しかし、その杉原より2年も前に、彼と同じようにユダヤ人難民の危機(きき)を救った軍人がいたことを皆(みな)さんはご存知(ぞんじ)でしょうか。その名を樋口季一郎(ひぐちきいちろう)といいます。
樋口将軍は人道主義(じんどうしゅぎ)の観点(かんてん)から批判(ひはん)を恐(おそ)れずに多くのユダヤ人難民を救ったのみならず、絶望視(ぜつぼうし)されていたキスカ島の約5,000人もの将兵(しょうへい)を生還(せいかん)させることに成功しました。また、我が国が終戦を迎(むか)えた後も攻撃(こうげき)を続けたソ連軍を占守島(しゅむしゅとう)にて撃退(げきたい)し、ソ連が目論(もくろ)んでいた北海道占領(せんりょう)の野望(やぼう)を打ち砕(くだ)いたのです。
今回の歴史講座では、誇(ほこ)りある決断を重ねた結果として我が国存亡(そんぼう)の危機を救った英雄たる樋口将軍の生涯(しょうがい)をたどりながら、現代に生きる私たちが活(い)かすべき教訓などについて探(さぐ)ってみたいと思います。





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ぴーち こんばんは!
今日の記事だけを伺っていても、これだけの偉業を成し遂げられた人物がどうしてこれまで影の様な存在として追い遣られていたのか、逆に不思議に思いました。その辺の事情もあわせて勉強させていただきたいと思います。
凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、樋口将軍の実績は他の英雄と比類なきものであるにも関わらず、一般的に知られていません。
その謎を探るとともに、まずは彼の実績を振り返ってみたいと思います。
幼い頃から成績優秀(ゆうしゅう)だった季一郎は、明治35(1902)年にエリート将校(しょうこう)の早期養成のために創設された大阪陸軍地方幼年学校に入学し、優秀な成績で卒業すると明治38(1905)年には東京の陸軍中央幼年学校に入学し、明治40(1907)年5月に卒業すると東京の第一師団(だいいちしだん)の歩兵第一連隊(ほへいだいいちれんたい)に配属(はいぞく)の後に、同年12月には陸軍士官学校に入学しました。
明治42(1909)年に第21期で陸軍士官学校を卒業した季一郎は見習い士官としての歩兵第一連隊第二大隊での勤務(きんむ)を経(へ)て少尉(しょうい)から中尉(ちゅうい)に昇進(しょうしん)し、第一次世界大戦中の大正4(1915)年に後の陸軍大将(りくぐんたいしょう)の阿南惟幾(あなみこれちか)らと共(とも)に陸軍大学校に入学するなど、陸軍将校としての道を着実に歩みました。
なお、陸軍中央幼年学校時代からの同期生には後に陸軍中将(ちゅうじょう)となった石原莞爾(いしわらかんじ)がいました。また、季一郎は18歳の時に叔父(おじ)にあたる樋口家の養子に迎えられ、樋口季一郎と名乗りました(当講座では季一郎のことを今後は「樋口」と表記します)。





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ぴーち おはようございます!
なるほど、樋口という苗字は、後の養子として迎えられた家の名前だったのですね。
それにしても、多感な年頃に両親の離婚や、親戚に養子に入るなどを経験されて、何かと波乱万丈な少年期を過ごされたようですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり波乱万丈な年少期でした。
しかし、そんなハンデを感じさせないほどのエリートとして出世していくのが樋口将軍のすごさですね。
ポーランドに赴任(ふにん)した樋口はダンスを学んだり、オペラ鑑賞(かんしょう)に足しげく通ったりすることで社交界の人気者となり、大いに人脈(じんみゃく)を広げました。また、ソ連とドイツに挟(はさ)まれていたことからインテリジェンス活動に力を入れていたポーランド陸軍の暗号解読能力の高さを研究し、日本陸軍の暗号技術の格上げに大きく貢献(こうけん)しました。
我が国が後に大東亜戦争(だいとうあせんそう)となった際、日本海軍の暗号が連合国にほぼ筒抜(つつぬ)けとなっていたのに対して日本陸軍の暗号が最後まで解読されなかっただけでなく、ソ連の軍事暗号を陸軍がかなり解読出来ていたのは、ポーランド時代の樋口の活動と決して無関係ではないでしょう。
昭和3(1928)年に帰国した樋口は、各地を勤務しながら中佐(ちゅうさ)から大佐(たいさ)へと着実に昇進しましたが、昭和10(1935)年に部下だった相沢三郎(あいざわさぶろう)陸軍中佐が永田鉄山(ながたてつざん)軍務局長(ぐんむきょくちょう)を殺害(さつがい)するという相沢事件が起きた際には、責任を取って進退伺(しんたいうかがい)を出したものの慰留(いりゅう)されるということもありました。





