西郷隆盛は様々(さまざま)な苦難(くなん)の末(すえ)に討幕(とうばく)を果(は)たして、明治新政府の重鎮(じゅうちん)としても多くの業績(ぎょうせき)を残しましたが、やがて征韓論争(せいかんろんそう)に敗れて下野(げや)し、西南戦争(せいなんせんそう)を起こして城山(しろやま)の露(つゆ)と消えるという非業(ひごう)の最期(さいご)を遂(と)げました。
我が国の長い歴史の流れの中で、彼は私たちに何を残したのでしょうか。また、私たちは彼から何を学ぶべきなのでしょうか。
今回の講座では、西郷隆盛の「ラストサムライ」としての生真面目(きまじめ)な生涯(しょうがい)をたどりながら、幕末(ばくまつ)から明治にかけての数々のエピソードなどについて分かりやすく紹介(しょうかい)していきたいと思います。





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ぴーち こんにちは!
今回から西郷さんのお話が始まるのですね!
歴史に疎い私でも、西郷さんのお人柄は尊敬に値する人物であるという漠然とした思いがありますが、詳細はいつもながら存じませんので、今回も興味深く読ませていただきたいと思います^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今回から西郷さんのお話が始まるのですね!
> 歴史に疎い私でも、西郷さんのお人柄は尊敬に値する人物であるという漠然とした思いがありますが、詳細はいつもながら存じませんので、今回も興味深く読ませていただきたいと思います^^
有難うございます。
今回から30回に分かれての長丁場となりますが、どうぞよろしくお願いいたします。
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生真面目…
鹿児島のタク 一般に、西郷隆盛と言えば“豪傑”と言うイメージを持つ方も多いと思いますが、黒田先生が書かれているように「生真面目」な人だったと思います。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 > 一般に、西郷隆盛と言えば“豪傑”と言うイメージを持つ方も多いと思いますが、黒田先生が書かれているように「生真面目」な人だったと思います。
私もそう考えて副題を選びました。
彼の生真面目な生涯をじっくりとたどっていきたいと思います。
西郷家は御小姓組(おこしょうぐみ)として勘定方小頭(かんじょうがたこがしら)を務(つと)めていましたが、当時はすっかり零落(れいらく)しており、幼年期の西郷も貧(まず)しい中で過ごしましたが、そんな彼を育(はぐく)んだのが郷中教育(ごじゅうきょういく)でした。
郷中教育は先輩(せんぱい)が後輩(こうはい)を直接指導(ちょくせつしどう)するという「自主教育」が大きな特徴(とくちょう)であり、藩士たちは6~7歳からの小稚児(こちご)、11歳~14歳くらいまでの長稚児(おさちご)、さらに14~15歳から24~25歳の二才(にせ)に分けられ、小稚児の指導を二才と長稚児が、長稚児の指導を二才が行っていました。
郷中教育の目的は武道の修練(しゅうれん)や忠孝(ちゅうこう)の実践(じっせん)などであり、「ウソを言うな」「負けるな」「弱い者いじめをするな」といった精神を徹底的(てっていてき)に鍛(きた)えられましたが、西郷は20歳の頃(ころ)には郷中で二才頭(にせがしら)に選ばれるなど優秀(ゆうしゅう)であり、年少者の模範(もはん)となるように厳(きび)しく自分を律(りっ)しながら誠意(せいい)をもって後輩を指導したそうです。
なお、郷中とは数十戸(すうじゅっこ)を単位とした武士の居住地区である方限(ほうぎり)内に設(もう)けられた青少年の自治組織(じちそしき)のことですが、下加治屋町からは西郷のほかに弟の西郷従道(さいごうつぐみち)や大久保利通、村田新八(むらたしんぱち)や大山巌(おおやまいわお)、あるいは東郷平八郎(とうごうへいはちろう)など幕末や明治に活躍(かつやく)する人材が多く世(よ)に出ました。こうした事実から、薩摩藩独自(どくじ)の郷中教育の影響(えいきょう)の大きさをうかがい知ることができます。





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- 黒田先生
青田です。
この郷中教育は、今の教育で、取り入れたいですね。
現代の日本は、少子化で、子供に親がかまい過ぎることが問題になっています。
(PTA、教育委員会など大人の管理組織はありますが)
薩摩のこの郷中教育で、社会のおける上下関係を
子供の時から、学ぶことができ、
しかも、『薩摩いろは歌』という一貫した道徳教育なので、日本を支える優秀な人材の育成にもなりますね。
青田さんへ
黒田裕樹 郷中教育の精神hボーイスカウトにも受け継がれているという話ですし、仰るとおり現代の教育にもどんどん取り入れるべきではないかと思います。
ぴーち こんばんは!
「うそを言うな」「負けるな」「弱いものをいじめるな」
逆に考えると
「うそをつく」「負ける」「弱いものいじめをする」心というのは、どれも、己の弱さと、弱さゆえに自分を守る為だけの手段に過ぎませんよね。
自分を律し、自分自身の心身を鍛えることが
ひいては、相手との良い関係を結ぶための
鍛錬なのかも知れませんね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
郷中教育によって数多くの英傑が誕生したのはむしろ当然ですし、見習うべきところが多くあると思います。
下加治屋町・・・。
鹿児島のタク 鹿児島(薩摩)については、この下加治屋町という「郷中」(今で言うと団地みたいなもの)は、鹿児島城(鶴丸城)からもかなり離れていて、いわゆる貧乏な下級武士たちが生まれ、育った場所です。
郷中教育については、なかなか厳しかったようです。先輩が後輩を育てるというシステム…。
黒田先生が書かれているようにこの“団地”…「郷中」の出身者で、明治維新の立役者&日露戦争までのリーダーたちの多くが生まれ育ったというのは、ある意味すごいことと思います。
西郷さんは、この地域の「二才頭(にせがしら)」として、かなりの年齢まで活躍していたのいました。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰る通りすごいですよね。
地元でも有名はお話ではないかと思います。
そんな西郷を支(ささ)えたのが、上司であった迫田太次右衛門(さこだたじえもん)でした。他の武士と違(ちが)って賄賂を一切受け取らず、農民の暮(く)らしに思いをはせた迫田は、西郷に以下の自作の歌を残しました。
「虫よ 虫よ 五ふし草の根を絶(た)つな 絶たば おのれも共に枯(か)れなん」
「五ふし草」は稲や民のことで、虫は汚職役人を意味しており、根っこまで食べつくせば結局自分たち武士も死んでしまうぞ、という警告(けいこく)の歌であるとともに「農民と武士は運命共同体である」という秘(ひ)められた思いが西郷の心に強く響(ひび)きました。
西郷は迫田の精神を心に深くとどめ、やがて自らの政治理念の一つとしていくのですが、そんな彼に運命の出会いが訪(おとず)れます。薩摩藩主である島津斉彬(しまづなりあきら)による抜擢(ばってき)でした。





