改憲の是非はともかく、これまで一般国民に全く示されてこなかった「改憲に関する論議」が活発化するのは、日本国憲法が制定された経緯を明らかにするとともに、憲法9条という名の「一国平和主義」が世界に通用するかどうかも当然議論の対象となりますから、我が国の未来のためにも歓迎すべきではないかと思います。
もっとも、講座本文で指摘しましたように、我が国は元々「不文憲法の国家」なのですから、改憲よりもそちらに戻ってほしいという願いもありますが。
さて、不文憲法であった我が国が、成文憲法の国に「させられた」のは、講座本文にもあったように、長いあいだの「鎖国」が原因でした。しかし、江戸時代初期に行った「制限貿易」は、当時の我が国にとって必要不可欠なものだったのです。
では、我が国がいわゆる「鎖国」の状態となった背景には、どのような歴史の流れがあったのでしょうか。ここからは、我が国の「鎖国に至るまでの歴史」について、改めて詳しく探っていきたいと思います。





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ぴーち こんばんは!
考えてみれば、憲法9条に関して
抑止力を果たす相手国と言うと、今やアメリカだけのような気がして参りました。
けれど
いつまでも9条があることが
邪魔に感じるアメリカですので
今後、日本が言うことを聞かないでいると
あの手この手で取り外しに掛かってくるのでしょうから
日本は何にしても
アメリカに賛同して行かなければならない
運命なのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 北朝鮮の「水爆実験成功報道」など、我が国を取り巻く世界情勢は急速に変化していますからね。
今後の方針を決めるためにも、歴史に学ぶことは重要です。
様々な考えがあるとは思いますが、最も一般的なのは「諸外国との一切の交渉を行わない」ことによるマイナスの印象ではないでしょうか。これには江戸時代末期、すなわち幕末の開国によって、我が国がそれまでに経験したことのない大きな混乱の時代を迎えたという現実も後押ししていると思います。
いずれにせよ、一般的には否定的なイメージでとらえられがちな鎖国ですが、その実態は「制限貿易」でしかなく、完全なかたちでの鎖国ではなかった、というのが真実であることは、意外にも知られていないようです。
では、なぜ我が国で制限貿易を行う必要があったのでしょうか。話は中世のヨーロッパ史にまでさかのぼります。





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ぴーち こんばんは!
確かに諸外国との交流を一切避けていた印象が
有りますし、、学校では鎖国について時間を割いてまでも
教えてはくれなかった気がします。
鎖国に関してはマイナスイメージも有りますが、
半面、江戸独特の文化が開花したのも
鎖国があってこそだと思います。
今でも外国の方がこよなく
愛するのは今の日本よりも鎖国をしていた時代の
日本である様に思います。
きっと世の中が平和を継続出来ている時は
鎖国も1つの文化として認められるかも知れませんが、
ひと度、争いごとが起きた時には、鎖国時代は
長すぎた無駄な時間だったと
悩みの種と
化してしまうのではないでしょうかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
鎖国時代には華やかな文化が生まれましたが、その分安全保障が大いに後退してしまいました。
…なんだか現代を見ているようですね。
大航海時代の先頭に立っていたのは、早くから絶対主義を形成していた、イベリア半島の王国であるイスパニア(=スペイン)とポルトガルでした。両国は産業や貿易を保護して輸出を拡大し、国富(こくふ)の増大をめざす重商主義に基づいて、植民地の獲得に力を注ぎました。
やがてイスパニアはアメリカ大陸に植民地を広げると、16世紀半ばには太平洋を横断して東アジアに進出し、フィリピン諸島を占領して、ルソン島のマニラを根拠地としました。
一方、ポルトガルは、インド洋で貿易を行っていたアラブ人を追い出すと、インド西海岸のゴアを根拠地として東へ進出し、マレー半島のマラッカから、明(ミン)のマカオにも拠点を築きました。要するに、イスパニアは西廻りで、ポルトガルは東廻りでそれぞれアジアに進出したことになります。





