しかし、昭和25(1950)年に朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)した頃から占領軍が共産党を抑圧(よくあつ)する政策を行い始めたことで共産党は半非合法状態に追い込まれ(このあたりの経緯は後日改めて紹介します)、また昭和26(1951)年には火炎ビン闘争など武力革命も辞さない戦術に転じたことから、共産党は国民の支持を失い、昭和27(1952)年の衆議院総選挙では公認候補のすべてが落選しました。
一方、昭和20年11月には旧合法無産政党の社会主義勢力を統合した日本社会党(にっぽんしゃかいとう)が結成されましたが、GHQの後押しもあって昭和22(1947)年の衆議院総選挙では143議席を獲得し、第一党となりました。
その後、他の政党と連立を組んだことで書記長の片山哲(かたやまてつ)を首相とした我が国で初めての社会党首班による片山内閣が実現しましたが、公約だった社会主義政策を実施(じっし)できないまま、党内不一致を原因として翌昭和23(1948)年1月に総辞職しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
なるほど。
過激な野蛮行為に関しては、確かに許しがたい
部分はありますが、共産党も一時期は絶大なる国民の支持を得ていた時期があったのには驚きました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 共産党が国民の支持を受けた背景には、GHQが当初は党の活動を黙認していたことが大きかったと思います。
しかし、結局は暴力に訴えるしかない革命思想が、和の精神を重要視する日本国民に受け入れられるはずもなかったんですよね。
日本自由党は、昭和20年11月に旧立憲民政党(りっけんみんせいとう)の流れをくむ大日本政治会(だいにほんせいじかい)の後継(こうけい)政党として結成された日本進歩党(にほんしんぽとう)と連携(れんけい)して、鳩山を首班とする組閣に着手しましたが、鳩山がGHQから公職追放者に指定されたため、急きょ吉田茂(よしだしげる)を入党させて第一次吉田内閣を組織しました。
しかし、組閣以後も次々と公職追放者が出たこともあって翌昭和22(1947)年の衆議院総選挙では第二党に転落したほか、芦田均(あしだひとし)らが脱党(だっとう)した後に日本進歩党と合流して民主党(みんしゅとう)を結成し、日本社会党や農村を地盤とした国民協同党と共に片山哲(かたやまてつ)内閣を組織しました。
片山内閣が翌昭和23(1948)年1月に短期間で崩壊(ほうかい)すると、同じ三党の連立内閣として民主党の総裁となった芦田均が内閣を組織しましたが、間もなく発覚した大規模(だいきぼ)な贈収賄(ぞうしゅうわい)事件である昭和電工事件(しょうわでんこうじけん)を原因として同年10月には総辞職に追い込まれました。
その後は日本自由党を母体として結成された民主自由党(みんしゅじゆうとう)が単独で第二次吉田茂内閣を成立させると、翌昭和24(1949)年1月の衆議院総選挙で過半数を超える絶対多数の議席を獲得し、吉田内閣は長期政権となりました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
(※次回[4月4日]からは第41回歴史講座の内容の更新を開始します)





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ぴーち こんばんは!
今の政界も汚職問題やら、なにやらで
役職に就いたや否や、辞職に追い込まれたり
して、短命な方が多く存在しますが、この時代も
負けず劣らずだったのですね^^;
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに、汚職などのスキャンダルで短命に終わるのは変わっていませんね。
それに加えて、当時はGHQによる圧力もありましたから、なおさらだと思います。
公職追放によって我が国の多くの有益な人材を駆逐(くちく)したGHQが、日本弱体化政策の一環(いっかん)として次に目指したのは、財閥解体(ざいばつかいたい)と土地政策でした。
「貧富の差を憎(にく)むとともに私有財産制を否定して、資本を人民で共有する」ことを目指した共産主義の思想者にとって、財閥の存在は「許されざる宿敵」でしたが、同時に、GHQの立場からも、日本の財閥は「アメリカ全体の敵」に見えました。
なぜなら、最終的には我が国が敗北したとはいえ、天然資源もなく、山だらけの我が国が大東亜戦争を何年も戦い抜いた背景に、豊富な経済力があるとアメリカが考えたからです。
「日本が二度と欧米列強に逆らえないように封(ふう)じ込める」ことを、占領政策において何よりも重要視したGHQは、昭和20(1945)年11月6日に、政府に対して四大財閥(三井・三菱・住友・安田)の即時解体を要求する覚書(おぼえがき)を発して、我が国への大規模な経済統制に踏(ふ)み切りました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
アメリカの睨んだ事は確かに当たっているのでしょうけれど、
その後、その作戦は
どういう道を辿るのでしょうか・・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > アメリカの睨んだ事は確かに当たっているのでしょうけれど、
> その後、その作戦は
> どういう道を辿るのでしょうか・・・。
そうですね。財閥はその後確かに解体されますが、ここでもアメリカの思惑に振り回されることに…。
翌昭和21(1946)年8月には持株会社整理委員会が始動し、財閥の所有する株式や有価証券を譲(ゆず)り受けて一般に売却(ばいきゃく)するなど、財閥解体の執行(しっこう)機関として活動しました。
昭和22(1947)年4月にはいわゆる独占禁止法(どくせんきんしほう)が公布され、持株会社やトラスト・カルテルなどの独占的企業の結合が禁止されたほか、同年7月には監視機関である公正取引委員会が設置されました。
また、同年12月には過度経済力集中排除法(かどけいざいりょくしゅうちゅうはいじょほう)が公布され、独占的企業の分割・再編成が行われましたが、GHQの主導によるこうした動きは、次第に統制が緩(ゆる)められるようになったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
完全に息の根を止められるのも辛いですが、
こうした「蛇の生殺し」状態も