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ぴーち こんにちは!
いいお話ですねぇ・・・
この地球上のあらゆる人種にも言えるお話ですね!
自国だけ至福を肥やそうとして、やりたい放題した挙句に、公害問題、自然破壊のツケは
他の国も共に受けなければならなくなるという
事態に、気づいて貰いたいものですが。。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 自国だけ私腹を肥やそうとして、やりたい放題した挙句に、公害問題、自然破壊のツケは
> 他の国も共に受けなければならなくなるという
> 事態に、気づいて貰いたいものですが。。
我が国だけが気を付けていてもどうしようもないことですからね。
特にPM2.5をまき散らす某国については…。
素晴らしい上司との出会い!
鹿児島のタク 迫田太次右衛門(さこだたじえもん)は、素晴らしい人格者ですね。この詩がまた素晴らしい。確か、迫田太次右衛門は、この後、自らこのお役目を辞めています。生活も経済的に苦しくなったことでしょう。
西郷ドンは、このような上司の存在が彼の人格形成にも大きな影響があったと思います。
また、最初についたお役目が“農政”にかかわることだったことも、西郷ドンのその後の姿勢に表れているように思います。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、迫田太次右衛門との出会いが西郷の人生を変えましたね。
人間は一生のうちに自分の人生を変える人物にどれだけ出会えるのでしょうか。
欧米列強(おうべいれっきょう)の諸国(しょこく)に対抗(たいこう)するためには鉄製の様々な武器などを必要としましたが、当時の我が国の製鉄技術は、西欧のそれと比べて遅(おく)れていました。このため、西欧風の製鉄を行うために反射炉(はんしゃろ)の建設が急がれたのですが、斉彬はいち早く本拠地(ほんきょち)の鹿児島に反射炉を築造(ちくぞう)しました。
斉彬は他にも造船所やガラス製造所を次々と建設し、また砲術(ほうじゅつ)などの洋式の軍事訓練を行って軍事力の強化にも努(つと)めました。ちなみに我が国の国旗(こっき)である「日の丸」は、幕末に諸外国との条約を結んだことで、外国船と区別するための標識(ひょうしき)として考案されたものでもありますが、その際(さい)に日の丸を提案した者のひとりとして斉彬の名が伝えられています。
斉彬は身分に関係なく有能な人材を登用(とうよう)しましたが、その中のひとりに西郷がいました。西郷の優秀さを愛した斉彬は、彼を江戸屋敷(えどやしき)の庭方役(にわかたやく)に任命し、秘書役(ひしょやく)として諸藩(しょはん)への使いとし、水戸藩(みとはん)の藤田東湖(ふじたとうこ)や福井藩(ふくいはん)の橋本左内(はしもとさない)などに面会することで、尊王攘夷(そんのうじょうい)など彼らの思想に大いに共鳴(きょうめい)するようになりました。
しかし、そんな西郷に悲劇(ひげき)が訪れました。安政(あんせい)5年(=1858年)7月に藩主の斉彬が急死してしまったのです。





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ぴーち こんばんは!
幕末に現在の日の丸が考案されたというのは、
恥ずかしながら、初めて知りました!
現代でも時々外国などでは、国旗のデザインや色を変更する動きのあるところもあるようですが、
日本はいつまでも、白地に赤い日の丸であり続けて貰いたいですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 他国との区別が国旗の目的のひとつと考えれば自然ではありますが、こういった歴史も教えて当然のはずですよね。
仰るとおり、シンプルかつ素晴らしいデザインである日章旗をいつまでも大切にしなければなりません。
島津斉彬の影響力
- 黒田先生
青田です。
島津斉彬の思想が明治の国家観に影響を与えたのは、間違いないですね。
まず、島津斉彬が富国強兵に力を注いだのは
倒幕の目的ではなく、ロシアの南下政策にたいする危機感であったこと。
さらに、
島津斉彬は、江戸育ちで、非常に合理主義者であると同時に、熱心な日蓮宗に帰依していたので、慈愛の心も持っていたこと。
これは、西郷隆盛の思想に影響を与えたと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、斉彬公が我が国に与えた影響は極めて大きいと思います。
それだけに急死が悔やまれますが、西郷の今後の成長を考えると何とも言えないところではありますね。
「このまま殉死しても斉彬公は決してお喜びにはなるまい。生き抜(ぬ)いて斉彬公の志(こころざし)を継(つ)いで働くことこそが真の供養(くよう)になるのではないか」。
月照の説得を受けいれた西郷でしたが、当時の江戸幕府(えどばくふ)は井伊直弼(いいなおすけ)が大老(たいろう)となって、自分の方針に反対する大名や公家(くげ)の多くを謹慎処分(きんしんしょぶん)にしたほか、幕府に批判的(ひはんてき)な意見を持つ一般の志士(しし)たちを一斉(いっせい)に捕縛(ほばく)し始めていました。世にいう「安政の大獄(たいごく)」です。
安政の大獄によって、薩摩藩と朝廷(ちょうてい)との橋渡(はしわた)し役を務めていた月照の身にも危険(きけん)が及(およ)ぶようになりました。西郷は薩摩に帰国して月照を何とか庇護(ひご)しようとしましたが、当時の薩摩藩は藩主の地位を継いだ島津忠義(しまづただよし)の父であり、斉彬の異母弟(いぼてい)でもあった島津久光(しまづひさみつ)が藩政の実権を握(にぎ)ったことで、保守的な行動をとるようになっていました。
月照を匿(かくま)うことによって幕府に睨(にら)まれることを恐(おそ)れた薩摩藩は、西郷に対して月照を国外に追放するように命じました。万策尽(ばんさくつ)きた西郷は安政5(1858)年11月16日に、月照と二人して鹿児島の冷たい錦江湾(きんこうわん)の海に二人して入水自殺(じゅすいじさつ)を図(はか)ったのです。