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ぴーち おはようございます!
前回のお返事をいただいたお言葉通り
少々の波風などにはびくともしない逞しさを
感じる生き方ですね!
むしろ、苦労をそのまま、生きるための原動力として貪欲に吸収しながら突き進んでいるかの様です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 少々の波風などにはびくともしない逞しさを
> 感じる生き方ですね!
> むしろ、苦労をそのまま、生きるための原動力として貪欲に吸収しながら突き進んでいるかの様です。
仰るとおりですね。
樋口将軍のこうしたバイタリティーが我が国を救うことになるのです。
当時の我が国はドイツと防共協定(ぼうきょうきょうてい)を結んでおり、ドイツの国策(こくさく)に反することになる大会を認めない方が良いのではないかという意見もありましたが、樋口は全く意に介(かい)さず、来賓(らいひん)として自(みずか)ら大会にも出席しました。
大会当日、樋口は「一日本国民として出席する」という意思を示したのか、軍服ではなく平服で会場に現れると、ユダヤ人擁護(ようご)の演説を行って会場が万雷(ばんらい)の拍手(はくしゅ)に包まれたと伝えられています。
これらの姿勢(しせい)から見られるように、樋口自身は当時のユダヤ人が抱(かか)えていた苦難(くなん)に対して同情的でした。そんな中、大会からわずか3ヵ月後に樋口は大きな決断を迫(せま)られることになるのです。





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ぴーち おはようございます!
一個人の宗教的弾圧意識から、ただユダヤ人であるという理由だけで、迫害を受けなければいけないという状態に樋口氏は耐えられなかったのでしょうね。
過去の出来事にとらわれ過ぎて、怨恨を募らせていると、自分自身の首も最終的には絞めることになってしまう。。
「人を呪わば、穴二つ」とは、よく言ったものです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 過去の出来事にとらわれ過ぎて、怨恨を募らせていると、自分自身の首も最終的には絞めることになってしまう。。
人間にとって永遠の課題でしょうね。樋口将軍の場合も様々な困難を乗り越えて我が国に貢献することになるのですが、そこには「人種差別を許さない」という我が国の国是もありました。
ナチスから逃れようとドイツを脱出(だっしゅつ)したユダヤ人難民はポーランドを目指(めざ)しましたが、ポーランド政府は受けいれに難色(なんしょく)を示したので、彼らは次にソ連へと向かいました。
ソ連政府はシベリア開拓(かいたく)のための労働力として彼らを利用しようと考えたために当初は難民の受けいれを認めましたが、後に彼らが役に立たないことを知ったソ連は、結局は難民の受けいれを拒否(きょひ)してしまいました。
次に彼らが目指したのは満州国(まんしゅうこく)でした。無蓋(むがい)列車に揺(ゆ)られて遠路(えんろ)はるばるシベリア鉄道でオトポールまでやって来た難民らでしたが、ドイツと友好関係にある日本に気を遣(つか)った満州国外交部が彼らの入国を拒否してしまったのです。





