昭和62(1987)年に沖縄で秋の国民体育大会が行われることになり、開会式ご出席も兼ねてようやく念願のご行幸(ぎょうこう、天皇陛下が外出されること)が実現できると思われましたが、その直前に、ご病気によって中止となってしまいました。
陛下のご無念のお気持ちは、以下の御製(ぎょせい、天皇による和歌のこと)で私たちもうかがい知ることができます。
「思はざる 病(やまい)となりぬ 沖縄を たづねて果(はた)さむ つとめありしを」
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
先日某番組で、沖縄の星でもある具志堅用高氏の再現ドラマをちら見していましたら、
彼がボクシングで世界チャンピオンを獲得することが出来たのも、郷里である沖縄の為でもあったと仰って居ましたが、実際的に具志堅さんの優勝は
同時に沖縄が日本という国の一員に成れたという
証でもあったと島の方が語っていた言葉が印象的でした。いくら形式的に「日本に返還された」と言われても、沖縄の人々は本土に対して、何か今ひとつ認めて貰えていないのでは無いかという意識がつきまとっていたのでしょう。
そんな中、彼が晴れて日本人チャンピオンとして
内外に発表された事に沖縄の方は、改めて日本人としての誇りと認識を得たのだと思いました。
万里ママ 今も何かと問題に上がる、沖縄と基地の問題・・・。
返還されたとは言え、県民は勿論、本土の人も含めて、
色々な問題や、特別意識がまだあったのでしょうね。
ご病気となられた昭和天皇の読まれた和歌を見ても、
当時の日本人の、気持ちが見えるような気がします。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 具志堅用高氏の活躍が、我が事のように嬉しかったことを思い出しました。
仰るとおり、日本人としての誇りを彼が背負っていたからこそ、訴えるものが大きかったのでしょうね。
全米テニスで決勝進出した錦織圭さんのように…。
万里ママさんへ
黒田裕樹 万里ママさんの沖縄に対する思いに共感できる日本人は決して少なくないと思います。
だからこそ、昭和天皇はご自身が沖縄に行幸されることで、なにがしかの決着を果たされたいと思われたのではないかと愚考します。
終戦記念日の8月15日に日本武道館で行なわれた全国戦没者追悼式に際して、昭和天皇はご療養先の那須御用邸(なすごようてい)からヘリコプターで駆(か)けつけられましたが、そのやつれたお姿に対して、多くの国民は息をのみました。
この日の陛下の御製は以下のとおりです。
「やすらけき 世を祈りしも いまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど」





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ぴーち こんにちは!
以前にも書かせていただいたかと思いますが、
この当時、たまたま友人と夏休みの間、
御用邸へ向かう道の途中にあるペンションに
宿泊している最中に、天皇が那須の御用邸に
来られていた事を知りました。
あの時、精一杯ご病気と戦われていた
と思うと今更ながら、複雑な思いを感じ
心が痛みます。
激動と呼ばれた昭和という時代で、これほどまでに
天皇という職務がそれこそ激務であった時代は
無かったのではないでしょうか(すみません。。素人意見です)
どれほどまでに心痛められたか、図りしません。
そのお気持ちを思うと、改めて
昭和天皇の存在の大きさを感じずには居られませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、陛下の激務は我々の想像を絶するものであったと思われます。
それだけに、この当時の昭和天皇のご無念がいかばかりであったかと思うと、胸が一杯になりますね。
その余りもの自粛ぶりに、一部の国民やマスコミからは不満の声も上がりましたが、国民のことのみをずっとお考えになり、自らを顧(かえり)みられることのなかった陛下がご重体となっておられるというのに、何も考えずに馬鹿騒ぎをすることが果たして許されるでしょうか。その証拠に、陛下のお見舞いのため皇居へ記帳に訪れた国民の数は、ご不例から3ヵ月間で延べ800万人を越えているのです。
昭和天皇のご容態はその後も芳(かんば)しくない日々が続きましたが、そんな中でも陛下は国民のことを第一にお考えになっておられました。この年の我が国では秋の長雨が続いていましたが、そんなある日、雨音を耳にされた病床の昭和天皇が「雨が続いているが、稲の方はどうか」とコメの作柄(さくがら)を案じられたというエピソードが残っています。
ご不例になられてからも陛下は驚異的な生命力で病魔と闘っておられましたが、年が明けた昭和64(1989)年1月7日午前6時33分、太陽が静かに沈んでいくように、昭和天皇は崩御(ほうぎょ)されました。御年(おんとし)87歳でした。





