東久邇宮が首相に任命された背景には、我が国が連合国に降伏したことに納得しない陸軍の武装を解除するとともに、ポツダム宣言に基づく終戦に伴う手続を円滑に進めるためには、皇族であり陸軍大将でもあった東久邇宮がふさわしいと考えられたためとされています。
「国体の護持」を基本方針とした東久邇宮内閣は、昭和天皇の「終戦の詔書」やポツダム宣言に則(のっと)って戦後の再建に務めようとしましたが、同年10月に、GHQは「人権の確保」を名目として治安維持法や特別高等警察(=特高)の廃止、日本共産党員をはじめとする政治犯の即時釈放、また共産党員など治安維持法の違反者への引き続きの処罰を求めた大臣や官僚を罷免することなどを求める「人権指令」を発しました。
しかし、GHQによるこれらの要求を認めれば、天皇に関する自由な(というより批判的な)議論を奨励(しょうれい)するのみならず、国内での共産活動が再活発化し、我が国で革命が起こることを危惧(きぐ)した東久邇宮内閣は、治安に責任が持てないことを理由に10月5日に総辞職しました。東久邇宮内閣の在任期間は54日しかなく、現在でも歴代最短となっています。
※下記の映像は11月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
歴史にお詳しい方ならどなたでもご存知だったのでしょうけれど、皇族の方が内閣に携わるという事は法的には今でもあり得る事なのでしょうか?
それともこの時は特別、許可された事だったのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 皇族の皆様が政治に関わられることは、本来は認められるものではありません。
しかし、昭和天皇のご聖断を円満に遂行するためには、天皇の身代わりである皇族が事態を主導するしかないという背景がありました。いわば非常時の緊急措置であったと言えるでしょう。
昭和20(1945)年10月9日に内閣を発足させた幣原は、11日に新任挨拶(あいさつ)のためマッカーサーに面会に出向きましたが、そこで待っていたのは、GHQによる一方的な要求でした。
マッカーサーは幣原首相に対し、面会したその場で大日本帝国憲法(=明治憲法)の改正を示唆(しさ、ほのめかすこと)すると同時に、以下の5つの改革を口頭で要求しました。これを五大改革指令といいます。
1.婦人参政権の付与
2.労働組合の結成奨励
3.教育の自由主義化
4.秘密警察などの廃止
5.経済の民主化
なお、日本国憲法の制定については、別の講座で紹介済みですので、今回は割愛させていただきます。
※下記の映像は11月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
日本国内で
江戸時代からずっと日本人同士上手く折り合いを
付けて人々の間になるべく摩擦が起きない様に
して来た方法がこれまでの人付き合いの教えとして浸透して来た中、
外国との付き合い方のノウハウなど全く分からない間に引き継ぐ事になったであろう幣原さんにとってはかなりの難問だったのでは無いかと思います。
それまでの鎖国の時代が余りに長かった事に
より一層、外国との付き合い方に
難しさが増した原因の様な気がしました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに難問ですが、これが敗戦国の「やられ方」なのでしょうね。
東久邇宮内閣は断固拒否しましたが、協調外交を展開してきた幣原首相は…。
昭和20(1945)年10月には軍国主義や国家主義的とみなした教育を禁止するとともに、これらに抵触するとして約11万人もの教職者を追放するよう指令しました。これを教職追放といいます。
さらにGHQは、我が国の伝統的な神道を軍国主義のイデオロギーと一方的にみなして、同年12月に神道を国家から分離するために神道指令を発布しました。
神道指令によって、神道は単なる一宗教の扱いを受けることとなり、国家神道や神社神道に対する国家の支援も禁止されました。これには、神社をいずれ自然消滅させるというGHQの意図があったとされています。
※下記の映像は11月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そうでしたか・
それでも今でも神社が存続しているという事は、
何かしらの緩和策が見いだせたという事なのでしょうか?