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ぴーち こんばんは!
なまじ日本はドイツと友好を築いていた為に
政府の立場とは真逆な行動をとらなければいけなくなってしまった所になにやら樋口氏の活躍が有耶無耶にされてしまっている大きな要因に
思えて参りましたが。。
いかがでしょうか(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、ぴーちさんのようにお考えになられるのも無理はないと思われますね。
樋口将軍の活躍についてはこの章でじっくりと紹介したいと思いますので、今しばらくお待ちください。
藁(わら)にも縋(すが)る思いでオトポールまでやって来たユダヤ人難民でしたが、満州国から足止めを食らって立ち往生(おうじょう)してしまいました。3月の当地は最低気温が氷点下20℃を下回るという厳(きび)しい寒さであり、難民たちは極寒(ごっかん)の原野(げんや)にテントを張って助けを求め続けましたが、中には凍死(とうし)する者まで現れ始めていました。
難民の困難(こんなん)な様子を耳にした樋口は、事態(じたい)の深刻(しんこく)さを直(ただ)ちに理解したものの、日本の一軍人が友好を深めつつあったドイツの国策に反する決定を下(くだ)すことは容易(ようい)ではありませんでした。
しかし、先述(せんじゅつ)したカウフマンからも難民の救出を懇願(こんがん)された樋口は、熟慮(じゅくりょ)を重ねた末(すえ)に難民を受けいれることを決断したのです。なお、これら一連の流れを今日では「オトポール事件」と呼(よ)んでいます。
「難民の存在を無視することはできない」。「人道上の問題」を重視した樋口の「誇りある決断」でした。





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ぴーち おはようございます!
考えてみれば、樋口氏の生き方は人間が人間らしく生きる為に必要である基本的な考え方に沿って
いるように思います。
自分の気持ちに正直に生きる事は難しい事ですが、(周りの人間関係や、社会情勢にどうしても流されてしまいがち)樋口氏はその信念を曲げずに常に自分自身の正義とすり合わせながら、道を外す事のないように懸命に生きようとした人だった様に思えました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、樋口氏のまっすぐな生き方が周囲に大きな影響を与えたと思います。
これから紹介しますが、その後の対応においても将軍は完璧に処置を行っておられますからね。
難民受けいれを決断した樋口でしたが、オトポールからハルビンまでの長い道のりを安全に護送(ごそう)するには特別な列車を出す必要があったことから、樋口は南満州鉄道株式会社(みなみまんしゅうてつどうかぶしきがいしゃ、別名を満鉄=まんてつ)に掛(か)け合い、最終的に運賃無料で輸送できることになりました。なお、当時の満鉄の総裁(そうさい)は後に外務大臣を務めた松岡洋右(まつおかようすけ)です。
昭和13年3月12日、ハルビン駅に難民たちを乗せた特別列車が到着(とうちゃく)すると、プラットホームには多くの涙と笑みがこぼれました。難民たちには5日間のビザが発行されたほか、地元の商工クラブや学校へと収容(しゅうよう)され、そこで炊(た)き出しを受けました。
樋口の決断によってこの後も多くのユダヤ人難民がいわゆる「ヒグチ・ルート」を利用してハルビンまでやって来ました。その総数はおよそ2万人とも、あるいは数百人から数千人とも伝えられています。





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よく耳にする事ですが、
日本人の初動体制の甘さ(と言うか、鈍さ)がその後の進展に
悪影響を与えている事例が多い中、こうした
決断力の速さ、的確な判断力を備えた日本人が
存在したことに私たちはもっと誇りを持つべきだなと改めて感じました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
今後の講座の内容でさらに実感されるとは思いますが、樋口将軍の場合はエリートの良い面が突出しているといえます。
関東軍内においても樋口に対する処分を求める声が強まるなか、樋口は当時の関東軍司令官である植田謙吉(うえだけんきち)大将に自らの所信を表明した文書を郵送しましたが、その内容は以下のとおりでした。
「小官(しょうかん、ここでは樋口のこと)は小官のとった行為を、けっして間違(まちが)ったものでないと信じるものです。満州国は日本の属国(ぞっこく)でもないし、いわんやドイツの属国でもないはずである。 法治国家(ほうちこっか)として、当然とるべきことをしたにすぎない」。
「たとえドイツが日本の盟邦(めいほう)であり、ユダヤ民族抹殺(まっさつ)がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈(くっ)するわけにはいかない」。





