理由の第1は、キリスト教(=カトリック)の問題でした。幕府は始めのうちはカトリックを黙認していましたが、一神教であるキリスト教の性質から、仏教や儒教との対立が深刻化しており、キリシタンと呼ばれた信者たちが団結して、幕府に反抗する可能性もありました。
しかし、何よりも問題視されたのは、カトリックによる布教が、秀吉の時代から続いていた「我が国侵略の野望」と結びついていたことでした。
また、同じキリスト教でも、プロテスタントを信仰していたイギリスやオランダが、自国の貿易の利益を守るために、カトリックに潜む領土的野心を幕府に警告していたのも大きく影響しました。





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ぴーち こんばんは!
やっぱり、ここでも「宗教」絡みですね(^_^;)
宗教の教えそのものの違いもそうですが、
宗教を手玉に取り裏で糸引く大きな陰謀がまた
問題をこじらせる厄介な存在になりますよね。
結局、最終的には人間の「強欲」さが
揉め事の始まりの様ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに欲がからんでいますね。
カトリックは日本侵略の野望が、プロテスタントは貿易の利権が…。
当時の我が国の選択はどうだったでしょうか?
江戸幕府が貿易を厳しく統制した理由の第2は、貿易の利益を幕府が独占するためでした。なぜなら、貿易は必ずと言っていいほど儲(もう)かるからです。
外国から「輸入する」ということは、その商品が我が国では手に入らなかったり、手に入ったとしても非常に高価だったりするのが普通です。と言うことは、輸入によって仕入れた商品は、相手がどんなに高価でも手に入れようとしたり、あるいは安く大量に手に入れたりすることによっても、結果的に大儲けにつながるというわけです。もちろん「輸出」の場合も理論的には同じです。
当時の貿易は、幕府だけではなく西国の大名も行っていました。大名が「おいしい」貿易を行って、その利益で強大な経済力と軍事力を持つことによって、幕府に反逆するようになることを恐れたのです。





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ぴーち こんばんは!
確かに外国との取引というのは
今でも外資系企業などを含め、羽振りが良いみたいですが、儲ける事が出来るだけに
熾烈な争いも盛んな世界なのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
現代のような平和的な競争社会ならともかく、他の大名よりも常に武力で上位に立たねばならない幕府のプレッシャーは相当なものであったことでしょう。
さらに1633年には、従来の朱印状の他に、老中奉書(ろうじゅうほうしょ)という許可状を受けた、奉書船以外の日本商船の海外渡航を禁止し、1635年には、日本人の海外渡航や在外日本人の帰国を全面的に禁止しました。また、この間に中国船の寄港を長崎に限定したほか、長崎に出島(でじま)を築いてポルトガル人を移動させ、日本人との接触を制限しました。
ところで、島原藩(しまばらはん)が置かれていた肥前国島原(現在の長崎県島原市付近)は、かつてはキリシタン大名であった有馬晴信が領有しており、その関係もあって、領内には多数のキリシタンが存在していました。
しかし、有馬氏が日向国延岡(現在の宮崎県延岡市付近)に領地替えとなり、幕府直轄の天領を経て、松倉氏(まつくらし)が新たに藩主となりました。





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ぴーち こんばんは!
日本人が海外へ行くことを禁じるのはまだしも、
海外にいる日本人が帰国出来ないというのは
厳しいお触れでしたね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 海外の日本人が帰国できなかったのは、滞在中にキリシタンに改宗して、帰国後に布教活動をする恐れがあったからとされています。ここまで用心しなければならないほど、幕府にとってキリシタンが手ごわい存在だったのでしょうね。
また、同じくキリシタン大名だった小西行長(こにしゆきなが)が関ヶ原の戦いで処刑された後に、唐津藩(からつはん)が領有していた肥後国天草(現在の天草諸島)においても、藩主の寺沢堅高(てらざわかたたか)による農民への圧政とキリシタンに対する弾圧が続いており、島原や天草のキリシタンや農民たちは、日々追いつめられていきました。
1637年、圧政にたえかねた島原と天草の農民や、キリシタンを含む牢人(ろうにん)たちが大規模な一揆を起こし、天草四郎(あまくさしろう、本名は益田時貞=ますだときさだ)を中心に、3万人を超える勢力が、島原の原城跡(はらじょうあと)に立てこもりました。世にいう「島原の乱」の始まりです。
これに対し、幕府は板倉重昌(いたくらしげまさ)を島原へ派遣しましたが上手くいかず、板倉は翌1638年の元日に総攻撃をかけた後に討死しました。幕府は老中の松平信綱(まつだいらのぶつな)を新たに派遣して、12万以上の軍勢で、陸と海から原城を取り囲みました。





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ぴーち こんばんは!
なるほど。
宗教と言うのは最初の創始者には偉大な力が
備わっていたのでしょうけれど、それを継承していく者に僅かでも私利私欲が加算されると、宗教そのものがただの看板でしか無くなりますね。
人間は完璧では無いが故に、完璧から次第に遠ざかってしまうのはなんとも残念な話です。
それと、武力では人の心は動かせないと言う事をまざまざと感じさせる史実ですね。
無理が通れば道理引っ込む。
相手を説得するのは膨大な時間と忍耐が
必要ですが、その労力を惜しむと人の恨みを買うことになりますね・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
島原の乱が起きた背景には、様々な事情がありますね。
さて、先の総攻撃で、板倉など4,000人以上の死傷者を出した幕府側は、一揆勢に対して兵糧攻めの作戦に出ました。長引く戦いで兵糧や弾薬が尽きた一揆勢は、次第に苦しくなりました。
持久戦を選んだとはいえ、あまりにも戦いが長引くと幕府の威信にかかわると判断した信綱は、2月28日に総攻撃をかけて、一揆勢を鎮圧することに決めました。
しかし、信綱の動きを察した佐賀藩(さがはん)の鍋島勝茂(なべしまかつしげ)が抜け駆けをしたために、一日総攻撃が早まっただけでなく、指揮系統が乱れたことで幕府軍は混乱し、死者1,000人以上、負傷者を合わせれば1万人を超える被害を出してしまいました。