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ぴーち こんにちは!
西郷さんは「完全無欠」な方だという印象が強かったのですが、こういうお話を伺っていると、その強靭な体つきとは裏腹に精神面は案外、デリケートで脆い一面も備えた方だったんですね。
別な言い方をすれば、それだけ情に厚い人物だったのでしょうけれどね。
西郷隆盛の人柄
- 黒田先生
青田です。
通常なら、月照を見捨てるのが、君命なのですが、
それを破っても、己の信念に生きた西郷隆盛
には、惚れてしまいます。
ドラマでは、西郷隆盛は、大木のような
太くて、強いイメージですが
実際は、非常に繊細で、
誰に対しても非常に丁寧な言い方をしました。
ドラマの西郷は、かなり、歪んでますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 かけがえのない主君であった斉彬公を失ったショックはやはり相当大きかったと思われますね。
それに加えての情の深さが、彼を入水自殺に追い込んだのかもしれません。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、史実の西郷さんは素晴らしい人ですね。
それだけにドラマでも慎重に演じ切って欲しいものですが、近頃の業界では…。
蘇生した家
鹿児島のタク 黒田先生へ
西郷ドンは、月照上人だけ死なせたことに対して強い責任感を感じて、しばらくの間ノイローゼ気味で、自宅で療養したようです。
今でも、錦江湾(鹿児島湾)沿いのJR日豊本線のそばに、西郷ドンが蘇生した家が残っています。
この時(入水した時)、西郷を助けた人物に一人に幕末の志士~平野国臣さん~がいらっしゃるようです。
わが胸の もゆる思いにくらぶれば 煙はうすし
桜島山 (平野国臣)…。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 地元ならではの貴重な情報を有難うございます。
西郷さんが如何に慕われているかがよく分かりますね。
つまり「自分はもう死んだ人間である」とし、人間が持つ利己心(りこしん)の一切を捨て去ってしまったのです。そして彼は、自己の葛藤(かっとう)と苦しみ抜いた後にもう一つの考えを持つに至(いた)りました。
「自分一人だけが生き残ったのは、まだ自分にはやり残した使命があるからではないか。いずれ自分の使命が終われば、天は自分の命を奪(うば)い去るであろうが、天が自分を生かしてくれる間は、自分にはまだやらなければならないことがあるということなのだ」。
こうした西郷の心境が、やがて「天を敬(うやま)い、人を愛する」という「敬天愛人(けいてんあいじん)」の精神へとつながり、この後いかなる艱難辛苦(かんなんしんく)や恥辱(ちじょく)を彼が味わおうとも、自ら生命を絶つこともなく黙(だま)って「天命を受けいれ、それに従(したが)う」という精神の境地(きょうち)に達(たっ)したと考えられています。





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ぴーち こんばんは!
個人的には、入水自殺行為も、また一人ならずも
道ずれを伴ってのそれには、共感出来る事はございませんが、その後、ポジティヴな発想の転換には
共感させていただきました。
欲を言えば、天命を知る切欠がもう少し
賢明な方法であれば、尚、宜しかったかも知れませんが^_^;
ぴーちさんへ
黒田裕樹 現在の倫理観でも自殺は好ましくはありませんからね。
人間は一度死ぬ気になると性格が変わるとも聞きますが、西郷の場合はより大きく進化したのかもしれません。
一方、西郷の親友であった大久保利通は久光に取り入り、側近(そっきん)として重用(ちょうよう)されましたが、決して久光の保守的な考えに賛同したわけではありませんでした。いずれ時代が西郷を必要とするようになると先を読み、あえて猫(ねこ)をかぶっていたのです。
やがて利通の読みは当たり、文久(ぶんきゅう)2年(=1862年)に起きた久光の行列をイギリス人が馬で横切ったことから殺傷(さっしょう)されたという生麦事件(なまむぎじけん)の悲劇の後、翌文久3(1863)年に薩摩藩がイギリスと衝突(しょうとつ)して薩英戦争(さつえいせんそう)が起きると、このような非常事態(ひじょうじたい)に対応できるのは人望が篤(あつ)い彼しかいないということで、ついに西郷が呼び戻(もど)される日がやってきました。
まさに天命。島流しの苦労に耐(た)えて人間としてより磨(みが)きのかかった西郷に天は歴史の表舞台(おもてぶたい)を用意し、その期待に応(こた)えるかのように以後の西郷は獅子奮迅(ししふんじん)の働きを見せるようになるのです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど~!
入水自殺未遂に関しての刑罰が昔の日本には存在していたとは驚きでした!
今の時代も、自殺行為に及んだ人間になんらかの懲罰制度が存在すれば、自殺者の数も減少するかも
知れませんね^_^;
それはさておき、西郷さんはその刑にしっかりと服して罪を償ったことに関しては、良かったと思いました。
大久保利通との性格の違いがこのお話からも
伺えますね!
柔軟的で要領の良い大久保と、真っ直ぐで不器用な西郷さん。
二人の性格が一つに合致した時には、世の中の動きをも変えてしまう大きな偉業を成し遂げるのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 西郷の場合、流されたのは幕府の追及を免れるために別人扱いにしたとおう事情もありましたが二回目は久光との確執が主原因でした。
とはいえ、島流しの苦労が後の西郷の土台となったのは確実ですし、大久保のアシストも大きかったですね。
禁門の変によって面目(めんぼく)を取り戻した江戸幕府は、長州藩に追い打ちをかけるべく諸藩を動員して討伐(とうばつ)の軍を起こしました。これを第一次長州征伐(だいいちじちょうしゅうせいばつ)といいます。
当時の長州藩はイギリス・アメリカ・フランス・オランダの4ヵ国が下関(しものせき)を砲撃(ほうげき)して占領(せんりょう)するという四国艦隊下関砲撃事件(しこくかんたいしものせきほうげきじけん)が起きるなど、まさに満身創痍(まんしんそうい)でした。
こうした状況(じょうきょう)を考えれば、幕府の征伐によって長州藩に致命的(ちめいてき)な打撃を与えることも十分に可能でしたが、四国艦隊下関砲撃事件も加わっての長州藩の弱体化(じゃくたいか)がいずれは「日本国」への侵略(しんりゃく)につながると判断(はんだん)した西郷にとって、それは好(この)ましいことではありませんでした。
西郷は自(みずか)ら敵地(てきち)の岩国(いわくに)に出向いて説得し、一戦も交(まじ)えることなく長州征伐を片付(かたづ)けることに成功しましたが、幕府が長州征伐にこだわり続ける姿勢(しせい)を見せると、やがて西郷は幕府を見限り、敵対していた長州藩と手を結ぶ道を模索(もさく)し始めたのです。