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ぴーち こんばんは!
世界の混乱を招いている原因と言うのは、
突き詰めて考えると、宗教的な考えの相違が
根底にあり、そこから色々な理由が肉付けされていき
人々は憎しみ合い、奪い合いを繰り返している気がしてなりませんが、いかがでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るお考えで間違いないと思います。
宗教の対立が世界の不幸を招くのは、いつの時代も変わりません。
うろつき 大航海時代ですか~(^-^ゞ
陸地には、イスラム帝国とモンゴル帝国がいたから、海から世界中の人に略奪と虐殺をしに行ったんですよね。
雄大な名称ですが、やってることは悪そのものですよね。
レコンキスタでの失敗~(-_-;)
今思えば、イスラム帝国が、あの凶悪な白人を封じ込めていたんですね。
うろつきさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
大航海時代の真実については、次回以降で詳しく紹介します。
当時のイスパニアとポルトガルとの間には、15世紀末の1494年に、大西洋を東西に分ける一本の線が引かれ、この線から東側で発見されるものはすべてポルトガルに、西側で発見されるものはすべてイスパニアに属するという取り決めが、カトリックのローマ教皇の承認によって結ばれました。これをトルデシリャス条約といいます。
地球をまるで饅頭(まんじゅう)を二つに割るかのようなとんでもない発想ですが、これは、当時の白人至上主義による人種差別に基づいた、いわば当然の思想でもありました。
その後、両国が条約の取り決めを守りながら、着実に植民地化を進めた結果、南アメリカ大陸西側にあったインカ帝国や、メキシコ中央部にあったアステカ帝国という二つの国が滅ぼされ、国民の生命や財産、さらに文化が永遠に失われてしまうという悲劇が生じたのです。





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ぴーち こんばんは!
確かに大航海時代なんて聞くと
大海原を優雅に駆けまわるような
耳には心地よい響きですものね(^^ゞ
そんな悲惨な真実が隠されていたとは
驚きます!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 歴史はある意味「勝者がつくる」ものですからね。
白人至上主義の恐ろしさが、この後も続くことになります。
そんな折の1543年、ポルトガル人を乗せた明の船が、九州南方の種子島(たねがしま)に漂着(ひょうちゃく)しました。これが我が国に初めて上陸したヨーロッパ人です。領主の種子島時尭(たねがしまときたか)は、ポルトガル人が所有していた鉄砲に興味を示してこれを購入すると、家臣にその使用法と製造法を学ばせました。
手先が器用だった鍛冶(かじ)職人によって、鉄砲がまたたく間に複製されると、やがて貿易港でもあった堺などにおいて大量に生産され、各地の戦国大名に売り込まれました。
鉄砲の出現は、それまでの弓や槍(やり)、あるいは騎馬隊を主力とした戦闘方法が、鉄砲による歩兵戦が中心になるなどの大きな変化をもたらしました。また、鉄砲は雨が降ると使用できないという弱点を持つ一方、雨の心配のない城の中では、内部へと迫ってくる敵を狙い撃ちできることから籠城戦に最適とされ、城の構築方法も、それまでの山城(やまじろ)から平山城(ひらやまじろ)、あるいは平城(ひらじろ)へと変化していきました。
なお、ポルトガル人は、鉄砲そのものを我が国に購入させる目的で種子島にわざと漂着したのではないかとも考えられています。その野望は、我が国で鉄砲が大量生産されたことで潰(つい)えましたが、火薬の原料となる硝石(しょうせき)が我が国で生産されなかったことから、これを我が国に輸入することで貿易が成立することになりました。