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ぴーち こんばんは!
樋口氏はあくまでも客観的な立場、人道的措置に拘った考え方を貫こうとした訳ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 樋口氏はあくまでも客観的な立場、人道的措置に拘った考え方を貫こうとした訳ですね。
その通りですね。だからこそ説得力があるとは思いますが、一方で批判も強くなってしまう一面もあったのは仕方がなかったのでしょうか。
「参謀長はヒットラーのお先棒(さきぼう)を担(かつ)いで弱い者いじめをすることが正しいと思われますか?」
東条参謀長は樋口の主張が尤(もっと)もであると認め、軍司令部内での樋口に対する批判は下火(したび)となり、ドイツの抗議は不問(ふもん)に付されて事件は鎮静化(ちんせいか)しましたが、その背景には「ユダヤ人を排斥(はいせき)することは我が国が長年国是(こくぜ)としてきた人種平等の精神と合致(がっち)しない」という一面もありました。
かくして、昭和15(1940)年に約6,000人の「命のビザ」を発行し続けた杉原千畝より2年も前に自己の地位をかけて「誇りある決断」を下し、結果として多くのユダヤ人難民を救った樋口の名前が歴史に刻(きざ)まれることになったのです。
なお、ユダヤのために貢献した人々を顕彰(けんしょう)するゴールデン・ブックに樋口の名が記されていますが、ゴールデン・ブックの本来の役割は「ユダヤ民族基金に対する献金記録簿(けんきんきろくぼ)」であり、先述した極東ユダヤ人協会が樋口に感謝を示す意味で、後日に彼の名前で献金を施(ほどこ)したということです。





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ぴーち こんばんは!
確かに日本人の心には人種平等の精神は、少なくとも外国の人種差別の度合いから比べれば、相当高いと思いますね。
それにしても、樋口氏のこうした功績が日本人に広く知られていない事が残念に思えてなりませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに日本人の心には人種平等の精神は、少なくとも外国の人種差別の度合いから比べれば、相当高いと思いますね。
> それにしても、樋口氏のこうした功績が日本人に広く知られていない事が残念に思えてなりませんね。
黄色人種が基本の日本人が人種差別に否定的なのはある意味当然かもしれません。
それだけに、仰るとおり樋口将軍の功績が知られていないことは残念です。
松岡は「反ユダヤ主義を支持するつもりはない」と常々(つねづね)主張していましたが、外務大臣に就任した当時は我が国とドイツとが同盟締結(ていけつ)の交渉中(こうしょうちゅう)であったことから、難民の受けいれを拒否したとされています。
ちなみに松岡は杉原に受けいれ拒否の電報を送る際に、周囲に内容が漏(も)れないようにする暗号電報ではなく、敢(あ)えて普通電報を使用しています。この姿勢にこそ、反ユダヤ主義を不支持としながらもドイツとの同盟を優先しなければならなかった松岡の苦衷(くちゅう)がうかがえるのではないでしょうか。
また、樋口が主張した「ユダヤ人難民の受けいれの正当性」を認めた関東軍参謀長(当時)の東条英機の存在も大きかったと思いますが、もしオトポール事件における樋口の決断を東条が支持したことが当時の世界に知れ渡っていれば、東条自身のその後の運命も変わったかもしれません。





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ぴーち こんばんは!
本当ですね。
東条英機といえば、やはりあの戦争のA級戦犯として
汚名を着せられながら、処刑させられてしまいましたから、こういう陰の功労もしっかりと果たしていた事を名誉挽回の為にも、もっと公にして差し上げたいですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
東条元首相の名誉回復を私たち日本国民の手で何としても実現させなければなりませんね。
昭和17(1942)年6月、日本軍はハワイ攻略の足掛(あしが)かりとして北部太平洋アリューシャン列島の西端(せいたん)に位置するアッツ島とキスカ島を占領しましたが、最大の目的であったミッドウェー海戦に敗北したこともあって、相対的な戦況は徐々(じょじょ)に悪化していきました。
翌7月に北部軍(後に北方軍と改称)司令官として札幌に赴任した樋口は、昭和18(1943)年4月に「アッツ島に事有(ことあ)らば万策(ばんさく)を尽(つ)くして増援(ぞうえん)する」と約束して山崎保代(やまさきやすよ)大佐を新たな守備隊長として送り出しましたが、その直後の翌5月にアメリカ軍がアッツ島へと押し寄せてきました。
緊急(きんきゅう)事態となったアッツ島に対して、樋口は武器弾薬(だんやく)や食糧資材などを輸送する準備を進め、増援部隊を送るために懸命(けんめい)の努力を重ねました。
しかし、そんな樋口に対して大本営(だいほんえい)は5月20日に「アッツ島への増援を都合により放棄(ほうき)する」と通告してきたのです。