じわじわと窮屈さが増して来るものですね(^_^;)
けれど、アメリカにとって
日本の息の根を止めなかったことが
どんな影響を齎したのか・・
今後の行方を楽しみにしています。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、じわじわと財閥を追い詰めていくやり方でしたが、結局は自国の都合を優先するあたりが皮肉でもありますね。詳細は次回の更新をご覧ください。
例えば、昭和23(1948)年2月に325社が過度経済力集中排除法の指定を受けましたが、実際に分割されたのは11社に過ぎませんでした。また、独占禁止法についても、その後の改正で独占の制限が緩和(かんわ)されています。
かくして、我が国では財閥(ざいばつ)そのものは解体されたものの、それぞれの流れをくむ企業の多くがやがて再結集して、大規模な企業グループを形成するようになり、その後の我が国における高度経済成長を支えました。
また近年では、平成9(1997)年に持株会社の設立が解禁されたこともあって、「みずほ」「三菱東京UFJ」「三井住友」の三大メガバンクのように、グループを越えた企業同士の合併や交流なども行われるようになっています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
なるほど。
日本の共産主義排除傾向を更に促したのは、
アメリカ側の政策に則っての事でしたか・。
しかし、GHQというのは共産主義的な考え方であったと記憶しているのですが、私の記憶違いなら
ご容赦願います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > しかし、GHQというのは共産主義的な考え方であったと記憶しているのですが、私の記憶違いなら
> ご容赦願います。
いえいえ、間違っていませんよ。GHQそのものは当初は共産主義的考えでした。
その後、世界情勢の変化でアメリカ本国が方針を変更した、ということになります。
これを受けて、当時の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣は農地調整法を改正し、在村地主の保有限度を5町歩(ちょうぶ、約5ヘクタール)に制限した第一次農地改革を始めましたが、我が国の共産主義化を目論(もくろ)んでいたソ連が、対日理事会において「政府の改革は不徹底である」と主張し、GHQによる勧告(事実上は命令)をもたらしました。
被占領国家であり、GHQの命令に逆らえなかった我が国では、昭和21(1946)年10月に、第一次吉田茂(よしだしげる)内閣において自作農創設特別措置法(じさくのうそうせつとくべつそちほう)が制定され、昭和22(1947)年3月から昭和25(1950)年7月まで第二次農地改革が実施(じっし)されました。
第二次改革によって不在地主の土地所有が禁止され、在村地主の保有限度が1町歩(約1ヘクタール、ただし北海道は4町歩=約4ヘクタール)に制限されたほか、不在地主はすべての貸付農地が、在村地主は制限を超える部分の農地がそれぞれ政府によって強制的に買い上げられ、小作人(こさくにん)に非常に安い価格で売り渡されました。
なお、該当農地の買収や売渡しは、市町村ごとに小作農5・地主3・自作農2の割合で構成された農地委員会が担当しました。また、山林や原野に関しては、農地改革のような強制的な開放は行われませんでした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
山林や原野に対しての開放が行われなかったことでのわが国に対してのメリットはどのようなものがありますか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 山林や原野に対しての開放が行われなかったことでのわが国に対してのメリットはどのようなものがありますか?
詳しくは次回の更新で明らかにしますが、いわゆる「農地のような状態」にならなかったこと、と言えるでしょうか。それだけこの改革は大きな影響を及ぼしているのです。
確かに「地主の廃止」は小作人を喜ばせて裕福にしましたから、我が国で貧者(ひんじゃ)による「共産革命」が起きずに済(す)んだのかもしれません。しかし、歴史を長い目で見れば、全国の大地主を没落(ぼつらく)させるとともに、小作人をいわゆる「敗戦利得者」としたマイナス面の方が遥(はる)かに大きいとも考えられるのです。
欧米からの侵略を防ぐため、近代国家の建設を進めた我が国では、明治期を中心に全国のいたるところに速やかに鉄道網(てつどうもう)を敷(し)きましたが、こうした芸当が可能だったのは、戦前の大地主との話さえつければ、土地を入手することが容易だったからでした。
戦前の大地主は「国家のために貢献(こうけん)する」という考えが多く、儲(もう)けを考えずに政府に土地を提供する人々がたくさんいたため、土地の売買がそれほど大きな問題にはなりませんでした。しかしこれが戦後になると、農地改革の恩恵で地主となった元小作農の多くが「目先の利益」にこだわり、まるで「ごね得」のように土地問題が絡(から)むことで、国家にとって重要な改革がなかなか進まないという弊害(へいがい)をもたらしたのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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- 黒田先生
青田です。
私は、『小作農が貧しくて、娘を身売り。』という
イメージが強かったので、戦後の農地改革は、評価していたのですが、
今回の内容を観ると、たしかに、大きな弊害がありますね。
その原因は、やはり、私に、性善説で、物事を見過ぎる
歴史観にあったような気がします。
小作農全てが国家社会のことを考える人間ばかりなら、良かったですが、
小作農にもいろいろな人間がいます。
一部の小作農が『ごね得』をすると全体の重要な政策が完全停止しますね。
そう考えると
日本人の『性善説』が、一部の『ごね得』を生み出している気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 > 小作農全てが国家社会のことを考える人間ばかりなら、良かったですが、
> 小作農にもいろいろな人間がいます。
>
> 一部の小作農が『ごね得』をすると全体の重要な政策が完全停止しますね。
仰るとおりであり、その最大の例が「新東京国際空港」の用地買収であると私は思います。
ぴーち こんばんは!