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ぴーち こんばんは!
なるほど、
では、ポルトガル人は日本に売り込めば
必ず成果が得られると最初から踏んでいたという
訳ですか・・
伝来以前に日本人の特質を何処かで
把握していたのでしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 恐らくは「自分たちはこんなすごい鉄砲がつくれるんだぞ。お前たちには無理だろう」といわんばかりに、鉄砲を高値で売りつけようとしたのではないかと思われますね。
ところが、日本人が簡単につくれてしまったことで、その点では当てが外れたと言えそうです。
ぴーち なるほど、逆にそうでしたか^^
そう言えば、北朝鮮が
他人の遺骨を送りつけて来て
死亡したなどと言い訳して来ましたが、
日本の高度な技術力を持ってすれば
容易く判断出来る事を知らなかった事例に
似ている気が・・・
何事も、相手を見くびると自分がバカを見るという
教訓でしょうか(^_^;)
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 > 何事も、相手を見くびると自分がバカを見るという
> 教訓でしょうか(^_^;)
仰るとおりですね。
我が国とて他人事ではありません。
総合的な対策が常に求められています。
ところで、大航海時代のきっかけのひとつとなった宗教改革によって、カトリックは新興のプロテスタントの圧迫を受けることになりましたが、巻き返しを図りたいカトリックはイエズス会を設立して、アフリカやアジアなど、ヨーロッパ以外の各地での布教をめざしました。
イエズス会による布教活動は、イスパニアやポルトガルによる植民地政策と一体化して行われました。布教の拡大によって、地元住民にカトリックを信仰させ、その後に「神の名の下に」侵略を仕掛けることで、容易に目的を達成できるという、いわばお互いの利害が一致した結果でした。
我が国との南蛮貿易も、実は布教活動と一体化させていたのであって、イエズス会のフランシスコ=ザビエルが、1549年に鹿児島に到着すると、領主である島津貴久(しまづたかひさ)の許可を得て布教活動を開始しました。





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ぴーち こんばんは!
本来、純粋な思いで行うべき宗教も
人間の心得1つで
悪用されたりする訳ですものね。
道具を生かすも殺すも
それを使う人間の判断次第のように。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 残念ながら仰るとおりです。
白人至上主義がもたらした、悪魔のような歴史がそこにあります。
フランシスコ=ザビエル自身は2年あまりで我が国を離れましたが、我が国における布教活動に道筋をつけたことで、この後も、ルイス=フロイスなどの宣教師が相次いで来日して、教会堂である南蛮寺(なんばんでら)や宣教師の養成学校であるコレジオ、神学校であるセミナリオなどを次々と建てました。
また、ポルトガル船が、カトリックの布教を認めた大名領にしか入港しなかったこともあって、各地の戦国大名の多くは、南蛮貿易による権益の欲しさから、宣教師の布教活動を保護するばかりでなく、中には自らが洗礼を受けて、キリシタン大名となる者も現れました。
キリシタン大名のうち、九州の大友宗麟や大村純忠(おおむらすみただ)・有馬晴信(ありまはるのぶ)らは、イタリア人宣教師のヴァリニャーニの勧めによって、1582年に少年使節をローマ教皇のもとに派遣しました。これを、当時の年号から天正遣欧(けんおう)使節といいます。
カトリックによる教えは、ヨーロッパの進んだ文化にあこがれたり、あるいは既存の仏教を中心とした宗教勢力が、権益を求めて争い合う姿勢に不満を持ったりした人々の間で急速に広まっていきましたが、その一方で、カトリックに潜(ひそ)む我が国侵略の野望は、水面下で確実に広がっていったのです。





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ぴーち おはようございます!
カトリックが日本に受け入れられた理由は、
仏教に不満があった人間が反発心から
入信しただけとばかりに解釈していましたが、
そこに利益も絡むとなると、確かに数は増えて
いきまね。
それこそ、崇高な信仰心から遠ざかった
考え方ではなかったのは残念に思う所ですが・(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 宗教への入信には色々な理由がありますからね。
問題はむしろ入信した後です。このときからの我が国がどうなってしまうのか…。
信長のあとをうけて天下統一事業に取り組んだ豊臣秀吉(とよとみひでよし)も、当初はカトリックの布教を認めていましたが、そんな彼が、やがてイスパニアによる「カトリックに潜む世界侵略の野望」に気づく日がやって来ました。
1587年、島津氏を倒すために九州平定に乗り込んだ秀吉を、カトリックのイエズス会の宣教師が、当時の我が国に存在しない最新鋭の軍艦を準備して出迎えました。その壮大さに驚いた秀吉は、イエズス会による布教活動には、我が国への侵略が秘められているのではないかとの疑念を持ち始めました。
そして、現地を視察した秀吉が、彼に待ち受けていた「3つの信じられない出来事」を目にしたことによって、疑念が確信へと大きく変化したのです。