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ぴーち こんにちは!
長州を味方につけると付けないとでは、
戦いの勝利が大きく幕府に傾いてしまうという
判断をいち早くつけた西郷さんの先見の明が
功を奏したお話ですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、幕府の態度に問題がある以上は西郷さんの好判断が我が国を救ったことになりますね。
大局を見ることができなければ国政を任せるわけにはいきません。
そんな薩長の動きを知らない幕府は同年6月に第二次長州征伐を実行しましたが、薩摩藩が出兵を拒否(きょひ)するなど諸藩の集まりは悪く、幕府の士気もふるわなかたことから不利な戦況となり、大坂城(おおさかじょう)へ出陣(しゅつじん)していた14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)が7月に21歳の若さで急死すると、それを口実(こうじつ)に戦闘(せんとう)を中止しました。
第二次長州征伐の失敗は、武力で他藩を支配することで成り立っていた幕藩体制(ばくはんたいせい)の崩壊(ほうかい)を意味しており、幕府の威信(いしん)は文字どおり地に堕(お)ちてしまいましたが、そんな幕府に追い打ちをかけるように年末に大きな不幸が起きてしまいました。
孝明天皇(こうめいてんのう)が37歳の若さで崩御(ほうぎょ)されてしまわれたのです。孝明天皇は攘夷のお考えが強かったものの、討幕を好まれずに公武合体(こうぶがったい)のお立場であっただけに、幕府にとっては大きな痛手(いたで)となってしまったのでした。
なお、孝明天皇の皇子(おうじ)でまだお若かった明治天皇(めいじてんのう)が122代天皇として即位(そくい)されたほか、幕府の15代将軍として一橋家(ひとつばしけ)で水戸藩出身の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が就任(しゅうにん)しました。





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ぴーち おはようございます!
今日のお話を伺っていると
改めて、血を絶えさせない努力は重要なことであったのだなと思いました。
現代の様に、食料も豊かではなく、医療の発達もなかった時代には、今なら軽く扱われる病でも、昔なら死に直結する事態に陥ったことでしょう。
そんな中、思いもよらずに若死にしてしまうケースも多く、そういう意味では、いざと言う時の為に
子孫をより多く残しておかなければいけないという
人間の苦肉の策というか、工夫というか(・_・;)
文化の発展や、国の豊かさの有無で、子供の数は決まるものだと、今更ながら思いました^_^;
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、医学の発達した現代とは違って当時は重い病で若くして世を去ることが多かったですからね。
「子孫を残すこと」がいかに重要であったかが、今回の事例を見てもよく分かります。
皮肉な巡り合わせ
- 黒田先生
青田です。
徳川慶喜は、島津斉彬が第14代将軍継承者として
推していました。(一橋派)
そして、その時、西郷隆盛は、お庭方として
同じように徳川慶喜を推す水戸藩の藤田東湖などと
人脈を創っていました。
さらに、徳川慶喜を第14代諸軍後見職にしたのは
薩摩藩の島津久光です。
いわば、徳川慶喜を第15代将軍にしたのは
薩摩藩とも言えます。
本当に皮肉な巡り合わせですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり皮肉ですね。
歴史上の出来事はこうした皮肉な展開が数多く存在しているようにも思えます。
しかし、こうした事態を予想していた慶喜が先手を打つ形で同じ10月14日に朝廷に対して大政奉還(たいせいほうかん)を行い、政権を朝廷に返上(へんじょう)しました。
幕府による大政奉還は、薩長らの討幕の密勅がその根拠(こんきょ)を失(うしな)っただけでなく、徳川家が来るべき新政権の中心的な存在(そんざい)として政治の実権を握り続けるという可能性も秘めていました。
しかし、そんなことを許しては苦労して討幕運動を続けてきた意味がないと憤(いきどお)った西郷らの薩長両藩や公家の岩倉具視(いわくらともみ)らの討幕派は、同年12月9日に武力を背景に朝廷内で政変を実行しました。これを王政復古(おうせいふっこ)の大号令(だいごうれい)といいます。





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ぴーち こんばんは!
幕末の頃のこういうお話を伺っていると、
幕府側と倒幕派のどちらも後には引けない
必死さが伝わって来ますね。
これまで15代も継続された幕府の歴史を自分の代で失ってはいけない慶喜の気持ちも
判りますし、
死に物狂いで挑んできた倒幕という目標を
果たせない屈辱を味わいたくはないという思いの
ぶつかり合い。
このシーソーゲームの様な展開はいつまで
続くのでしょうか・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、幕府と討幕派とのまさに丁々発止のやり取りが続いていました。
この争いは王政復古の大号令当日の夜にも続くことになります…。
徳川慶喜という人物
鹿児島のタク 15代将軍となった徳川慶喜という人物は、なかなかの人物みたいですね。「大政奉還」なんて…じゃあ、朝廷が実際の政治をやることなんてできないと判断していたのでしょうか。
土佐の藩主!?…山内容堂公などの進言があったような本を読んだことがあります。
それにしても、討幕の密勅は本物の写真を何度も見たことがあります。薩摩藩に対しては、最高実力者の島津久光と藩主:島津忠義宛てになっていますが、本文と差出人の書体が一緒ですし、2人の差出人の書体が全く同じですので…正規のルートで奉られた“密勅(勅命)”ではないという話もよく出てきますが、どんなものでしょうか。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 大政奉還によって幕府は存在しなくなりますから、討幕の密勅はその意味を失います。こういう理屈を慶喜自身が分かっていたでしょうし、徳川家の立場を残す意味でも大政奉還に踏み切ったのでしょう。
山内容堂の助言という説もありますが、慶喜の優秀さあってこそだと思います。
討幕の密勅に関しては、どのような背景があったかは分かりませんね。仰るような裏事情があったのかもしれません。
休憩時、岩倉は外で警備(けいび)をしていた西郷に意見を求めると、西郷は「短刀(たんとう)一本あれば用は足(た)りる」と答えたそうです。つまり、相手と差し違えるだけの覚悟(かくご)をもてば道は開けると岩倉を勇気づけたのでした。
西郷の発言がやがて山内容堂の耳にまで届(とど)くと、土佐藩に傷(きず)をつけてまで幕府に肩入(かたい)れすることはないと判断した山内はその後沈黙(ちんもく)し、休憩後はほぼ岩倉らの思いどおりに会議は進みました。結局慶喜は将軍のみならず内大臣(ないだいじん)の辞任と領地を一部返上させられることで決着しました。
しかし、長年我が国の政治を引っ張ってきた幕府が巻(ま)き返しを図り、小御所会議の内容が骨抜(ほねぬ)きにされ、慶喜の実権が温存(おんぞん)されようとしたため、西郷は最後の手段として江戸の商家(しょうか)を薩摩藩という身分を隠(かく)さずに片(かた)っ端(ぱし)から襲(おそ)い、幕府を挑発(ちょうはつ)して慶喜の名誉(めいよ)が回復する前に戊辰戦争(ぼしんせんそう)を起こさせることに成功しました。
西郷によるなりふり構(かま)わぬ策士(さくし)ぶりが大きな歴史の流れを動かしたことになります。なお、この当時江戸市内の警備をしており、江戸の薩摩藩邸(さつまはんてい)を焼討(やきう)ちして戊辰戦争のきっかけをつくったのが酒井家(さかいけ)の庄内藩(しょうないはん)だったことが、後の西郷自身と庄内藩との運命を大きく変えることにつながりました。





