家康自身は決して商行為を嫌っているわけではなく、江戸幕府成立直後には海外との貿易を積極的に考えていたほどの重商主義者でしたが、朱子学が広まるにつれて、幕府の政策は次第に商業に対して否定的な路線を進むようになってしまいました。
そもそも儒教の世界において、商行為には生産性が全くないうえに「100円の価値しかないものを120円で売る」という行為自体が「卑(いや)しい」と見なされ、道徳的に認められていませんでした。
江戸幕府の政策において、商業は「悪」とみなされていると言っても過言ではなく、商人がどれだけ利益を上げても、彼らから所得税や法人税を集めるという発想自体がありませんでした。もちろん吉宗もその例外ではなかったのです。
このような組織が政治の実権を握った場合には、現代では当然のごとく重要視されている経済政策が全く考慮されなくなります。それゆえに、吉宗による享保の改革も、経済問題に関しては迷走を続けることになるのでした。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は2月19日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
江戸時代に士農工商と言う階級制度を設けた理由がここに有る訳ですかね・・・。
確かに、今でも商売人と言う言葉の裏には
何処か蔑んだ思いが込められている
気が致しますものね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 商業蔑視の風潮が身分制度にあったのは間違いないでしょう。
言葉の端々に込められているのもうなずけます。
吉宗の政策の代名詞となっている倹約令ですが、財政の支出を抑えるために、政府が倹約することは決して悪くはありません。しかし、倹約そのものを国民にも強要することは、経済政策として間違っているのです。なぜそう言えるのでしょうか。
現代でもそうですが、国民の中には収入が多い人々も少なくありません。彼らがぜいたく品などを買い求めたり、カルチャーセンターに通ったりすることによって経済が活性化し、結果として文化が広がっていくのです。徳川綱吉の時代に、減税によって人々の暮らしに余裕が生まれ、多くの人々が遊びを求めた結果、そのニーズに応えて元禄(げんろく)文化が生まれ、栄えたのが何よりの証拠です。
しかし、吉宗は結果として倹約令を国民にも「押し付けた」かたちになりました。倹約ばかりでは消費が冷え込み、景気が悪化するばかりでなく、人々の心にも余裕が生まれず、結果として文化も栄えません。綱吉の時代の元禄文化に対して、吉宗の時代には「享保文化」と呼ばれるものはついに誕生しませんでした。
吉宗の倹約令は、庶民の消費欲を奪い、広まるべき文化の芽を摘(つ)み取ってしまったのですが、農民の生活はそれ以上に苦しめられていました。なぜそんなことになってしまったのでしょうか。実は、ここにも「儒教と商行為」の問題が見え隠れしているのです。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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※下記の映像は2月19日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
お誕生日、おめでとうございます!!
これからもブログ、講座ともに益々のご発展を
お祈りしております(*^_^*)
確かに倹約だけでは経済が冷えきってしまいますものね。余り徹底し過ぎても良くないものですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 誕生日へのお祝いのお言葉有難うございます。
今後ともよろしくお願いいたします。
仰るとおり、倹約を庶民にまで押しつけては消費が冷え込むばかりですよね。
本文中にもあるように、吉宗の時代に「享保文化」が存在しなかったのが何よりの証拠です。
オバrev 黒田先生、お誕生日おめでとうございます~(^O^)
47ですか、さすが若い!
まっ、私は万年25才ですけど(^_^;)
享保の改革と言えば、改革のお手本みたいに思ってましたが、経済的には違うんですね。
法律で雁字搦めに規制縛りにして、民間の自由を奪っている現代の官庁も同じに見えてしまう・・・(´ε`;)ウーン…
オバrevさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
オバrevさんの若さを私も見習いたいです(^ω^)
確かに現代に通じるところがあるかもしれませんね。
特に雁字搦めと言うところが…。
幕府の財政を支えていた米であっても、その実体は流通する商品のひとつに過ぎません。ということは、増産すればするほど米が余るようになり、供給量が増えることによって、結果として米の価格が下がり、財政も厳しくなってしまうという、全くの逆効果をもたらしてしまったのでした。
このような矛盾(むじゅん)が起きた理由の一つに、幕府が米を「神聖なもの」として扱う姿勢がありました。実は、幕府は「商品」の一つに過ぎない米を「通貨」扱いにしていたのです。これを石高制(こくだかせい)といい、江戸幕府の基本制度として、成立当初から続けられてきました。
もし米が「通貨」ならば、確かに増産すればするほど財政が潤(うるお)うはずなのですが、実際には「商品」として流通しているのですから、無理がありすぎるのです。この矛盾を解決するには、米を通貨扱いにする米本位制ともいえる石高制をやめて、生産される米の量を銭に換算するという、戦国時代までの貫高制(かんだかせい)に戻すのが一番良い方法でした。
つまり、武士にはそれまでの米の代わりに銭を支給し、綱吉の時代に元禄小判でそうしたように、政府が通貨量を調整して経済をコントロールする方式にすればよいのですが、商行為を敵視するあまりに、極端な重農主義に染まっていた吉宗には出来ない相談でした。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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※下記の映像は2月19日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
確かに一国の責任を担う者は
総合的かつ、客観的、冷静な判断で