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ぴーち こんばんは!
戦いの理由と言うのは実に複雑な人間の
思いが交錯するものですね。
しかもそれは正義の為などではなく、
己の威信の為、顕示欲など
自分自身の力を誇示したいが為の戦いとなると
これほどまでに泥沼化してしまうものなのですね。
恐ろしいです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、恐ろしいですね。
島原の乱には人間の「嫌な部分」がすべてあらわれているような感があります。
なお、乱後に松倉勝家は領地を没収されただけでなく、大名としては異例の斬首刑に処せられ、寺沢堅高は唐津藩の領地のうち天草領を没収されると、ショックを受けたのか後に自害して、寺沢家は御家断絶になりました。また、抜け駆けした鍋島勝茂も罰を受けています。
大名への斬首刑など厳しい処罰を行ったということは、それだけ幕府が島原の乱が起きたことに大きな衝撃を受けていたということであり、この後、幕府はますますキリスト教(=カトリック)への弾圧を強めることになりました。
1639年、幕府はポルトガル船の来航を禁止して、カトリックを信仰する国とは国交を断絶しました。さらに2年後の1641年には、平戸のオランダ商館を長崎の出島に移し、オランダ人と日本人との自由な交流も禁止するなど、長崎奉行の厳しい監視が続けられました。





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ぴーち こんばんは!
斬首刑ですか・・
丁度、10日ほど前に全く見覚えない人が
私の目の前で斬首刑で首を落とされ
驚いて
飛び起きたら、夢だったと言うのを思い出してしまいました(^_^;)(^_^;)
その日、そう言えば、携帯を紛失してしまいましたっけ・・
今思うと
悪いことが起きる前触れだったのかも・・(T_T)
まあ、私の話はさておき、
この場合は外国の陰謀を阻止したかった日本の措置だった訳で、決して相手がキリスト教だったからという話では無かったのでしょうけれど、
それでも、こう言う事実を伺うと、惨たらしい場面が
浮かんで来て、やり切れませんね・・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 それは大変な夢でしたね…。
今回の場合は、松倉氏の無茶な統治が島原の乱を生んでしまったのですから、極刑もやむを得ないと思います。
うろつき これだけ大き犠牲が出れば、キリスト教を排除したくなります。
トランプ氏みたいな事を言ってしまいましたが。
制限された貿易。
商人からすれば、つまらない話ですよね~(-_-;)
うろつきさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、やむを得ないですね。
貿易は幕府の独占ですが、確かに商人にとっては旨みが少ないですね。
なお、幕府によるキリスト教の弾圧はその後も続けられ、1664年に寺請(てらうけ)制度を設けて、民衆が信仰する宗教の調査のために宗門(しゅうもん)改めを実施し、すべての国民を寺院の檀徒(だんと)として、宗旨人別帳(しゅうしにんべつちょう)に登録させました。
寺請制度によって、全国民が在住する周辺の寺院の檀家(だんか)として、寺院への参詣や父祖の法要、あるいは付け届けを義務付けられ、これらに応じなければキリシタンとみなされるようになってしまいました。
この他にも、キリストやマリアの聖画像などを踏ませる絵踏(えぶみ)を行ったり、キリシタンの密告を奨励したりするなどの政策を行いました。





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ぴーち こんばんは!
オランダはキリスト教を布教しないと約束したのですか・・
その後のオランダとの関係は、どうだったのでしょうか。
もしかしたら
当時のオランダは宗教を隠れ蓑とした野望を、他のものに上手くすり替えて
日本との国交を続ける手段に成功したというオチが
付いて来る訳ではないでしょうね?w
ぴーちさんへ
黒田裕樹 オランダはプロテスタントを信仰していました。
プロテスタントはヨーロッパで確実に浸透しており、海外での布教の必要がなかったので、貿易だけのビジネスライクな関係を望んだということになりますね。
最初に考えられるのは、鎖国の状態に入った頃の我が国は戦国時代が終わったばかりで、数十万の兵士や鉄砲が存在していたことでした。これだけの兵力や武器を所有している国は、当時は他になく、ヨーロッパ諸国といえどもそう簡単には攻められません。
また、この頃はヨーロッパ諸国において大きな変化があり、それまでのイスパニアやポルトガルの国力が衰える一方で、新たにイギリスやオランダが勢力を伸ばしつつありましたが、両国はプロテスタントを信仰しており、カトリックと違って領土的野心を持っていなかったことも、我が国には良い結果をもたらしました。
さらには、当時の我が国が、鉄砲の増産を可能とするなど先進的な文化を持っており、海外との結びつきがなくても、自国だけで十分に経済や文化が発展できたことや、島国であるがゆえに、海という「天然の防壁」が、我が国の防衛力を高めていたことも考えられます。
しかしながら、これは同時に、もし当時の我が国にとって「長所」となっていた様々な利点が失われてしまえば、一転して我が国は苦しい立場に追い込まれてしまうことも意味しました。そして、その不安は、約200年後に現実のものとなってしまうのです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど。
ある面では確かに利点であるけれど、
ある面では、それが短所にもなりうる訳ですね。
両刃の剣ですか・・
難しいですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 鎖国の利点が崩れ落ちていくのは第51回歴史講座で詳しく紹介したとおりですが、利点が時の流れで短所になるのは何とも言えませんね。