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ぴーち こんにちは!
幕府も己の力を過信し過ぎた事が結果的に
自分の首を絞める結果となったのでしょうか。
驕れるもの久しからず。
幕府も思い上がった途端に、足を掬われたとでも
言いましょうか。
「短刀一本・・・」
鹿児島のタク 「短刀一本あれば、済むこっじゃごわはんか!」(鹿児島弁)…この言葉は、歴史を大きく動かしたものだと私も思います。
江戸の街に火付けをし、薩摩藩邸に火をつけさせるとは、西郷ドン(らしからぬ?)策士ぶりですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに幕府は最後の詰めが甘かったですね。西郷の何でもありの精神が、長年政権を担当し続けた徳川家には及びもつかなかったのかもしれません。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、西郷の並外れた胆力が歴史を大きく動かしたと言えそうです。
西郷の策士ぶりは孫子の兵法を彷彿とさせますが、それだけではないところも西郷さんの魅力ですからね。この件に関しては後日改めて紹介します。
明治元(1868)年1月3日、慶喜率(ひき)いる旧幕府軍は、薩長を中心とする官軍(かんぐん)となった討幕軍と京都の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)で激突(げきとつ)しました。これを鳥羽・伏見の戦いといいます。戦いは結果として官軍の圧勝(あっしょう)に終わり、朝敵(ちょうてき)となった慶喜は江戸城に入りましたが、勢(いきお)いに乗る官軍は慶喜への征討軍(せいとうぐん)を編成(へんせい)して江戸へ向かわせました。
征討軍が駿府(すんぷ、現在の静岡)にまで迫(せま)ってくると、旧幕臣の勝海舟(かつかいしゅう)は早期の停戦と江戸城の開城を慶喜に進言し、交渉(こうしょう)を委任(いにん)されました。
江戸を動くことが出来ない勝は、山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)を使者として駿府へ向かわせ、同年3月9日に東征大総督府参謀(とうせいだいそうとくふさんぼう)となっていた西郷と会見させました。山岡は勝の手紙を西郷へ渡して朝廷に取り計らうよう依頼(いらい)しましたが、西郷は山岡に対して複数の条件を突(つ)き付けました。
西郷の条件は江戸城の引き渡しや旧幕府軍の武装解除(ぶそうかいじょ)などであり、山岡はそれらの要求を大筋(おおすじ)で受けいれたものの、一つだけは断固(だんこ)として拒否しました。
その要求とは「徳川慶喜の身柄(みがら)を備前藩(びぜんはん)に預(あず)けること」でした。勝と同じく旧幕臣の山岡鉄舟にとって、自らの主君が流罪(るざい)になってしまうことだけは、他の旧幕臣をなだめるためにも絶対に受けいれられなかったのです。





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ぴーち こんにちは!
お誕生日、おめでとうございます♪
これからも健康に留意いただき、益々のご活躍を期待致しております♪
さて、本文の内容に関してですが
テーマの主役は
西郷さんですが、今回はなにやら山岡氏の
気持ちもよく分かる様な気もしますね^_^;
主君の危機を回避させる為には
何が何でも
ここで絶対に頷いてはいけないでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お祝いのお言葉有難うございますm(_ _)m
今後とも宜しくお願いいたします。
旧幕臣全員の思いを一身に受けた山岡氏はまさに必死でした。
彼の行動と発言がやがて歴史を大きく動かすことになります。
キーパーソンたち
鹿児島のタク 「徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること。」これは、後で取り消す条件になるのですが、これは旧幕府側としては、どうしても飲めない条件でしょうから…?
ある種の“落としどころ”…(こう言っては歴史に失礼かもしれませんが・・・)を探っていたのでしょうか。お互いに…?
それにしても、今回は西郷ドンが主役ですが、旧幕府側に勝海舟・山岡鉄舟という人物がいたことは日本史においてラッキーといっては変ですが、キーパーソンたちだと思います。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 大参謀の西郷さんと旧幕臣の山岡氏とでは全く立場が異なりますからね。落としどころがあったとしても、山岡氏は相当な巻き返しが必要だったと思われます。彼はいかにして逆転したのか?
そう考えれば、仰るとおりキーパーソンですね。
「西郷さん、もしあなたと私の立場が逆になって島津侯(しまづこう、島津の殿様のこと)を他藩に預けろと言われれば、あなたはその条件を受けいれるつもりですか!」
山岡の決死の意見に対し、さすがの西郷も言葉が詰(つ)まりました。やがて山岡の論理をもっともだと思った西郷は折れ、慶喜の件を自分に一任することで話し合いは決着しました。
山岡は翌3月10日に江戸に戻って勝に結果を報告すると、西郷も13日に江戸の薩摩藩の屋敷に入りましたが、征討軍の江戸城進撃の予定日は15日に迫っており、予断(よだん)を許さない中で西郷隆盛と勝海舟との会見が行われたのです。





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ぴーち こんにちは!
なるほど。。
非情な人間ならば、相手がどんなに正論をぶつけてきても、また、情けを乞う様な泣き言を訴えたとしても、聞く耳を持たずに一蹴してしまうのでしょうけれど、やはり西郷さんの人柄が現代の後世までも尊敬に値する人物だと認識されている所以と言うのは、こういう場面で相手の訴えに対して、ちゃんと聞く耳を持つことが出来た所にもあったのかしら・・と思うのですが、いかがでしょうか^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰る一面は確かにあると思われます。
筋が通る話には耳を傾け、それで問題ないと思えば自分がすべての責任を負う。
リーダーとしてこれだけ素晴らしい人物は存在しないでしょうね。
西郷ドンの度量!?
鹿児島のタク 本来ながら、いくら大参謀としての西郷ドンと言えども「慶喜の件を自分に一任するする」“権限”までは、持たなかったのではと思います。
何と言っても「慶喜の備前藩お預け」については「朝命」ですから…。
それを一身に受けたところが(自分の責任で)、西郷ドンらしいなと思います。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、朝命をひっくり返すという荒業を一身に引き受け、しかもそれを実現してしまうという途方もない度量は西郷さんならではだと思います。
このあたりも国史の奇跡と言えるでしょう。
この後4月に江戸城は無血開城(むけつかいじょう)となり、戦いで多くの血が流されることを回避(かいひ)できたほか、江戸を焼け野原から防(ふせ)いだことは後の首都移転など大きな効果をもたらすことになりました。
江戸城の無血開城の立役者(たてやくしゃ)は西郷や勝海舟と一般的には言われていますが、その西郷と事前に命がけで交渉を行った山岡鉄舟の功績(こうせき)も見逃(みのが)せません。現実に、西郷は山岡に対して以下のような賛辞(さんじ、ほめたたえる言葉)を贈っています。
「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末(しまつ)に困るが、そのような人物でなければ天下の偉業は成し遂げられないものだ」。





