もっとも、我が国の将来を憂い、無私の行動を貫いて最期には潔く刑場の露(つゆ)と消えた吉田松陰が現在も多くの人々に慕(した)われ続けているのに対して、安政(あんせい)の大獄(たいごく)を断行してその松陰の生命を奪った井伊直弼は、一般的には評価されることが少ないように思われます。
しかしながら、当時の我が国の大きな歴史の流れをたどれば、松陰も直弼もある意味「犠牲者」としては同じ立場であるばかりか、幕府による数々の失策が、現代の私たちにまで暗い影を落としているという驚くべき事実を皆さんはご存知でしょうか。
今回の講演では、松陰と直弼のそれぞれの生涯を振り返りながら、我が国が今もなお抱え続ける大きな問題と、その解決方法について探っていきたいと思います。
※下記の映像は12月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど、幕府の失策ですか。
どのようにこの二人の人物を絡め、展開していくのか
楽しみに拝見させて頂きたいと思います^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なるほど、幕府の失策ですか。
> どのようにこの二人の人物を絡め、展開していくのか
> 楽しみに拝見させて頂きたいと思います^^
有難うございます。
今回の結末ほど「大きな歴史の流れ」を実感できるのはなかなかないのではと思っております。
こんにちは
鬼藤千春の小説・短歌 はじめまして!あるブログを拝見していたら、このブログに出会いました。私もブログを開設しています。「鬼藤千春の小説・短歌」で検索できます。一度訪問してみて下さい。よろしくお願い致します。
鬼藤千春の小説・短歌さんへ
黒田裕樹 はじめまして、拙ブログへのご訪問並びにお言葉有難うございます。
今後ともよろしくお願いいたします。
将来を嘱望(しょくぼう)された松陰は、西洋兵学の勉強のために嘉永(かえい)3(1850)年に九州へ遊学し、兵学者の宮部鼎蔵(みやべていぞう)に出会って友情を深めると、翌嘉永4(1851)年には江戸へ向かい、佐久間象山(さくましょうざん)に師事して熱心に勉強を重ねました。
その後、松陰は宮部らと東北旅行を計画しましたが、出発日の約束を守るために、長州藩からの通行手形の発行を待たずに脱藩しました。自分の将来よりも、他藩の友人との約束を優先したのです。
こうした松陰の崇高(すうこう)な精神が、いずれ彼の生命を縮めることになってしまうのでした。なお、松陰は旅行を終えて江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪(しせきはくだつ)・世禄(せいろく、世襲の家禄のこと)没収の処分を受けています。
※下記の映像は12月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
崇高な精神ですか・・
私事で恐縮ですが
父が以前
丁字路で前方一時停止線が有り
そこで一旦停止しようと減速した時に
たまたま右方向からこちらへ曲がろうとしている車が有ったそうです。
父が進んで来た道は、車二台すれ違うには
少しばかり狭いくらいの道路だったので、
まずは父の車が少し先に出ないとそちらの車が
曲がって来れないと判断した父は
停止線よりもわずか先に停止したそうです。
しかし、その左側に一時停止違反を取り締まるパトカーが見ていて、停止線をわずかに出て停止した
父は違反で減点されてしまいまして・・
他人の為に良かれと思ってとった行動が
自分には不利になってしまうという話を
思い出しました(^_^;)
余りに崇高過ぎるのも考えものなのかも
知れませんね(^_^;)
長々と失礼しましたm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 それは大変な目にあわれましたね。
確かに崇高過ぎるのも考えものですが、だからこそ人は惹かれるのかもしれません。
そして翌嘉永7(1854)年、ペリーが日米和親条約を結ぶために再航した際に、伊豆下田港に停泊中のポーハタン号へ向かい、密航を訴えましたが、日本と条約を結んだばかりのペリーは松陰の願いを拒否しました。
夢破れた松陰は、潔く下田奉行所に自首しました。やがて長州へ護送された松陰は、安政2(1855)年に許されるまで投獄されました。以下は、江戸から長州へ護送される途中で、赤穂義士で有名な泉岳寺(せんがくじ)を通りがかった際に松陰が詠(よ)んだ和歌です。
「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」