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ぴーち こんにちは!まさに、百聞は一見に如かずですね。
それにしても、カトリックの野望に気が付くとは・・さすがです。
織田様は、自らが野望に生きたような人物の様なので当たり前の様に感じていたのかしら・・(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 織田様は、自らが野望に生きたような人物の様なので当たり前の様に感じていたのかしら・・(^_^;)
これは私の推論ですが、自分に敵する相手に対する容赦ない仕打ちを見せつけられたカトリック側が、信長の生存中は猫をかぶっていた可能性が高いと考えております。その後、秀吉に代わって「もう大丈夫だろう」と思っていたら、そんなことはなかったというところでしょうか。
いかに信仰のためとはいえ、我が国古来の領地を外国の所有に任せるという行為は、自身による天下統一をめざした秀吉にとっては有り得ないことであると同時に、イエズス会やその裏に存在した、イスパニアの領土的野心に嫌でも気づかされることになりました。
次に秀吉を待ち受けていたのは、キリシタン大名の領内において、無数の神社や寺が焼かれていたという現実でした。これらは、カトリックの由来であるキリスト教が一神教であり、キリスト以外の神の存在を認めなかったことによって起きた悲劇でもありましたが、秀吉の目には、我が国の伝統や文化を破壊する許せない行動としか映りませんでした。
さらに秀吉を驚かせたのが、ポルトガルの商人が、多数の日本人を奴隷(どれい)として強制連行していた事実でした。支配地の有色人種を奴隷扱いするのは、白人にとっては当然の行為であっても、天下統一をめざすことによって、国民の生命や財産を守る義務があると自覚していた秀吉には、絶対に認められない行為でした。





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ぴーち こんばんは!
私はずっと秀吉がどうして後になって
朝鮮征伐などという外国へ挑戦状をふいに叩きつけたのかという理由がまるでわかりませんでしたが、今回のような事が伏線となっていた訳ですか・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
詳しくは次回の更新で述べさせていただきます。
しかし、秀吉は権益もあって南蛮貿易そのものを禁止することはできず、結果として禁教政策は不徹底に終わり、カトリックはその後も広まっていきました。
ちなみに、秀吉はこの後1592年と1597年の2度にわたって朝鮮出兵を行いましたが、それらは決して朝鮮を侵略することが目的ではなく、イスパニアが中国の明を侵略しようとしたことに対し、先手を打つかたちで秀吉が自ら征服することを決意し、その道案内を拒否した朝鮮から攻め込んだという歴史的事実に関しては、これまでに私が何度か紹介したとおりです。
なお、1596年にイスパニアの商船が土佐(現在の高知県)に漂着した際に、乗組員が「イスパニアは領土征服の第一歩として宣教師を送り込んでいる」ことを、世界地図を示して誇ったという出来事があり(これをサン=フェリペ号事件といいます)、激怒した秀吉が京都の宣教師と信徒を捕えて、長崎で処刑するという結果につながりました(これを「26聖人殉教」といいます)。