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ぴーち こんばんは!
仰るとおり、脚光を浴びる人物の裏には
またもう一人の立役者が存在するものですね!
たまたま世間に名を轟かせることが出来た人物は
いつまでも記憶に残るものですが、
影になってしまった人物の名前は
なかなか日の目を見る事は出来ないですが、
それでも、無理に主張せずに、謙虚な思いを持ち続ける人物こそ、真の立役者として相応しい人物なのかも知れません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、真の立役者というものは文字どおり縁の下の力持ちであり、影の存在として別の意味で輝いているのかもしれませんね。
いつの日か山岡鉄舟の講座もやってみたいものです。
金もいらぬ…
鹿児島のタク 「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人物でなければ天下の偉業は成し遂げられないものだ」
上の言葉は、山岡鉄舟に対する賛辞だったのですね。初めて知りました。
山岡鉄舟については、確か高等学校の日本史の教科書にも出てこないのではないかと思いますが、このような人物が、きっとほかにも多くいたから日本の植民地化も避けられたと思います。
有難いことです。
また、徳川慶喜を殺さなかったことについては、何か日本人として、ほっとするところがあるのですが…。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、山岡鉄舟の存在は西郷さんの賛辞とともにもっともっと知られるべきだと思います。
慶喜を生きながらえさせたのは、やはり日本人だからなのでしょう。
かつて幕府のもとで京都守護職(きょうとしゅごしょく)を務めた会津藩(あいづはん)に対して、長州藩が当時の恨(うら)みを晴らすべく攻め込(こ)んだのです。後に会津戦争と呼ばれた戦いにおいて会津藩は徹底的に攻撃を受け、多くの血を流した末に降伏しました。
一方、江戸市中の警備を担当(たんとう)した際に薩摩藩邸を焼討ちした庄内藩も果敢(かかん)に戦い続けましたが、会津藩の降伏を知ると抵抗(ていこう)をあきらめました。厳しい処分が下ることを見越(みこ)した庄内藩は藩主や重臣が白装束(しろしょうぞく)に身を包んで切腹(せっぷく)を覚悟していましたが、降伏式に臨(のぞ)んだ西郷はその様子を見て真っ先に叫(さけ)びました。
「切腹して詫(わ)びるなどとんでもないことだ!」





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ぴーち こんにちは!
西郷さん、嘗てご自分が入水自殺を図ったことに対して、相当な反省があったのでしょうか・・。
仰るとおり、切腹して事なきを得ようとする
考え方は浅はかだと思いますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、西郷さんご自身の貴重な体験が今回の大きな流れにつながっていると思われますが、彼の人生経験が更なる「武士道精神」をもたらせたとも考えられますね。
詳しくは今後の更新をご覧ください。
幕末最強の庄内藩
- 黒田先生
青田です。
庄内藩は、徳川四天王の一人、酒井忠次を始祖とする藩で、徳川への忠誠心が非常に高い藩です。
さらに
庄内藩は、江戸の薩摩藩邸を焼き打ちしただけではなく、
最後まで、連戦連勝で、勝つ続けた
幕末最強の組織です。
官軍の立場からすると
切腹は、当たり前ですよね。
この西郷の言葉を聞いて、
白装束の藩主以下は、感涙のあまり号涙しました。
西郷隆盛の戦いは、非常でも、処分は寛大な姿勢では、カッコ良さを感じてしまいますね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、西郷隆盛の花も実もある裁きぶりはかっこよすぎますよね。
寛大な処分の背景には何があるのでしょうか。
鹿児島県人への恨み…!?
鹿児島のタク 黒田先生へ
私は鹿児島県人ですが、以前会津若松市に旅行した時、ハイヤーの運転手さんが「福島県人は今でも鹿児島県人を恨んでいます。」と、隣の旅行者に説明していました。
それを言うなら、「山口県人」と言ってくれよ。…とも思いましたが、確かに会津攻めには、薩摩藩士も参加しています…。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 そうなんですか。鹿児島からすると確かに納得できない話ですよね。
積年の恨みというのは難しいものです。
また城明け渡しの儀式に際しては「敵味方に分かれるのは運命であり、一旦(いったん)帰順(きじゅん)したからには兄弟も同じである」と官軍を丸腰(まるごし)で入場させる一方で、庄内藩士には帯刀(たいとう)を許しました。
庄内藩の処分も藩主酒井忠篤(さかいただずみ)に謹慎を命じただけの軽いものであり、その寛大(かんだい)すぎる処置(しょち)に官軍内部から不満の声が上がりましたが、西郷は以下のように答えてそれらを一蹴(いっしゅう)しました。
「武士が一旦兜(かぶと)を脱(ぬ)いで降伏した以上、武士の一言(いちごん)を信じるのが武士というものである。もし反逆(はんぎゃく)すればまた討(う)てばよい」。
それにしても、長州藩の厳しい処置に比べて、なぜ西郷はここまで寛大であったのでしょうか。その背景には、西郷が自然と身に着けていた武士道精神に基(もと)づく兵法がありました。
その精神をまとめたものを「闘戦経(とうせんきょう)」といいます。





