このため、幕府はカトリックを禁教にするとともに、信仰する諸国と国交を断絶し、同じキリスト教でもプロテスタントであり、我が国での布教をしないと約束したオランダや、同じアジアの国同士である清や李氏朝鮮など、限られた国との間でしか貿易を行いませんでした。
つまり、江戸幕府はカトリックを我が国に広めさせないとともに、貿易の利益を幕府で独占するために極端な「制限貿易」を行ったのです。
制限貿易にはこうした事情があったうえに、カトリックの信仰国との国交断絶という強硬な手段が可能だったのは、戦国時代の終結からまだ時間が経っておらず、全国で数十万の武士や、それと数を同じくする大量の鉄砲が存在していたという、当時の世界で最強レベルの強大な武力があったからこそでした。
しかし、我が国で平和が長年続くうちに、制限貿易の意味が履(は)き違えられて、諸外国との交渉を一切行わないという「鎖国」が「祖法(そほう、先祖の代から守るべきしきたりのこと)」であるという考えが、いつの間にか常識と化してしまったのです。
※下記の映像は12月29日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
諸外国との交流を活発化するという事は
同時にその国の宗教も認めざるをえないという
事だと思いますが、交流はしたいけれど、異国の
流儀は受け付けないとあれば確かに限界が生じて交流は制限されてしまいますね。
個人的にはこの世の中全ての人々は仏教的思想で成り立って貰いたいと願う者ですが、
それでも最初から制限を設けてしまうと相手国も心を閉ざしてしまいがちですし、日本の宗教観も
聞き入れて貰うチャンスを逃す事になるので
勿体無い事だとは思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、仰るような見方もありますね。
我が国の場合はいくらでもチャンスがあったのですが…。
意次は平助の意見を採用して蝦夷地の直轄(ちょっかつ)を計画し、幕府による北方調査団を派遣したのみならず、当時の民間商人が蝦夷地のアイヌを通じてロシアと交易していたのを知ると、意次はこれらの交易も幕府の直轄にしようと考えました。
つまり、アイヌの人々を介したうえで、ロシアと直接貿易を行おうとしたのです。これは「開国」のきっかけにもなり得る画期的な政策でしたが、残念ながらこの直後に意次が失脚してしまい、計画は幻に終わりました。
その後、工藤平助と親交があった林子平(はやししへい)が「海国兵談」を著して、我が国の海岸防備の必要性を説きましたが、意次の後を受けて老中となった松平定信(まつだいらさだのぶ)がこれを抹殺してしまいました。
海国兵談の出版がもし田沼時代であれば、意次はまず間違いなく子平の考えを支持したでしょう。それを思えば、海国兵談の発禁処分は定信による幕府の痛恨の失政でした。
※下記の映像は12月29日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
こういった事がチャンスの1つだったのですね。
運命のいたずらと言ってしまえば、それまでですが
こう言う千載一遇のチャンスの時って必ずそれを阻む何かが訪れるものなんですよね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こう言う千載一遇のチャンスの時って必ずそれを阻む何かが訪れるものなんですよね(^_^;)
残念ながらそのとおりですね。
この時に開国していれば…と惜しまれてなりません。
もっとも、まだチャンスは残っていたのですが…。
また文化5(1808)年には、イギリスの軍艦フェートン号が、長崎湾内に侵入して乱暴を働くというフェートン号事件を起こしましたが、幕府はその対策として、外国船を問答無用で撃退する異国船打払令を文政8(1825)年に出すという、極端かつ場当たり的な対応しかできませんでした。
さらに、1840年にアヘン戦争が勃発(ぼっぱつ)し、清がイギリスに敗れて香港を奪われると、その事実を知って慌(あわ)てた幕府は、天保13(1842)年に天保の薪水(しんすい)給与令を出しました。
これは、我が国を訪問した外国船に対して、食糧や燃料を与えて速やかに退去してもらうというものでしたが、確かにこの法令によって外国との無意味な衝突は避けられたものの、そんな小手先な手段よりも、我が国が自主的に開国すれば何の問題もないはずでした。