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ぴーち こんばんは!
何故か今でも韓国人は
日本人と見ると敵対心を露わにしますが
その根源を秀吉の朝鮮半島侵略から始まっているなどと実しやかに言う方がいる限り、韓国も情報に関しては
閉鎖された環境なのだとお察し申し上げますm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
情報の閉鎖は支配者にとっては有益でも、国民に何の利益も生み出しません。
うろつき 秀吉が、北京を制圧し、新たな王朝を築かなくて良かった❗❗❗
我々が、中国人にされるところでした。
満州が、実際にそうですから。
うろつきさんへ
黒田裕樹 結果的にはそうなりますね。
ヨーロッパによるアジアの侵略を防いだという一面はある一方で、複雑なものです。
そんな折の1600年、オランダ船のリーフデ号が豊後に漂着した際に、秀吉にかわって天下統一をめざしていた徳川家康(とくがわいえやす)は、リーフデ号の航海士であるオランダ人のヤン=ヨーステンと、イギリス人の水先案内人(=波や水深など湾や港特有の専門知識を持ち、出入りする船に乗り込んで安全に航行させる職種のこと)であるウィリアム=アダムスを江戸に招き、彼らを外交や貿易の顧問として、両国との貿易をめざしました。
つまり、江戸時代の初期において、家康は外国との貿易を積極的に行おうとしていたのです。ちなみにウィリアム=アダムスは日本名で三浦按針(みうらあんじん)、ヤン=ヨーステンは耶楊子(やようす)となり、ヤン=ヨーステンが家康から与えられていた屋敷の場所は、彼の名前から、現在の「八重洲(やえす)」と呼ばれるようになりました。
なお、イギリスとオランダはほぼ同時期に東インド会社を設立し、東アジアに進出して東洋での貿易に乗り出しました。また両国は、カトリックではなくプロテスタントであったことや、イギリス人やオランダ人が紅毛人(こうもうじん)と呼ばれていたという共通点がありました。





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ぴーち こんばんは!
なるほど!八重洲にそんな語源があったとは
驚きました^^
家康はむしろ積極的に外国との交流を図ろうと
していたことがよく分かりました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 意外な歴史が存在するものですよね。
家康の考えがその後の我が国にどのような影響をもたらすのでしょうか…。
家康はイスパニアとの交易にも積極的で、1609年に上総(かずさ、現在の千葉県の一部)に漂着したルソンの前総督ドン=ロドリゴを、翌1610年に船で送還する際に、京都の商人であった田中勝介(たなかしょうすけ)らを同行させ、イスパニア領ノヴィスパン(=メキシコ)との通商を求めました。
また、仙台藩主の伊達政宗(だてまさむね)は、1613年に家臣の支倉常長(はせくらつねなが)をイスパニアに派遣して、ノヴィスパンで直接交易を開こうとしましたが、いずれも目的を果たすことはできませんでした。
なお、支倉常長の使節団は、当時の年号から慶長遣欧使節と呼ばれています。また、田中勝介は後に帰国を果たし、太平洋を横断した最初の日本人とされています。





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ぴーち こんばんは!
田中勝介ですか・・
お名前は初めて伺ったのですが、
これは歴史認識者の方々の間では当然
ご承知のことなのでしょうけれど、
私のような一般人の間では、
知らない方も多いのでは無いかと思うのですが
もしかして、私だけ知らなかったという事は
有るでしょうか(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 残念ながらあまり知られていないですね。
日本人の快挙をもっと教えるべきではないかと思いますが…。
当時の貿易の主な輸入品は中国産の生糸でしたが、マカオを拠点とするポルトガル商人が、生糸を長崎に持ち込んで巨利を得ていました。この事態を重く見た幕府は、1604年に糸割符(いとわっぷ)制度を設けて、糸割符仲間と呼ばれた京都・堺・長崎・江戸・大坂の五ヵ所商人に一括して購入させることで、生糸の価格を抑制しました。
ちなみに輸出品は、石見(いわみ)銀山や生野(いくの)銀山などから、当時の我が国で豊富に産出していた銀が中心であり、当時の我が国の銀の輸出高は、世界の銀の産出高の3分の1にも及びました。
朱印船貿易が盛んになると、海外に移住する日本人も増加し、東南アジアの各地で、数百人から数千人の日本人が日本町(にほんまち)をつくりました。また日本人の中には、山田長政(やまだながまさ)のように、アユタヤ朝(現在のタイ)の王室に重く用いられ、後に六昆(りくこん、別名をリゴール)の太守にまで出世した者も現れました。