オバrev 欧州での冷戦が終戦して、東西ドイツが統一された時、教育者や、大学などでも文系の研究者はほとんど解雇されたと聞いたことがありますが、戦争に負けるということは、こういうことなんだろうと思います。
誰が首相になったとしても、GHQに逆らうことは出来なかったんじゃないでしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 日本人の神社に対する敬虔な思いが、恐らくは存続させてきたと思われます。
ただ、世代が移って神社の存在の重要性が失われつつあるこれからの方が正念場かもしれませんね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、誰が首相になっても同じだったかもしれませんが、弱腰外交を展開していたということが、GHQにとっては突っ込みどころになった可能性もあります。
最初から弱味を見せてしまうようでは勝負になりませんからね。
そして、GHQはこの連載に合わせるかのように「大東亜戦争」の呼称を禁止して「太平洋戦争」に無理やり変更させました。翌9日にはNHKラジオに「真相はこうだ」の放送を開始させ、GHQによるプロパガンダを拡大させる一方で、番組に対する国民の反発の声は揉(も)み消されました。
また、GHQは昭和20年10月22日に「日本教育制度に対する管理政策」を指令し、修身や国史・地理の授業の停止や教科書の回収を命じました。地理や国史は翌昭和21(1946)年に再開を認められましたが、修身は許されず、日本の教育の精神面に大きな打撃を与えました。
教育は占領軍の厳しい管理下に置かれ、それまでの建国神話ではなく、考古学的記述から始められた小学校用の国定歴史教科書「くにのあゆみ」や、中学校用教科書の「あたらしい憲法のはなし」などが使用されたほか、昭和22(1947)年には新たに社会科が設置されました。
なお、これ以前にGHQは昭和20年9月に、教科書の内容のうちポツダム宣言に抵触すると思われる部分を訂正削除するよう指示を出し、いわゆる「墨塗り」の教科書を使用させていました。
※下記の映像は11月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
戦争に負けてた国が
植民地化されたり
国を二分されたりと
即座に酷い仕打ちを受けるのは
敗戦国なら、当然だとは
思いますが、その後は
生き残った国民やまた
その子孫はアメリカに対して生涯に渡り
遺恨を残す事となり、いづれアメリカ相手に
再び戦争を仕掛けないとも限りませんが、
それをあえてせずに、匠に
日本人の怒りの矛先を変えて、
根源から覆そうとしたアメリカの思惑は
敵ながらあっぱれでは有りましたね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに仰るとおりです。
この効果がありすぎて、今では反日に日本人が同じようなことを繰り返していることが何とも…。
A項 戦争犯罪人
B項 職業軍人
C項 極端な国家主義団体などの有力分子
D項 大政翼賛会や翼賛政治会などの有力分子
E項 日本の膨張に関係した金融機関などの役員
F項 占領地の行政長官
G項 その他の軍国主義者および極端な国家主義者
政府はこれらの指示に基づき、同年2月28日にポツダム命令として「就職禁止、退官、退職などに関する件」として公布したほか、3月には「軍国主義指導者の追放」を指令し、5月には教職員追放令、12月には労働追放令(第一次)と次々と発令しました。
こうしたいわゆる「公職追放令」によって、陸海軍の軍人ら各界の指導者約21万人が追放されるとともに、その地位を剥奪(はくだつ)されてしまったのです。
※下記の映像は11月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
A~Gの項目は、確かに相手がアメリカで無くても
取り決めそうな内容ですが、
金融機関の役員まで辞めさせられるのは
やはり徹底していますね(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 金融機関の役員が辞めさせられた背景には、後に詳しく紹介する財閥(ざいばつ)の解体を視野に入れていたのではないか、と思われますね。いずれにしても本当に徹底しています。
GHQによるこうした「名指しの追放」は、自分もいつ同じ目にあうか分からないという底知れぬ恐怖感を周囲に与え、自己の地位を守るために臆病になる者が増加した一方で、追放によって空いたポストには、社会主義者や共産主義者、あるいはその共鳴者たちなどの左翼言論人がその大半を占め、戦後の教育界や大学・マスコミなどに深く入り込みました。
公職追放令は我が国が独立を果たした昭和27(1952)年に廃止されましたが、一旦追放された人々が戻ることができなかったことから、結果として「何でも日本が悪い」という自虐史観が我が国にはびこることになってしまったのです。
また、それより以前の昭和20(1945)年10月には、治安維持法・治安警察法・特別高等警察(=特高)が廃止され、徳田球一(とくだきゅういち)ら共産主義者の政治犯が釈放されました。
GHQがこのような処置を行った背景には、占領軍民政局には左翼思想の人間が多く、とりわけ民政局のホイットニー局長とケーディス次長が社会主義者であったことから、徳田らにシンパシーを抱いていたのではないか、と考えられています。
※下記の映像は11月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
確かに自分の行いを省み
悪かった行いがあれば、それを反省する気持ちは
大切だと思います。
しかし、悪い事と言うのは、いわば
自分の我欲を相手に押し付け、それを押し通す
事から来る行動や言動だと思います。
常に相手の立場を考え、行動出来る事を第一に考えられる事が善だと考えると、
日本の自虐的な考え方は、相手の対して
我欲を突きつけた行動からの反省なのでしょうか?