※下記の映像は12月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そういえば、今年の大河ドラマの花燃ゆを
最初の頃だけチラ見していたのですが、
吉田松陰役の伊勢谷さんがペリーの船に乗り込んで直談判しているシーンが有ったのを思い出しました^^
自らの欲する思いは大和魂が成せる事だと
ご本人は思っていたのでしょうかね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 おそらくは仰るとおりではなかったかと思われます。
ある意味、見習うべき点が多いのではないでしょうか。
安政4(1857)年には久坂玄瑞(くさかげんずい)が松陰に弟子入りするなど、松陰のもとに来る若者が増えたため、杉家の敷地に新たに塾舎を開設し、叔父の玉木文之進がかつて主宰していた松下村塾の名を引き継ぎました。
松下村塾において、松陰は久坂玄瑞のほかに高杉晋作(たかすぎしんさく)、伊藤博文(いとうひろぶみ)、山県有朋(やまがたありとも)、吉田稔麿(よしだとしまろ)、入江九一(いりえくいち)、品川弥二郎(しながわやじろう)などを教育しました。また、松陰は塾生たちに一方的に教えるのではなく、弟子と一緒になって意見を交わしたりするなど、いわゆる「生きた学問」を重視するものでした。
しかし、松陰と塾生たちとの楽しい日々は長くは続きませんでした。安政5(1858)年に江戸幕府の大老である井伊直弼が、勅許(ちょっきょ、天皇による許可のこと)を得ずに日米修好通商条約を結んだからです。
※下記の映像は12月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そうそうたる面々が松下村塾には集まったのですね!
いえ
ここで学んだからこそ、その名を残す人物になれたと言い換えたほうが良いのかも知れませんが^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 おそらくは両方とも当てはまるのではないでしょうか。
松下村塾での学びの日はわずかでしたが、そのインパクトは大きかったですね。
翌安政6(1859)年、井伊直弼による安政の大獄において、梅田雲浜(うめだうんぴん)との関係による嫌疑(けんぎ)をかけられた松陰は江戸に送られると、尋問(じんもん)の際に老中暗殺計画の詳細を自供してしまいました。
なぜ松陰は暗殺計画を自ら幕府に語ったのでしょうか。松陰は常日頃から「至誠(しせい)にして動かざる者は、未だ之(こ)れ有らざるなり」、すなわち「真心を尽くせば、感動しない者はいない」という孟子(もうし)の言葉を語っていました。
松陰は「我が国の行く末が気になるからこそ、本当のことを話さなければならない。幕府もきっとわかってくれるはず」という強い信念があったのかもしれません。
しかし、そんな松陰の真っ直ぐな思いは、幕府の上層部には通用しませんでした。松陰が告白した計画に激怒した井伊直弼が、見せしめとして松陰を死罪にすることに決めたのです。
※下記の映像は12月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
さして差し支えない企てならば
そのように激怒もしなかったのでしょうけれど、
正論であるが故に怖さが倍増したのでしょうね。
正論はそれだけで刃のごとき威力を持つものですしね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 正論はそれだけで刃のごとき威力を持つものですしね。
仰るとおりだと思います。
松陰の真っ直ぐな思いが、逆に彼の生命を縮めてしまったのが何とも言えない皮肉ですね。
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽(く)ちぬとも 留(とど)め置かまし 大和魂」
「たとえ自分の身体は死んで朽ち果てようとも、国を思う私の心はずっと留まって生き続ける」。松陰が死の直前に書きあげた「留魂録(りゅうこんろく)」は、遺された塾生たちに送り届けられ、幕末から明治維新にかけての歴史の大きな流れを構築するようになったのです。
自らの生きる道を信じ、それゆえに自身の生命を縮める結果となった吉田松陰。その潔い生涯は、いまもなお私たちに大きな影響を与え続けていますが、その一方で、松陰を「殺した」井伊直弼はどのような生涯を送ったのでしょうか。
※下記の映像は12月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そうですね・
