(カーン!!)
「う、上様(うえさま)…!」
このやり取りを聞いただけで、何のドラマかすぐに分かる人は今でも結構いらっしゃるのではないでしょうか。もちろん、20年以上にわたって続いた人気テレビ時代劇「暴れん坊将軍」の名場面であり、この名作のモデルとなった主人公こそが、今回紹介する江戸幕府の8代将軍である徳川吉宗(とくがわよしむね)です。
徳川吉宗は、上記の「暴れん坊将軍」の他にも、平成7(1995)年には大河ドラマの主人公となっており、現代においても人気の高い将軍で、享保(きょうほう)の改革を成しとげた「名君」として有名な人物でもあります。吉宗の改革には確かに庶民(しょみん)のための善政というイメージがあり、現実にそれらの類(たぐい)の政策が行われています。
この他にも、破綻(はたん、物事が行きづまること)しかけていた幕府の財政を立て直したことで、吉宗は「江戸幕府中興の祖」と称えられていますが、吉宗による政治は、本当に一般に考えられているような「非の打ち所のない」ものだったのでしょうか。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は2月8日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
今でも「吉宗」=松平健と認識してます(爆)
そうですね・・
確かに名声を誇る人物でも
裏では・・
光強ければ影も濃いなんて言いますが
きっと、良いことばかりではない気が致します。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今でも「吉宗」=松平健と認識してます(爆)
私もそうですね(笑)。放送が終わって随分経つんですが…。
> 光強ければ影も濃いなんて言いますが
> きっと、良いことばかりではない気が致します。
仰るとおりですね。
吉宗公については是々非々で評価する必要があります。
また、彼が行った政策が、享保の改革と真っ向から対立するものだったことから吉宗の不興を買い、治世10年にも満たずに無理やり隠居させられたばかりか、彼が死んだ後も墓に金網がかぶせられるなど、罪人の扱いを受けた「悲劇の大名」として知られています。
しかし、宗春は本当にこれらの「通説」どおりの人物だったのでしょうか。実は、彼が藩主時代に実行した大胆な規制緩和(きせいかんわ)と大幅な財政政策は、20世紀の経済学者ケインズを彷彿(ほうふつ)とさせる先見性に満ちたものであり、また彼の政治によって城下町の名古屋は大いに栄え、それが現代にもつながっているのです。
今回の講座では、徳川吉宗と徳川宗春に秘められた事実を探るとともに、吉宗による享保の改革の功罪や、宗春の治世における名古屋の繁栄ぶり、さらには彼が隠居に追い込まれた事情などについて詳しく紹介していきたいと思います。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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ぴーち こんばんは!
達観した様なコメントで恐縮ですが、
人間って、何処の国でもまたどの時代であっても
同じ様な考え方をするものですね(^_^;)
先日、大東亜戦争のお話でも有りましたが
アメリカさんが
日本の事を徹底的に悪者扱いすることで
自国がいかに正義であるかをアピールしていましたが、その
力が強い程、大衆はそれが正しいと信じてしまいますよね。
同じような現象がここでも起こっていたのかと
思うと、人間の浅ましさを感じます(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに今回の件は万国共通とも言えますね…。
だからこそ、吉宗公も宗春公も、真実をしっかりと見極めなければなりません。
従って、幕府の将軍になるような身分の高い人物は、世情に対してなじみが薄いように思われがちですが、吉宗はその例外でした。なぜなら、彼は建前のうえでは「捨て子」だったからです。
徳川吉宗は、徳川家の親藩(しんぱん)であり、御三家の一つでもあった紀州藩(きしゅうはん)の藩主・徳川光貞(とくがわみつさだ)の四男(ただし、兄弟のうち一人は幼い頃に亡くなっているので、事実上は三男)として、貞享(じょうきょう)元年10月21日(西暦1684年11月27日)に生まれました。
しかし、吉宗の母親の身分が低かったために、生後すぐに家臣の家に預けられました。先述の「捨て子」は、家臣に赤ん坊の吉宗を「拾わせる」ための儀式でもあったのです。無事に成長した吉宗は、やがて和歌山の城中に引き取られましたが、幼年期の「家臣の子」として育てられた様々な経験が、後の「善政」の面で役立つことになるのでした。
ちなみに、吉宗は生まれたばかりの頃は源六(げんろく)と名付けられ、その後に新之助(しんのすけ)と名乗りました。時代劇「暴れん坊将軍」で、吉宗が「徳田新之助」と偽名を使っている由来でもあります。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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ぴーち こんばんは!