そこら辺の根本的な根拠も無しにただただ自分達が
悪かったと思い続けるのは、それこそ無知の極みだと思えてなりません。
個々の日本人が、行って来た
事が善に背いた間違いでは無いのであれば、その事実を
見つめなおし、目覚める努力が必要だったのだと
思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、我が国は「悪いことは悪いこと、正しいことは正しいこと」をはっきりと見極め、独立後の歩みを確かなものにすべきでした。70年は遅すぎるかもしれませんが、間に合わないこともありません。
「貧富の差を憎むとともに私有財産制を否定して、資本を人民で共有する」ことを理想とした共産主義の思想者にとって、財閥の存在は「許されざる宿敵」でしたが、同時に、GHQの立場からも日本の財閥は「アメリカ全体の敵」に見えました。
なぜなら、最終的には我が国が敗北したとはいえ、天然資源もなく、山だらけの我が国が大東亜戦争を何年も戦い抜いた背景に、豊富な経済力があるとアメリカが考えたからです。
「日本が二度と欧米列強に逆らえないように封じ込める」ことを、占領政策において何よりも重要視したGHQは、昭和20(1945)年11月6日に、政府に対して四大財閥(三井・三菱・住友・安田)の即時解体を要求する覚書を発して、我が国への大規模な経済統制に踏み切りました。
※下記の映像は11月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
確かに「経済力」も立派な資源ですものね。
しかし、こうして連続してお話を読ませて
頂いていると、日本は酷い仕打ちこそ
受けませんでしたが、
完全にアメリカの「捕虜」的存在に成り下がって
しまっていますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 国家としての形は残りましたが、当時の扱いは本当にひどいものです。
もっと問題なのは、その影響を今もなお引きずっていることですね。独立を回復してから60年以上経つんですが…。
翌昭和21(1946)年8月には持株会社整理委員会が始動し、財閥の所有する株式や有価証券を譲り受けて一般に売却するなど、財閥解体の執行機関として活動しました。
昭和22年4月にはいわゆる「独占禁止法」が公布され、持株会社やトラスト・カルテルなどの独占的企業の結合が禁止されたほか、同年7月には、監視機関である公正取引委員会が設置されました。
また、同年12月には過度経済力集中排除法が公布され、独占的企業の分割・再編成が行われましたが、GHQの主導によるこうした動きは、次第に統制が緩められるようになったのです。
※下記の映像は11月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち おはようございます!
公民の授業を思い出しますね~^^
今更ですが、
こういった制度の改正などは
日本独自の考え方で推し進められていたのだと
思い込んでいましたが、
これらも全てGHQの指導の元、行われていた
改革だったとは初めて知りました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに今回は「公民講座」のようですね(^^;
仰るとおり、財閥解体がGHQによるものだという事実は案外知られていないようです。
今後とも啓発していかねばなりませんね。
例えば、昭和23(1948)年2月に325社が過度経済力集中排除法の指定を受けましたが、実際に分割されたのは11社に過ぎませんでした。また、独占禁止法についても、その後の改正で独占の制限が緩和されています。
かくして、我が国では財閥そのものは解体されたものの、それぞれの流れをくむ企業の多くがやがて再結集して、大規模な企業グループを形成するようになり、その後の我が国における高度経済成長を支えました。
また近年では、平成9(1997)年に持株会社の設立が解禁されたことも受けて、三大メガバンク(みずほ・三菱東京UFJ・三井住友)のように、グループを越えた企業同士の合併や交流なども行われるようになっています。
※下記の映像は11月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
こう言う事実を伺うと、
日本人がいざ何か行動を起こす為に
立ち上がると、その結束力は他に類を見ないほどですね。
たちまち、体制を立て直す、いえ、それ以上の
成長を成し遂げてしまう力を発揮しますね。
こう言う所がまた世界からすれば脅威に
思える一因にもなっているのでしょうけれど。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、我が国の長所であるがゆえに、他国は警戒するのでしょうね。
純粋なのは良いですが、もう少ししたたかさがあった方が良いかもしれません。
これを受けて、当時の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣は農地調整法を改正し、在村地主の保有限度を5町歩(ちょうぶ、約5ヘクタール)に制限した第一次農地改革を始めましたが、我が国の共産主義化を目論んでいたソ連が、対日理事会において「政府の改革は不徹底である」と主張し、GHQによる勧告(事実上は命令)をもたらしました。
被占領国家であり、GHQの命令に逆らえなかった我が国では、昭和21(1946)年10月に、第一次吉田茂(よしだしげる)内閣において自作農創設特別措置法が制定され、昭和22(1947)年3月から昭和25(1950)年7月まで第二次農地改革が実施されました。