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ぴーち こんばんは!
恥ずかしながら、秀吉の時代に
それほどまでに日本人が海外へ進出して
居たことを初めて知りました。
どうしても、江戸時代の鎖国という文字のインパクトが大きすぎてか、想像すら出来ませんでした(ノ∀`)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんですよね。
それだけ「鎖国」という言葉に閉鎖的なイメージが強いのだと思います。
理由の第1は、キリスト教(=カトリック)の問題でした。幕府は始めのうちはカトリックを黙認していましたが、一神教であるキリスト教の性質から、仏教や儒教との対立が深刻化しており、キリシタンと呼ばれた信者たちが団結して、幕府に反抗する可能性もありました。
しかし、何よりも問題視されたのは、カトリックによる布教が、秀吉の時代から続いていた「我が国侵略の野望」と結びついていたことでした。
また、同じキリスト教でも、プロテスタントを信仰していたイギリスやオランダが、自国の貿易の利益を守るために、カトリックに潜む領土的野心を幕府に警告していたのも大きく影響しました。





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ぴーち こんばんは!
やっぱり、ここでも「宗教」絡みですね(^_^;)
宗教の教えそのものの違いもそうですが、
宗教を手玉に取り裏で糸引く大きな陰謀がまた
問題をこじらせる厄介な存在になりますよね。
結局、最終的には人間の「強欲」さが
揉め事の始まりの様ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに欲がからんでいますね。
カトリックは日本侵略の野望が、プロテスタントは貿易の利権が…。
当時の我が国の選択はどうだったでしょうか?
江戸幕府が貿易を厳しく統制した理由の第2は、貿易の利益を幕府が独占するためでした。なぜなら、貿易は必ずと言っていいほど儲(もう)かるからです。
外国から「輸入する」ということは、その商品が我が国では手に入らなかったり、手に入ったとしても非常に高価だったりするのが普通です。と言うことは、輸入によって仕入れた商品は、相手がどんなに高価でも手に入れようとしたり、あるいは安く大量に手に入れたりすることによっても、結果的に大儲けにつながるというわけです。もちろん「輸出」の場合も理論的には同じです。
当時の貿易は、幕府だけではなく西国の大名も行っていました。大名が「おいしい」貿易を行って、その利益で強大な経済力と軍事力を持つことによって、幕府に反逆するようになることを恐れたのです。





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ぴーち こんばんは!
確かに外国との取引というのは
今でも外資系企業などを含め、羽振りが良いみたいですが、儲ける事が出来るだけに
熾烈な争いも盛んな世界なのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
現代のような平和的な競争社会ならともかく、他の大名よりも常に武力で上位に立たねばならない幕府のプレッシャーは相当なものであったことでしょう。
さらに1633年には、従来の朱印状の他に、老中奉書(ろうじゅうほうしょ)という許可状を受けた、奉書船以外の日本商船の海外渡航を禁止し、1635年には、日本人の海外渡航や在外日本人の帰国を全面的に禁止しました。また、この間に中国船の寄港を長崎に限定したほか、長崎に出島(でじま)を築いてポルトガル人を移動させ、日本人との接触を制限しました。
ところで、島原藩(しまばらはん)が置かれていた肥前国島原(現在の長崎県島原市付近)は、かつてはキリシタン大名であった有馬晴信が領有しており、その関係もあって、領内には多数のキリシタンが存在していました。
しかし、有馬氏が日向国延岡(現在の宮崎県延岡市付近)に領地替えとなり、幕府直轄の天領を経て、松倉氏(まつくらし)が新たに藩主となりました。