「お坊ちゃま育ち」と聞くと真っ先に安倍首相のことを
思い浮かべてしまうのは私だけなのでしょうか(^_^;)
確かに彼はお家柄からか品格と政治家たる資質には富んでおりますが、少々、庶民の気持ちには
疎い気がしてなりません。
外交面では確かに手腕を振るわれていますが、
国内情勢には厳しい一面が有りますね・(^_^;)
全てに万全という事にはなかなかいかないものですが。
話が反れてしまい、すみませんm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに安倍首相には「お坊ちゃま育ち」という印象がありますね。
伝え聞く話によれば、安倍首相は大学卒業後の数年間はサラリーマンの経験があり、結構優秀な成績だったそうです。また、身内の説得で議員秘書に転身した際は、サラリーマンをやめることを残念がっておられたとか。
もちろん、一般家庭に比べれば、首相が「お坊ちゃま育ち」であると言えることに変わりはないですが、その一方で申し上げたような事実もあるということですね。
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ところが、宝永(ほうえい)2(1705)年に父親や他の兄弟が相次いで死亡したため、結果として22歳の吉宗に藩主の座がめぐってきたのです。同年の暮れには、当時の5代将軍である徳川綱吉(とくがわつなよし)に拝謁(はいえつ、身分の高い人に面会すること)しましたが、吉宗の名はこの際に綱吉から与えられました。綱吉の名前の一部である「吉」を使用したのですが、このように身分の上位の人間が、下位の人間に対して自分の名前の一部を与えることを偏諱(へんき)といいます。
さて、紀州藩主となった吉宗を驚かせたのが、当時の紀州藩の巨額の財政赤字でした。参勤交代における莫大(ばくだい)な出費などによるものでしたが、吉宗は藩の財政を立て直すために自らが率先して倹約を行い、徹底した緊縮財政に取り組みました。
こうした吉宗の努力は、紀州藩という限定された世界ということも幸いして藩の財政を回復させ、幕府に対する多額の借金もすべて返済するなど、一定の成果をもたらしました。そして、藩主になってから10年が過ぎた正徳(しょうとく)6(1716)年に、江戸城で起きた「重大な出来事」によって、吉宗の運命は大きく変わったのでした。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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ぴーち こんばんは!
こうして伺っていると
あの暴れん坊将軍という時代劇は
ノンフィクション性の高い番組だったんですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、史実とフィクションとを巧みに織り交ぜています。
だからこそ見応えがあるのでしょうけど、フィクションの部分の功罪もそれぞれが大きいような気がしますね。
徳川家にとって、まさに悪夢のように受けいれ難い現実でしたが、将来においてこういう事態を予測していた家康は、血の「セーフティーネット」ともいうべき制度を設けていました。家康の子によって創設された、水戸・尾張・紀州のいわゆる御三家のことです。
御三家のうち、家宣は尾張家を支持しており、家継に万が一のことがあれば、尾張家から将軍を迎えるようにと遺言していたとも伝えられています。これには、家宣が綱吉の後継者と正式に決まる以前に、綱吉の娘である鶴姫(つるひめ)を嫁に迎えていた、吉宗の兄でもある徳川綱教(とくがわつなのり)が将軍後継として最有力とされていたという複雑な事情がありました。
綱教が綱吉よりも先に亡くなったことで、家宣はようやく正式な後継者として認められたのですが、そんな家宣が紀州家への感情を害したのは当然の成り行きでもありました。だとすれば、先述の遺言どおり、家継が亡くなった後には尾張家から将軍を迎えるべきはずが、なぜか紀州家の吉宗が後継に選ばれたのです。
なぜこんなことになってしまったのでしょうか。その背景には、尾張家や将軍家に関する様々な「事情」がありました。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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ぴーち こんばんは!
確かに保険を複数掛けておけば、安心度は
高まるでしょうけれど、保険の相手が人間だけに
ややこしく絡まる事も出てきてしまうのでしょうね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いくら保険とはいえ、仰るように人間関係が絡めば、ましてや将軍の座となればなおさらですよね。
次回でその経緯を詳しく紹介します。
一方の将軍家も、尾張家を支持していた将軍・家継の生母で、家宣の側室でもある月光院(げっこういん)が権勢を誇っていましたが、彼女の部下が不祥事を起こしたことで発言権が低下し、かわって紀州家を支持していた家宣の正室である天英院(てんえいいん)の勢力が強くなっていきました。ちなみに、月光院の発言権が低下するきっかけになった事件こそが、有名な江島生島事件(えじまいくしまじけん)です。
以上のような経緯から、後継として有力だった尾張家を差し置いて、紀州家の吉宗が「幸運にも」8代将軍に選ばれることになりました。尾張家や将軍家で起こった数々の事件に対し、吉宗が直接かかわった証拠はどこにもありませんが、不思議な出来事ではあります。
さて、吉宗は享保元(1716)年に33歳で将軍に就任した直後に、それまで将軍の側用人(そばようにん)として権勢を誇っていた間部詮房(まなべあきふさ)や新井白石(あらいはくせき)を罷免(ひめん、職務をやめさせること)して将軍自らが政治を行うことを宣言し、享保の改革へ向けて進み始めました。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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ぴーち こんばんは!