第二次改革によって不在地主の土地所有が禁止され、在村地主の保有限度が1町歩(約1ヘクタール、ただし北海道は4町歩=約4ヘクタール)に制限されたほか、不在地主はすべての貸付農地が、在村地主は制限を超える部分の農地がそれぞれ政府によって強制的に買い上げられ、小作人に非常に安い価格で売り渡されました。
なお、該当農地の買収や売渡しは、市町村ごとに小作農5・地主3・自作農2の割合で構成された農地委員会が担当しました。また、山林や原野に関しては、農地改革のような強制的な開放は行われませんでした。
※下記の映像は11月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
こうなると、日本を舞台にしたソ連とアメリカの
対決にも思えて来ますね。
肝心の土俵に使われている
日本人の思いなどまるで無視されていたのが
どうも腑に落ちませんが。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに仰るとおりでしたね。
ただ、結果としては社会主義的な要素ばかりが目立ったのは何とも言えない皮肉ではありますが。
確かに「地主の廃止」は小作人を喜ばせて裕福にしましたから、貧者による「共産革命」が起きずに済んだのかもしれません。しかし、歴史を長い目で見れば、全国の大地主を没落させるとともに、小作人をいわゆる「敗戦利得者」としたマイナス面の方がはるかに大きいとも考えられるのです。
欧米からの侵略を防ぐため、近代国家の建設を進めた我が国では、明治期を中心に全国の至るところに速やかに鉄道網を敷きましたが、こうした芸当が可能だったのは、戦前の大地主との話さえつければ、土地を入手することが容易だったからでした。
戦前の大地主は「国家のために貢献する」という考えが多く、儲(もう)けを考えずに政府に土地を提供する人々がたくさんいたため、土地の売買がそれほど大きな問題にはなりませんでした。しかし、これが戦後になると、農地改革の恩恵で地主となった元小作農の多くが「目先の利益」にこだわり、まるで「ゴネ得」のように土地問題が絡(から)むことで、国家にとって重要な改革がなかなか進まないという弊害をもたらしたのです。
※下記の映像は11月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
さすがに大地主ともなると
金銭面は元より
懐の深さもその名に相応しく
備えていた訳ですか。
小作農を営む人たちは
貧乏生活を経験した分、貧困には
殊更敏感で、二度と貧乏には戻りたくない
思いが強すぎて、貪欲な態度に
出てしまうのでは無いかと想像して
しまいました(*_*;
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、人間の性(さが)かもしれませんね。
とはいえ、戦前の体制を何でも破壊することが良いとは思えません。
その影響は色んなところで出ていますからね。
しかし、その大地主が没落したことで、地方における富裕層がいなくなるとともに、担(にな)い手を失った地方の文化が絶滅の危機に瀕(ひん)してしまったのです。実際には不徹底で終わったものの、GHQが財閥を解体して我が国の経済力を大幅に削減しようと考えたように、大地主の没落はそのまま地方の凋落(ちょうらく)につながり、都市部との格差がますます拡大するようになりました。
さらには、大規模な農地経営が世界的に主流になる一方で、我が国では大地主が強制的に排除されたことから、先進的農業の中核の役割を果たす農家が育たず、結果として我が国の農業が国際競争力を低下させている現状にもつながっているのです。
ひとつの事象に関して、プラスの面をことさら強調するだけではなく、様々な面から歴史的事実を眺めて、そのマイナス面も見極めたうえで、我が国の今後に生かそうとする。農地改革について調べれば調べるほど、歴史の大きな流れをつかむことの重要性が実感できるのではないでしょうか。
※下記の映像は11月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そうですよね。
特にマスコミなどの影響も有り
良い事だけを全面に押し出した情報が
流れると、それについて詳しい事を知らない(知ろうとしない)人たちは、それが全て良いものだと
信じてしまう傾向が有りますものね。
物事のデメリットや、その先の
事まで見据えた時にどうなるかを見極める冷静さが
大切ですね。
オバrev こういう大胆と言うか、価値観を根底から覆す改革は、敗戦という結果として見れば当然の事じゃないでしょうか。
その功罪は様々あると思いますが、今の日本の繁栄と比較的格差が少ない社会の元になっているような気もします。どうでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 一つの事象を総合的に見つめることは非常に重要です。
脊髄反射ではなく、50年先あるいは100年先の我が国を考えながら行動しなければなりませんね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るご見解もごもっともだと思います。
ただ、格差のなさが国家全体の幸福につながるかということも考慮すべきだと思います。
江戸時代以前も含め、我が国は世界に比べて格差の少ない国家であるという前提もありますからね(例えば、奴隷制度は大和朝廷以降の我が国には存在しません)。