乃木将軍が日露戦争(にちろせんそう)における旅順(りょじゅん)での戦いで数多くの死傷者(ししょうしゃ)を出してしまったことは確かに事実ですが、その一方で「永久要塞(えいきゅうようさい)」と呼(よ)ばれた難攻不落(なんこうふらく)の旅順の要塞をわずか半年足らずで落としたという大偉業(だいいぎょう)を彼が成し遂(と)げた事実を皆(みな)さんはご存知(ぞんじ)でしょうか。
戦いにおいて様々な悪条件が重なっても、一切弱音(よわね)を吐(は)かずに「腹を括(くく)った」乃木将軍であったからこそ、彼が率(ひき)いた第三軍は勇敢(ゆうかん)に戦い抜き、また旅順攻略(こうりゃく)後に敵将の名誉(めいよ)を重んじた乃木将軍の気高(けだか)い精神が世界各国から称賛(しょうさん)されたという真実もあったのです。
今回の歴史講座では、日露戦争における乃木将軍の活躍(かつやく)ぶりを中心として、彼が後世(こうせい)に遺(のこ)した様々なエピソードやそれにまつわる教訓について詳(くわ)しく探(さぐ)ってみたいと思います。





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ぴーち こんばんは!
いくら世間から名相だと称えられた人物であろうと
全ての面において、非の打ち所のない人物とは限らないのがまた人間であるが故でしょうけれど。
対象となる人物のどの部分をクローズアップして
みるかによって、人の意見が色々と変わってくるかと思いますので、そういう点にも注目してみたいものです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > いくら世間から名相だと称えられた人物であろうと
> 全ての面において、非の打ち所のない人物とは限らないのがまた人間であるが故でしょうけれど。
> 対象となる人物のどの部分をクローズアップして
> みるかによって、人の意見が色々と変わってくるかと思いますので、そういう点にも注目してみたいものです。
仰るとおりですし、乃木将軍の場合はなおさら顕著ですからね。
今回は約一ヵ月という長丁場ですが、お付き合いのほどよろしくお願いいたします。
しかし、幼年期の無人は依然(いぜん)として虚弱体質(きょじゃくたいしつ)であり、かつ臆病(おくびょう)でした。朝から晩まで泣くばかりだった無人の様子を見た人々は、彼は「無人」ではなく「泣人」だと陰口(かげぐち)をたたきました。
我が子の将来(しょうらい)を憂(うれ)えた希次は、無人に対して敢(あ)えて厳(きび)しく養育しました。ある寒い冬の日、無人が家の中で寒さを口にした際、希次は「暖かくしてやろう」と言って無人を褌(ふんどし)一つの裸(はだか)にして井戸端(いどばた)に連れて行き、冷水を頭から何度もかぶせた後、乾布(かんぷ)で全身をぬぐいました。
こうした父の荒療治(あらりょうじ)を受けながらも、持ち前の心根(こころね)の優しい素直(すなお)な同情心の深い少年だった無人は、長府藩上屋敷(かみやしき)がかつて赤穂浪士(あこうろうし)の預かり場所であったこともあり、泉岳寺(せんがくじ)に何度も詣(もう)でるうちに、赤穂義士の忠義の精神を知らず知らずのうちに理解するようになりました。





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ぴーち こんにちは!
名前に反対の意味を込めるとは^^
普通の親は、子供の名前に
こう育ってほしいという願いを込める
意味で命名する場合が多いのに
やはり世に名を残す人物の親御さんは
考え方も人とは違うものですね^_^;
それとも、それが
その時代の慣例だった・・?訳では
ないですよね??
ぴーちさんへ
黒田裕樹 どうやら当時の慣例だったようですね。
何しろ乳幼児の死亡率が極めて高かった時代です。あえて不吉な名前を付けることで逆に強くなってほしいという親心が痛いほどわかりますね。
玉木は父の許しを得ずして出奔した源三を当初は許さなかったものの、やがては玉木家に住むことを許され、畑仕事に明け暮(く)れる毎日を過ごしました。
農作業で鍛(きた)えられた源三の身体はそれまでの虚弱体質が嘘(うそ)のように別人のごとくたくましく成長し、後に玉木に入門が許された源三は約4年間真剣に学問に励(はげ)み、剣術も一流となりました。
かくして父の希次と吉田松陰を育てた玉木の薫陶(くんとう)を受けた源三は心身共(とも)に立派(りっぱ)な男子として成長を遂げ、慶応(けいおう)2年(=1866年)の第二次長州征伐(ちょうしゅうせいばつ)の際には長府藩報国隊(ほうこくたい)の一員として小倉口で戦果を挙(あ)げました。
なお、この時わずか18歳の源三の人物を見込(みこ)んで、彼を一指揮官(いちしきかん)として抜擢(ばってき)した人物こそが吉田松陰の愛弟子(まなでし)の一人である高杉晋作(たかすぎしんさく)だったのです。