当の本人よりも、そこに付いている部下の
不祥事で足を引っ張られてしまう事と言ったら
今も昔もさほど理由は変わっていないんですね(^_^;)
当時もそこには何か粗が見られたら、言ってやりましょうという輩がウヨウヨしていたんじゃないでしょうかね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、今も昔も変わりませんね。
もっとも、結果的に事態が好転すればまだ良いのですが…。
吉宗が将軍になった頃の幕府財政は、巨額の負債を抱えて破綻(はたん)寸前でした。紀州藩主に就任した頃よりもひどい有り様を目(ま)の当たりにした吉宗は、紀州藩の頃以上に財政改革に精を出すことになりました。
吉宗がまず取り組んだのは、やはり徹底した倹約令でした。収入が現状ではそれほど期待できない以上は、支出を抑えない限りは赤字が増える一方です。吉宗は、普段の着物は粗末な木綿(もめん)を使用し、食事も朝夕の二回のみで、献立も「一汁三菜」の質素なものにするなど、紀州藩主の頃と同様に、自らが先頭に立って倹約に励みました。
倹約令によって支出を抑え始めた吉宗が次に取り組んだのは、幕府財政の増収でした。享保7(1722)年、吉宗は諸大名に対して、参勤交代の江戸在府の期間を従来の一年から半年に短縮する代わりに、一定の米の量を幕府に献上させました。これを上米(あげまい)の制といいます。物価が高い江戸での生活を短くすることで、浮いた諸大名の経費を幕府に対して米で支払わせるという制度でした。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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※下記の映像は2月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
我が家は負債こそ抱えてはいませんが
今にも崩壊しそうな勢いの中での商売なので
吉宗のこの方策は、非常に為になりますねぇ・・
φ(..)メモメモ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私も他人事ではないですね(´・ω・`)
吉宗公の当時の苦労がしのばれます。
収入というものは増やすだけではなく、一年にどれだけ得ることができるかという目安も重要でした。そのためには、耕地を広げるだけではなく、納めさせる税率も一定のものにしなければならないと考えた吉宗は、豊作や凶作にかかわらず、過去数年間の収穫高の平均から年貢率を一定にするという、定免法(じょうめんほう)を定めました。一方、一年の収穫高で年貢率が上下する旧来の制度のことは検見法(けみほう)と呼ばれています。
収入増に一定の道筋をつくった吉宗が次に考えたのは、優秀な人材を積極的に登用することでした。しかし、いくら優秀であっても、旧来の地位や身分を重視していては上手くいきません。そこで、たとえ身分が低くても、在職中の間だけ石高(こくだか、米で支給される武士の給料のこと)を増やすという足高(たしだか)の制を享保8(1723)年に施行(しこう)しました。この制度によって江戸南町奉行として採用されたのが、有名な大岡忠相(おおおかただすけ)です。
大岡忠相という優秀な政治家を得た吉宗が次に考えたのは、江戸の町をいかにして大火から防ぐか、ということでした。吉宗が将軍に就任する以前から、江戸はしばしば大火事に見舞われ、江戸全体のかなりの部分が焼け野原になったり、江戸城の天守閣が焼け落ちたりするなど、大火のたびに莫大(ばくだい)な出費を必要としていたのです。
吉宗は、江戸の町に詳しい町民に自身の住む町を守らせたほうが何かと効率が良いと考え、町火消(まちびけし)の制度をつくりました。その他にも、火事による類焼を食い止めるために広小路(ひろこうじ)と呼ばれる幅の広い道路をつくったり、防火用の空き地である火除地(ひよけち)をつくったりしました。また、それまでの江戸の家屋は板葺(いたぶ)きの屋根が多かったのですが、火の粉が飛んできたら無防備も同然だったため、瓦葺(かわらぶ)きに改良させていきました。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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ぴーち こんばんは!
現代社会は「格差社会」だとか言いますが、
日本の今の現実は階級社会に支配されています。
この頃の吉宗のこうした考え方はかなり斬新でしたね。
階級社会は、絶対に超えられない身分の違いを感じますが、能力に応じて登用されることは
新たな人材確保の一筋の光となった事でしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 世の中が変革を求められる際には、身分の上下など関係ないですからね。
後の改革の成功面を鑑みれば、大岡忠相の登用は大きかったと思います。
その一方で、目安箱に入れられた書状の中には、吉宗の政治に対して批判的な内容のものもありましたが、吉宗は投書した人物を処罰しませんでした。目安箱は、封建社会においては時として独裁政治になりがちな時代のなかで「お上(かみ)も過ちを犯すことがある」ことを事実上認めた、画期的な制度でもあったのです。
吉宗は、さらなる収益の活性化をめざして新しい産業を興そうと考えました。なかでも有名なのが甘藷(かんしょ)、いわゆるサツマイモの栽培でした。吉宗は、青木昆陽(あおきこんよう)に命じて薩摩(さつま)で従来生産されていた甘藷を江戸でも栽培させました。甘藷はやがて救荒作物(きゅうこうさくもつ、飢饉の際に役立つ作物のこと)として全国に広がったのですが、この背景には大きな教訓がありました。
実は、吉宗による治世の間に大凶作があったのです。享保17(1732)年に起きた享保の大飢饉(だいききん)によって、西日本を中心に多くの餓死者(がししゃ)が出ましたが、藩全体で甘藷を栽培していた薩摩藩では一人の犠牲者も出さなかったといわれており、吉宗もその事実に注目したのでした。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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ぴーち こんばんは!