人間って、きっと自分の気持ちに正直に
生き抜こうとすると、命がいくつあっても
足りなくなるのかも知れません(^_^;)
皆多かれ少なかれ
自分の意向を曲げたり、時には相手に
合わせて折れたりする事で生命の
存続を図って生きているのでしょうね。
なかなか自分の意見を曲げずに貫き通す
勇気や気概というのは真似ることが出来ないのが
普通なので
松蔭の様な生き様に感動する人も
少なくないのかもしれません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私も同じ思いです。
松陰の生き様に多くの人が共感したからこそ、その後の道が開けたのだと考えられます。
その意味では、彼の死は決して無駄ではなかったのかもしれませんが…。
自らを「花の咲くことのない埋もれ木」に例えた直弼は、「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた邸宅(ていたく)で世捨て人のような暮らしを続けていましたが、弘化(こうか)3(1846)年に、兄の14代藩主の井伊直亮(いいなおあき)の世継ぎであった、同じく兄にあたる井伊直元(いいなおもと)が亡くなったため、直亮の養子という形で彦根藩の後継者に決定しました。
そして、嘉永3(1850)年11月21日に藩主直亮が死亡すると、家督(かとく)を継いだ直弼は46歳で15代彦根藩主となりました。かつての世捨て人が藩主となるという大出世を遂げたわけですが、直弼の「サクセス・ストーリー」はこれからが本番でした。
かつての徳川四天王の一人であった井伊家の藩主として、その存在感を増し続けた直弼は、安政5(1858)年4月23日に大老に就任し、国内外それぞれの重要事項について最終的な決定を行うことになるのです。
※下記の映像は12月22日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
私の知人なのですが、
ご本人は男ばかりの9人兄弟で
一番末っ子。
自分がまさか親の面倒を看るわけは無いと
思っていたそうですが、そのまさかが
的中してしまい、結局、親の面倒と後始末を
任されたそうなんです。
それがサクセス・ストーリーというかどうかは存じませんが、そんなどんでん返しが
有ることは確かですよね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに、末っ子だからといって何が起きるか分からないのが世の中ですからね。
井伊直弼の今後はどうなるのでしょうか…。
家定には子がなく、体調も悪化していたため、薩摩藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)や越前藩主の松平慶永(まつだいらよしなが)らの有力な大名は、混乱が続く幕府政治に対応できる賢明な将軍を擁立(ようりつ)すべきであると考え、前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)の実子で、御三卿(ごさんきょう)の一橋家(ひとつばしけ)の養子となった一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ、後の15代将軍・徳川慶喜)を推していました。
一方、井伊直弼などの譜代大名らは、将軍家定と血統が近いものの、まだ幼かった紀州藩主の徳川慶福(とくがわよしとみ)を推していました。なお、慶喜を推す派を一橋派、慶福を推す派を南紀派といいます。
一橋派と南紀派とが対立を続けていたその折に、同じ譜代大名らの後押しを受けて大老に就任した直弼が、次期将軍候補として徳川慶福を独断で決定しました。なお、慶福は名を徳川家茂(とくがわいえもち)と改め、家定の死を受けて安政5(1858)年12月に13歳で14代将軍に就任しています。
※下記の映像は12月22日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
当時の大老と言う地位は、今で言うと
内閣総理大臣程の権限があったのでは無いかと
思うのですが、それでも次期征夷大将軍を独断で決めてしまうというのは
、征夷大将軍の方が位が上だけに
他にも事例があったのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 まず、老中は複数の合議制ですが、臨時職の大老は一人ですので、独断で物事を決めることができます。
次に、将軍と大老とでは、将軍の方が地位が上ですが、将軍が病気あるいは政治を部下に任せている場合は、大老が事実上の独裁者になります。これは、以前にも4代将軍家綱に対する大老酒井忠清という例がありました。
