様々な考えがあるとは思いますが、最も一般的なのは「諸外国との一切の交渉を行わない」ことによるマイナスの印象ではないでしょうか。これには江戸時代末期、すなわち幕末の開国によって、我が国がそれまでに経験したことのない大きな混乱の時代を迎えたという現実も後押ししていると思います。
いずれにせよ、一般的には否定的なイメージでとらえられがちな鎖国ですが、その実態は「制限貿易」でしかなく、完全なかたちでの鎖国ではなかった、というのが真実であることは、意外にも知られていないようです。
では、なぜ我が国で制限貿易を行う必要があったのでしょうか。話は中世のヨーロッパ史にまでさかのぼります。





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ぴーち こんばんは!
確かに諸外国との交流を一切避けていた印象が
有りますし、、学校では鎖国について時間を割いてまでも
教えてはくれなかった気がします。
鎖国に関してはマイナスイメージも有りますが、
半面、江戸独特の文化が開花したのも
鎖国があってこそだと思います。
今でも外国の方がこよなく
愛するのは今の日本よりも鎖国をしていた時代の
日本である様に思います。
きっと世の中が平和を継続出来ている時は
鎖国も1つの文化として認められるかも知れませんが、
ひと度、争いごとが起きた時には、鎖国時代は
長すぎた無駄な時間だったと
悩みの種と
化してしまうのではないでしょうかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
鎖国時代には華やかな文化が生まれましたが、その分安全保障が大いに後退してしまいました。
…なんだか現代を見ているようですね。
大航海時代の先頭に立っていたのは、早くから絶対主義を形成していた、イベリア半島の王国であるイスパニア(=スペイン)とポルトガルでした。両国は産業や貿易を保護して輸出を拡大し、国富(こくふ)の増大をめざす重商主義に基づいて、植民地の獲得に力を注ぎました。
やがてイスパニアはアメリカ大陸に植民地を広げると、16世紀半ばには太平洋を横断して東アジアに進出し、フィリピン諸島を占領して、ルソン島のマニラを根拠地としました。
一方、ポルトガルは、インド洋で貿易を行っていたアラブ人を追い出すと、インド西海岸のゴアを根拠地として東へ進出し、マレー半島のマラッカから、明(ミン)のマカオにも拠点を築きました。要するに、イスパニアは西廻りで、ポルトガルは東廻りでそれぞれアジアに進出したことになります。





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ぴーち こんばんは!
世界の混乱を招いている原因と言うのは、
突き詰めて考えると、宗教的な考えの相違が
根底にあり、そこから色々な理由が肉付けされていき
人々は憎しみ合い、奪い合いを繰り返している気がしてなりませんが、いかがでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るお考えで間違いないと思います。
宗教の対立が世界の不幸を招くのは、いつの時代も変わりません。
うろつき 大航海時代ですか~(^-^ゞ
陸地には、イスラム帝国とモンゴル帝国がいたから、海から世界中の人に略奪と虐殺をしに行ったんですよね。
雄大な名称ですが、やってることは悪そのものですよね。
レコンキスタでの失敗~(-_-;)
今思えば、イスラム帝国が、あの凶悪な白人を封じ込めていたんですね。
うろつきさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
大航海時代の真実については、次回以降で詳しく紹介します。
当時のイスパニアとポルトガルとの間には、15世紀末の1494年に、大西洋を東西に分ける一本の線が引かれ、この線から東側で発見されるものはすべてポルトガルに、西側で発見されるものはすべてイスパニアに属するという取り決めが、カトリックのローマ教皇の承認によって結ばれました。これをトルデシリャス条約といいます。
地球をまるで饅頭(まんじゅう)を二つに割るかのようなとんでもない発想ですが、これは、当時の白人至上主義による人種差別に基づいた、いわば当然の思想でもありました。
その後、両国が条約の取り決めを守りながら、着実に植民地化を進めた結果、南アメリカ大陸西側にあったインカ帝国や、メキシコ中央部にあったアステカ帝国という二つの国が滅ぼされ、国民の生命や財産、さらに文化が永遠に失われてしまうという悲劇が生じたのです。