家康もそう言えば、家臣などの意見を
取り入れた事でその地位を不動のものとした以前、黒田さんの記事からも伺った覚えが有りますが、
吉宗もその方法を取り入れたのでしょうかね?
それと、さつまいものお話も以前
されていたのを思い出しました♪
ぴーち すみません。
先ほどのコメントの一文ですが、
「以前」の前の言葉が抜けてしまった気がします。
という話を以前に・・と書いたつもりですので、
そこの所、適当な解釈をお願い致しますm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 吉宗公は家康を尊敬していたらしいですから、有り得る話だと思えますね。
サツマイモは、色々と役立つ食物ですね。私も好物です。
また吉宗は、当時ヨーロッパで我が国と唯一貿易を行っていたオランダの言葉であるオランダ語によって、西洋の学術や文化を研究した蘭学(らんがく)を積極的に導入しようとしました。この際に吉宗が蘭学を学ばせたのが、先述した青木昆陽と野呂元丈(のろげんじょう)です。吉宗の時代に種がまかれた西洋の知識により、世界の様子が少しずつ我が国に広まっていったことで、近い将来に開国のチャンスが生まれることになりました。
さらに吉宗は、幕府に殺到する訴訟への対策も考えました。享保4(1719)年に相対済(あいたいすま)し令が出されたことで、金銭の貸し借りによる争いを当事者で解決させるようにしたのです。ただし、この法令は借金を棒引きしたいわゆる「徳政令」とは違いますので、区別する必要があります。
吉宗の時代に行われた他の法令関係の事業では、江戸の治安を守るためとして、幕府による本格的な法典の導入を目的に、寛保(かんぽう)2(1742)年につくられた公事方御定書(くじがたおさだめがき)も有名です。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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ぴーち こんばんは!
色々と苦肉の策が練られたんですね。
公事方御定書。
確か歴史の授業で教えて貰った記憶が有りますが
吉宗の時代の出来事だったのですね←(この無関心ぶり、どうしようもないですね(^_^;)
改めてこうして伺ってみると、その前後の経緯が
分かり、有り難く思います。
さつまいもは、気分が塞ぎがちな冬場に食べると
気持ちが高揚すると言いますので、
黒田さんの場合、そう言う食材を摂ることで
いつでも元気ハツラツな状態をキープ出来ているのかも知れませんね(´∀`*)ウフフ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
サツマイモのパワーには確かに助けられますね(笑)。
それは「庶民の目線による政治」です。吉宗には、特に土地開発や都市対策において、庶民のためになる政治を行おうとする姿勢がうかがえますが、このことを可能にしたのは、やはり幼年期に家臣の子として育てられた影響が大きいと考えられるからです。
さて、吉宗が広めた風習で、現代にも残っており、盛んに行われているものがあるのですが、何だと思いますか。
それは花見です。我が国には昔から桜を愛(め)でる習慣がありましたが、それが一般庶民にまで広がり、現代のような「お花見」として定着したのは吉宗の時代からなのです。吉宗は、江戸の住民を地方に向かわせ、現地で消費させることを目的に、江戸近郊に次々と桜の植樹を行ったとされており、そのうちの一つは飛鳥山公園(あすかやまこうえん)として、21世紀の現代でも東京都北区の桜の名所として知られています。
ここまで紹介してきたように、吉宗による享保の改革には確かに善政の面が多かったことは事実であり、それに関しては何ら否定するものではありません。しかし、どんなに素晴らしい政策にも光と影があるものです。吉宗の治世は、決してバラ色だけの時代ではありませんでした。いや、むしろ農民にとっては非常に厳しかったかもしれません。
なぜそう言いきれるのでしょうか。カギを握るのは、現代の我が国にとって必要不可欠な「ある職業」に対する徹底した差別であり、またその差別を助長した「ある宗教」に由来する幕府の学問です。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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花見も吉宗の時からだったんですか!