当時の老中であった堀田正睦(ほったまさよし)はアメリカとの通商に理解を示しましたが、幕府の独断で通商条約を結べば、開国に反対して外国を排斥(はいせき)しようとする攘夷派(じょういは)の激しい反発を招く可能性があることを警戒しました。
そこで、堀田は条約の締結に際して天皇の許可、すなわち勅許(ちょっきょ)を得ることで世論を納得させようと考えました。封建社会において、それまでは独断で何事も強行してきた幕府でしたが、この頃には朝廷の顔色をうかがわなければならないまでに権威が低下していたのです。
しかし、堀田の狙いは裏目に出てしまいました。当時の孝明天皇(こうめいてんのう)をはじめとして朝廷には攘夷派の意見が強く、容易に勅許が下りなかったのです。自分で仕掛けた足枷(あしかせ)により行きづまった幕府に対して、ハリスは当時の世界を揺るがした大きな出来事を利用して、追い打ちをかけるかのように通商を迫りました。
※下記の映像は12月22日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
天皇はその時代、時代で
随分、良いように利用されて来たのですね。
しかし利用する側の理由次第で
裏目に出たり、成功したり・・。
天皇そのものの存在は不変であっても。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、歴代の為政者は天皇陛下を様々なかたちで「活用」してきました。
それが我が国の歴史の重みでもあるのですが、このときばかりは裏目に出てしまいましたね。
アロー戦争に敗北した清は、1858年に不平等な内容の天津(てんしん)条約を結ばされましたが、ハリスはこのことを口実に、幕府に対して以下のように通商条約を強く要求しました。
「清に勝ったイギリスやフランスが勢いに乗って日本を侵略する可能性が否定できないから、これを防ぐには日本と友好的なアメリカと通商条約を先に結んで、彼らに戦争の口実を与えないようにする以外に方法はない」。
ハリスの警告を受け、大老であった井伊直弼が、勅許を得ないままアメリカと通商条約を結ぶことを決断しましたが、このことが孝明天皇のお怒りを招くとともに、将軍の後継問題とからんで攘夷派の激しい反発を受けることになってしまったのです。
※下記の映像は12月22日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち おはようございます!
これはある種、巧みな催眠商法ですね・・(^_^;)
焦って物事を決めてしまうと
ろくな事にはなりませんものね・・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですよね。
それだけに、当時の井伊直弼の苦衷がしのばれます。
しかし、直弼には直弼の言い分がありました。彼は開国という国家の存亡にかかわる重要な問題に対し、それまでの幕府の為政者たちが無責任に先送りしてきたツケを一気に払わされただけという立場でもあったのです(詳しくは後述します)。
加えて、条約反対派あるいは攘夷派が「外国人など我が国から追い出せばよい」と口先では威勢のいいことを言いながら、もし我が国が侵略されたらどうするのか、という問題に対しては口をつぐんで答えようともしないという有様も、直弼を苛立(いらだ)たせていました。
反対派や攘夷派の余りもの無責任さに怒りが爆発した直弼は、幕府大老という自分の立場を活用して、彼らに対する大粛清(だいしゅくせい)を行う決意を固めました。安政5(1858)年から6(1859)年にかけてのこれらの弾圧は、安政の大獄と呼ばれています。
※下記の映像は12月22日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そういうお話を伺うと
確かに直接的な原因は、直弼にあっても
間接的には他の人間も少なからず
原因になっている場合が有りますよね。
本人の性格による部分も多々有るでしょうが、
環境やそれまでの経緯によって
そうせざるを得ない状況に追い込まれてしまう
場合も有りますよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
当人の能力だけではどうすることもできない歴史の流れが存在することがあるんですよね。
特に橋本左内や吉田松陰らは若くして刑死するなど、安政の大獄によって攘夷派を中心とした多くの人材が失われるとともに、直弼による問答無用ともいうべき強権的な処置は、結果として多くの人間の恨みを買ってしまいました。