我が国と同じく厳しい制限貿易を行っていた清は、アヘン戦争でイギリスに敗れたことで無理やり開国させられたのみならず、不平等な条約を強引に結ばされるなど散々な目にあっていました。我が国が清と同じような運命とならないためにも、かつて田沼意次が目指したように、自主的に開国して積極的に外国と交易する必要があったはずなのです。
※下記の映像は12月29日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
人類が船や飛行機など作らなければ
わざわざ海を自力で泳いで渡ってまでも他国と交流しようとは
考えなかったかも知れませんが
文明の進歩と共に
それらが容易になってくると、やはり同じ地球上に住む同士と手を組んでお互いがお互いの領分を守りつつ、生きていかなければならなくなりますものね。
自国だけ他の国とは交流しない・という訳にも
行かなくなるのは当然だと思いますし、
いづれはそうせざるを得なくなるのを
分かって居たのなら、それを延命しなくても良かったのにと思いますね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
この後も幕府の判断ミスが続くのですが…。
先述のとおり、オランダは西洋諸国の中で唯一我が国と貿易を行っていましたが、そのオランダが我が国に開国を勧告するということは、自国の貿易の独占を失うことにもつながっていました。にもかかわらず開国を勧告した理由としては、仮に我が国が自主的に開国を行った後も、オランダとの縁(えにし)を忘れずに貿易上の友好な関係を続けてほしい、という思惑があったのかもしれません。
オランダによる勧告の内容として注目すべきことは、開国を勧める理由として「蒸気船」が開発されたことを挙げていることでした。蒸気船は1807年にアメリカのフルトンが発明しましたが、このことが世界の歴史を、特に我が国の運命を大きく変えてしまったのです。
その理由は我が国が「海で囲まれている島国」だからですが、なぜだかお分かりでしょうか。
※下記の映像は12月29日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
諸外国は、自国の利益になる事を前提に
相手国と手を結ぶ事しか考えないものですが
こうした
損得抜きにしたお付き合いが出来る国が
あるという事は、この上なく心強いものだと思います。
きっと日本側もオランダと友好関係を結んだ始まりが
損得抜きで接した事なのだろうと
想像します。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 これに関しましては、残念ながらオランダが自国の利益を優先して勧告したと考えられますね。
なぜなら、この後に幕府がアメリカと不平等条約を結ばされた際に、オランダも同じ内容の条約を日本に結ばせているからです。
損得抜きのつきあいであれば考えにくいですからね。
大量の船を作ろうと思えば莫大(ばくだい)な資本が必要ですし、それだけの大きなエネルギーを使ってまでして我が国を攻めようにも、失敗した場合のリスクの大きさを考えれば、二の足を踏んでしまうのが当然というものでした。
かくして、我が国は元寇(げんこう)などの一部の例外を除いて外国からの侵略を受けることがなく、特に江戸時代の初期に「鎖国」の状態となってからは平和な状態が続いたことで、いつしか我が国における防衛力も低下していきました。
実は、蒸気船の発明は、こうした「天然の防壁」を簡単に打ち破るものだったのです。なぜでしょうか。
※下記の映像は12月29日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
私は蒸気船の仕組みなどまるで知らない人間ですが、それまでの人力や風の力などだけに頼った
船ではなく、石油、石炭などを原料として
大きなスクリューを備えた船なら、何万キロも離れた場所まで到達出来る能力を持つ船が開発された事は
当時の日本にとっては脅威的だったのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 私は蒸気船の仕組みなどまるで知らない人間ですが、それまでの人力や風の力などだけに頼った
> 船ではなく、石油、石炭などを原料として
> 大きなスクリューを備えた船なら、何万キロも離れた場所まで到達出来る能力を持つ船が開発された事は
> 当時の日本にとっては脅威的だったのでしょうね。
仰るとおりですね。
次回の更新で、その詳細を明らかにしたいと思います。