勿論知りませんでしたので、勉強になりました。
そう言う雑学も学べる所が、黒田さんの歴史講座の
醍醐味ですね^^
然しながら、政治というものは
国民全部の要望を聞いて、それに沿うように
対応するということは、不可能に近いものだということは分かっているつもりですが、
吉宗の影の政策の部分はどんなものだったのか
気になりますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
どんな政策にも光と影があります。
影の部分の内容については、これからじっくりと検証します。
家康自身は決して商行為を嫌っているわけではなく、江戸幕府成立直後には海外との貿易を積極的に考えていたほどの重商主義者でしたが、朱子学が広まるにつれて、幕府の政策は次第に商業に対して否定的な路線を進むようになってしまいました。
そもそも儒教の世界において、商行為には生産性が全くないうえに「100円の価値しかないものを120円で売る」という行為自体が「卑(いや)しい」と見なされ、道徳的に認められていませんでした。
江戸幕府の政策において、商業は「悪」とみなされていると言っても過言ではなく、商人がどれだけ利益を上げても、彼らから所得税や法人税を集めるという発想自体がありませんでした。もちろん吉宗もその例外ではなかったのです。
このような組織が政治の実権を握った場合には、現代では当然のごとく重要視されている経済政策が全く考慮されなくなります。それゆえに、吉宗による享保の改革も、経済問題に関しては迷走を続けることになるのでした。
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江戸時代に士農工商と言う階級制度を設けた理由がここに有る訳ですかね・・・。
確かに、今でも商売人と言う言葉の裏には
何処か蔑んだ思いが込められている
気が致しますものね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 商業蔑視の風潮が身分制度にあったのは間違いないでしょう。
言葉の端々に込められているのもうなずけます。
吉宗の政策の代名詞となっている倹約令ですが、財政の支出を抑えるために、政府が倹約することは決して悪くはありません。しかし、倹約そのものを国民にも強要することは、経済政策として間違っているのです。なぜそう言えるのでしょうか。
現代でもそうですが、国民の中には収入が多い人々も少なくありません。彼らがぜいたく品などを買い求めたり、カルチャーセンターに通ったりすることによって経済が活性化し、結果として文化が広がっていくのです。徳川綱吉の時代に、減税によって人々の暮らしに余裕が生まれ、多くの人々が遊びを求めた結果、そのニーズに応えて元禄(げんろく)文化が生まれ、栄えたのが何よりの証拠です。
しかし、吉宗は結果として倹約令を国民にも「押し付けた」かたちになりました。倹約ばかりでは消費が冷え込み、景気が悪化するばかりでなく、人々の心にも余裕が生まれず、結果として文化も栄えません。綱吉の時代の元禄文化に対して、吉宗の時代には「享保文化」と呼ばれるものはついに誕生しませんでした。
吉宗の倹約令は、庶民の消費欲を奪い、広まるべき文化の芽を摘(つ)み取ってしまったのですが、農民の生活はそれ以上に苦しめられていました。なぜそんなことになってしまったのでしょうか。実は、ここにも「儒教と商行為」の問題が見え隠れしているのです。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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ぴーち こんばんは!
お誕生日、おめでとうございます!!
これからもブログ、講座ともに益々のご発展を
お祈りしております(*^_^*)
確かに倹約だけでは経済が冷えきってしまいますものね。余り徹底し過ぎても良くないものですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 誕生日へのお祝いのお言葉有難うございます。
今後ともよろしくお願いいたします。
仰るとおり、倹約を庶民にまで押しつけては消費が冷え込むばかりですよね。
本文中にもあるように、吉宗の時代に「享保文化」が存在しなかったのが何よりの証拠です。
オバrev 黒田先生、お誕生日おめでとうございます~(^O^)
47ですか、さすが若い!
まっ、私は万年25才ですけど(^_^;)
享保の改革と言えば、改革のお手本みたいに思ってましたが、経済的には違うんですね。
法律で雁字搦めに規制縛りにして、民間の自由を奪っている現代の官庁も同じに見えてしまう・・・(´ε`;)ウーン…
オバrevさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
オバrevさんの若さを私も見習いたいです(^ω^)
確かに現代に通じるところがあるかもしれませんね。
特に雁字搦めと言うところが…。
幕府の財政を支えていた米であっても、その実体は流通する商品のひとつに過ぎません。ということは、増産すればするほど米が余るようになり、供給量が増えることによって、結果として米の価格が下がり、財政も厳しくなってしまうという、全くの逆効果をもたらしてしまったのでした。
このような矛盾(むじゅん)が起きた理由の一つに、幕府が米を「神聖なもの」として扱う姿勢がありました。実は、幕府は「商品」の一つに過ぎない米を「通貨」扱いにしていたのです。これを石高制(こくだかせい)といい、江戸幕府の基本制度として、成立当初から続けられてきました。
もし米が「通貨」ならば、確かに増産すればするほど財政が潤(うるお)うはずなのですが、実際には「商品」として流通しているのですから、無理がありすぎるのです。この矛盾を解決するには、米を通貨扱いにする米本位制ともいえる石高制をやめて、生産される米の量を銭に換算するという、戦国時代までの貫高制(かんだかせい)に戻すのが一番良い方法でした。
つまり、武士にはそれまでの米の代わりに銭を支給し、綱吉の時代に元禄小判でそうしたように、政府が通貨量を調整して経済をコントロールする方式にすればよいのですが、商行為を敵視するあまりに、極端な重農主義に染まっていた吉宗には出来ない相談でした。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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ぴーち こんばんは!