安政7年3月3日(西暦1860年3月24日)、春にしては珍しい大雪の日の朝に、江戸城近くの桜田門へと差し掛かった直弼の行列に対して、水戸藩を脱藩した大勢の浪士らが襲いかかり、直弼を暗殺しました。この事件を桜田門外の変といいます。
桜田門外の変によって、最高権力者である大老が江戸城外で襲われ、しかも殺されるという大失態を演じてしまった幕府の威信がますます低下するとともに、自分の意見と対立する人間への「血の粛清」が半ば常識化してしまいました。
事実、この後明治維新を経て政情が安定するまでに、武力による実力行使を伴った血なまぐさい事件が日本国中で続発することになるのです。
※下記の映像は12月22日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
直弼のやり口を伺っていると
今の北朝鮮の上層部の手口と似ているのでは
無いかと思ってしまいました(^_^;)
次々と幹部クラスの人間を処刑することで
恐怖を植え付け、自分の求心力を高めたいと
思っての事でしょうけれど、いづれあの国が
他国からの攻撃というよりも
自国の人間の手によって
滅ぼされるのでは無いかと
考えてしまいます。
話が逸れてしまい、申し訳ありませんm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いえいえ、仰るお気持ちはよく分かります。
彼の国もやがては同じ運命をたどるのかもしれませんね。
200年以上も続いた「鎖国(さこく)」から、ペリーの来航によって無理やり開国させられるかたちとなった我が国は、その後の幕府による政策がことごとく後手に回ったこともあって未曽有(みぞう)の大混乱となり、結果として幕府の崩壊と明治維新をもたらすことになりました。
当時の我が国は、こうした史実を回避することが果たして可能だったでしょうか。私はペリーの来航前に自主的に開国する可能性がいくらでもあったと考えるとともに、幕府の「遅すぎる決断」が、我が国の歯車を現代に至るまで狂わせていると見なしています。
では、その可能性や歯車とはいったい何のことでしょうか。ここからは、いわゆる「鎖国」をめぐる様々な歴史を振り返りながら、我が国の置かれた現状を把握(はあく)するとともに、輝かしい未来に向けての布石(ふせき)を考えてみたいと思います。
※下記の映像は12月22日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
>幕府の「遅すぎる決断」が、我が国の歯車を現代に至るまで狂わせている.
これまで何度となく掲げられて来た課題。
この一節で
もしかしたら、黒田さんのお考えの中では
今回の自衛権の憲法改正問題にも
掛けていらっしゃるのかな?と思ってしまいましたが、如何だったでしょうか^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > もしかしたら、黒田さんのお考えの中では
> 今回の自衛権の憲法改正問題にも
> 掛けていらっしゃるのかな?と思ってしまいましたが、如何だったでしょうか^^
鋭いですね。
「当たらずともいえども遠からず」としておきましょう(笑)。
今後の展開にご期待ください。
このため、幕府はカトリックを禁教にするとともに、信仰する諸国と国交を断絶し、同じキリスト教でもプロテスタントであり、我が国での布教をしないと約束したオランダや、同じアジアの国同士である清や李氏朝鮮など、限られた国との間でしか貿易を行いませんでした。
つまり、江戸幕府はカトリックを我が国に広めさせないとともに、貿易の利益を幕府で独占するために極端な「制限貿易」を行ったのです。
制限貿易にはこうした事情があったうえに、カトリックの信仰国との国交断絶という強硬な手段が可能だったのは、戦国時代の終結からまだ時間が経っておらず、全国で数十万の武士や、それと数を同じくする大量の鉄砲が存在していたという、当時の世界で最強レベルの強大な武力があったからこそでした。
しかし、我が国で平和が長年続くうちに、制限貿易の意味が履(は)き違えられて、諸外国との交渉を一切行わないという「鎖国」が「祖法(そほう、先祖の代から守るべきしきたりのこと)」であるという考えが、いつの間にか常識と化してしまったのです。
※下記の映像は12月29日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
諸外国との交流を活発化するという事は
同時にその国の宗教も認めざるをえないという