なるほど。
確かに土地の売買となると、売り手は値段を少しでも高く吊り上げたりと買い手との交渉もなかなかスムーズにはいかなかったりするものですしね。
なんでも利己主義に徹するのは困り者ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
国家百年の計の大事業であっても、ごね得を許していることでなかなか具体化せず、結果的に国民全体の損失につながっているのは残念な限りです。
しかし、その大地主が没落(ぼつらく)したことで、地方における富裕層がいなくなるとともに、担(にな)い手を失った地方の文化が絶滅(ぜつめつ)の危機に瀕(ひん)してしまったのです。実際には不徹底で終わったものの、GHQが財閥(ざいばつ)を解体して我が国の経済力を大幅に削減(さくげん)しようと考えたように、大地主の没落はそのまま地方の凋落(ちょうらく)につながり、都市部との格差がますます拡大するようになりました。
さらには、大規模な農地経営が世界的に主流になる一方で、我が国では大地主が強制的に排除(はいじょ)されたことから、先進的農業の中核(ちゅうかく)の役割を果たす農家が育たず、結果として我が国の農業が国際競争力を低下させている現状にもつながっているのです。
ひとつの事象(じしょう)に関して、プラスの面をことさら強調するだけではなく、様々な面から歴史的事実を眺(なが)めて、そのマイナス面も見極(みきわ)めたうえで、我が国の今後に生かそうとする。農地改革について調べれば調べるほど、歴史の大きな流れをつかむことの重要性が実感できるのではないでしょうか。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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- 黒田先生
青田です。
農地改革については、戦前のモノは全て、悪という偏った自虐史観が原因のような気がします。
この農地改革は、GHQが行った善行の一つとして、歴史の授業で習ったことを覚えています。
ただ、嘆いていても仕方ないので、これから
どうするかですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、農地改革は「成功」を称えられるとともに「善行」として紹介されることが多いですね。
これからは今までの見方を改めて、是々非々でとらえていくべきだと思います。
ぴーち こんばんは!
例えの方向性がズレていて申し訳ありませんが、
主導者を失ったイラクでは、未だに国の治安が乱れていて収集が付かない状態から脱出出来ていませんが、他の国から見れば、邪魔な存在に見えても、実は自国にとっては存在していたほうが、まとまりがついていたという場合もあるという事でしょうね。
管理人のみ閲覧できます
-
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 例えの方向性がズレていて申し訳ありませんが、
> 主導者を失ったイラクでは、未だに国の治安が乱れていて収集が付かない状態から脱出出来ていませんが、他の国から見れば、邪魔な存在に見えても、実は自国にとっては存在していたほうが、まとまりがついていたという場合もあるという事でしょうね。
なるほど、そういう見方もありますね。
いずれにせよ、GHQがもたらした混乱の根は深いと言わざるを得ないようです。
これを受けて昭和20(1945)年に労働組合法が制定され、公務員を含(ふく)めた労働者に団結権・団体交渉権・争議権が保障されたほか、昭和21(1946)年に制定された労働関係調整法では、労働争議の自主的解決のために、労働委員会による斡旋(あっせん)や調停・仲裁(ちゅうさい)の方法が定められました。
昭和22(1947)年には労働基準法が公布され、週48時間労働や女子あるいは年少者の深夜就業(しんやしゅうぎょう)の禁止などが定められるなど、これらの労働三法は、以後の労働者保護へ向けての基本法となりました。
なお、昭和22年には当時の片山哲(かたやまてつ)内閣によって労働省が新設されました。また、労働組合の全国的な組織としては、昭和21年に全日本産業別労働組合会議(ぜんにほんさんぎょうべつろうどうくみあいかいぎ、別名を産別=さんべつ)が共産党の指導を受けて誕生したほか、反共の立場の日本労働組合総同盟(にほんろうどうくみあいそうどうめい、別名を総同盟=そうどうめい)も同年に結成されました。
このほか、農業では昭和21年に日本農民組合が結成され、農民運動の中心的組織となりました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
農民組合はもう少し以前から組織されていたものかと思っていましたが、昭和21年とはまだ歴史的には
そう古くは無かった事に少し驚きました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 労働組合系はGHQが促進させましたからね。組合員のために本当に機能すればよいのですが…。
当時のコメの重要な供給地であった台湾や朝鮮を失った我が国は、徴兵(ちょうへい)や徴用(ちょうよう)による農家の労働力不足や生産資材の不足などによって、戦時中から続いていた食糧難(しょくりょうなん)を悪化させたのみならず、戦争が終結した昭和20(1945)年の記録的な凶作(きょうさく)がさらに拍車(はくしゃ)をかけました。
政府は占領軍に食糧の援助(えんじょ)を求めましたが、日本に経済的余力を持たせることを危険と考えた占領軍が、当初は国民の最低限の暮(く)らしすら維持不可能な程度の物資しか配給しませんでした。
こういった事情によって、政府によるコメやサツマイモ・トウモロコシなどの代用食の遅配・欠配が相次(あいつ)いだことから、多くの人々が食糧を求めて、戦後の混乱の中で主要都市の駅周辺の焼け跡(あと)で開かれていた闇市(やみいち)へ出かけたり、農村への買出しに向かったりして飢(う)えをしのぎました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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- 黒田先生
青田です。
私が学んだ歴史では、『GHQが、日本に手厚い経済援助をして
日本は、救われた』と教えられました。
違ってたんですね。
ただ、逆に言えば、某国のように援助頼みや、マーシャルプランのヨーロッパと
違い
GHQの援助なしに復活をした日本に誇りを感じます。
この真実の歴史をもっと日本人が知れば、日本人の愛国心が大きくなる気がします。
ぴーち こんにちは!