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ぴーち こんばんは!
「闘戦経」の内容は全く存じませんが、
よく武士に二言は無い。などという諺がありますが
その諺も、その経の中に書かれていた教えだったかしら・・とふと思いました^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 闘戦経についてご存じでない方は多いのではないかと思います。
「武士に二言はない」と同じような精神とも言えますし、詳細については次回以降の更新をご覧いただければと思います。
そこで、今から約900年前の大江家(おおえけ)があらわした兵法書が日本人本来の精神的な崇高(すうこう)さや美徳を重視した闘戦経であり、武士道精神を守るとともに、孫子ばかりに頼って国を誤(あやま)ることのない様にと伝えられたものとされています。
なお、孫子と闘戦経とを表裏(ひょうり)で学んだ天才的な武人としては、あらゆる戦術(せんじゅつ)を完璧(かんぺき)にこなして類稀(たぐいまれ)なる立派(りっぱ)な戦例を残しながら、最期には君命(くんめい)に従って湊川(みなとがわ)で壮絶(そうぜつ)な戦死を遂げた楠木正成(くすのきまさしげ)の名が挙(あ)げられます。
鑑(かんが)みれば、西郷隆盛のこれまでの姿勢は時として幕府を挑発して戊辰戦争を起こさせるなど「孫子の兵法」が見られる一方で、山岡鉄舟の説得を受けいれたり、自ら降伏した庄内藩に寛大な処置を行ったりと「武士道精神」の神髄(しんずい)が見受けられるのも、西郷自身が闘戦経の体現者(たいげんしゃ)である証拠(しょうこ)だとはいえないでしょうか。
なお、闘戦経に基づく武士道精神は、その後の彼の人生に幾度(いくど)も垣間見(かいまみ)えるようになります。





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ぴーち こんばんは!
なるほど、外国で説かれたどんなに優れた教えであっても、そっくりそのまま、私達が真似をしていこうとしても、成功できるとは限りませんし、逆に失敗に終わる恐れもあるという事ですね。
外国の憲法をそのまま日本に採用しようとしても、
全部が全部、日本に有利に働かないのと同じように。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
我が国では外国の文化を取り入れながらも、それらを日本風に上手にアレンジして独自のものをつくりあげてきたという輝かしい歴史があります。
そう考えれば、アメリカがつくった憲法を後生大事に守っていく必要性は薄いでしょうね。
西郷は大久保や木戸孝允らと協力して、懸案(けんあん)だった廃藩置県(はいはんちけん)を断行(だんこう)しました。廃藩置県によって各藩主が持っていた領地への支配権が没収(ぼっしゅう)されるとともに、多くの士族(しぞく)が失業するという荒療治(あらりょうじ)でしたが、西郷は薩摩・長州・土佐から約1万人の御親兵(ごしんぺい、政府直属の軍隊のこと)を集めて軍事力を固めたうえで、これをわずか一日で実現してしまったのです。
通常ならば激(はげ)しい軍事的抵抗があってもおかしくなかったはずでしたが、廃藩置県は目立った混乱もなく平和的に実現し、政府による中央集権体制(ちゅうおうしゅうけんたいせい)が名実ともに整(ととの)うことになりましたが、こうした劇的(げきてき)な効果をもたらしたのは約1万人の御親兵という抑止力(よくしりょく)もあったでしょうが、指揮をとった西郷の人柄(ひとがら)に周囲(しゅうい)が納得(なっとく)したという心理的影響も大きかったのではないでしょうか。
廃藩置県の実施後(じっしご)、大久保や木戸、岩倉らは条約改正を目指(めざ)して欧米へ向かいましたが、我が国に残った西郷らは留守政府(るすせいふ)として、身分に関係なく満20歳に達した成年男子全員が3年間の兵役義務(へいえきぎむ)を負うという徴兵令(ちょうへいれい)のほか、学制(がくせい)の発布(はっぷ)や太陽暦の採用、国立銀行条例(こくりつぎんこうじょうれい)の公布(こうふ)、キリスト教の解禁(かいきん)、地租改正(ちそかいせい)など矢継(やつ)ぎ早(ばや)に次々と改革を実行しました。
後に福沢諭吉(ふくざわゆきち)が「西郷の施政(しせい)の間は言論も自由で一揆(いっき)や反政府運動も減っていた」と高く評価(ひょうか)した留守政府の政策(せいさく)ぶりでしたが、外交問題が発生したことで西郷は洋行(ようこう)した大久保らと激しく対立することになってしまうのです。





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ぴーち こんにちは!
わずか一日とは、素晴らしいですね!
やはり最終的に人を動かせるものは、
お金ではなく、人物そのものなのだという事なのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、人間は感情で動く以上は精神面での充実を望みます。その意味でも西郷さんという「心の支え」の存在は大きかったと思われます。
西郷内閣のあげた成果!
鹿児島のタク 岩倉具視を団長とする「遣欧使節団」が約2年間ほど海外へ行っている間は、事実上の「西郷内閣」と書いてある著作も多くありますね。
この2年間は、本当に多くの、後の近代国家へ生まれ変わる事業を成し遂げているのは、間違いないでしょうね。
西郷ドン自身は、具体的な明治国家の青写真をどのくらい持っていたのかは未知数ですが…。
それにしても、西郷ドンにとっては「廃藩置県」は、苦しいものがあったと思われます。主筋の島津家(藩)を「取り潰す…これは言い過ぎか」…ことになりますから…。でも、これをやらないと近代国家は生まれてこない。…西郷ドン、国父と言われた島津久光とは、もともとうまく関係がいっていませんが、辛い部分もあったのではと想像します。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 西郷さんは軍事だけでなく内政面でも素晴らしい成果を挙げていることは意外にも知られていません。
廃藩置県は武士の失業を意味していましたから相当辛かったと思います。とはいえ、本文にもあるように西郷さんだからこそ成し得たことだったでしょう。

当時の我が国は、江戸幕府が押し付けられた不平等条約の改正とともに、欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということも重要な外交問題でしたが、そんな我が国の安全保障(あんぜんほしょう)のカギを握っていたのが朝鮮半島(ちょうせんはんとう)でした。
そこで、明治政府は当時の李氏朝鮮(りしちょうせん)に近代化を進めるように働きかけました。朝鮮半島が開国して近代化し、確固(かっこ)たる独立国が誕生すれば、朝鮮の人々のためになると同時に我が国の安全度も増すと判断したからです。
政府は早速(さっそく)、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、国王は文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇」や「勅(ちょく)」の文字が含(ふく)まれていたからです。当時の朝鮮は中国の清(しん)の属国(ぞっこく)であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清と同様に支配下に置こうとしている」と判断したのでした。
もちろん、我が国にそんな意図(いと)はありません。我が国が天皇中心の新たな中央集権国家に生まれ変わったという意味で、形式的に「皇」や「勅」の字を使用したに過ぎなかったのです。我が国は朝鮮に対して理解を求め、新たに「皇」や「勅」の字を使用しない外交文書を送るなど懸命(けんめい)の努力を重ねましたが、態度(たいど)を硬化(こうか)させた朝鮮は首を縦(たて)に振(ふ)りませんでした。
このように朝鮮が排他的(はいたてき)な外交態度を示していた当時、我が国では先述(せんじゅつ)のとおり政府首脳(しゅのう)が海外へ視察中(しさつちゅう)でしたが、やがて留守政府の中から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。