事だと思いますが、交流はしたいけれど、異国の
流儀は受け付けないとあれば確かに限界が生じて交流は制限されてしまいますね。
個人的にはこの世の中全ての人々は仏教的思想で成り立って貰いたいと願う者ですが、
それでも最初から制限を設けてしまうと相手国も心を閉ざしてしまいがちですし、日本の宗教観も
聞き入れて貰うチャンスを逃す事になるので
勿体無い事だとは思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、仰るような見方もありますね。
我が国の場合はいくらでもチャンスがあったのですが…。
意次は平助の意見を採用して蝦夷地の直轄(ちょっかつ)を計画し、幕府による北方調査団を派遣したのみならず、当時の民間商人が蝦夷地のアイヌを通じてロシアと交易していたのを知ると、意次はこれらの交易も幕府の直轄にしようと考えました。
つまり、アイヌの人々を介したうえで、ロシアと直接貿易を行おうとしたのです。これは「開国」のきっかけにもなり得る画期的な政策でしたが、残念ながらこの直後に意次が失脚してしまい、計画は幻に終わりました。
その後、工藤平助と親交があった林子平(はやししへい)が「海国兵談」を著して、我が国の海岸防備の必要性を説きましたが、意次の後を受けて老中となった松平定信(まつだいらさだのぶ)がこれを抹殺してしまいました。
海国兵談の出版がもし田沼時代であれば、意次はまず間違いなく子平の考えを支持したでしょう。それを思えば、海国兵談の発禁処分は定信による幕府の痛恨の失政でした。
※下記の映像は12月29日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
こういった事がチャンスの1つだったのですね。
運命のいたずらと言ってしまえば、それまでですが
こう言う千載一遇のチャンスの時って必ずそれを阻む何かが訪れるものなんですよね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こう言う千載一遇のチャンスの時って必ずそれを阻む何かが訪れるものなんですよね(^_^;)
残念ながらそのとおりですね。
この時に開国していれば…と惜しまれてなりません。
もっとも、まだチャンスは残っていたのですが…。
また文化5(1808)年には、イギリスの軍艦フェートン号が、長崎湾内に侵入して乱暴を働くというフェートン号事件を起こしましたが、幕府はその対策として、外国船を問答無用で撃退する異国船打払令を文政8(1825)年に出すという、極端かつ場当たり的な対応しかできませんでした。
さらに、1840年にアヘン戦争が勃発(ぼっぱつ)し、清がイギリスに敗れて香港を奪われると、その事実を知って慌(あわ)てた幕府は、天保13(1842)年に天保の薪水(しんすい)給与令を出しました。
これは、我が国を訪問した外国船に対して、食糧や燃料を与えて速やかに退去してもらうというものでしたが、確かにこの法令によって外国との無意味な衝突は避けられたものの、そんな小手先な手段よりも、我が国が自主的に開国すれば何の問題もないはずでした。
我が国と同じく厳しい制限貿易を行っていた清は、アヘン戦争でイギリスに敗れたことで無理やり開国させられたのみならず、不平等な条約を強引に結ばされるなど散々な目にあっていました。我が国が清と同じような運命とならないためにも、かつて田沼意次が目指したように、自主的に開国して積極的に外国と交易する必要があったはずなのです。
※下記の映像は12月29日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
人類が船や飛行機など作らなければ
わざわざ海を自力で泳いで渡ってまでも他国と交流しようとは
考えなかったかも知れませんが
文明の進歩と共に
それらが容易になってくると、やはり同じ地球上に住む同士と手を組んでお互いがお互いの領分を守りつつ、生きていかなければならなくなりますものね。
自国だけ他の国とは交流しない・という訳にも
行かなくなるのは当然だと思いますし、
いづれはそうせざるを得なくなるのを
分かって居たのなら、それを延命しなくても良かったのにと思いますね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
この後も幕府の判断ミスが続くのですが…。
先述のとおり、オランダは西洋諸国の中で唯一我が国と貿易を行っていましたが、そのオランダが我が国に開国を勧告するということは、自国の貿易の独占を失うことにもつながっていました。にもかかわらず開国を勧告した理由としては、仮に我が国が自主的に開国を行った後も、オランダとの縁(えにし)を忘れずに貿易上の友好な関係を続けてほしい、という思惑があったのかもしれません。