そうですね。戦争で何もかも失った事実は
本当に無念だったと思います。
けれど、ものは考えようとは良く言ったものですが、
何も無くなった所は新たに開拓出来る絶好のチャンスと捉える人も居たはず。
そこでいつまでも悔やんで泣いているか。
またはすぐさま立ち上がって、再び前進することが出来るか・・
そこの差がこういう時は試されているのだと
感じるお話ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 GHQは当初は日本人が飢え死にしてもいいと思っていました。
考えが変わったのは、昭和天皇がマッカーサーと会見されてからですが、それでも配給だけでは飢えをしのぐのは難しい状態でした。
それだけ陛下が偉大であったとともに、少ない食糧で飢えをしのぎ切った当時の国民の素晴らしさを称えたいと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 日本人は廃墟と絶望の中から、飢えをしのいで立ち上がりました。
このことは素晴らしいですが、更なる追い打ちが日本人を苦しめることになります。
そんな折に、敗戦直後に臨時軍事費が大量に支払われたり、生活に不安を感じた多くの人々が預金を引き出ししたりしたことによって、日本銀行の対民間貸出しが増加するなど、戦後処理にともなって政府が通貨を増発しました。
物不足で供給が停滞(ていたい)している際に、多数の通貨が市中に出回って需要(じゅよう)を誘発(ゆうはつ)したことから、悪性のインフレーション(=ハイパーインフレ)が我が国で進行してしまったのです。
このため、政府は昭和21(1946)年2月に幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣が金融緊急措置令(きんゆうきんきゅうそちれい)を公布し、新紙幣(=新円)を発行した後に一週間を期限として手持ちの紙幣(=旧円)と交換させ(これを「新円切換え」といいます)、それ以降の旧円の流通を禁止しました。
これによって一定額以上の預金封鎖(よきんふうさ)が可能となり、同年2月時点で618億円あった日銀券が3月には152億円に激減(げきげん)するなど、インフレを抑(おさ)える効果をもたらしましたが、結局は一時しのぎに過ぎず、通貨の流通量はその後も増大を続け、インフレも進行しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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- 黒田先生
青田です。
このスーパーインフレは、かなり、きついですね。
しかも、私は、この事実を
知りませんでした。
私は、終戦→GHQの援助→朝鮮特需
とトントン拍子で、復興があったと思ってました。
なぜか、戦後史は、出版されている本も少なく
マスコミでもほとんど報道しませんので、現代人の多くは、この事実を知りませんね。
ぴーち こんにちは!