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ぴーち こんばんは!
日本人が海外へ行くことを禁じるのはまだしも、
海外にいる日本人が帰国出来ないというのは
厳しいお触れでしたね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 海外の日本人が帰国できなかったのは、滞在中にキリシタンに改宗して、帰国後に布教活動をする恐れがあったからとされています。ここまで用心しなければならないほど、幕府にとってキリシタンが手ごわい存在だったのでしょうね。
また、同じくキリシタン大名だった小西行長(こにしゆきなが)が関ヶ原の戦いで処刑された後に、唐津藩(からつはん)が領有していた肥後国天草(現在の天草諸島)においても、藩主の寺沢堅高(てらざわかたたか)による農民への圧政とキリシタンに対する弾圧が続いており、島原や天草のキリシタンや農民たちは、日々追いつめられていきました。
1637年、圧政にたえかねた島原と天草の農民や、キリシタンを含む牢人(ろうにん)たちが大規模な一揆を起こし、天草四郎(あまくさしろう、本名は益田時貞=ますだときさだ)を中心に、3万人を超える勢力が、島原の原城跡(はらじょうあと)に立てこもりました。世にいう「島原の乱」の始まりです。
これに対し、幕府は板倉重昌(いたくらしげまさ)を島原へ派遣しましたが上手くいかず、板倉は翌1638年の元日に総攻撃をかけた後に討死しました。幕府は老中の松平信綱(まつだいらのぶつな)を新たに派遣して、12万以上の軍勢で、陸と海から原城を取り囲みました。





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ぴーち こんばんは!
なるほど。
宗教と言うのは最初の創始者には偉大な力が
備わっていたのでしょうけれど、それを継承していく者に僅かでも私利私欲が加算されると、宗教そのものがただの看板でしか無くなりますね。
人間は完璧では無いが故に、完璧から次第に遠ざかってしまうのはなんとも残念な話です。
それと、武力では人の心は動かせないと言う事をまざまざと感じさせる史実ですね。
無理が通れば道理引っ込む。
相手を説得するのは膨大な時間と忍耐が
必要ですが、その労力を惜しむと人の恨みを買うことになりますね・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
島原の乱が起きた背景には、様々な事情がありますね。
さて、先の総攻撃で、板倉など4,000人以上の死傷者を出した幕府側は、一揆勢に対して兵糧攻めの作戦に出ました。長引く戦いで兵糧や弾薬が尽きた一揆勢は、次第に苦しくなりました。
持久戦を選んだとはいえ、あまりにも戦いが長引くと幕府の威信にかかわると判断した信綱は、2月28日に総攻撃をかけて、一揆勢を鎮圧することに決めました。
しかし、信綱の動きを察した佐賀藩(さがはん)の鍋島勝茂(なべしまかつしげ)が抜け駆けをしたために、一日総攻撃が早まっただけでなく、指揮系統が乱れたことで幕府軍は混乱し、死者1,000人以上、負傷者を合わせれば1万人を超える被害を出してしまいました。





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ぴーち こんばんは!
戦いの理由と言うのは実に複雑な人間の
思いが交錯するものですね。
しかもそれは正義の為などではなく、
己の威信の為、顕示欲など
自分自身の力を誇示したいが為の戦いとなると
これほどまでに泥沼化してしまうものなのですね。
恐ろしいです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、恐ろしいですね。
島原の乱には人間の「嫌な部分」がすべてあらわれているような感があります。
なお、乱後に松倉勝家は領地を没収されただけでなく、大名としては異例の斬首刑に処せられ、寺沢堅高は唐津藩の領地のうち天草領を没収されると、ショックを受けたのか後に自害して、寺沢家は御家断絶になりました。また、抜け駆けした鍋島勝茂も罰を受けています。
大名への斬首刑など厳しい処罰を行ったということは、それだけ幕府が島原の乱が起きたことに大きな衝撃を受けていたということであり、この後、幕府はますますキリスト教(=カトリック)への弾圧を強めることになりました。
1639年、幕府はポルトガル船の来航を禁止して、カトリックを信仰する国とは国交を断絶しました。さらに2年後の1641年には、平戸のオランダ商館を長崎の出島に移し、オランダ人と日本人との自由な交流も禁止するなど、長崎奉行の厳しい監視が続けられました。





