尾張藩主の子として生まれた萬五郎でしたが、幼い頃には中級あるいは下級武士とも積極的に交流するなど、庶民感覚を身につけたそうです。この辺りは、同じく藩主の子として生まれながら、家臣の子として育てられた徳川吉宗と似通っていますね。
宝永(ほうえい)5(1708)年11月、萬五郎は兄で4代藩主の徳川吉通(とくがわよしみち)より偏諱(へんき)を受け、通春(みちはる)と名乗りました。なお、吉通は奥で夕食をする際には、必ず共に居させたほど、末弟の通春を可愛がったそうです。
しかし、その後の尾張藩は、先述のとおり吉通が正徳3(1713)年7月に25歳で急死すると、同年10月にはその跡を継いだ吉通の子の五郎太(ごろうた)がわずか3歳で亡くなるなど不幸が相次ぎました。尾張藩主の地位は通春の兄の通顕(みちあきら)が継友(つぐとも)と改名して継承し、6代藩主となりました。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は2月23日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
20男ですか!!
尤も、一人の母親からではなく、異母兄弟がたくさんいる中での20番目となるのでしょうけれどね(^_^;)
昔は本当に若くして急死される方が多かったですね・・。そう言う人間の寿命の儚さを考慮したからこそ、子孫を一人でも多く残す必要に駆られたのでしょうけれどね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、当時の大名にとっては、血統を残すためにたくさんの子をつくることが求められていました。
そのうえ、乳幼児の死亡率が高かったので、このようなことになったのです。
以後の通春は、享保6(1721)年には吉宗が自ら鷹狩で得た雁(がん)を通春に下げ渡したり、さらには享保14(1729)年に尾張藩の御連枝(ごれんし)、すなわち支藩の梁川藩(やながわはん)が断絶すると、同じ年に吉宗自らの命令で通春が藩の再興を任じられたりするなど、吉宗から大いに目をかけられました。
かくして部屋住みの身から梁川藩3万石の大名となり、同時に従四位下侍従(じゅしいのげじじゅう)に任官して幕閣と同格になった通春は、その年に領地の米の不作が伝えられると、年貢を減じて餓死者を出さなかったり、庶民が困っていた慣例や過剰な税をやめさせたりと、わずか1年数ヵ月の治世であったものの善政を敷きました。
通春は梁川に入ることは一度もありませんでしたが、藩主を退いた後も、梁川との交流が続いたと伝えられています。
さて、本来ならば御連枝の藩主として生涯を終えるはずだった通春に、人生を一変させる大きな出来事が起きました。享保15(1730)年11月に、兄で尾張藩6代藩主の徳川継友が39歳で亡くなったのです。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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※下記の映像は2月23日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
通春と言う方は、若い時から
先見の明があった人物だった様ですね。
順風満帆に見えた人生にも何やら
大きな決断を迫られる場面に遭遇したようですが・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、先見の明があったと思われます。
今後の通春の人生がどうなっていくのかは、ぜひ次回以降の更新をご覧ください。

継友には子はおろか養嗣子(ようしし)すらいなかったことから、3人の御連枝の中から後継者を選ぶことになりました。長幼の序を優先するならば、通春の兄である美濃高須藩(みのたかすはん)の松平義孝(まつだいらよしたか)が本家を継ぐはずでした。
しかし、将軍家から「継友の遺言」という名目で、実際には吉宗の計らいによって、通春が尾張藩を相続することになったのです。かくして、藩主の二十男で長年の部屋住みを経験した松平通春が、吉宗の偏諱(へんき)を受けて「宗春」と名乗り、将軍家の次に権威のある御三家尾張62万石の大大名となりました。時に宗春、35歳の男盛りでした。
さて、宗春が尾張藩主になった当時は、先述のとおり将軍吉宗による享保の改革が行われており、財政難に苦しむ幕府財政の立て直しの真っ最中でした。
吉宗は支出を抑えるために厳しい倹約令を出しましたが、これを庶民にも強要したことによって、行き過ぎた緊縮政策が人々の消費を冷え込ませたことから景気が悪化しており、それは宗春以前の尾張藩でも例外ではなく、お膝元の名古屋は火の消えたような寂しさが漂っていました。
そんな尾張の人々の度肝(どぎも)を抜いたのが、宗春の藩主としての初のお国入りでした。大名行列において、宗春は鼈甲(べっこう)をあしらった唐人帽(とうじんぼう)をかぶり、衣装は足袋に至るまですべて黒で統一させ、衣装の襟(えり)や袖(そで)には金糸(きんし)が縫(ぬ)い付けられ、漆黒(しっこく)の馬にまたがった宗春の姿を見た庶民は、新しい藩主に大いに期待するようになり、また宗春も彼らの期待に応えた様々な施策(しさく)を実行することになるのです。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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※下記の映像は2月23日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
35歳、男盛りと有りましたが、
現代の感覚に照準を合わせた表現なのでしょうか・・?