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ぴーち こんばんは!
ここへ来て、樋口氏にとって最大のピンチが訪れてしまったのですね^_^;
この先、どうなってしまうのでしょうか。。
明日へ期待します。
凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、最大のピンチの一つですね。
その後の苦悩と決断にご注目いただければと思います。
しかし、前線で死力を尽くして戦っている山崎守備隊長以下に「増援部隊を送る」との約束を果たせなくなったという非情な現実に対して、深い懊悩(おうのう、悩みもだえること)と慙愧(ざんき、自分の見苦しさや過ちを反省して心に深く恥じること)の念を抱(いだ)いた樋口は、自己の無力さを嘆(なげ)きつつも、大本営の命令を涙ながらに受けいれる以外に手段がありませんでした。
翌21日、樋口は断腸(だんちょう)の思いでアッツ島に向けて増援が出来ない旨(むね)の以下の電信を送りました。
「中央統帥部(とうすいぶ)の決定にて、本官(=樋口)の切望救援(きゅうえん)作戦は現下(げんか)の情勢では、実行不可能なりとの結論に達せり。本官の力及(およ)ばざること甚(はなは)だ遺憾(いかん)にたえず、深く謝意を表すものなり」。
これに対し、翌22日に山崎大佐からの返電が北方軍司令官に届きました。





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ぴーち こんばんは!
まさに樋口氏にとっては断腸の思いであった事でしょうね。
時にどんなに強靭で鋼の様な思いを持ち合わせていても、世の中の流れや、どうしても超えられない大きな存在に従わなければいけない場合がありますね。
一度は跳ね返されて、打ちのめされても
樋口氏なら必ずまた何か行動を起こしてくれそうな予感がしますが^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり断腸の思いだったことでしょうね。
> 樋口氏なら必ずまた何か行動を起こしてくれそうな予感がしますが^^
この件については次々回(17日)の更新で紹介することになりますが、まずは山崎隊長以下の決死の思いをご覧いただければと思います。
「今後、戦闘方針を持久(じきゅう)より決戦に転換(てんかん)し、なし得る限りの損害を敵に与え、九牛(きゅうぎゅう)の一毛(いちもう)ながら、戦争遂行(すいこう)に寄与せんとす。なお爾後(じご、以後と同じ意味)、報告は、戦況より敵の戦法、及びこれが対策に重点をおく」。
「もし将来、この種の戦闘の教訓として、いささかでもお役に立てば、望外の幸(さち)である。その期至らば、将兵全員一丸となって死地につき、霊魂(れいこん)は永く祖国を守ることを信ず」。
アッツ島の守備隊は圧倒的な兵力を誇るアメリカ軍相手に健闘を重ねたものの、5月29日までに山崎守備隊長以下ほぼすべての将兵が壮絶(そうぜつ)な戦死を遂(と)げ、我が国初の玉砕戦(ぎょくさいせん)となってしまいました。
なお、アッツ島での玉砕直後に悲報を耳にされた昭和天皇は、「最後までよく戦った」という惜別(せきべつ)の電報を、二度と聞くことのできない部隊に対して発するように命じられたと伝えられています。





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ぴーち おはようございます!
良い結果ならまだしも、悪い結果を聞かされた
昭和天皇も本当にお辛いお気持ちであった事でしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 良い結果ならまだしも、悪い結果を聞かされた
> 昭和天皇も本当にお辛いお気持ちであった事でしょうね。
仰るとおり、大切な民の一人一人を失われた陛下のご心痛はいかばかりであったかと存じます。
そしてそれはもちろん樋口将軍も…。
樋口が迫ったのは、アッツ島のそばのキスカ島に残っていた将兵を撤退させることでした。 「アッツ島の二の舞(まい)は踏(ふ)ませない」。樋口の必死の思いはやがて実り、潜水艦(せんすいかん)を使って将兵を少しずつ撤退させ始めました。
しかし、アッツ島の玉砕もあってアメリカ軍に制空権も制海権も奪(うば)われた状態では、5,000人以上にのぼる将兵すべてを無事に撤退させることは容易ではありません。そこで、速度の早い軽巡洋艦(けいじゅんようかん)や駆逐艦(くちくかん)を投入して一気にキスカ島に突入(とつにゅう)し、残りの将兵すべてを一挙に撤収(てっしゅう)させる作戦が考案されました。
撤退作戦は現地特有の濃霧(のうむ)も味方して、各種兵器こそ遺棄(いき)せざるを得なかったものの、7月29日には全員が乗船し、無事撤退することに成功しました。





