吉宗が将軍になった頃の幕府財政は、巨額の負債を抱えて破綻(はたん)寸前でした。紀州藩主に就任した頃よりもひどい有り様を目(ま)の当たりにした吉宗は、紀州藩の頃以上に財政改革に精を出すことになりました。
吉宗がまず取り組んだのは、やはり徹底した倹約令でした。収入が現状ではそれほど期待できない以上は、支出を抑えない限りは赤字が増える一方です。吉宗は、普段の着物は粗末な木綿(もめん)を使用し、食事も朝夕の二回のみで、献立も「一汁三菜」の質素なものにするなど、紀州藩主の頃と同様に、自らが先頭に立って倹約に励みました。
倹約令によって支出を抑え始めた吉宗が次に取り組んだのは、幕府財政の増収でした。享保7(1722)年、吉宗は諸大名に対して、参勤交代の江戸在府の期間を従来の一年から半年に短縮する代わりに、一定の米の量を幕府に献上させました。これを上米(あげまい)の制といいます。物価が高い江戸での生活を短くすることで、浮いた諸大名の経費を幕府に対して米で支払わせるという制度でした。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は2月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
我が家は負債こそ抱えてはいませんが
今にも崩壊しそうな勢いの中での商売なので
吉宗のこの方策は、非常に為になりますねぇ・・
φ(..)メモメモ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私も他人事ではないですね(´・ω・`)
吉宗公の当時の苦労がしのばれます。
収入というものは増やすだけではなく、一年にどれだけ得ることができるかという目安も重要でした。そのためには、耕地を広げるだけではなく、納めさせる税率も一定のものにしなければならないと考えた吉宗は、豊作や凶作にかかわらず、過去数年間の収穫高の平均から年貢率を一定にするという、定免法(じょうめんほう)を定めました。一方、一年の収穫高で年貢率が上下する旧来の制度のことは検見法(けみほう)と呼ばれています。
収入増に一定の道筋をつくった吉宗が次に考えたのは、優秀な人材を積極的に登用することでした。しかし、いくら優秀であっても、旧来の地位や身分を重視していては上手くいきません。そこで、たとえ身分が低くても、在職中の間だけ石高(こくだか、米で支給される武士の給料のこと)を増やすという足高(たしだか)の制を享保8(1723)年に施行(しこう)しました。この制度によって江戸南町奉行として採用されたのが、有名な大岡忠相(おおおかただすけ)です。
大岡忠相という優秀な政治家を得た吉宗が次に考えたのは、江戸の町をいかにして大火から防ぐか、ということでした。吉宗が将軍に就任する以前から、江戸はしばしば大火事に見舞われ、江戸全体のかなりの部分が焼け野原になったり、江戸城の天守閣が焼け落ちたりするなど、大火のたびに莫大(ばくだい)な出費を必要としていたのです。
吉宗は、江戸の町に詳しい町民に自身の住む町を守らせたほうが何かと効率が良いと考え、町火消(まちびけし)の制度をつくりました。その他にも、火事による類焼を食い止めるために広小路(ひろこうじ)と呼ばれる幅の広い道路をつくったり、防火用の空き地である火除地(ひよけち)をつくったりしました。また、それまでの江戸の家屋は板葺(いたぶ)きの屋根が多かったのですが、火の粉が飛んできたら無防備も同然だったため、瓦葺(かわらぶ)きに改良させていきました。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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ぴーち こんばんは!
現代社会は「格差社会」だとか言いますが、
日本の今の現実は階級社会に支配されています。
この頃の吉宗のこうした考え方はかなり斬新でしたね。
階級社会は、絶対に超えられない身分の違いを感じますが、能力に応じて登用されることは
新たな人材確保の一筋の光となった事でしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 世の中が変革を求められる際には、身分の上下など関係ないですからね。
後の改革の成功面を鑑みれば、大岡忠相の登用は大きかったと思います。
その一方で、目安箱に入れられた書状の中には、吉宗の政治に対して批判的な内容のものもありましたが、吉宗は投書した人物を処罰しませんでした。目安箱は、封建社会においては時として独裁政治になりがちな時代のなかで「お上(かみ)も過ちを犯すことがある」ことを事実上認めた、画期的な制度でもあったのです。
吉宗は、さらなる収益の活性化をめざして新しい産業を興そうと考えました。なかでも有名なのが甘藷(かんしょ)、いわゆるサツマイモの栽培でした。吉宗は、青木昆陽(あおきこんよう)に命じて薩摩(さつま)で従来生産されていた甘藷を江戸でも栽培させました。甘藷はやがて救荒作物(きゅうこうさくもつ、飢饉の際に役立つ作物のこと)として全国に広がったのですが、この背景には大きな教訓がありました。
実は、吉宗による治世の間に大凶作があったのです。享保17(1732)年に起きた享保の大飢饉(だいききん)によって、西日本を中心に多くの餓死者(がししゃ)が出ましたが、藩全体で甘藷を栽培していた薩摩藩では一人の犠牲者も出さなかったといわれており、吉宗もその事実に注目したのでした。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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ぴーち こんばんは!
