(カーン!!)
「う、上様(うえさま)…!」
このやり取りを聞いただけで、何のドラマかすぐに分かる人は今でも結構いらっしゃるのではないでしょうか。もちろん、20年以上にわたって続いた人気テレビ時代劇「暴れん坊将軍」の名場面であり、この名作のモデルとなった主人公こそが、今回紹介する江戸幕府の8代将軍である徳川吉宗(とくがわよしむね)です。
徳川吉宗は、上記の「暴れん坊将軍」の他にも、平成7(1995)年には大河ドラマの主人公となっており、現代においても人気の高い将軍で、享保(きょうほう)の改革を成しとげた「名君」として有名な人物でもあります。吉宗の改革には確かに庶民(しょみん)のための善政というイメージがあり、現実にそれらの類(たぐい)の政策が行われています。
この他にも、破綻(はたん、物事が行きづまること)しかけていた幕府の財政を立て直したことで、吉宗は「江戸幕府中興の祖」と称えられていますが、吉宗による政治は、本当に一般に考えられているような「非の打ち所のない」ものだったのでしょうか。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は2月8日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
今でも「吉宗」=松平健と認識してます(爆)
そうですね・・
確かに名声を誇る人物でも
裏では・・
光強ければ影も濃いなんて言いますが
きっと、良いことばかりではない気が致します。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今でも「吉宗」=松平健と認識してます(爆)
私もそうですね(笑)。放送が終わって随分経つんですが…。
> 光強ければ影も濃いなんて言いますが
> きっと、良いことばかりではない気が致します。
仰るとおりですね。
吉宗公については是々非々で評価する必要があります。
また、彼が行った政策が、享保の改革と真っ向から対立するものだったことから吉宗の不興を買い、治世10年にも満たずに無理やり隠居させられたばかりか、彼が死んだ後も墓に金網がかぶせられるなど、罪人の扱いを受けた「悲劇の大名」として知られています。
しかし、宗春は本当にこれらの「通説」どおりの人物だったのでしょうか。実は、彼が藩主時代に実行した大胆な規制緩和(きせいかんわ)と大幅な財政政策は、20世紀の経済学者ケインズを彷彿(ほうふつ)とさせる先見性に満ちたものであり、また彼の政治によって城下町の名古屋は大いに栄え、それが現代にもつながっているのです。
今回の講座では、徳川吉宗と徳川宗春に秘められた事実を探るとともに、吉宗による享保の改革の功罪や、宗春の治世における名古屋の繁栄ぶり、さらには彼が隠居に追い込まれた事情などについて詳しく紹介していきたいと思います。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は2月8日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
達観した様なコメントで恐縮ですが、
人間って、何処の国でもまたどの時代であっても
同じ様な考え方をするものですね(^_^;)
先日、大東亜戦争のお話でも有りましたが
アメリカさんが
日本の事を徹底的に悪者扱いすることで
自国がいかに正義であるかをアピールしていましたが、その
力が強い程、大衆はそれが正しいと信じてしまいますよね。
同じような現象がここでも起こっていたのかと
思うと、人間の浅ましさを感じます(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに今回の件は万国共通とも言えますね…。
だからこそ、吉宗公も宗春公も、真実をしっかりと見極めなければなりません。
従って、幕府の将軍になるような身分の高い人物は、世情に対してなじみが薄いように思われがちですが、吉宗はその例外でした。なぜなら、彼は建前のうえでは「捨て子」だったからです。
徳川吉宗は、徳川家の親藩(しんぱん)であり、御三家の一つでもあった紀州藩(きしゅうはん)の藩主・徳川光貞(とくがわみつさだ)の四男(ただし、兄弟のうち一人は幼い頃に亡くなっているので、事実上は三男)として、貞享(じょうきょう)元年10月21日(西暦1684年11月27日)に生まれました。
しかし、吉宗の母親の身分が低かったために、生後すぐに家臣の家に預けられました。先述の「捨て子」は、家臣に赤ん坊の吉宗を「拾わせる」ための儀式でもあったのです。無事に成長した吉宗は、やがて和歌山の城中に引き取られましたが、幼年期の「家臣の子」として育てられた様々な経験が、後の「善政」の面で役立つことになるのでした。
ちなみに、吉宗は生まれたばかりの頃は源六(げんろく)と名付けられ、その後に新之助(しんのすけ)と名乗りました。時代劇「暴れん坊将軍」で、吉宗が「徳田新之助」と偽名を使っている由来でもあります。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
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ぴーち こんばんは!