もし海上から大砲や鉄砲などで対岸の陸地へ向かって発砲することができるようになれば、海で囲まれている我が国にとっては、日本列島のどこからでも狙われるということにならないでしょうか。
つまり、蒸気船の発明によって、我が国は「天然の防壁」どころか「どこからでも狙われる大変危険な国」になってしまったのです。
オランダも蒸気船の脅威が分かっていたからこそ、別の思惑があるとは考えられるものの、我が国に対して親切にも開国を勧告してきたのですが、そんなオランダに対して、老中の阿部正弘(あべまさひろ)は、世界情勢の認識の乏(とぼ)しさもあって勧告を無視してしまいました。
「鎖国は幕府の祖法であって変えることはできない」。間違った認識を言い続けることで、自身をも騙(だま)し、判断を誤る(今も行われているかもしれませんが)。こうした自家撞着(じかどうちゃく、同じ人の言動や文章が前後で食い違っていること)が、我が国最大の危機と幕府崩壊への序章になったのです。なお、言うまでもないことですが、いわゆる「鎖国」を行ったのは徳川家康(とくがわいえやす)ではなく、よって幕府の「祖法」ではありません。
※下記の映像は12月29日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
蒸気船の恐ろしさを知らずにいたら
結局、その蒸気船というピストルをいきなり
突きつけられてあえなくホールド・アップさせられてしまうとは夢にも思わなかったのでしょうね。
鎖国は家康の代ではなく、後の後継者が行った訳なのでしょうか?
すみません、そこら辺の所が分からず認識が曖昧です(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 蒸気船の恐ろしさを知らずにいたら
> 結局、その蒸気船というピストルをいきなり
> 突きつけられてあえなくホールド・アップさせられてしまうとは夢にも思わなかったのでしょうね。
そのあたりがまさに「平和ボケ」の象徴ですね。
> 鎖国は家康の代ではなく、後の後継者が行った訳なのでしょうか?
> すみません、そこら辺の所が分からず認識が曖昧です(^_^;)
制限貿易を完成させたのは家光の頃ですが、当時は「鎖国」の意識はありませんでした。
ラクスマンの通商要求を松平定信が拒否したあたりでは完全に「祖法」になっていますね。
オバrev 成る程~!
やっぱトップは時代の流れに敏感でないといけませんね。
でも時代にかかわらず変わらないものも大事です。
この時代、変わらずに続いたものはあるんでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > でも時代にかかわらず変わらないものも大事です。
> この時代、変わらずに続いたものはあるんでしょうか?
鎖国が続いた分、江戸時代の風習は長く続きました。
それが明治の文明開化で相当変わってしまいましたが…。
1776年に建国されたばかりのアメリカは、我が国への侵略の意図よりも、北太平洋を航海する捕鯨船の寄港地や対中国貿易の中継地とするために、我が国と友好的な関係を持ちたいと考えていました。
そんな思惑もあって、アメリカは我が国に対して当初は紳士的な対応を行いました。天保8(1837)年には我が国の漂流民を乗せた民間商船のモリソン号が来航しましたが、幕府は異国船打払令を理由に砲撃して追い返しました。これをモリソン号事件といいます。
門前払いで攻撃を受けたかたちとなったアメリカでしたが、弘化3(1846)年にはアメリカ東インド艦隊司令長官のビッドルが浦賀に来航し、我が国に対して平和的に通商を求めました。
もしここで幕府が通商を受け入れていれば、我が国の歴史は大きく好転していた可能性もあったでしょう。しかし、幕府は鎖国を理由にまたしてもアメリカの要求を拒絶してしまったのです。
※下記の映像は12月29日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど、今でもアメリカの考え方はこの当時の
思惑とほぼ変わらない気もするのですが、やはり
あくまで日本は中国との関係とを見据えた中継点としか見なされて居なかったのですね。
どんなに拒絶されても、絶対手に入れたい
拠点なのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > あくまで日本は中国との関係とを見据えた中継点としか見なされて居なかったのですね。
> どんなに拒絶されても、絶対手に入れたい
> 拠点なのでしょうね。
地政学的にやむを得ない事実ですね。
世の中にはどうしようもないこともあります。