それとも、人生50年と言われていたであろう
その時代での35歳でも
当時は男盛りと言われた年齢だったのでしょうか?
それと、確かに人の身なりと言うのは
大切ですよね。見た目で判断することなかれと
言いますが、一瞬にして相手に信用や信頼性を
与える手段としては一番適した方法でも
有りますものね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 人生50年の時代でも、35歳は男盛りですね。一番力が入る時期だと思います。
相手に信用させるには、あえて派手にふるまうことも必要ですね。
第一条 大きな愛と広い寛容の心で仁徳ある政を
第二条 愛に敵なし 権現様(=徳川家康)のように仁者であれ
第三条 冤罪(えんざい)は国の恥 罪科はとことん調べつくせ
第四条 継続は力なり 私欲に走らず、志を最後まで
第五条 学問の第一は愛情 小賢(こざか)しい学問より自分自身に正しくあれ
第六条 適材適所 どんなものにもそれぞれの能力がある
第七条 好きこそものの上手なれ 他の者の心情を察するように
第八条 規制は必要最小限で良い 法令は少ないほど守ることができる
第九条 お金は活かして使え 過度な倹約省略はかえって無益になる
第十条 生かすも殺すも庶民の知恵 押し付けではなくまずは仲良く
第十一条 ストレスなしが養生一番 怠(なま)けなければ心身ともに健康である
第十二条 芸能は庶民の栄養 見世物や茶店などを許可する
第十三条 先達(せんだち)はあらまほしきこと(=何事にもその道の先生や指導者はいてほしいものである、という意味。「徒然草」で有名な一文) どんなことでも事情通であれ
第十四条 芸道は偉大 あらゆる芸事を数年で身につくとは思わぬように
第十五条 若者への諫言(かんげん)には若気の至りをもって 異なる意見は相手の年齢を考えて
第十六条 失敗は発明の母 大器量の者でも若い頃は羽目を外すことはある
第十七条 人の命は金では買えない 生命は尊く、常日頃の用心が肝要
第十八条 何事も庶民目線で 世間の事情によく通じ深い愛情を示せ
第十九条 天下の政治は緩急自在で 国の改革はゆっくりと普段の用件は速やかに
第二十条 改革は文殊の知恵で 自分ひとりではなく良き補佐が大切
第二十一条 「まぁええがゃぁ」が臣下に対する主君の心得 古参新参・男女等を問わず平等に深く愛情を示せ
(※「名古屋叢書(なごやそうしょ)」第一巻所収)
「温知政要」の中には「過度な倹約省略はかえって無益になる」など、吉宗の倹約令に対する批判めいた内容もありますが、概(おおむ)ねは現代にも通じるものであり、これらを守ろうとした宗春の政治力や実行力の高さを鑑(かんが)みれば、彼の治世における名古屋の繁栄は「さもありなん」と自然に思えますよね。
では、宗春が行った政策は具体的にはどのようなものだったのでしょうか。そのあらましをいくつか紹介していきましょう。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は2月23日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
私も最近少しばかり倹約が過ぎている気がしていましたので、耳の痛い話ですが、
仰るとおり、「生きたお金」の使い方が出来るのなら
大いに使うべきだと思いますね。。
それと第八条についても、現代社会を戒める言葉としては通用するものだと思いました。
あまりに規制、規制の世の中だと返って
犯罪は増えて行く気がしてなりません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私も仰るとおりだと思います。
宗春公の「温知政要」の精神は、現代においても大いに見習うべきです。