戦中もきっと厳しい生活を強いられていたでしょうけれど、こうして伺っていると戦後の方が
人々の生活はかなり過酷を強いられていたんですね・・
青田さんへ
黒田裕樹 冷静に考えれば、朝鮮特需まで5年もあるんですから、順調な復興などありえないんですけどね。
当時の苦難の歴史はもっと知られるべきです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 戦中もきっと厳しい生活を強いられていたでしょうけれど、こうして伺っていると戦後の方が
> 人々の生活はかなり過酷を強いられていたんですね・・
そのとおりですね。戦争に負けて、我が国が滅びるかもしれない。そんな極限状態に加えての飢餓の恐怖や経済の破たん。よくぞ立ち直ったものです。
このため、当時の第一次吉田茂(よしだしげる)内閣は経済安定本部を設置し、昭和22(1947)年には資材と資金を石炭や鉄鋼などの重要産業部分に集中させる傾斜生産方式(けいしゃせいさんほうしき)を採用したほか、復興金融公庫(ふっこうきんゆうきんこ)を創設して、電力や海運などを含めた基幹産業への資金提供を行いました。
翌昭和23(1948)年まで続いた傾斜生産方式は、復興金融公庫の融資(ゆうし)によって大量の通貨が発行されたことでインフレーションを激化(げきか)させましたが、生産が上昇したことで、その後の日本経済発展の基礎を築(きず)くなど大きな効果ももたらしました。
なお、経済安定本部は昭和27(1952)年に規模(きぼ)が縮小(しゅくしょう)されて経済審議庁となり、昭和30(1955)年には経済企画庁に改組され、平成13(2001)年の中央省庁再編で内閣府がその業務を引き継(つ)ぎました。
ちなみに、現在の内閣府特命担当大臣(経済財政政策)として、TPP(=環太平洋戦略的経済連携協定、かんたいへいようせんりゃくてきけいざいれんけいきょうてい)問題を担当しているのは、衆議院議員の甘利明(あまりあきら)氏です。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
やはり政治というのは
大切なんですね。
今日のお話を伺っていると
改めて
政治家の手腕一つでその国の運命までもが
決まるように強く感じました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、政治力は重要です。
GHQの規制を受けながらも、当時の政治は精一杯行っていました。現代も見習うべきですね。
こうした流れを受けて、民主革命を目指した日本共産党と産別会議の指導によって全官公庁共同闘争委員会に結集した官公庁労働者を中心に、当時の第一次吉田内閣打倒をめざし、昭和22(1947)年2月1日を期して鉄道や電信など基幹産業を巻き込んだゼネラル=ストライキが計画されました。これを二・一ゼネストといいます。
しかし、鉄道ストで日本各地に駐留(ちゅうりゅう)する米軍の補給や相互連絡に問題が生じれば、軍事面で重大な懸念(けねん)が発生することを恐れたGHQは、占領目的の妨害(ぼうがい)を理由に前日の1月31日にゼネストの中止を命令しました。
二・一ゼネストの中止は、革命主義的な労働運動を抑制(よくせい)するとともに、後に官公庁職員のストライキを禁止する流れをもたらしました(詳しくは後述します)。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
GHQの息が掛かってのストライキ抑制というのが
どうも気になる所ですが(^_^;)
けれど
ある勢力に対しての反対意見を言える存在というのは、煩わしく感じるものですが、何時の時代でもいて貰わなければいけない存在だと思うんですよね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、反対意見を言える環境は重要です。
ですが、反対派も相手を認めることや、あるいは属する家族や環境、そして祖国を愛する精神を持ってほしいものですね。
ぴーち おはようございます!
仰るとおり、反対意見の根底には、国を何とか良い方向へ改善しようとする思いや、家族や周りの人の幸せを第一に思う心が大切ですよね^^
ただやみくもにある意見に対して反対ばかりしている意見には、
何の意味もなさないと思います。
それときっと黒田さんが仰りたいのは、こういう急務の時には
皆が一丸となってそれに従うべきだと言うことなのだと思いますが
いかがでしょうか?
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 私の見解を斟酌くださり、有難うございます。
まさに仰るとおりでして、特に有事の際には周囲の足を引っ張って国全体を滅ぼすような愚挙をせず、一丸となって危機管理に努めるべきだと考えております。
GHQは、昭和20(1945)年11月に皇室財産の凍結を指令すると、翌昭和21(1946)年11月に公布された日本国憲法の第8条で「皇室に財産を譲(ゆず)り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは贈与することは、国会の議決に基づかなければならない」と規定し、皇室への経済力の集中を事実上遮断(しゃだん)しました。
さらに翌昭和22(1947)年1月には皇室経済法と皇室典範(こうしつてんぱん)が公布され、これらによって皇室財産の大部分が国有化されたほか、残った財産も課税対象となりました。ちなみに、昭和天皇が崩御(ほうぎょ)された際に、今上天皇は相続税を納付されておられます。
この他、宮内省(くないしょう)の組織が縮小されて宮内庁となり、昭和天皇の弟君であられた秩父宮家(ちちぶのみやけ)・高松宮家(たかまつのみやけ)・三笠宮家(みかさのみやけ)以外の11宮家・51人の皇族が皇籍(こうせき)を離脱(りだつ)されました。さらには刑法における皇室に関する「不敬罪(ふけいざい)」も廃止され、一部の心ない国民が天皇や皇族に対する誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)を行っても、一般的な罪以外は問われなくなってしまいました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
なるほど・・
なにやら真綿で首を絞めるように
じわじわと皇室を窮地に追い込んでいく手口は
非道極まりない考えですねぇ・・。
しかしながら、どんなに踏みにじられても、
雑草のごとき精神で立ち上がろうとする
姿はやはり戦中の大和魂が息づいていたのかもしれませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 我が国の、いや世界の至宝たる皇室をここまで貶めたGHQの卑劣な手段に対して、私たち日本国民はもっと怒ってよいと思いますし、先人が踏み留まった流れを失わないよう、私たちはもっと自覚すべきともいえますね。
不敬罪について
青田です。 黒田先生
青田です。
これは、『ヘイトスピーチ規制法』ともリンクしますが
たしか、不敬罪の第76条
『皇族ニ對シ不敬ノ行為アリタル者ハ二月以上四年以下ノ懲役ニ處ス。』だったと思います。
そう考えると
『ヘイトスピーチ規制法』の罰則が懲役2年以下ですので、皇室にたいする不敬罪も復活させないと、社会秩序という意味でバランスが崩れると思います。
大正時代、普通選挙と治安維持法を同時に成立させて、バランスを取りました。治安維持法については(賛否両論ですが)
それと『不敬罪』について
質問ですが、実際に罰せられた事例は多かったのでしょうか?
