1990(平成2)年8月2日、イラク軍が突然クウェート領内に侵攻(しんこう)して軍事占領したうえ、クウェートの併合を宣言しました。これに対して、国連安保理事会は直ちにイラクを非難し、アメリカを中心に多国籍軍を組織したうえで、経済制裁を行ってイラクにクウェートからの撤退(てったい)を迫(せま)りましたが、イラクはこれを拒否しました。
このため、翌1991(平成3)年1月17日に国連の多国籍軍がイラクへの空爆を開始し、翌2月24日には地上戦に突入したうえで、27日までにクウェートを実力で解放させました。これを湾岸戦争(わんがんせんそう)といいます。
ところで、ポスト冷戦期の世界にとって最初の試練となった湾岸戦争において、我が国が戦ってもいないのに、敗戦にもまさる深刻な打撃を受けてしまったことを皆さんはご存知でしょうか。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
ついこの間の出来事なのに、
こうして伺っていても、よく覚えていない
部分があるものです(^_^;)
我が国に関わる深刻な打撃は。。。?
燃料関係のお話だったでしょうか・・・?(苦笑)
まるで検討違いでしたら、ごめんなさいm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 我が国に関わる深刻な打撃は。。。?
> 燃料関係のお話だったでしょうか・・・?(苦笑)
燃料であればまだよかったのですが…。
国家の本質を問われる重要な事態でしたからね。詳しくは今後の更新をご覧ください。
しかし、アメリカが求めていたのは、経済よりも「人的支援」でした。「日本は何らリスクを負おうとはしない」という批判に対して、当時の海部俊樹(かいふとしき)内閣は、自衛隊の海外派遣や小型武器の携帯を明記した「国連平和協力法案」を国会に提出しました。
しかし、野党を中心に「国連平和協力法案は、平和主義を定めた日本国憲法第9条に違反する」という声が強く、法案は廃案となり、その後、国内で貢献方法について論議を重ねているうちに、湾岸戦争が始まってしまったのです。
人的支援を断念した海部内閣は、平成3(1991)年1月24日に、アメリカが要請した90億ドル(約1兆1,700億円)の拠出金(きょしゅつきん)の追加供与を決定し、また難民輸送のために、今回限りの特別措置(とくべつそち)として自衛隊機を派遣することを決定しました。
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- 黒田先生
青田です。
日本で、このことが世論で、問題になったのを覚えています。
この時、アジアからは、 韓国、バングラデシュ、パキスタン が多国籍軍として、参加しました。
ベトナム戦争でも、韓国軍は、アメリカ側として、最大限の兵力を派兵しています。(ベトナム戦争での韓国軍の虐殺があったことはたしかですが)
私は、親韓国派でも、嫌韓国派でもありませんが、(こう話すと、保守派から、批判されるかもしれませんが)
アメリカのモノの観方としては、いざという時は、血を流してくれる韓国というふうに写っています。
アメリカのこういう経緯から、形成された日本観、韓国観が、現在でも、
韓国が、歴史の捏造で、日本を批判した時でも
アメリカの曖昧な態度に繋がっていると思います。
アメリカの正義は、国益でしかありませんから。。
ぴーち こんばんは!
今回のお話、わずかに記憶に残っています!
そうですよね。経済的支援ではなく、人的支援をと望んでいた話でしたね。
これは出来ないとお断りをした様な内容でしたね。
勿論、アメリカの言いなりにはなりたくは有りませんから、当然の対応だったと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 青田さんの仰るとおりと思います。
それぞれの国が国益を最優先する以上、世界の常識を鑑みれば、我が日本だけで成り立つ理屈は通用しません。
無論「血を流せ」と言うのではなく、現在の自衛隊の国際貢献が当時から行われていれば、と思ってしまうんですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのようなお考えが、当時の我が国の世論を形づくっていたのは間違いありません。
ただ、人的貢献に関しては、現在の自衛隊がそうであるように、必ずしも「血を流す」だけとは限りません。
こうした「世界の常識」が読めなかったことが、この後の混乱を招いてしまうのです。
湾岸戦争後、クウェート政府は、ワシントン・ポスト紙の全面を使って国連の多国籍軍に感謝を表明する広告を掲載(けいさい)しましたが、その中に日本の名はありませんでした。また、湾岸戦争に関して、アメリカやクウェートが、公式の場で我が国に感謝の意を表明したことは一度もなかったのです。
国民一人あたり1万円以上の膨大(ぼうだい)な資金援助を行ったにもかかわらず、国際社会の冷たい仕打ちを受けざるを得なかったことに対して、当時の日本人の中には怒りを覚える人も少なくありませんでした。
しかし、国際的な信義から見れば、日本の行動こそが「理にかなわなかった」のです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
確かに何でもお金で解決出来ると思ったら
大間違いだと言いますものね。
世間のお付き合いでもそうですが、
自分の足で出向いてこそ、誠意が伝わるという
ものですからね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 世間のお付き合いでもそうですが、
> 自分の足で出向いてこそ、誠意が伝わるという