常に物事を図っていく器量がなければ
務まらないのでしょうね。
吉宗は、少々偏見が強すぎたが故に
失策へ傾倒してしまったのですね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 残念ながら仰るとおりですね。
為政者はあらゆる事態に備えて、公平な目で政治を行ってほしいものです。
吉宗による重農主義の政策は、農民にとっても大きな苦しみとなりました。幕府からの命令で必死になって米を増産しても、結局価格が下がることで収入が減ってしまい、財政的に苦しくなった幕府からは増税を要求されて、ますます苦しくなっていくという、典型的な悪循環が続いたからです。
吉宗以前の治世では、幕府の直轄地である天領(てんりょう)では、一揆(いっき)らしい一揆がほとんど起こっていませんでした。それだけ農民の暮らしが安定していたからなのですが、吉宗の治世の後半になると、増税による苦しい負担に耐え切れず、一揆が多発するようになってしまいました。
ところで、皆さんは「ゴマの油と百姓は絞(しぼ)れば絞るほど出る」という言葉を聞いたことがありますか。農民に対する無慈悲(むじひ)な政策を象徴するような言葉ですが、いつの時代に言われたかご存知でしょうか。実はこれは、吉宗による享保の改革の末期の勘定奉行(かんじょうぶぎょう)である、神尾春央(かんおはるひで)の言葉なのです。
吉宗による享保の改革で、幕府の財政は立ち直り、多くの金銀と備蓄米(びちくまい)を手に入れることが出来たのは事実ですが、その背景には、こういった農民への重い負担があったのも悲しい現実でした。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は2月19日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そうですね・・
世の中、何処かで財政が潤う事と言う事は、また何処かでは枯渇する状態が有るという事ですものね。
今でも農産物は、たくさん出来すぎて飽和状態になると(こちらは自然の気候の変動の為)
価格が下がってしまい豊作貧乏などと揶揄されますね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
享保の改革は、成功の対象を見極めなければ、間違った歴史観を身につけてしまいます。
吉宗には成人した三人の男子がおり、このうち長男は徳川家重(とくがわいえしげ)として9代将軍となりましたが、残る兄弟である徳川宗武(とくがわむねたけ)と徳川宗尹(とくがわむねただ)、さらに家重の次男である徳川重好(とくがわしげよし)の三人によって、新たに将軍継承権を持つ御三卿(ごさんきょう)が設置されました。
御三卿にはそれぞれ10万石が与えられましたが、藩と違って独立した領地を持たず、江戸城内の屋敷に定住しました。やがて、それぞれの屋敷に最も近い城内の門の名前から、宗武は田安家(たやすけ)、宗尹は一橋家(ひとつばしけ)、重好は清水家(しみずけ)と呼ばれるようになりました。
御三卿は、将軍と従来の御三家(水戸・尾張・紀州)との縁が幕府創設当時に比べて疎遠(そえん、遠ざかって関係が薄くなること)になったので、現将軍である吉宗の血縁を新たに「血のセーフティーネット」にすることで、幕府の将来を万全なものにしようというものでした。
ちなみにこの後、11代将軍として一橋家から徳川家斉(とくがわいえなり)が就任するなど、御三卿は「血のセーフティーネット」としての役割を果たすことになります。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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ぴーち こんばんは!
御三卿というのは、御三家に対抗する意味合いで
名付けられたものなのでしょうか?
それとも、また違った意味合いが有るのでしょうか?
一橋家と言うのは、私も伺った事がありますが、
その他のお家の名前は初めて知りました(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 御三卿というのは、御三家に対抗する意味合いで
> 名付けられたものなのでしょうか?
> それとも、また違った意味合いが有るのでしょうか?
私も当初は対抗意識ではないかと思っていましたが、自身が御三家から来たということもあって、血統維持に人一倍気を遣っていたのが真相のようですね。
一橋家は将軍を養子を含めて二人出していますから、印象深いのもうなづけますね。
もっとも、農民に無理を強(し)いたことで幕府の財政は上向き、蔵(くら)の中には相当量の金銀や備蓄米が集まりましたから、いわゆる「幕府のための改革」としては成功したのかもしれません。
ところで、天領での一揆は吉宗の死後も治まる気配はなく、後を継いだ9代将軍の徳川家重も散々に悩まされました。そんな光景を静かな目で眺(なが)めていた、家重に若い頃から仕えていたある家臣は、吉宗による「重農主義」の政治の限界を実感していました。
その家臣は後に出世を重ねて、将軍の側用人と老中を兼任して政治の実権を握ると、過去の反省から「重商主義」に主眼を置いた政治に切り換えることによって、我が国に好景気をもたらし、その開明的な政策は、自主的な開国をもたらす一歩手前まで行きました。
その政治家の名前こそが、いわゆる「田沼時代」で有名な田沼意次(たぬまおきつぐ)であり、また彼が自身の政策に大いに参考にしたのが、今日の名古屋の繁栄の礎(いしずえ)となった、尾張藩主の徳川宗春だったのです。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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ぴーち こんばんは!
やはり農業従事者だけをターゲットに
したのが間違いだったのでしょうか?
有る特定の職業、階級層にのみ
税率負担を押し付けたりするのも、その
不公平感かた問題が
起こりますしね。
国民全て平等に負担を背負うのならまだしも。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに農民に偏重した税負担は不公平ですからね。
前任者の失敗の教訓を生かすとともに、柔軟な発想が国家を上向きにさせるのはいつの時代も同じです。