私の
高校時代の馬鹿な歴史教師は
『戦前、小学校で、黒板に天皇でも屁をしますか?という落書きがあり、校長以下、処分を受けた。』と何度も話していました。
さらに
『戦前は、天皇を直視すると恐れ多くて、目が潰れると信じていた日本人が多くいた。』と語ってました。
このあたりが、話がかなり、歪曲していて、どうもわかりません。
青田さんへ
黒田裕樹 確かにそうですね。皇室に対する誹謗中傷が野放しにされている現状は大問題です。
文章中の高校教師の発言は、かつての「生類憐みの令」の与太話と構造がそっくりですね。
今は、日本人の責任
青田 青田です。
GHQは、たしかに昭和27年までは、
その種を撒きましたが、
その後、不敬罪を復活させるチャンスは何度もあったと思います。
この皇室に対する誹謗中傷は、今でも続いているのは、GHQの責任ではなく、日本人の責任だと思います。
私は、不敬罪の復活を望みます。
というのも、昨今のマスコミの皇室の報道は、どんどん劣悪になっています。
『譲位』を『退位』としたり。。。
このままだと日本の国体も崩れかねません。
ところで、昭和天皇は昭和21(1946)年の元日に「新日本建設ニ関スル詔書(しょうしょ)」を発布なされましたが、今日ではこれが昭和天皇による「人間宣言」とされ、自ら「天皇の神格化を否定した」と、一般に使用される教科書で紹介されることが多いですが、この表現は正しくはありません。
なぜなら、そもそも「新日本建設ニ関スル詔書」の中に「人間」「宣言」という言葉が一切使用されておらず、さらには「人間宣言」という名称自体が後日にマスコミや出版社が勝手に命名したものだからです。
ではなぜ私たちは「人間宣言」に対して思い違いをしているのでしょうか。その謎を探るために、そもそも「新日本建設ニ関スル詔書」が発表された経緯(けいい)を振り返ってみましょう。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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- 黒田先生
青田です。
私は、
小学校の時は、教師から
『天皇は、お金で、命を助けてもらった。』
と教えられ、
高校の歴史の授業で、歴史の教師から
『天皇が、人間宣言をし、世界中から、笑われた。』と教えられ、
その時、クラスの生徒全員が(馬鹿にしたような)
『大爆笑』になったのを今でも、覚えています。
よく、考えると、『天皇が人間宣言』をした当時の
日本の国民の考え方と
私が歴史教育を受けた当時の日本の国民とは
同じ日本人でも、かなり、考え方などで
温度差(劣化)がひどくなっていたのですね。
それだけ、私の歴史教育を受けた時には、人材が劣化していたということですが。。
教育とは、恐ろしいですね。
私の場合、黒田先生の歴史講座は、目から鱗で、自分の常識が変わりました。
ぴーち こんばんは!
なるほど、ここでも私たちはマスコミが勝手に
でっち上げた情報に振り回されてしまっていた・という事だったんですね。
青田さんへ
黒田裕樹 教育はやり様によってはいくらでも洗脳できますから、確かに恐ろしいですね。
人材の枯渇も気になりますが、だからこそ今からでも育てねばなりません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なるほど、ここでも私たちはマスコミが勝手に
> でっち上げた情報に振り回されてしまっていた・という事だったんですね。
まさしくそのとおりです。
今回から数回に分けて、マスゴミのでっち上げと詔書の真実を紹介したいと思います。
しかし、これをGHQの主導で無理やり行えば、日本国民の反発を招き、占領政策に悪影響となるのは確実でした。
このため、GHQは昭和天皇があくまでも「自主的」に神格化を否定することを期待したことで、その意を汲(く)んだ宮内省によって、GHQを納得させることができる詔書(しょうしょ)の作成が行われました。
こうした動きに対し、昭和天皇は元々自らが現人神(あらひとがみ)であることを否定されておられたので、特に問題には思われませんでした。なぜなら、天皇と国民とのつながりは、神格化によってのみ保(たも)たれるような弱いものではないことを、陛下ご自身が一番理解されておられたからです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
そうですか・・・
やはり天皇制というのは日本の歴史そのもであると思いますので、その存在は絶対的なものであると
信じて疑いもしないところがありますものね。
例えば、ある国が何処かの国に干渉しようとしてもなかなか
上手くいかない事が多いように、いくらアメリカが優位に運ぼうとしても
日本の長い歴史に育まれた信頼関係には割り込む事は出来ないのだと思います。
この当時の日本人のほうが
- 黒田先生
青田です。
考えようによっては、この当時の日本人のほうが
精神的に強かった気がします。
天皇と自分達が精神的に繋がっているという意識があったからです。
もし、それがなければ、あれだけ国土が荒廃していれば、世界常識では、無政府状態で、長年にわたって、国はボロボロになり、復興は不可能です。
もしかしたら、今のように唯物論のアメリカ被れの日本人のほうが、心の拠り所がなく、弱いのもしれません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 例えば、ある国が何処かの国に干渉しようとしてもなかなか
> 上手くいかない事が多いように、いくらアメリカが優位に運ぼうとしても
> 日本の長い歴史に育まれた信頼関係には割り込む事は出来ないのだと思います。
まさにそのとおりです。
歴史が浅く上っ面の干渉しかできない国に、長い歴史と伝統を誇る我が国の信頼関係を崩せるはずがなかったのですが、戦後の異常な空間が長続きした現状では、占領側の思いどおりになりつつあるのもまた事実です。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