確かに一国の責任を担う者は
総合的かつ、客観的、冷静な判断で
常に物事を図っていく器量がなければ
務まらないのでしょうね。
吉宗は、少々偏見が強すぎたが故に
失策へ傾倒してしまったのですね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 残念ながら仰るとおりですね。
為政者はあらゆる事態に備えて、公平な目で政治を行ってほしいものです。
吉宗による重農主義の政策は、農民にとっても大きな苦しみとなりました。幕府からの命令で必死になって米を増産しても、結局価格が下がることで収入が減ってしまい、財政的に苦しくなった幕府からは増税を要求されて、ますます苦しくなっていくという、典型的な悪循環が続いたからです。
吉宗以前の治世では、幕府の直轄地である天領(てんりょう)では、一揆(いっき)らしい一揆がほとんど起こっていませんでした。それだけ農民の暮らしが安定していたからなのですが、吉宗の治世の後半になると、増税による苦しい負担に耐え切れず、一揆が多発するようになってしまいました。
ところで、皆さんは「ゴマの油と百姓は絞(しぼ)れば絞るほど出る」という言葉を聞いたことがありますか。農民に対する無慈悲(むじひ)な政策を象徴するような言葉ですが、いつの時代に言われたかご存知でしょうか。実はこれは、吉宗による享保の改革の末期の勘定奉行(かんじょうぶぎょう)である、神尾春央(かんおはるひで)の言葉なのです。
吉宗による享保の改革で、幕府の財政は立ち直り、多くの金銀と備蓄米(びちくまい)を手に入れることが出来たのは事実ですが、その背景には、こういった農民への重い負担があったのも悲しい現実でした。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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ぴーち こんばんは!
そうですね・・
世の中、何処かで財政が潤う事と言う事は、また何処かでは枯渇する状態が有るという事ですものね。
今でも農産物は、たくさん出来すぎて飽和状態になると(こちらは自然の気候の変動の為)
価格が下がってしまい豊作貧乏などと揶揄されますね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
享保の改革は、成功の対象を見極めなければ、間違った歴史観を身につけてしまいます。
吉宗には成人した三人の男子がおり、このうち長男は徳川家重(とくがわいえしげ)として9代将軍となりましたが、残る兄弟である徳川宗武(とくがわむねたけ)と徳川宗尹(とくがわむねただ)、さらに家重の次男である徳川重好(とくがわしげよし)の三人によって、新たに将軍継承権を持つ御三卿(ごさんきょう)が設置されました。
御三卿にはそれぞれ10万石が与えられましたが、藩と違って独立した領地を持たず、江戸城内の屋敷に定住しました。やがて、それぞれの屋敷に最も近い城内の門の名前から、宗武は田安家(たやすけ)、宗尹は一橋家(ひとつばしけ)、重好は清水家(しみずけ)と呼ばれるようになりました。
御三卿は、将軍と従来の御三家(水戸・尾張・紀州)との縁が幕府創設当時に比べて疎遠(そえん、遠ざかって関係が薄くなること)になったので、現将軍である吉宗の血縁を新たに「血のセーフティーネット」にすることで、幕府の将来を万全なものにしようというものでした。
ちなみにこの後、11代将軍として一橋家から徳川家斉(とくがわいえなり)が就任するなど、御三卿は「血のセーフティーネット」としての役割を果たすことになります。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は2月19日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
御三卿というのは、御三家に対抗する意味合いで
名付けられたものなのでしょうか?
それとも、また違った意味合いが有るのでしょうか?
一橋家と言うのは、私も伺った事がありますが、
その他のお家の名前は初めて知りました(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 御三卿というのは、御三家に対抗する意味合いで
> 名付けられたものなのでしょうか?
> それとも、また違った意味合いが有るのでしょうか?