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ぴーち こんばんは!
確かに精神的なダメージで体重が激減する事って現実に起こりますよね。私も遠い昔、10日間で10キロも体重が減少するという痛手を負った経験がありますのでなんとなく、思いつめた気持ちが分かるような気がします^_^;
それにしても人の思いの強さとは、自然をも味方にしてしまう力を秘めているものなのだと改めて感じるお話ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんも大変な思いをなさっておられたんですね。
仰るとおり、人間の思いが自然を味方にして実現してしまうという人智を超えた現実は本当にあるものなんですよね。
散々(さんざん)な目にあったアメリカ軍は、我が国の撤退作戦を「パーフェクト・ゲーム」と呼びましたが、世界史上でも珍(めずら)しい完全な撤退を成功させた背景には、現地における海軍の指揮官(しきかん)の好判断と共に、将兵を一人残らず生還させるという樋口の強い意志がありました。
作戦成功の要因として、樋口は現地の濃霧や将兵を命がけで救った海軍の友軍愛、そしてアッツ島に散った英霊(えいれい)の加護(かご)を挙(あ)げると共に、後年(こうねん)にはこのように語っています。
「アッツ部隊があまりに見事な散華(さんげ)全滅を遂げたので、アメリカ軍はキスカ部隊も必ずやアッツと同じ戦術をとるものと考え、撤収など考慮(こうりょ)しなかったのではないか。この意味において日本軍の意図(いと)を秘(ひ)せしめたるは、アッツ島の英霊といえるのである」。
キスカ島の将兵全員の生還は、アッツ島の将兵を犠牲(ぎせい)にせざるを得なかったとしてもキスカ島の将兵は必ず守るという、樋口の「誇りある決断」がもたらした奇跡(きせき)でもあったのです。





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ぴーち こんばんは!
樋口将軍の様な戦術をあの太平洋戦争でも
発揮出来ていたら、もっと日本の戦い方にも
変化が見られたのではないかと思いました。
それにしても、相手の思う事の裏をかいた
見事な戦術ですね!
棋士が10手先を読んで攻めるかの様に
樋口将軍の頭の中では、相手の考えが
手に取るように分かっていたのかも知れませんね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、樋口将軍の主導による見事な撤退作戦でした。
将軍の決断力の凄味を感じさせられますね。
我が国がポツダム宣言を受けいれ、終戦となった8月15日を過ぎてもソ連の攻撃は止(とど)まることなく、18日には千島列島(ちしまれっとう)の北東端(ほくとうたん)に位置していた占守島(しゅむしゅとう)に攻め込み始めました。
戦争の継続(けいぞく)を断念(だんねん)した我が国の固有の領土への上陸作戦を展開するソ連の意図が侵略(しんりゃく)にあると見抜(みぬ)いた樋口は、現地の将兵に対して「断乎(だんこ)反撃(はんげき)に転じ、上陸軍を粉砕(ふんさい)せよ」と飛電(ひでん、至急の電報を打つこと)した一方で、大本営の命令で18日午後4時をもって各方面におけるすべての戦闘行動を一切停止しなければならないことも承知(しょうち)していました。
樋口は大本営に対してソ連との停戦交渉を願い出ましたが思うに任(まか)せず、やがて18日の午後4時を過ぎてしまいましたが、目の前でソ連の卑劣(ひれつ)な侵略行為が続いている以上は、19日以降も散発的(さんぱつてき)な戦闘が続くのはやむを得ないことでした。