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- 黒田先生
青田です。
私が学んだ高校の歴史では、日本政府は、強硬すぎると教わりました。
但し、これには、大きな見落としがあると思います。
島津斉彬がロシアの南下政策にたいして、アジア(まずは、韓国)
と提携して、ロシアの南下政策に備えようと考えていました。
西郷自身もそれを熟知していました。
現代と違い日本も韓国も国力が小さく、ロシアがとてつもなく巨大でした。
その前提で、考えないと当時の留守政府の強硬論は、理解で無いと思います。
ぴーち こんばんは!
外国との交渉がいかに難しいかが判りました。
日本人には通用する言葉使いでも、外国には
微妙なニュアンスが伝わらなかったり、誤解を招いてしまう場合も。
外国との交渉は慎重に慎重を極めないと、
誤解を与えたまま、最悪、国同士の争いにも発展にもなり兼ねませんね。
信頼関係をじっくり深める事が出来れば良いのでしょうけれど。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
国内の歴史だけで完結しようといて、世界の歴史の大きな流れを見ていないからそのような誤解が生じるのです。もっとも、わざとやっているのかもしれませんが…。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 外国との交渉はお互いの国柄が出ますから確かに難しいですね。
誤解を招かないようにすることも重要ですが、誤解と分かった際に態度を改める柔軟さも求められると思います。
東夷という考え方
- 黒田先生
青田です。
シナ(この当時は、清)では、日本のことを
東夷と呼んで、
東の僻地の野蛮人という考えがあり、
韓国もその考えを踏襲していたようですね。
そう韓国が、思うのは、勝手ですが
この当時の国際状況を宗主国の清の状況を観て
(アヘン戦争)
危機感を持たなかったのが不思議です。
逆に日本のほうが、アヘン戦争に負けた清を観て、危機感を持っていた日本人のほうが、
国際感覚が高かったようですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、過去にとらわれすぎて当時の国際感覚がマヒしていた感がありますね。
中華思想というのはある意味恐ろしいものなのかもしれません。
もっとも、西郷のような政府の重鎮が国交のない国に出かけて万が一のことがあれば、朝鮮とはそのまま戦争状態となってしまうのは明らかでした。留守政府は西郷の朝鮮への派遣(はけん)を一度は閣議(かくぎ)で内定したのですが、一報(いっぽう)を聞いてあわてて帰国した使節団の岩倉具視や大久保利通・木戸孝允らが猛反対(もうはんたい)しました。
西洋の発展(はってん)を直接目にしたいわゆる「外遊組(がいゆうぐみ)」にとっては、富国強兵や殖産興業(しょくさんこうぎょう)を一刻(いっこく)も早く行い、列強からの侵略を受けないようにすることこそが最重要課題であり、朝鮮半島に深く関わりを持つ時間的あるいは経済的余裕はないという立場でした。
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでしたし、彼らには朝鮮との外交問題を通じて、それまで活躍の場をなくしていた士族を救済(きゅうさい)したいという思惑(おもわく)もあったのです。





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青田です。 黒田先生
青田です。
昔、高校の歴史の授業で、歴史の教師は、『韓国』では、
『西郷隆盛』、『島津斉彬』が嫌われている
と話していました。
もちろん、西郷隆盛を『征韓論者』として
捉えていたからです。
では、なぜ、西郷隆盛が『征韓論者』になったかと私なりに考えてみると
やはり、朝鮮半島の人の島津家(薩摩)への恐怖感があったような気がします。
秀吉の朝鮮派兵の時、朝鮮の英雄の李舜臣将軍を殺したのは、島津義弘でした。
(もっとも、休戦協定を破って、攻撃してきたのは、朝鮮側だったのですが)
この島津軍を朝鮮では、鬼シマーズと呼び、
『死を恐れない軍団』『日本の南に住んでいる一族で、裁判所はあるが刑務所はない。(切腹、蟄居を自らする)』と李氏朝鮮の記録に残っていました。
つまり、韓国からすると、島津(薩摩藩)は、朝鮮の英雄を倒した憎くて、恐ろしい集団というイメージを持っていたからです。
そのイメージ(先入観)で、西郷隆盛、島津斉彬を観ると
『異韓論』が『征韓論』に摩り替った気がします。
ただ、日本の歴史教育で、韓国側にそこまで配慮した内容をするのも、??と思いますが。。
今、考えると、かなり、歪んだ歴史授業ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、歴史観も見方によってはずいぶん変わってくるという見本のようですね。
いずれにせよ、歪んだ内容は願い下げではありますが。
こうしたいわゆる「征韓論争」は、西郷らが一方的に引き下がることで一応の決着を見ましたが、西郷ほどの実力者であれば、政府内部でクーデターを起こして政権を乗っ取り、実力で自己の政策を押し切ることも十分可能でした。
しかし、西郷は権力を私物化するのみならず、国益をないがしろにするような行為をなす考えは毛頭(もうとう)ありませんでした。このあたりにも武士道精神を重んじる「闘戦経」の考えを垣間見ることができます。
なお、西郷が下野して政府を去ったのを何よりも惜しまれたのが明治天皇でいらっしゃいました。西郷は政府に出仕してすぐに宮中(きゅうちゅう)の大改革に乗り出し、天皇ご自身に君主として相応(ふさわ)しい力量をお持ちになってほしいという願いを込めるとともに、まだお若かった明治天皇を全力で支え続けました。





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ぴーち こんにちは!
こうして伺っていると、明治天皇は
西郷さんはじめ、乃木将軍など
優れた人物との交流が深かったのですね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。明治天皇は素晴らしい人物と接することで成長され、歴史に残る君主になられたことが理解できます。
西郷ドンと明治大帝!
鹿児島のタク 黒田先生へ
明治大帝は、それまで女官に育てられ、教育を受けていた天皇とは違い、西郷ドンの計らいで山岡鉄舟、その他の豪傑に、育てられていますからねえ。
時代は、欧米列強の植民地支配の時代…それが必要だったのでしょう。
西郷ドンは、後で西南戦争を結果的に引き起こし「国賊」の汚名を着せられるのですが、西郷ドンの「国賊」の汚名を晴らし、その罪が許されたのは、明治大帝がそのことに積極的だったからとの著作物を読んだことがあります。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、明治天皇にとって西郷さんの存在は大きかったと拝察できます。
それだけに賊軍として西郷さんが死んでいったことを、陛下は悔やまれたのではないでしょうか。