価値観の変化は世の常とはいえ、外圧で押しつぶされるようなことがあってはならないと思います。
しんばりぼう
ウナ いつものブログアップに感謝いたします
ありがとうごさいます
私達には『芯』があります
震災や戦災にさいなまされても
大水に巣を流された蟻のように
黙々と明日を切り開きます
お殿様を意識してはいなくとも
誰もがアイスキャンディーの割り箸にように
『あること』を疑いません
お陽さまは雨天でも闇夜でも有ります
目には見えずとも
人々は在ることは疑いません
あり難い事です。
ウナさんへ
黒田裕樹 こちらこそ、拙ブログへのご訪問並びにお言葉有難うございます。
仰ること、まことにそのとおりであると私も思います。
「天皇ヲ以テ現御神(あきつみかみ)トシ、且(かつ)日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空(かくう)ナル観念ニ基(もとづ)クモノニモ非(あら)ズ」。
この文章だけ読めば、昭和天皇が自らの神格化を否定されたと見なすことも不可能ではないですが、これは詔書のほんの一部分に過ぎませんし、陛下が本当に仰りたい内容は、実はこの文章の直前にあるのです。
「然(しか)レドモ朕(ちん)ハ爾等(なんじら)国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚(きゅうせき、喜びや悲しみのこと)ヲ分(わか)タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯(ちゅうたい)ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依(よ)リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」。
陛下は常に国民とともに存在し、国民と利害を同じくして、喜びも悲しみも一緒に分かち合いたいと仰ったうえで、天皇と国民との間の紐帯、すなわち強い絆(きずな)は単なる神話や伝説によってではなく、相互の信頼と敬愛とによって結ばれているとされておられるのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
自分欲が強い人間は、自分は神の化身だと
人々を洗脳してまでも、成り上がろうとしますが、
所詮、人間は多くの煩悩を抱えて悩む生き物で、とても神や仏の領域には到達出来ない存在ですよね。
天皇はそういう人間としての身の程をしっかりと弁えた
生き方を学んでいらっしゃったのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 民のためにひたすら神に祈られる天皇陛下であらせられますからね。
無私のお心が、ここまでの紐帯を築き上げてこられたのでしょう。
ところで、この詔書の最初に、明治天皇による「五箇条の御誓文(ごせいもん)」が紹介されているのを皆さんはご存知(ぞんじ)でしょうか。詔書に五箇条の御誓文を付け加えられたのは昭和天皇ご自身のお考えであり、実はこのことこそが、陛下が詔書において本当に仰りたかったことなのです。
昭和52(1977)年、昭和天皇は記者からの質問にお答えなさるかたちで、詔書の始めに五箇条の御誓文が引用されたことについて、以下のようにお言葉を発せられました。
「それが実はあの詔書の一番の目的であり、神格とかそういうことは二の問題でした。当時はアメリカその他諸外国の勢力が強く、日本が圧倒される心配があったので、民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった。日本の国民が誇(ほこ)りを忘れては非常に具合が悪いと思って、誇りを忘れさせないためにあの宣言を考えたのです」。
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ぴーち こんばんは!
天皇ご自身は、戦争中にはカリスマ的な存在として
崇められて来たようですが、それは周りの人間がそう仕立てただけの話で、本人はそれを望んではいなかったはずですものね。
戦争が終われば、その役目も終えたいと思うのは当然の事なのかも知れませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 天皇ご自身は、戦争中にはカリスマ的な存在として
> 崇められて来たようですが、それは周りの人間がそう仕立てただけの話で、本人はそれを望んではいなかったはずですものね。
> 戦争が終われば、その役目も終えたいと思うのは当然の事なのかも知れませんね。
仰る流れも確かにあると思いますし、国民との絆を何よりも大切にされた陛下でいらっしゃいましたから、明治天皇の御業績になぞらえられたのでしょうね。
それなのに、マスコミや出版社の多くが「天皇が神格化を否定した」という、詔書のほんの一部に過ぎず、かつ陛下の本当のご意思とは全く異なる部分だけを取り上げて「人間宣言」ともてはやし、ついには歴史教科書にまで記載(きさい)されてしまっているのです。なぜこのような誤解が生まれてしまっているのでしょうか。
さて、同じ昭和21(1946)年正月の歌会始(うたかいはじめ)において、昭和天皇は以下の御製(ぎょせい、天皇による和歌のこと)をお詠(よ)みになられました。
「ふりつもる み雪にたへて 色かへぬ 松ぞ雄々(おお)しき 人もかくあれ」
終戦直後の絶望感が漂(ただよ)う中であっても、雪の中の青々とした松のように国民も強く生きて欲しいという、昭和天皇の国民への思いやりが込められています。またこの頃、陛下は国民を慰(なぐさ)めるためには自分がどうすればよいのかをお考えになり、そのための行動に移ろうとされておられました。
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ぴーち おはようございます!