「お坊ちゃま育ち」と聞くと真っ先に安倍首相のことを
思い浮かべてしまうのは私だけなのでしょうか(^_^;)
確かに彼はお家柄からか品格と政治家たる資質には富んでおりますが、少々、庶民の気持ちには
疎い気がしてなりません。
外交面では確かに手腕を振るわれていますが、
国内情勢には厳しい一面が有りますね・(^_^;)
全てに万全という事にはなかなかいかないものですが。
話が反れてしまい、すみませんm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに安倍首相には「お坊ちゃま育ち」という印象がありますね。
伝え聞く話によれば、安倍首相は大学卒業後の数年間はサラリーマンの経験があり、結構優秀な成績だったそうです。また、身内の説得で議員秘書に転身した際は、サラリーマンをやめることを残念がっておられたとか。
もちろん、一般家庭に比べれば、首相が「お坊ちゃま育ち」であると言えることに変わりはないですが、その一方で申し上げたような事実もあるということですね。
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ところが、宝永(ほうえい)2(1705)年に父親や他の兄弟が相次いで死亡したため、結果として22歳の吉宗に藩主の座がめぐってきたのです。同年の暮れには、当時の5代将軍である徳川綱吉(とくがわつなよし)に拝謁(はいえつ、身分の高い人に面会すること)しましたが、吉宗の名はこの際に綱吉から与えられました。綱吉の名前の一部である「吉」を使用したのですが、このように身分の上位の人間が、下位の人間に対して自分の名前の一部を与えることを偏諱(へんき)といいます。
さて、紀州藩主となった吉宗を驚かせたのが、当時の紀州藩の巨額の財政赤字でした。参勤交代における莫大(ばくだい)な出費などによるものでしたが、吉宗は藩の財政を立て直すために自らが率先して倹約を行い、徹底した緊縮財政に取り組みました。
こうした吉宗の努力は、紀州藩という限定された世界ということも幸いして藩の財政を回復させ、幕府に対する多額の借金もすべて返済するなど、一定の成果をもたらしました。そして、藩主になってから10年が過ぎた正徳(しょうとく)6(1716)年に、江戸城で起きた「重大な出来事」によって、吉宗の運命は大きく変わったのでした。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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ぴーち こんばんは!
こうして伺っていると
あの暴れん坊将軍という時代劇は
ノンフィクション性の高い番組だったんですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、史実とフィクションとを巧みに織り交ぜています。
だからこそ見応えがあるのでしょうけど、フィクションの部分の功罪もそれぞれが大きいような気がしますね。
徳川家にとって、まさに悪夢のように受けいれ難い現実でしたが、将来においてこういう事態を予測していた家康は、血の「セーフティーネット」ともいうべき制度を設けていました。家康の子によって創設された、水戸・尾張・紀州のいわゆる御三家のことです。
御三家のうち、家宣は尾張家を支持しており、家継に万が一のことがあれば、尾張家から将軍を迎えるようにと遺言していたとも伝えられています。これには、家宣が綱吉の後継者と正式に決まる以前に、綱吉の娘である鶴姫(つるひめ)を嫁に迎えていた、吉宗の兄でもある徳川綱教(とくがわつなのり)が将軍後継として最有力とされていたという複雑な事情がありました。
綱教が綱吉よりも先に亡くなったことで、家宣はようやく正式な後継者として認められたのですが、そんな家宣が紀州家への感情を害したのは当然の成り行きでもありました。だとすれば、先述の遺言どおり、家継が亡くなった後には尾張家から将軍を迎えるべきはずが、なぜか紀州家の吉宗が後継に選ばれたのです。
なぜこんなことになってしまったのでしょうか。その背景には、尾張家や将軍家に関する様々な「事情」がありました。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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ぴーち こんばんは!
確かに保険を複数掛けておけば、安心度は
高まるでしょうけれど、保険の相手が人間だけに
ややこしく絡まる事も出てきてしまうのでしょうね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いくら保険とはいえ、仰るように人間関係が絡めば、ましてや将軍の座となればなおさらですよね。
次回でその経緯を詳しく紹介します。
一方の将軍家も、尾張家を支持していた将軍・家継の生母で、家宣の側室でもある月光院(げっこういん)が権勢を誇っていましたが、彼女の部下が不祥事を起こしたことで発言権が低下し、かわって紀州家を支持していた家宣の正室である天英院(てんえいいん)の勢力が強くなっていきました。ちなみに、月光院の発言権が低下するきっかけになった事件こそが、有名な江島生島事件(えじまいくしまじけん)です。
以上のような経緯から、後継として有力だった尾張家を差し置いて、紀州家の吉宗が「幸運にも」8代将軍に選ばれることになりました。尾張家や将軍家で起こった数々の事件に対し、吉宗が直接かかわった証拠はどこにもありませんが、不思議な出来事ではあります。
さて、吉宗は享保元(1716)年に33歳で将軍に就任した直後に、それまで将軍の側用人(そばようにん)として権勢を誇っていた間部詮房(まなべあきふさ)や新井白石(あらいはくせき)を罷免(ひめん、職務をやめさせること)して将軍自らが政治を行うことを宣言し、享保の改革へ向けて進み始めました。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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ぴーち こんばんは!
当の本人よりも、そこに付いている部下の
不祥事で足を引っ張られてしまう事と言ったら
今も昔もさほど理由は変わっていないんですね(^_^;)
当時もそこには何か粗が見られたら、言ってやりましょうという輩がウヨウヨしていたんじゃないでしょうかね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、今も昔も変わりませんね。
もっとも、結果的に事態が好転すればまだ良いのですが…。