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ぴーち こんにちは!
ここへ来てまた世に名を馳せる人物の名前が登場するのですね~^^
人間、生まれながらにハンデがあるほうが
一見して不幸であるように見えても、案外幸せだと思うときがあります。
ハンデがあれば、それを何とか克服していきたいと思う目標が生まれ、努力し甲斐が生まれるので
知らず知らずのうちに、健常な人間よりも心身ともに逞しく成長することが出来るのだと思いますので^^
やはり、自然と触れ合いながら体を動かしていく事はいい事ですよね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 歴史に名をはせる人物は、知らず知らずのうちに他の著名な人物との交流が生まれるものなのでしょうね。
乃木将軍の場合はちょうど成長期に身体を動かしたことが奏功したと思われます。
自然との触れ合いが大切なのは仰るとおりですね。
明治8(1875)年12月、熊本鎮台(くまもとちんだい)歩兵(ほへい)第十四連隊長心得(れんたいちょうこころえ)に任じられた乃木は小倉に赴任(ふにん)しました。なお「鎮台」は「師団(しだん、陸軍の部隊の一つで独立した作戦行動のとれる最大の固定編制部隊のこと)」の前身であり、また「心得」が付いたのは、本来は中佐(ちゅうさ)以上の軍職である連隊長に少佐が就任した場合、中佐に昇進するまでそう呼ばれたためです。
当時は明治政府が主導(しゅどう)する急激(きゅうげき)な近代化が従来の日本の伝統を粗末(そまつ)に扱(あつか)うものであると考え、日本精神からの異議申し立てを考えていた不平士族による不穏(ふおん)な動きが見られており、明治9(1876)年には熊本で神風連(しんぷうれん)の乱、福岡で秋月(あきづき)の乱、山口で萩の乱と立て続けに反乱が起きました。
熊本や福岡の秋月、山口の萩を結ぶ要所であった小倉を任(まか)されていた乃木が反乱軍の動きを事前に察知(さっち)するなど適切(てきせつ)な対応を迅速(じんそく)に行ったこともあり、これらの乱はいずれも短期間で鎮圧(ちんあつ)することができました。
しかしその一方で、乃木は萩の乱で反乱軍に属して戦った、実弟で玉木文之進の養子となっていた玉木正諠(たまきまさよし)が戦死し、またその責めを負って養父の玉木文之進が自害(じがい)するという悲しみも背負(せお)っていたのです。