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ぴーち こんばんは!
斬首刑ですか・・
丁度、10日ほど前に全く見覚えない人が
私の目の前で斬首刑で首を落とされ
驚いて
飛び起きたら、夢だったと言うのを思い出してしまいました(^_^;)(^_^;)
その日、そう言えば、携帯を紛失してしまいましたっけ・・
今思うと
悪いことが起きる前触れだったのかも・・(T_T)
まあ、私の話はさておき、
この場合は外国の陰謀を阻止したかった日本の措置だった訳で、決して相手がキリスト教だったからという話では無かったのでしょうけれど、
それでも、こう言う事実を伺うと、惨たらしい場面が
浮かんで来て、やり切れませんね・・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 それは大変な夢でしたね…。
今回の場合は、松倉氏の無茶な統治が島原の乱を生んでしまったのですから、極刑もやむを得ないと思います。
うろつき これだけ大き犠牲が出れば、キリスト教を排除したくなります。
トランプ氏みたいな事を言ってしまいましたが。
制限された貿易。
商人からすれば、つまらない話ですよね~(-_-;)
うろつきさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、やむを得ないですね。
貿易は幕府の独占ですが、確かに商人にとっては旨みが少ないですね。
なお、幕府によるキリスト教の弾圧はその後も続けられ、1664年に寺請(てらうけ)制度を設けて、民衆が信仰する宗教の調査のために宗門(しゅうもん)改めを実施し、すべての国民を寺院の檀徒(だんと)として、宗旨人別帳(しゅうしにんべつちょう)に登録させました。
寺請制度によって、全国民が在住する周辺の寺院の檀家(だんか)として、寺院への参詣や父祖の法要、あるいは付け届けを義務付けられ、これらに応じなければキリシタンとみなされるようになってしまいました。
この他にも、キリストやマリアの聖画像などを踏ませる絵踏(えぶみ)を行ったり、キリシタンの密告を奨励したりするなどの政策を行いました。





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ぴーち こんばんは!
オランダはキリスト教を布教しないと約束したのですか・・
その後のオランダとの関係は、どうだったのでしょうか。
もしかしたら
当時のオランダは宗教を隠れ蓑とした野望を、他のものに上手くすり替えて
日本との国交を続ける手段に成功したというオチが
付いて来る訳ではないでしょうね?w
ぴーちさんへ
黒田裕樹 オランダはプロテスタントを信仰していました。
プロテスタントはヨーロッパで確実に浸透しており、海外での布教の必要がなかったので、貿易だけのビジネスライクな関係を望んだということになりますね。
最初に考えられるのは、鎖国の状態に入った頃の我が国は戦国時代が終わったばかりで、数十万の兵士や鉄砲が存在していたことでした。これだけの兵力や武器を所有している国は、当時は他になく、ヨーロッパ諸国といえどもそう簡単には攻められません。
また、この頃はヨーロッパ諸国において大きな変化があり、それまでのイスパニアやポルトガルの国力が衰える一方で、新たにイギリスやオランダが勢力を伸ばしつつありましたが、両国はプロテスタントを信仰しており、カトリックと違って領土的野心を持っていなかったことも、我が国には良い結果をもたらしました。
さらには、当時の我が国が、鉄砲の増産を可能とするなど先進的な文化を持っており、海外との結びつきがなくても、自国だけで十分に経済や文化が発展できたことや、島国であるがゆえに、海という「天然の防壁」が、我が国の防衛力を高めていたことも考えられます。
しかしながら、これは同時に、もし当時の我が国にとって「長所」となっていた様々な利点が失われてしまえば、一転して我が国は苦しい立場に追い込まれてしまうことも意味しました。そして、その不安は、約200年後に現実のものとなってしまうのです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど。
ある面では確かに利点であるけれど、
ある面では、それが短所にもなりうる訳ですね。
両刃の剣ですか・・
難しいですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 鎖国の利点が崩れ落ちていくのは第51回歴史講座で詳しく紹介したとおりですが、利点が時の流れで短所になるのは何とも言えませんね。