局観という恵まれた才能を発揮していた訳ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
ただ、たぐいまれな才能を持つ人物に対する世間の風当たりはいつも冷たく、宗春公もその例外でなかったことが残念ですね…。
当時は享保の改革による緊縮政策が経済停滞を生んでおり、デフレーションが深刻になっていましたから、幕府にとってインフレは歓迎すべき事態ではありました。しかし、宗春の大胆な規制緩和によって既にインフレが進行していた尾張藩にとっては、貨幣の改鋳はハイパーインフレにもなりかねない危険な状況だったのです。
そこで、宗春は遊郭を統合したり、新たな芝居小屋の造営を禁止したりするなど、遊興施設を整理することによって、施設全体がインフレの影響を受けることを防ぐと同時に、藩内の領民からお金を借り入れることで尾張藩内の貨幣の流通を抑え、インフレが悪化するのを回避したのです。
宗春による様々な施策は、大胆な規制緩和によって「名古屋の繁華(はんか)に京(=興)がさめた」と言われたほど、城下町の名古屋に空前の繁栄をもたらすとともに、自著の「温知政要」に記されたとおりの「他者を温かくいつくしみ、自らは広く寛容な心で忍ぶ」という仁政を常としていました。
ところが、宗春による政策の「大成功」や、さらには宗春個人ではどうすることもできなかった「幕府と朝廷との確執(かくしつ)」が、彼を隠居へと追い込む原因となってしまったのです。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は2月27日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そうですか・・
人間、たった一人でもこの世の中に
多大な影響を与える事も出来ますが、
逆にたった一人の力ではどうしても限界を
感じざるを得ない場面も多いですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
成功者に対する妬みやひがみ、あるいは藩全体の運命など、どうすることもできないこともありますからね。