> ものですからね。
まさしく仰るとおりです。
次回の更新でもう少し詳しく紹介したいと思います。
湾岸戦争で我が国がとった行動は、平たく言えば「カネは出しても、人は出さない」ということですが、これがいかに問題であるかということは、以下の例え話を読めば理解できるはずです。
ある地域で大規模な自然災害が発生しましたが、これ以上の被害を防ぐための懸命な作業が行われていました。自分自身のみならず、愛する家族の生命もかかっていますから、全員が命がけです。
しかし、地域の資産家が、「そんな危険な作業は家訓があるからできない。その代わりカネは出すからそれで勘弁してくれ」と言ってきたら、皆さんは彼を信頼することができるでしょうか。
湾岸戦争は、国連すら承認した戦争でした。本来ならば、緊急事態法を即座に制定してでも、我が国は国際社会に信頼を得られるよう、何らかのかたちで人的支援をすべきだったのです。その意味においても、湾岸戦争は、我が国にとって大きな教訓となったのでした。
ちなみに、憲法改正の問題が、いわゆる右派の人々だけでなく、広く一般的な「国民的課題」と認められるようになったのは、この湾岸戦争からです。日本国憲法第9条に縛(しば)られ、身動きのできなかった湾岸戦争での我が国の対応に、疑問を感じた国民の意識が少しずつ変化することで、現在の第2次安倍内閣が憲法改正を課題の一つに挙げるまでに、国民的議論が成熟してきたという側面も見逃せません。
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共産党と社民党の消滅を望む 日本国憲法で削除すべき条項としては例えば18条、「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」がある。
わが国に奴隷など存在したことがない。
にも拘わらず、突然、奴隷が日本国憲法に登場するのはまさにアメリカの価値観ゆえだ。
米国は奴隷解放を巡って南北戦争を戦い、リンカーンが有名なゲティスバーグ演説をした。
奴隷という表現はその演説に由来しているのである。
オバrev 同じ釜の飯を食うと言いますが、顔と顔を突き合わせて伴に苦労を共にした経験は一般でも大きいです。
日本が世界の中でリーダーとしての地位を確立していくためには、やはり同じ釜の飯を食うことが必要であるという認識は持たなければ、中々未来は開けないかもしれませんね。
共産党と社民党の消滅を望むさんへ
黒田裕樹 仰ることは全く理解できないことはありません。
それぞれがそれぞれの立場で我が国に貢献できればと思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 私もそう思います。
だからこそ、私たちは国際社会で生き残るための様々な常識を持たねばならないのではないでしょうか。
昭和29(1954)年に自衛隊が発足して以来、初めてであった海外派遣は、国連や東南アジア諸国の賛成もあって、6月5日から他の多国籍軍派遣部隊と協力して掃海作業を開始しました。
炎天下の劣悪(れつあく)な環境の中、海上自衛隊は担当した海域約700平方kmにおいて、「湾岸の夜明け作戦」と呼ばれた機雷除去を行い、9月10日までに、他国が処理できなかった困難な機雷除去を完遂(かんすい)しました。
海上自衛隊の掃海技術は国際社会で高い評価を受け、かつて日本の国旗を除いて謝意を表した広告を掲載したクウェートでも、掃海部隊派遣後には、日本の国旗が新たに他国に加わって印刷された記念切手が発行されるなど、危険を伴(ともな)った人的貢献を行ったことで、外国における我が国の評価がそれまでと一変したのです。
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ぴーち こんにちは!
連戦連勝の国には分からないかも知れませんが、
日本はこれまで勝利した戦争も経験した後、
敗戦という屈辱も味わったことがあり
どちらの思いも想像出来る国だからこそ、
海外へ派兵された時には、戦いの酷さを
心得た上での心的ケアが出来るのかもしれませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、「痛みを知る人間の強さ」ですね。
我が国の良いところがうまく出ているのかもしれません。
政府は「国際貢献という観点から、戦闘終結地域への、戦闘目的以外の自衛隊の派遣であれば可能である」との判断を下し、湾岸戦争の翌年に当たる平成4(1992)年に国際平和協力法(PKO協力法)を制定させ、国連平和維持活動への人的貢献として、自衛隊の参加を可能としました。
そして、同年9月には、国連カンボジア暫定(ざんてい)統治機構(UNTAC)の要請により、カンボジアに自衛隊が派遣され、我が国における本格的な人的支援への道が開かれたのです。
その後、自衛隊の海外派遣は平成5(1993)年のモザンビーク、平成6(1994)年のザイール(現在のコンゴ民主共和国)、平成8(1996)年のゴラン高原、平成14(2002)年の東ティモール、平成16(2004)年のイラク、平成23(2011)年の南スーダンなど継続的に行われ、自衛隊の活躍ぶりが、我が国の世界における信頼度を高めています。
なお、PKO協力法をめぐっては、法案に強硬に反対した社会党や共産党などによって牛歩戦術(ぎゅうほせんじゅつ)が行われたり、社会党の衆議院議員全員が辞職届を出したりするなど、審議引き延ばしを目論(もくろ)んだ議事妨害によって、採決がずれこんだという経緯もありました。
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ぴーち おはようございます!