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ぴーち こんばんは!
何というか。。
このソ連の漁夫の利的なやり方は
どうも解せませんね。
こんな体質だから、あの国はいつまで経っても
ウダツが上がらない印象が強いのでしょうか・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 何というか。。
> このソ連の漁夫の利的なやり方は
> どうも解せませんね。
> こんな体質だから、あの国はいつまで経っても
> ウダツが上がらない印象が強いのでしょうか・・
ぴーちさんのお気持ちはよく理解できます。
同じように「漁夫の利」を得た国に現在の中華人民共和国がありますが、両国に共通するのが共産主義国家であるというのは偶然でしょうか。
ロシアの伝統
青田です。 黒田先生
青田です。
ソ連(ロシア時代から)の伝統(法則)がありますね。
① 何があっても外交で生き残る。
② とにかく、自分を強く大きく見せる。
③ 絶対に大国相手の二方面作戦はしない。
④ 弱い奴は潰す。絶対に約束は守らない。
⑤ 約束を破った時こそ自己正当化。
⑥ 戦争の財源は、どうにかしてひねり出す。
⑦ どうにもならなくなったら、綺麗事で、ごまかす。
青田さんへ
黒田裕樹 確かにそうですね。同じことが某野党の党首にも言えそうですが…。
やがてソ連軍は22日になって停戦交渉に応じましたが、その背景にはアメリカ軍による北海道への進駐(しんちゅう)があったほか、アメリカのトルーマン大統領(だいとうりょう)がソ連のスターリンに対して「北海道占領を認めない」という書簡を出していたことも影響(えいきょう)していました。
しかし、たとえアメリカの強い意志表示があったとしても、ソ連が自力で勝手に北海道を占領するなどの既成事実(きせいじじつ)をつくってしまえば、それを覆(くつがえ)すことは難しかったでしょう。各地の将兵の決死の戦闘と、それを支えた樋口の「誇りある決断」が我が国の危機を救ったともいえます。
但(ただ)し、ソ連の理不尽(りふじん)さはこの後も止まることを知らず、占守島上陸作戦の後も南樺太(みなみからふと)を占領したほか、択捉島(えとろふとう)や国後島(くなしりとう)なども不法に支配し、我が国固有の領土である北方領土(ほっぽうりょうど)はいまだにロシアから返還(へんかん)されていません。
加えて、占守島などで戦った将兵たちが武装解除後(ぶそうかいじょご)にシベリアへと抑留(よくりゅう)され、劣悪(れつあく)な環境で重労働を強(し)いられたのみならず、多くの人々が亡(な)くなるという悲劇があったことを私たちは決して忘れてはならないでしょう。





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ぴーち こんばんは!
北方領土に関しては強引な意見ではありますが、
こうなってくると、武力行使の手段意外返還される見込みは薄いように思われますね。^_^;
日本の統治下になった国は、幸いにも日本人の悪口をいう物は余りすくないのに対して、こうしてお話を伺っていると、外国の支配下に置かれた国民は人として扱われる方が稀な様な気がしてきますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 北方領土に関しては強引な意見ではありますが、
> こうなってくると、武力行使の手段意外返還される見込みは薄いように思われますね。^_^;
ぴーちさんのお気持ちもよく分かります。現在のロシアは中国との問題を抱えていますし、北方領土の開発に我が国のノウハウを期待しているところもありますから、我が国からの「攻め手」もあるような気がしますが…。
> 日本の統治下になった国は、幸いにも日本人の悪口をいう物は余りすくないのに対して、こうしてお話を伺っていると、外国の支配下に置かれた国民は人として扱われる方が稀な様な気がしてきますね。
大東亜戦争の頃までは、他国を支配しているのはほとんどが白色人種の国家でした。根強い人種差別が「人間として扱うか」の分かれ目になったとも言えますね。
確かにハルビン特務機関長や第5方面軍司令官などを務めた樋口の軍歴は、ソ連にとっては「敵の大物」であるといえましたし、何よりも北海道占領の野望を打ち砕いた張本人(ちょうほんにん)でしたから、ソ連が樋口を戦犯の対象とみなすのはむしろ当然でもありました。
しかし、そんな樋口の危機に立ち上がったのがユダヤ人でした。かつてオトポール事件で樋口によって多くの人命を救われたユダヤ人たちの間で救出運動がおこると、ニューヨークに総本部を置く世界ユダヤ教会がソ連からの要求を拒否するようにアメリカの国防総省(こくぼうそうしょう)に強く訴(うった)えたのです。
これらの動きが奏功(そうこう)し、GHQのマッカーサーはソ連の戦犯引き渡し要求を拒否しました。まさに「情けは人のためならず」。多くの名もなきユダヤ人に生命を助けられた樋口はその後も各地を転居しながら静かな日々を過ごし、昭和45(1970)年10月11日に自宅で満82歳の天寿(てんじゅ)を全(まっと)うしました。