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ぴーち こんにちは!
昔は、何か新しい風が吹き込もうとした時点で
戦いが勃発し、多くの血が流れたのは本当に哀しい事実ですね。
今では
なるべく穏便に、話し合いを極限まで繰り返して
流血を回避しようという考え方が基本となっていますが、こうして歴史の中で
犠牲になった数々の尊い命が土台となっているからなのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 戦いにはどうしても犠牲者が出てしまうとはいえ、確かに悲しい現実ですね。
日本人同士なら話し合いを重視するという流れは決して間違いではありませんが、乃木将軍の場合はどうしようもなかったのが残念です。
乃木将軍の仁徳の源
- 黒田先生
青田です。
乃木将軍の仁徳は、こういった理不尽で、不条理なつらい体験から、創られたと思います。
本当につらい体験(心の痛み)を経験した人間だからこそ、他人の痛みを知ることができるからです。
現代でも、こういう他人の痛みがわかる人間がリーダーがいてくれたら
日本の国は、もっと良くなりますね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、他人の痛みを知る人物こそがリーダーにふさわしいですよね。
現代においても一度つらい経験をした人物が返り咲いていますが、さて…。
倍以上の兵力を有する薩摩軍と激しい白兵戦(はくへいせん)を繰(く)り広げながらも良く持ちこたえた乃木は、頃合(ころあ)いを見て一時退却(たいきゃく)を決断しましたが、その際にあろうことか明治天皇(めいじてんのう)から下賜(かし)された連隊旗(れんたいき)を敵に奪(うば)われてしまいました。
連隊長としてあるまじき大失態(だいしったい)に絶望した乃木は、死をもってその大罪を償(つぐな)う他(ほか)はないと言わんばかりに敵の砲煙弾雨(ほうえんだんう)をものともしない奮闘(ふんとう)ぶりを見せ、同年4月に官軍が薩摩軍の熊本城に対する包囲網(ほういもう)を打ち砕(くだ)くと、同月22日に乃木はその功績を称(たた)えられて中佐に昇進し、熊本鎮台参謀(さんぼう)に任じられました。
連隊旗喪失(そうしつ)の件も西南戦争の功績が評価されて無罪となった乃木でしたが、彼の心は暗く沈(しず)んでいました。そんなある日、彼はついに人知(ひとし)れず割腹自決(かっぷくじけつ)を遂げようとしたのですが、同じ熊本鎮台参謀で、長州藩出身者として普段(ふだん)から親しかった児玉源太郎(こだまげんたろう)少佐が気付き、すんでのところで食い止めることに成功しました。





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- 黒田先生
青田です。
この乃木の連隊旗を奪われた話は、非常に有名ですが、
私は、この話を聞いた時、
『連隊旗を奪われる』ことは、失態には、違いありませんが、割腹自決するほどの失態かと思ってしまいました。
もちろん、現代と当時との価値観の違いはあるとは思います。
ただ、西南戦争は、明治10年ということは、
明治の軍隊が出来て、わずか10年しか経っていません。
私は、乃木は、異常なまでの純粋な責任感からの行為(割腹自決)だと思います。
ぴーち こんばんは!
無罪を言い渡され、許されたにも関わらず
連隊旗を奪われたということは、乃木希典にとっては、命よりも大切なものを失うに等しいものであったのでしょうね。
個人的には人命以上に尊く価値のある物は
この世にあってはならないとは思いますが
それほどまでに忠誠心に長けた人物だったことが
伺えますね。
青田さんへ
黒田裕樹 陛下から下賜された連隊旗の紛失ということは、赤穂義士の忠義の精神を幼い頃から学んでいた乃木にとっては、やはり「万死に値する行為」であったと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、忠義心に長けた人物であったと思います。
幼年期から青年期にかけての様々な体験が乃木を突き動かしたのでしょうね。
「死ぬなら立派に死ね。しかし、貴様が腹を切ったら失った軍旗(ぐんき)が出てくるとでもいうのか。もし仮に軍旗が出てきたとしても、その責任はそれで済むのか。武士が過失をしても、腹さえ切ればそれで責任が解除(かいじょ)されるというのが、俺たちが学んだ武士道なのか」。
「どうせ死ぬと決めたのならば、過失を償うだけの働きをしてからでも遅(おそ)くはあるまい。ただ死ぬのは犬死(いぬじに)だ」。
児玉の決死の説得を涙ながらに受けいれた乃木はその場での自決を思い止まりましたが、自己の責任を痛感(つうかん)した彼は後年(こうねん)に連隊旗喪失への謝罪(しゃざい)を遺言(ゆいごん)の第一に挙げ、明治天皇の後を追って殉死(じゅんし)を遂げることになるのです。