オランダによる勧告の内容として注目すべきことは、開国を勧める理由として「蒸気船」が開発されたことを挙げていることでした。蒸気船は1807年にアメリカのフルトンが発明しましたが、このことが世界の歴史を、特に我が国の運命を大きく変えてしまったのです。
その理由は我が国が「海で囲まれている島国」だからですが、なぜだかお分かりでしょうか。
※下記の映像は12月29日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
諸外国は、自国の利益になる事を前提に
相手国と手を結ぶ事しか考えないものですが
こうした
損得抜きにしたお付き合いが出来る国が
あるという事は、この上なく心強いものだと思います。
きっと日本側もオランダと友好関係を結んだ始まりが
損得抜きで接した事なのだろうと
想像します。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 これに関しましては、残念ながらオランダが自国の利益を優先して勧告したと考えられますね。
なぜなら、この後に幕府がアメリカと不平等条約を結ばされた際に、オランダも同じ内容の条約を日本に結ばせているからです。
損得抜きのつきあいであれば考えにくいですからね。
大量の船を作ろうと思えば莫大(ばくだい)な資本が必要ですし、それだけの大きなエネルギーを使ってまでして我が国を攻めようにも、失敗した場合のリスクの大きさを考えれば、二の足を踏んでしまうのが当然というものでした。
かくして、我が国は元寇(げんこう)などの一部の例外を除いて外国からの侵略を受けることがなく、特に江戸時代の初期に「鎖国」の状態となってからは平和な状態が続いたことで、いつしか我が国における防衛力も低下していきました。
実は、蒸気船の発明は、こうした「天然の防壁」を簡単に打ち破るものだったのです。なぜでしょうか。
※下記の映像は12月29日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
私は蒸気船の仕組みなどまるで知らない人間ですが、それまでの人力や風の力などだけに頼った
船ではなく、石油、石炭などを原料として
大きなスクリューを備えた船なら、何万キロも離れた場所まで到達出来る能力を持つ船が開発された事は
当時の日本にとっては脅威的だったのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 私は蒸気船の仕組みなどまるで知らない人間ですが、それまでの人力や風の力などだけに頼った
> 船ではなく、石油、石炭などを原料として
> 大きなスクリューを備えた船なら、何万キロも離れた場所まで到達出来る能力を持つ船が開発された事は
> 当時の日本にとっては脅威的だったのでしょうね。
仰るとおりですね。
次回の更新で、その詳細を明らかにしたいと思います。
もし海上から大砲や鉄砲などで対岸の陸地へ向かって発砲することができるようになれば、海で囲まれている我が国にとっては、日本列島のどこからでも狙われるということにならないでしょうか。
つまり、蒸気船の発明によって、我が国は「天然の防壁」どころか「どこからでも狙われる大変危険な国」になってしまったのです。
オランダも蒸気船の脅威が分かっていたからこそ、別の思惑があるとは考えられるものの、我が国に対して親切にも開国を勧告してきたのですが、そんなオランダに対して、老中の阿部正弘(あべまさひろ)は、世界情勢の認識の乏(とぼ)しさもあって勧告を無視してしまいました。
「鎖国は幕府の祖法であって変えることはできない」。間違った認識を言い続けることで、自身をも騙(だま)し、判断を誤る(今も行われているかもしれませんが)。こうした自家撞着(じかどうちゃく、同じ人の言動や文章が前後で食い違っていること)が、我が国最大の危機と幕府崩壊への序章になったのです。なお、言うまでもないことですが、いわゆる「鎖国」を行ったのは徳川家康(とくがわいえやす)ではなく、よって幕府の「祖法」ではありません。
※下記の映像は12月29日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
蒸気船の恐ろしさを知らずにいたら
結局、その蒸気船というピストルをいきなり
突きつけられてあえなくホールド・アップさせられてしまうとは夢にも思わなかったのでしょうね。
鎖国は家康の代ではなく、後の後継者が行った訳なのでしょうか?