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ぴーち こんばんは!
まさに「情けは人の為ならず」の好例だと
思います。やはり人には思いやりの心を持って接していきたいものだと改めて思いました。
なかなか出来ない事ではありますが^_^;
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、思っていてもなかなかできないことですよね。
だからこそ私たちは今回のような「生きた見本」に学ぶわけでもありますが。
しかしながら、彼の功績が後世(こうせい)の人々に語り継(つ)がれる機会はこれまでにほとんどなく、特にユダヤ人難民の救出に関しては、杉原千畝よりも2年も前に実現していながらその存在が忘れ去られようとしています。
時系列的(じけいれつてき)に見ても、樋口の人道的な決断が杉原による「命のビザ」の下地(したじ)となったことが十分に考えられながら、なぜこのようなことになっているのでしょうか。
その背景には、外交官であった杉原に対して、樋口が「現役の陸軍軍人」であったことが関係していると思われます。





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ぴーち こんばんは!
やはり軍人であった事、ネックになってしまったのですね。
確かに軍人がドイツに逆らって、ユダヤ人の救済を手助けしたとなると、国のメンツにも関わる問題でもありますものね。
辛い所ではありますが、世間の評価は職務とその人物を切り離して考えてはくれない所がありますからね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはり軍人であった事、ネックになってしまったのですね。
> 確かに軍人がドイツに逆らって、ユダヤ人の救済を手助けしたとなると、国のメンツにも関わる問題でもありますものね。
> 辛い所ではありますが、世間の評価は職務とその人物を切り離して考えてはくれない所がありますからね。
軍人であったことがネックになったのは間違いありませんが、ある意味もっと深刻な理由かもしれません…。
詳しくは次回(23日)の更新をご覧ください。
戦後70年近くが経(た)った昨今になって、ようやく単細胞(たんさいぼう)で脊髄反射的(せきずいはんしゃてき)な「悪玉史観」だけで歴史を語る愚(おろ)かさに多くの日本人が気づきはじめ、これまで闇雲(やみくも)に蓋(ふた)をされてきた歴史の真実を見直そうという動きがあちらこちらで起きているように見受けられます。
樋口将軍による「誇りある決断」が結果として救国(きゅうこく)につながったという事実についても、必要以上に美化(びか)することもなく、冷静かつ健全な評価を行うことが今こそ可能ではないでしょうか。
「オトポール事件」や「キスカ撤退作戦」、そして「占守島の戦い」が「日本人として知っておくべき史実」であることは疑いないのであり、先人の歴史や智慧(ちえ)に学ぶ姿勢こそが、混迷(こんめい)続く世界情勢で我が国が生き抜くための指針(ししん)ともなるのです。
(※第39回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[12月24日]からは通常の更新[=昭和時代・戦中]に戻ります)





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ぴーち こんばんは!
脊髄反射的ですか(苦笑)
確かに政治家さん達が述べてきた言葉そのものを鵜呑みにし、皆があなた任せにして来てしまったということは、事実かもしれませんよね。最近は、ネットでも詳しい情報が得られるようになり、国民もそれなりの真実を得る事が出来るようになった事も大きな流れの変化に繋がっているのではないでしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 少々過激だったかもしれませんが…(^^;
とはいえ、国民が自分の目でしっかりと真実を見据えることは重要なことだと、今回の講座を通じて実感することは間違いないですね。
冷静に考えれば、
nakating いつの時代も、軍人は目的合理性を求めるリアリストであって、戦略目標なくして軽々に軍事行動を起こすような存在ではない(軍事行動は、自らも含めた人の生死などのリスクとコストと表裏一体なので)のですが、何故か“旧日本軍”の評価になると、とたんに思想的なバイアスが掛かりますね。「日本軍なのだから、人々を苦しめることしかする訳がない」みたいなw
また、旧軍の中の人にしても、私たちのお爺さん世代の同じ日本人、同じ家族だった訳で、「その人達を信じてはいけない・そいつらは悪魔だ」みたいな洗脳まがいの教育がまかり通る戦後の状況が明らかに異常だったと思います。
nakatingさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、これまでの偏向したイデオロギーに満ちた教育姿勢が異常だったのです。
歴史的事実から当時の状況を冷静に判断できる教育が望まれますね。