家康もそう言えば、家臣などの意見を
取り入れた事でその地位を不動のものとした以前、黒田さんの記事からも伺った覚えが有りますが、
吉宗もその方法を取り入れたのでしょうかね?
それと、さつまいものお話も以前
されていたのを思い出しました♪
ぴーち すみません。
先ほどのコメントの一文ですが、
「以前」の前の言葉が抜けてしまった気がします。
という話を以前に・・と書いたつもりですので、
そこの所、適当な解釈をお願い致しますm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 吉宗公は家康を尊敬していたらしいですから、有り得る話だと思えますね。
サツマイモは、色々と役立つ食物ですね。私も好物です。
また吉宗は、当時ヨーロッパで我が国と唯一貿易を行っていたオランダの言葉であるオランダ語によって、西洋の学術や文化を研究した蘭学(らんがく)を積極的に導入しようとしました。この際に吉宗が蘭学を学ばせたのが、先述した青木昆陽と野呂元丈(のろげんじょう)です。吉宗の時代に種がまかれた西洋の知識により、世界の様子が少しずつ我が国に広まっていったことで、近い将来に開国のチャンスが生まれることになりました。
さらに吉宗は、幕府に殺到する訴訟への対策も考えました。享保4(1719)年に相対済(あいたいすま)し令が出されたことで、金銭の貸し借りによる争いを当事者で解決させるようにしたのです。ただし、この法令は借金を棒引きしたいわゆる「徳政令」とは違いますので、区別する必要があります。
吉宗の時代に行われた他の法令関係の事業では、江戸の治安を守るためとして、幕府による本格的な法典の導入を目的に、寛保(かんぽう)2(1742)年につくられた公事方御定書(くじがたおさだめがき)も有名です。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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ぴーち こんばんは!
色々と苦肉の策が練られたんですね。
公事方御定書。
確か歴史の授業で教えて貰った記憶が有りますが
吉宗の時代の出来事だったのですね←(この無関心ぶり、どうしようもないですね(^_^;)
改めてこうして伺ってみると、その前後の経緯が
分かり、有り難く思います。
さつまいもは、気分が塞ぎがちな冬場に食べると
気持ちが高揚すると言いますので、
黒田さんの場合、そう言う食材を摂ることで
いつでも元気ハツラツな状態をキープ出来ているのかも知れませんね(´∀`*)ウフフ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
サツマイモのパワーには確かに助けられますね(笑)。
それは「庶民の目線による政治」です。吉宗には、特に土地開発や都市対策において、庶民のためになる政治を行おうとする姿勢がうかがえますが、このことを可能にしたのは、やはり幼年期に家臣の子として育てられた影響が大きいと考えられるからです。
さて、吉宗が広めた風習で、現代にも残っており、盛んに行われているものがあるのですが、何だと思いますか。
それは花見です。我が国には昔から桜を愛(め)でる習慣がありましたが、それが一般庶民にまで広がり、現代のような「お花見」として定着したのは吉宗の時代からなのです。吉宗は、江戸の住民を地方に向かわせ、現地で消費させることを目的に、江戸近郊に次々と桜の植樹を行ったとされており、そのうちの一つは飛鳥山公園(あすかやまこうえん)として、21世紀の現代でも東京都北区の桜の名所として知られています。
ここまで紹介してきたように、吉宗による享保の改革には確かに善政の面が多かったことは事実であり、それに関しては何ら否定するものではありません。しかし、どんなに素晴らしい政策にも光と影があるものです。吉宗の治世は、決してバラ色だけの時代ではありませんでした。いや、むしろ農民にとっては非常に厳しかったかもしれません。
なぜそう言いきれるのでしょうか。カギを握るのは、現代の我が国にとって必要不可欠な「ある職業」に対する徹底した差別であり、またその差別を助長した「ある宗教」に由来する幕府の学問です。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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ぴーち こんばんは!
花見も吉宗の時からだったんですか!
勿論知りませんでしたので、勉強になりました。
そう言う雑学も学べる所が、黒田さんの歴史講座の
醍醐味ですね^^
然しながら、政治というものは
国民全部の要望を聞いて、それに沿うように
対応するということは、不可能に近いものだということは分かっているつもりですが、
吉宗の影の政策の部分はどんなものだったのか
気になりますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
どんな政策にも光と影があります。
影の部分の内容については、これからじっくりと検証します。