物事の結果だけを挙げれば、マスコミ各社の様な
文章が出来上がるのでしょうね。
いわゆる人間らしい感情や魂がそっくり抜け落ちた
事実がそこに生まれてしまう様に。
営利主義、上辺だけの情報収集にのみ埋没すると
いづれは考え方まで歪み、腐るおそれがあります。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 物事の結果だけを挙げれば、マスコミ各社の様な
> 文章が出来上がるのでしょうね。
> いわゆる人間らしい感情や魂がそっくり抜け落ちた
> 事実がそこに生まれてしまう様に。
> 営利主義、上辺だけの情報収集にのみ埋没すると
> いづれは考え方まで歪み、腐るおそれがあります。
ぴーちさんのお考えに同感です。
マスゴミの現状の腐り具合を鑑みれば「さもありなん」ですよね。
「先の戦争によって先祖からの領土や国民の多くの生命を失い、大変な災厄(さいやく)を受けた。この際、私としてはどうすればよいのかと思い、退位も考えた。しかし、よくよく考えた末、全国をくまなく歩いて国民を慰(なぐさ)め、励(はげ)まし、また復興のために立ち上がらせるための勇気を与えることが自分の責任と思う」。
「このことをどうしても早い時期に行いたいと思う。ついては、宮内官(=宮内省の役人のこと)たちは私の健康を心配するだろうが、自分はどんなになってもやりぬくつもりであるから、健康とか何とかはまったく考えることなくやってほしい。宮内官はその志(こころざし)を達するよう全力を挙げて計画し実行してほしい」。
今までに経験したことのない敗戦を喫(きっ)して、大きく傷ついた国民を励まし、復興へ向けて立ち上がらせる勇気を持たせたい。そのためには自分の生命がどうなってもかまわない―。そんな昭和天皇の崇高(すうこう、気高く尊いこと)なるお考えを、GHQが理解できるはずがありませんでした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
なるほど。。
確かにこれほどに崇高なお気持ちは、理解出来なかったことでしょうね・・・
現代でも天皇陛下は全国あちらこちらへ
ご訪問されていますが、(慰問の為に)
やはり昭和天皇のこの時のお気持ちの影響が
強いと受け取るべきなのでしょうかね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですし、昭和天皇のお考えは今上陛下にもしっかりと継承されておられます。
> 確かにこれほどに崇高なお気持ちは、理解出来なかったことでしょうね・・・
GHQはとんでもない思い違いをしていました。詳細は次回の更新をご覧ください。
それだけに、陛下のご巡幸の計画を聞いたGHQも、当初は「天皇の意図(いと)が分からない」と怪しみましたが、やがて一つの確信を得るに至って、敢えて許可しました。
「ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだから、旅先で石のひとつでも投げられればいいのさ」
「ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背(ねこぜ)の小男であるということを日本人に知らしめてやる必要がある。神さまじゃなくて人間だ、ということをね」
「それこそが生きた民主主義の教育というものだよ」
GHQの役人たちには、昭和天皇がご巡幸によって多くの国民から無視され、蔑(さげす)まれ、疎(うと)まれ、あるいは暴力をもって迎えられるといった惨(みじ)めな姿しか想像できませんでした。しかし、彼らの期待は別の意味で大きく裏切られることになるのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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- 黒田先生
青田です。
最近、戦後の日本の状況の本を読みましたが、
あの状況での『昭和天皇の御巡幸』は、驚天動地のことだと感じました。
当時の日本の状況を
当時の日本人は、生きるのに精一杯で
震災の時のように仮設住宅、義捐金もありませんでした。
そして、治安も大変悪い状況でした。
あの状況での『昭和天皇の御巡幸』は、GHQだけでなく、現代の平和で、豊かな日本人にも
想像できないですね。
現代の日本人は、現代の感覚で、『昭和天皇の御巡幸』を考えるので、その偉大さに気づいていない気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、現代の私たちには想像もできないことであり、それだけに陛下の偉大さがわかるというものですね。
これから数回にわたって、昭和天皇のご巡幸を特集します。
ぴーち おはようございます!
戦時中、天皇と言えば、雲の上の人と教え込まれて来た中、その天上界の方が下界に降りて来られたわけですから、国民の驚きは相当なものであった事でしょうし、感謝、感激の思いで迎えられたのではないでしょうか。
それまで叩き込まれた印象というのは、そう簡単に意識を変えられないものですし。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 戦時中、天皇と言えば、雲の上の人と教え込まれて来た中、その天上界の方が下界に降りて来られたわけですから、国民の驚きは相当なものであった事でしょうし、感謝、感激の思いで迎えられたのではないでしょうか。
> それまで叩き込まれた印象というのは、そう簡単に意識を変えられないものですし。
仰るとおりですね。
昭和天皇のご巡幸は当時の国家や国民に大きな影響を与えました。
外国のGHQに理解できなかったのも当然です。