私も当初は対抗意識ではないかと思っていましたが、自身が御三家から来たということもあって、血統維持に人一倍気を遣っていたのが真相のようですね。
一橋家は将軍を養子を含めて二人出していますから、印象深いのもうなづけますね。
もっとも、農民に無理を強(し)いたことで幕府の財政は上向き、蔵(くら)の中には相当量の金銀や備蓄米が集まりましたから、いわゆる「幕府のための改革」としては成功したのかもしれません。
ところで、天領での一揆は吉宗の死後も治まる気配はなく、後を継いだ9代将軍の徳川家重も散々に悩まされました。そんな光景を静かな目で眺(なが)めていた、家重に若い頃から仕えていたある家臣は、吉宗による「重農主義」の政治の限界を実感していました。
その家臣は後に出世を重ねて、将軍の側用人と老中を兼任して政治の実権を握ると、過去の反省から「重商主義」に主眼を置いた政治に切り換えることによって、我が国に好景気をもたらし、その開明的な政策は、自主的な開国をもたらす一歩手前まで行きました。
その政治家の名前こそが、いわゆる「田沼時代」で有名な田沼意次(たぬまおきつぐ)であり、また彼が自身の政策に大いに参考にしたのが、今日の名古屋の繁栄の礎(いしずえ)となった、尾張藩主の徳川宗春だったのです。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は2月19日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
やはり農業従事者だけをターゲットに
したのが間違いだったのでしょうか?
有る特定の職業、階級層にのみ
税率負担を押し付けたりするのも、その
不公平感かた問題が
起こりますしね。
国民全て平等に負担を背負うのならまだしも。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに農民に偏重した税負担は不公平ですからね。
前任者の失敗の教訓を生かすとともに、柔軟な発想が国家を上向きにさせるのはいつの時代も同じです。
尾張藩主の子として生まれた萬五郎でしたが、幼い頃には中級あるいは下級武士とも積極的に交流するなど、庶民感覚を身につけたそうです。この辺りは、同じく藩主の子として生まれながら、家臣の子として育てられた徳川吉宗と似通っていますね。
宝永(ほうえい)5(1708)年11月、萬五郎は兄で4代藩主の徳川吉通(とくがわよしみち)より偏諱(へんき)を受け、通春(みちはる)と名乗りました。なお、吉通は奥で夕食をする際には、必ず共に居させたほど、末弟の通春を可愛がったそうです。
しかし、その後の尾張藩は、先述のとおり吉通が正徳3(1713)年7月に25歳で急死すると、同年10月にはその跡を継いだ吉通の子の五郎太(ごろうた)がわずか3歳で亡くなるなど不幸が相次ぎました。尾張藩主の地位は通春の兄の通顕(みちあきら)が継友(つぐとも)と改名して継承し、6代藩主となりました。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は2月23日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
20男ですか!!
尤も、一人の母親からではなく、異母兄弟がたくさんいる中での20番目となるのでしょうけれどね(^_^;)
昔は本当に若くして急死される方が多かったですね・・。そう言う人間の寿命の儚さを考慮したからこそ、子孫を一人でも多く残す必要に駆られたのでしょうけれどね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、当時の大名にとっては、血統を残すためにたくさんの子をつくることが求められていました。
そのうえ、乳幼児の死亡率が高かったので、このようなことになったのです。
以後の通春は、享保6(1721)年には吉宗が自ら鷹狩で得た雁(がん)を通春に下げ渡したり、さらには享保14(1729)年に尾張藩の御連枝(ごれんし)、すなわち支藩の梁川藩(やながわはん)が断絶すると、同じ年に吉宗自らの命令で通春が藩の再興を任じられたりするなど、吉宗から大いに目をかけられました。
かくして部屋住みの身から梁川藩3万石の大名となり、同時に従四位下侍従(じゅしいのげじじゅう)に任官して幕閣と同格になった通春は、その年に領地の米の不作が伝えられると、年貢を減じて餓死者を出さなかったり、庶民が困っていた慣例や過剰な税をやめさせたりと、わずか1年数ヵ月の治世であったものの善政を敷きました。
通春は梁川に入ることは一度もありませんでしたが、藩主を退いた後も、梁川との交流が続いたと伝えられています。
さて、本来ならば御連枝の藩主として生涯を終えるはずだった通春に、人生を一変させる大きな出来事が起きました。享保15(1730)年11月に、兄で尾張藩6代藩主の徳川継友が39歳で亡くなったのです。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は2月23日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
通春と言う方は、若い時から
先見の明があった人物だった様ですね。
順風満帆に見えた人生にも何やら
大きな決断を迫られる場面に遭遇したようですが・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、先見の明があったと思われます。
今後の通春の人生がどうなっていくのかは、ぜひ次回以降の更新をご覧ください。

継友には子はおろか養嗣子(ようしし)すらいなかったことから、3人の御連枝の中から後継者を選ぶことになりました。長幼の序を優先するならば、通春の兄である美濃高須藩(みのたかすはん)の松平義孝(まつだいらよしたか)が本家を継ぐはずでした。
しかし、将軍家から「継友の遺言」という名目で、実際には吉宗の計らいによって、通春が尾張藩を相続することになったのです。かくして、藩主の二十男で長年の部屋住みを経験した松平通春が、吉宗の偏諱(へんき)を受けて「宗春」と名乗り、将軍家の次に権威のある御三家尾張62万石の大大名となりました。時に宗春、35歳の男盛りでした。
さて、宗春が尾張藩主になった当時は、先述のとおり将軍吉宗による享保の改革が行われており、財政難に苦しむ幕府財政の立て直しの真っ最中でした。
吉宗は支出を抑えるために厳しい倹約令を出しましたが、これを庶民にも強要したことによって、行き過ぎた緊縮政策が人々の消費を冷え込ませたことから景気が悪化しており、それは宗春以前の尾張藩でも例外ではなく、お膝元の名古屋は火の消えたような寂しさが漂っていました。
そんな尾張の人々の度肝(どぎも)を抜いたのが、宗春の藩主としての初のお国入りでした。大名行列において、宗春は鼈甲(べっこう)をあしらった唐人帽(とうじんぼう)をかぶり、衣装は足袋に至るまですべて黒で統一させ、衣装の襟(えり)や袖(そで)には金糸(きんし)が縫(ぬ)い付けられ、漆黒(しっこく)の馬にまたがった宗春の姿を見た庶民は、新しい藩主に大いに期待するようになり、また宗春も彼らの期待に応えた様々な施策(しさく)を実行することになるのです。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
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※下記の映像は2月23日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
35歳、男盛りと有りましたが、
現代の感覚に照準を合わせた表現なのでしょうか・・?