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ぴーち こんばんは!
折しも、今日のニュースを見ていましたら、
昭和天皇実録が公表されたというニュースが流れていました。
内容はまだ存じませんが、昭和天皇が苦悩された様々な問題も記載されている様ですね。
その中で、私が興味を持たせていただいた内容に
天皇は1000本を超える映画を
堪能されていたとあり、何やら嬉しい思いがしました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 「昭和天皇実録」は、私もその全貌が明らかになるのを楽しみにしております。
崩御された25年前の悲痛さがよみがえってくるのが怖くもありますが…。
わずか半世紀近く前に世界の多くの国を相手に激しく戦った国の元首であるにもかかわらず、恩讐(おんしゅう)を越えて、昭和天皇に弔意(ちょうい)を示したのです。また、皇居から新宿御苑へ続く6.5kmの雨の沿道において、昭和天皇をお見送りした国民の数は、実に60万人にも及びました。
昭和という激動の時代を長く生き抜き、国民の象徴として我が国を支えてこられた昭和天皇。自らが果たすことがかなわなかった沖縄へのご行幸(ぎょうこう、天皇陛下が外出されること)は、今上陛下によって平成5(1993)年に実現されました。そして崩御から18年後の平成19(2007)年、昭和天皇のお誕生日である4月29日は「激動の日々を経て、復興を遂(と)げた昭和の時代を顧(かえり)み、国の将来に思いをいたす」との目的で、新たに「昭和の日」として蘇(よみがえ)りました。
昭和が終わって早や四半世紀となりましたが、国民とともに歩まれた昭和天皇の大御心(おおみこころ)は、今もなお、そして永久に国民の心の中に生き続けていくことでしょう。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
聞く所によると
日本の天皇の世界的にみる地位の高さは
ローマ法王の次だと伺った事がありますが、
日本の長い歴史の中で脈々と受け継がれて来た
天皇制の重みは、世界中のどんな人物
にも敵わない尊いものだと改めて
感じるエピソードですね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 天皇陛下とローマ教皇は世界的に見てほぼ同じです。
先々代のヨハネパウロ2世が31年前に来日されたときには、教皇お自らが昭和天皇にお会いに皇居へ向かわれましたが、通常の場合は国家元首が教皇のもとへ訪ねますから、極めて異例なことでした。
皇室のご存在は、世界のどんな権威にも負けないくらい重いものなんですよね。
新たな元号となった「平成」は、中国の古典である「史記」の「内平外成(内平かに外成る=うちたいらかにそとなる)」と、「書経」の「地平天成(地平かに天成る=ちたいらかにてんなる)」が由来であり、「内外(うちそと)や天地ともに平和が達成される」という意味が込められています。
昭和天皇の崩御から2年近い服喪(ふくも)の時を経た、平成2(1990)年11月12日には、天皇陛下のご即位の大礼が盛大に執(と)り行われ、外国からも国家元首級の約70人を含む158ヵ国、2国際機関の祝賀使節が訪れました。
また、同月17日には、中央奉祝(ちゅうおうほうしゅく)大パレードと大提灯(だいちょうちん)行列が盛大に行われ、国民がこぞって陛下のご即位をお祝いしたほか、22日深夜から23日未明にかけて、古来、「瑞穂(みずほ)の国」の祭祀権者(さいしけんしゃ)でもあられる天皇陛下の重要な儀式である大嘗祭(だいじょうさい)が、厳粛(げんしゅく)に斎行(さいこう)されました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
(※これで昭和時代・戦後は終了です。次回[9月12日]からは平成時代の更新を開始します)





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ぴーち こんばんは!
この頃のお話は、まだまだ記憶に新しいですが、
それでも既に26年も前の出来事になってしまって居るんですものね。
月日が経つのは、本当に早いものです。
平成の元号を発表された故小渕氏も、この後
首相にまで昇格され、
その後、志半ばにして他界されたのは
残念に思いましたが、
あの発表の様子が今でも目に浮かびます。
今回、娘さんがお父様のご意思を次ぐべく
大臣に任命されたことは、同じ女性と言う立場からも
嬉しく思いますし、ご活躍を期待します。
今回も話が逸れてしまい、申し訳ありません(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうでしたね。
新元号「平成」を掲げたことで、「平成おじさん」として人気を博した小渕氏が総理大臣になったのは今から16年前。その娘さんがいまや大臣ですからね。
平成の25年余りの年月は、我が国を確実に変えつつあるようです。