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ぴーち こんばんは!
確かに大航海時代なんて聞くと
大海原を優雅に駆けまわるような
耳には心地よい響きですものね(^^ゞ
そんな悲惨な真実が隠されていたとは
驚きます!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 歴史はある意味「勝者がつくる」ものですからね。
白人至上主義の恐ろしさが、この後も続くことになります。
そんな折の1543年、ポルトガル人を乗せた明の船が、九州南方の種子島(たねがしま)に漂着(ひょうちゃく)しました。これが我が国に初めて上陸したヨーロッパ人です。領主の種子島時尭(たねがしまときたか)は、ポルトガル人が所有していた鉄砲に興味を示してこれを購入すると、家臣にその使用法と製造法を学ばせました。
手先が器用だった鍛冶(かじ)職人によって、鉄砲がまたたく間に複製されると、やがて貿易港でもあった堺などにおいて大量に生産され、各地の戦国大名に売り込まれました。
鉄砲の出現は、それまでの弓や槍(やり)、あるいは騎馬隊を主力とした戦闘方法が、鉄砲による歩兵戦が中心になるなどの大きな変化をもたらしました。また、鉄砲は雨が降ると使用できないという弱点を持つ一方、雨の心配のない城の中では、内部へと迫ってくる敵を狙い撃ちできることから籠城戦に最適とされ、城の構築方法も、それまでの山城(やまじろ)から平山城(ひらやまじろ)、あるいは平城(ひらじろ)へと変化していきました。
なお、ポルトガル人は、鉄砲そのものを我が国に購入させる目的で種子島にわざと漂着したのではないかとも考えられています。その野望は、我が国で鉄砲が大量生産されたことで潰(つい)えましたが、火薬の原料となる硝石(しょうせき)が我が国で生産されなかったことから、これを我が国に輸入することで貿易が成立することになりました。





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ぴーち こんばんは!
なるほど、
では、ポルトガル人は日本に売り込めば
必ず成果が得られると最初から踏んでいたという
訳ですか・・
伝来以前に日本人の特質を何処かで
把握していたのでしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 恐らくは「自分たちはこんなすごい鉄砲がつくれるんだぞ。お前たちには無理だろう」といわんばかりに、鉄砲を高値で売りつけようとしたのではないかと思われますね。
ところが、日本人が簡単につくれてしまったことで、その点では当てが外れたと言えそうです。
ぴーち なるほど、逆にそうでしたか^^
そう言えば、北朝鮮が
他人の遺骨を送りつけて来て
死亡したなどと言い訳して来ましたが、
日本の高度な技術力を持ってすれば
容易く判断出来る事を知らなかった事例に
似ている気が・・・
何事も、相手を見くびると自分がバカを見るという
教訓でしょうか(^_^;)
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 > 何事も、相手を見くびると自分がバカを見るという
> 教訓でしょうか(^_^;)
仰るとおりですね。
我が国とて他人事ではありません。
総合的な対策が常に求められています。
ところで、大航海時代のきっかけのひとつとなった宗教改革によって、カトリックは新興のプロテスタントの圧迫を受けることになりましたが、巻き返しを図りたいカトリックはイエズス会を設立して、アフリカやアジアなど、ヨーロッパ以外の各地での布教をめざしました。
イエズス会による布教活動は、イスパニアやポルトガルによる植民地政策と一体化して行われました。布教の拡大によって、地元住民にカトリックを信仰させ、その後に「神の名の下に」侵略を仕掛けることで、容易に目的を達成できるという、いわばお互いの利害が一致した結果でした。
我が国との南蛮貿易も、実は布教活動と一体化させていたのであって、イエズス会のフランシスコ=ザビエルが、1549年に鹿児島に到着すると、領主である島津貴久(しまづたかひさ)の許可を得て布教活動を開始しました。





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ぴーち こんばんは!
本来、純粋な思いで行うべき宗教も
人間の心得1つで
悪用されたりする訳ですものね。
道具を生かすも殺すも
それを使う人間の判断次第のように。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 残念ながら仰るとおりです。
白人至上主義がもたらした、悪魔のような歴史がそこにあります。
フランシスコ=ザビエル自身は2年あまりで我が国を離れましたが、我が国における布教活動に道筋をつけたことで、この後も、ルイス=フロイスなどの宣教師が相次いで来日して、教会堂である南蛮寺(なんばんでら)や宣教師の養成学校であるコレジオ、神学校であるセミナリオなどを次々と建てました。
また、ポルトガル船が、カトリックの布教を認めた大名領にしか入港しなかったこともあって、各地の戦国大名の多くは、南蛮貿易による権益の欲しさから、宣教師の布教活動を保護するばかりでなく、中には自らが洗礼を受けて、キリシタン大名となる者も現れました。
キリシタン大名のうち、九州の大友宗麟や大村純忠(おおむらすみただ)・有馬晴信(ありまはるのぶ)らは、イタリア人宣教師のヴァリニャーニの勧めによって、1582年に少年使節をローマ教皇のもとに派遣しました。これを、当時の年号から天正遣欧(けんおう)使節といいます。
カトリックによる教えは、ヨーロッパの進んだ文化にあこがれたり、あるいは既存の仏教を中心とした宗教勢力が、権益を求めて争い合う姿勢に不満を持ったりした人々の間で急速に広まっていきましたが、その一方で、カトリックに潜(ひそ)む我が国侵略の野望は、水面下で確実に広がっていったのです。





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ぴーち おはようございます!
カトリックが日本に受け入れられた理由は、
仏教に不満があった人間が反発心から
入信しただけとばかりに解釈していましたが、
そこに利益も絡むとなると、確かに数は増えて
いきまね。
それこそ、崇高な信仰心から遠ざかった
考え方ではなかったのは残念に思う所ですが・(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 宗教への入信には色々な理由がありますからね。
問題はむしろ入信した後です。このときからの我が国がどうなってしまうのか…。