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ぴーち こんにちは!
児玉氏の言葉は、心に沁みますね・・。
仰るとおり、自らの命と引き換えに
死を選択すると言う事は、
全ての責任を放棄してしまう意味にもなりかねませんし、
自決をする事は、自分はそれらの事態以上の価値のあるものだと世間に知らしめる行為であるとすると、大層な傲慢であると感じます。
乃木将軍に対しての批判になってしまい申しわけありません。
死生観
- 黒田先生
青田です。
この逸話は、かなり、深いですね。
乃木には、武士道が根本にあり、
死生観を持っていたのですね。(赤穂浪士の忠義と吉田松陰の影響)
武士道とは、『死ぬことと見つけたり。』と
乃木は、考えて自決しようと考えたのですが
児玉源太郎は
『武士道とは、国家のため、人のために死ぬことと見つけたり、その時までは、死んではいけない。』ことを乃木に諭した気がします。
何も考えず、自分勝手主義になっている自分が情けないです。
反省しなければ。。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 児玉将軍も乃木将軍も、それぞれの立場で死生観を持っていましたからね。
結果として乃木将軍はその後の我が国に大きく貢献したのですから、児玉将軍の説得は効果があったと思いますし、ぴーちさんのお考えも決して批判にはならないと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 乃木将軍も児玉将軍もそれぞれの考えをしっかりと持ったお方でしたね。
現代人への大きな教訓だと思います。
そして明治27(1894)年に日清戦争(にっしんせんそう)が勃発(ぼっぱつ)すると、乃木は歩兵第一旅団長(りょだんちょう)として出陣して遼東半島(りょうとうはんとう)に上陸し、清国(しんこく)にとって最重要の拠点(きょてん)であった旅順の要塞を、一万数千人の兵力によってわずか一日で陥落(かんらく)させました。
乃木は日清戦争終結直前の明治28(1895)年4月に軍功(ぐんこう)を称えられて陸軍中将(ちゅうじょう)に昇進しましたが、このときに旅順の要塞を一日で落としたことが、後の日露戦争で彼に塗炭(とたん)の苦しみを味あわせることになるとは、当時の誰(だれ)しもが予測もつかないことでした。
なお、乃木は戦争後に我が国の領土となったばかりの台湾総督(たいわんそうとく)を務(つと)めましたが後に帰国し、休職を挟(はさ)んで新設された第十一師団長に任じられました。大臣級の要職たる総督を歴任した後に再び師団長に据(す)えるというのは格下げ感が否(いな)めませんでしたが、乃木はそんなことは全く気にせず、喜んで任地先の香川へと向かいました。





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ぴーち こんばんは!
乃木将軍にとって、自分に与えられた階級や
肩書きなどはあまり眼中に無い事だったのかもしれませんね^^;
一番重要視したのは、やはり天皇陛下に対する忠誠心だったのでしょうか・・・?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに陛下への忠誠心が乃木将軍の原動力になったかもしれませんね。
あるいは「根っからの武人」である彼にとって、格式高い地位よりも現場の方が喜びを感じていたのかもしれません。
訓練に従事(じゅうじ)していた兵士たちは、やがて乃木が副官(ふくかん)も連れずに一人で対岸の河原に立ち、こちらを見つめているのに気が付きました。やがて正午となって兵士らが弁当を食べると、乃木も携帯(けいたい)していた握(にぎ)り飯(めし)を食べ、兵士が河原に寝転(ねころ)んで休めば、乃木も同様に河原に横たわりました。
昼休み後に作業が再開されると乃木は再び午前と同じ河原に立ち、夕方の作業が終わるまでその場を立ち去りませんでした。兵士らは乃木の行動を始めのうちは「監視(かんし)しに来たのではないか」といぶかっていましたが、やがて「師団長は我々と困苦(こんく)を共にしておられる」ことに気付き、感激(かんげき)せずにはいられなかったそうです。
こうした乃木の鍛錬(たんれん)が実り、第十一師団は全国の模範(もはん)師団とうたわれるまでになると共に、所属していた将兵たちは日露戦争の際に第三軍に属(ぞく)して乃木の指揮下に入り、旅順攻略戦で奮闘を重ねることになるのです。
ただし、乃木自身は部下にある嫌疑(けんぎ)がかけられたことをきっかけに師団長を辞任し、以後は休職の日々を送ることになりましたが、そんな乃木を優しく見守り続けられたのが明治天皇でいらっしゃいました。