日本人の良さを活かした人道的支援が続いた訳ですね。
共産、社会党については、反対意見を言える存在も無くてはならないでしょうから、排除は出来ないかもしれませんが、道理や根拠のある説得が望まれますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、我が国には我が国なりの立派な「人的支援」があり、自衛隊の活躍が世界から称賛されるのも道理だと思います。その一方で「何でも反対」ばかりで、何ら対案を示さない輩の存在は頭の痛い話ではありますが。
かねてより世界平和に関心を抱(いだ)き、国連で働くことを希望していた中田さんは、大学を卒業したばかりの平成4年5月にUNVに採用され、7月にカンボジアへ渡ると、最も危険なコンポトム州の巡回要員に自ら志願しました。
道すら十分になく、時には何時間も濁(にご)った川を泳いで移動しながら、中田さんは選挙の必要性などについて、カンボジアの国民に真剣に説(と)いて回りました。
しかし、総選挙が目前に迫(せま)った平成5(1993)年4月8日、中田さんは何者かに銃で至近距離から2発撃(う)たれ、「I am dying(私は死んでいきます)」という言葉を無線に残して、25歳の若さでこの世を去りました。
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ぴーち こんばんは!
そうですか。。痛ましいお話ですね。。。
彼の高い志と勇気には頭が下ります。
しかしながら、たったひとりで乗り込んでしまった
所は、ある意味自殺行為であったと悔やまれてなりません。
正義感だけを引っ提げて、猪突猛進に突き進んでしまうと取り返しのつかない事が起きかねませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、痛ましい話でした。
彼にそこまでの高い志を持たせたのは一体何だったのでしょうか。
次回の更新で紹介したいと思います。
また、中田さんが担当した地域で開票作業をしていた投票箱の中から、いくつもの手紙が出てきて、中にはこう書いていたものもあったそうです。
「今まで民主主義とか人権とかいう言葉に触(ふ)れることなく、一生を戦争のなかで暮(く)らさねばならないのか、と思っていたけれど、こうやって初めて自分たちの意思が表せる選挙ができ、こんな嬉(うれ)しいことはありません。ありがとう」。
中田厚仁さんの肉体は天に召(め)されましたが、この後、1998(平成10)年に「ナカタアツヒト小学校」が建てられるなど、彼がこの世に遺(のこ)した精神は、いつまでもカンボジアの人々を温かく見守っているのです。最後に中田さんが生前に語っておられた言葉を紹介します。
「だけれども僕はやる。この世の中に、誰かがやらなければならない事があるとき、僕は、その誰かになりたい」。
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ぴーち こんばんは!
そうですか。
彼の意志が1つの種となり、
しっかりその土地に根付き、立派な花を咲かせたのですね!
その様子を是非、彼自身が感じて見て頂きたかったのが返す返すも残念でなりませんが、
きっと、彼の中ではそうなるであろう・・という
確固たる確信があって、行動を起こしたのかもしれないと思いたいですね・・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
彼の取った行動については様々な意見があって良いと思われますが、彼の意思が永久にこの世に残ったことを、私たちは素直に受け止めるべきかもしれません。
ヨーロッパでは、1992(平成4)年にEC(=ヨーロッパ共同体)加盟国が、統合の基本原因を定めた欧州連合条約(マーストリヒト条約)を締結し、翌1993(平成5)年にはヨーロッパ連合(=EU)を発足させ、統一通貨であるユーロを発行するなど、経済を中心とした地域連合の動きを強めました。
しかし、EUの加盟国の中にはイギリスのように通貨統合に応じない国があったり、また逆に通貨統合をしたことで、ギリシャのように経済破綻(はたん)に追い込まれた国の存在によって、ユーロはおろか世界中を巻き込む金融危機が発生したりするなどの問題も抱(かか)えています。
アジアでは、1970年代に起きた経済危機から回復してきたASEAN(=東南アジア諸国連合)諸国が、1994(平成6)年に地域の安全保障を協議するASEAN地域フォーラムを発足させるなど、地域内の協力関係を高めました。
また、東アジア諸国とアメリカを中心としたアジア太平洋経済協力(=APEC)閣僚会議が1989(平成元)年から開催され、経済の協力関係の強化が図られるようになっています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
(※次回[10月10日]からは第44回歴史講座の内容の更新を開始します)





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ぴーち こんばんは!
その国の事情によって、良かれと思った事でも
仇になってしまうものなんですね・・
何もかもマニュアル通りにはいかない所は
何処も同じなんですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 長い歴史上において様々な国家が構築されてきたのですから、そう簡単に統合はできない、ということなのでしょうね。「地球市民」の無意味さがよく分かります。