すみません、そこら辺の所が分からず認識が曖昧です(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 蒸気船の恐ろしさを知らずにいたら
> 結局、その蒸気船というピストルをいきなり
> 突きつけられてあえなくホールド・アップさせられてしまうとは夢にも思わなかったのでしょうね。
そのあたりがまさに「平和ボケ」の象徴ですね。
> 鎖国は家康の代ではなく、後の後継者が行った訳なのでしょうか?
> すみません、そこら辺の所が分からず認識が曖昧です(^_^;)
制限貿易を完成させたのは家光の頃ですが、当時は「鎖国」の意識はありませんでした。
ラクスマンの通商要求を松平定信が拒否したあたりでは完全に「祖法」になっていますね。
オバrev 成る程~!
やっぱトップは時代の流れに敏感でないといけませんね。
でも時代にかかわらず変わらないものも大事です。
この時代、変わらずに続いたものはあるんでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > でも時代にかかわらず変わらないものも大事です。
> この時代、変わらずに続いたものはあるんでしょうか?
鎖国が続いた分、江戸時代の風習は長く続きました。
それが明治の文明開化で相当変わってしまいましたが…。
1776年に建国されたばかりのアメリカは、我が国への侵略の意図よりも、北太平洋を航海する捕鯨船の寄港地や対中国貿易の中継地とするために、我が国と友好的な関係を持ちたいと考えていました。
そんな思惑もあって、アメリカは我が国に対して当初は紳士的な対応を行いました。天保8(1837)年には我が国の漂流民を乗せた民間商船のモリソン号が来航しましたが、幕府は異国船打払令を理由に砲撃して追い返しました。これをモリソン号事件といいます。
門前払いで攻撃を受けたかたちとなったアメリカでしたが、弘化3(1846)年にはアメリカ東インド艦隊司令長官のビッドルが浦賀に来航し、我が国に対して平和的に通商を求めました。
もしここで幕府が通商を受け入れていれば、我が国の歴史は大きく好転していた可能性もあったでしょう。しかし、幕府は鎖国を理由にまたしてもアメリカの要求を拒絶してしまったのです。
※下記の映像は12月29日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど、今でもアメリカの考え方はこの当時の
思惑とほぼ変わらない気もするのですが、やはり
あくまで日本は中国との関係とを見据えた中継点としか見なされて居なかったのですね。
どんなに拒絶されても、絶対手に入れたい
拠点なのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > あくまで日本は中国との関係とを見据えた中継点としか見なされて居なかったのですね。
> どんなに拒絶されても、絶対手に入れたい
> 拠点なのでしょうね。
地政学的にやむを得ない事実ですね。
世の中にはどうしようもないこともあります。
つまり、日本を開国させるためには、ビッドルのように下手(したて)に出るのではなく、強気の姿勢で対応したほうが良いと判断したのです。こうしたアメリカの思惑によって、嘉永6(1853)年6月に、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが、4隻(せき)の黒船を率いて浦賀に来航しました。
ペリーは黒船に多くの大砲を並べたうえで空砲を放つなどの威嚇(いかく)を加えながら、幕府に対して開国を求めるフィルモア大統領の国書の受理を迫りました。
アメリカの有無を言わさぬ態度に対して、抵抗をあきらめた幕府は、やむなく国書を受け取り、回答を翌年に行うことを約束して、ようやくペリーを退去させました。
しかし、幕府のこうした手段は、苦しまぎれであるとともに、結論の先送りに過ぎず、その後の対応に苦しむことになるのです。
※下記の映像は1月6日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
アメリカは確かに面目を潰される事が
最大の侮辱だと感じて、耐えられない体質の
国民性なんだろうなと思います。
言うことを聞かなければ、どんな手段も辞さない
態度に出るでしょうね。
我が家にも、ザ★アメリカンな人が一人
おりますので、良く分かります(^^ゞ
たっつん 今年もご訪問いただきありがとうございました。
来年もご健康をお祈り申し上げます。
よいお年をお迎えくださいませ。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時に幕府が知る由もなかったとは思われますが、アメリカの国民性という意味で地雷を踏んだ、とも考えられますね。
たっつんさんへ
黒田裕樹 こちらこそありがとうございました。
良き新年をお迎えください。