それとも、人生50年と言われていたであろう
その時代での35歳でも
当時は男盛りと言われた年齢だったのでしょうか?
それと、確かに人の身なりと言うのは
大切ですよね。見た目で判断することなかれと
言いますが、一瞬にして相手に信用や信頼性を
与える手段としては一番適した方法でも
有りますものね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 人生50年の時代でも、35歳は男盛りですね。一番力が入る時期だと思います。
相手に信用させるには、あえて派手にふるまうことも必要ですね。
第一条 大きな愛と広い寛容の心で仁徳ある政を
第二条 愛に敵なし 権現様(=徳川家康)のように仁者であれ
第三条 冤罪(えんざい)は国の恥 罪科はとことん調べつくせ
第四条 継続は力なり 私欲に走らず、志を最後まで
第五条 学問の第一は愛情 小賢(こざか)しい学問より自分自身に正しくあれ
第六条 適材適所 どんなものにもそれぞれの能力がある
第七条 好きこそものの上手なれ 他の者の心情を察するように
第八条 規制は必要最小限で良い 法令は少ないほど守ることができる
第九条 お金は活かして使え 過度な倹約省略はかえって無益になる
第十条 生かすも殺すも庶民の知恵 押し付けではなくまずは仲良く
第十一条 ストレスなしが養生一番 怠(なま)けなければ心身ともに健康である
第十二条 芸能は庶民の栄養 見世物や茶店などを許可する
第十三条 先達(せんだち)はあらまほしきこと(=何事にもその道の先生や指導者はいてほしいものである、という意味。「徒然草」で有名な一文) どんなことでも事情通であれ
第十四条 芸道は偉大 あらゆる芸事を数年で身につくとは思わぬように
第十五条 若者への諫言(かんげん)には若気の至りをもって 異なる意見は相手の年齢を考えて
第十六条 失敗は発明の母 大器量の者でも若い頃は羽目を外すことはある
第十七条 人の命は金では買えない 生命は尊く、常日頃の用心が肝要
第十八条 何事も庶民目線で 世間の事情によく通じ深い愛情を示せ
第十九条 天下の政治は緩急自在で 国の改革はゆっくりと普段の用件は速やかに
第二十条 改革は文殊の知恵で 自分ひとりではなく良き補佐が大切
第二十一条 「まぁええがゃぁ」が臣下に対する主君の心得 古参新参・男女等を問わず平等に深く愛情を示せ
(※「名古屋叢書(なごやそうしょ)」第一巻所収)
「温知政要」の中には「過度な倹約省略はかえって無益になる」など、吉宗の倹約令に対する批判めいた内容もありますが、概(おおむ)ねは現代にも通じるものであり、これらを守ろうとした宗春の政治力や実行力の高さを鑑(かんが)みれば、彼の治世における名古屋の繁栄は「さもありなん」と自然に思えますよね。
では、宗春が行った政策は具体的にはどのようなものだったのでしょうか。そのあらましをいくつか紹介していきましょう。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は2月23日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
私も最近少しばかり倹約が過ぎている気がしていましたので、耳の痛い話ですが、
仰るとおり、「生きたお金」の使い方が出来るのなら
大いに使うべきだと思いますね。。
それと第八条についても、現代社会を戒める言葉としては通用するものだと思いました。
あまりに規制、規制の世の中だと返って
犯罪は増えて行く気がしてなりません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私も仰るとおりだと思います。
宗春公の「温知政要」の精神は、現代においても大いに見習うべきです。