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ぴーち こんばんは!
そうですか。。
上に立つものは常に部下の身になって考える事は
絶大なる信頼を得るものですしね。
会社などでも、社長が率先して手本を示したり、
社員と同じ目線に立ち、行動を共に出来る会社に
倒産などという言葉は皆無だと思われますしね^^
乃木将軍の何事に対しても真摯に向き合おうとする態度は
賞賛すべき性格だと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、部下に対する乃木将軍の気配りは大いに称賛されるべきだと思います。
そして、そんな上官であるからこそ、将兵たちは思う存分実力を発揮できて、苦難が続く戦いを勝利に導いたといえるでしょう。
その後も明治天皇はことのほか乃木を親愛され、明治35(1902)年11月に熊本で明治天皇が統監(とうかん、全体をまとめて監督すること)されて陸軍大演習が行われた際にも乃木をお召(め)し列車に陪乗(ばいじょう、身分の高い人のお供をして同じ車に乗ること)させ、西南戦争の激戦地であった田原坂(たばるざか)を列車が通過すると、陛下は以下の御製(ぎょせい、天皇による和歌のこと)を詠(よ)まれて「乃木に与(あた)えよ」と仰(おっしゃ)られました。
「もののふの 攻めたたかひし 田原坂 松も老木(おいき)に なりにけるかな」
当時は西南戦争から四半世紀の時が流れていましたが、それだけの長い間乃木と人生を共にしてきたというご感慨(かんがい)と同時に、老いてもなお忠義の臣として陛下に仕える乃木に対する愛情を込めて詠まれた御製でした。
その後、明治37(1904)年に日露戦争が勃発すると、乃木は天皇ご自身が選ばれた親任官(しんにんかん)として第三軍司令官に任じられ、戦地に赴(おもむ)くことになったのです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど。明治天皇から
救っていただいた命という訳でしたか。
そういう意味では明治天皇と乃木将軍は
異体同心の様な関係であったのでしょうね。
自身を一度死んだ身だと置き換えれば、確かにどんな
困難な目に遭おうと死に物狂いで戦う事が出来ましょう。
乃木将軍の中に息づく武士道精神をも感じさせるお話ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
明治天皇の乃木将軍に対するご信任の深さが、乃木将軍の忠義と賢明な働きを呼び、結果として我が国を救うことになります。
我が国の歴史に欠かすことのできない大きな事実ですよね。
オバrev 結果はどうであれ、こういうお互いに信頼できる人間関係って、実はお互いにこの上ない幸せだと思います。
まさに人間関係に企業業績が左右される零細企業という立場にあると、こういう信頼出来る人間関係がいかに重要かということを痛感してます。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
私も教師の端くれですので、生徒や保護者などとの信頼関係には特に注意を払っています。
我が国は独立を守るためにロシアに宣戦布告(せんせんふこく)して日露戦争が始まりましたが、開戦前の日本陸軍は満州(まんしゅう)でのロシア軍主力との早期決戦を想定しており、遼東半島の一大軍事拠点であった旅順の攻略はそれほど重要視していませんでした。
一方、日本海軍は旅順港を根拠地(こんきょち)とするロシア太平洋艦隊(たいへいようかんたい)を壊滅(かいめつ)させたうえで、ヨーロッパから回航(かいこう)してくるであろうバルチック艦隊との決戦を想定しており、その前提として旅順を自力で陥落させる心積(こころづ)もりでした。
このため、海軍は陸軍に対して「旅順攻略への援助(えんじょ)は不要である」と言い切って旅順港を攻撃(こうげき)しましたが上手(うま)くいかず、ロシアがバルチック艦隊の東航(とうこう)を公表したこともあり、旅順の太平洋艦隊との合流を避(さ)ける意味でも早期の旅順攻略を陸軍に要請(ようせい)しました。
しかし、海軍が旅順攻略を陸軍に正式に要請したのが開戦から5ヵ月も経(た)った7月であり、ロシア軍が旅順の要塞を強化する時間を十分に与えてしまったことが、その後の陸軍の旅順攻略戦を大いに苦しめる原因となってしまったのです。





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- 黒田先生
青田です。
ロシアの旅順の要塞化は、
CGの復元で、観ましたが、驚きました。
ロシアは、世界最強の陸軍国だけあって、
何をすべきかという戦略・戦術を十分に分かっていた気がします。
逆に日本は、初めての近代戦の経験だったので、
首脳部も初期の対応が、大きく、間違った気がします。
ただ、これらのことは、結果論で後から、考えてわかることなので、仕方ないですね。
現代の教訓としては、戦いは、時間との戦いということを痛感します。
後2年経って、某国が膨張した場合、尖閣諸島が。。。
ぴーち こんばんは!
何故に海軍は、陸軍に対して正式要請が
そんなに遅れてしまったのでしょうね?
何か決定的な原因があったのでしょうか?
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、未経験による失敗は致し方ない面もあります。
過去の経験に学ぼうとしない姿勢は大いに問題ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 日露戦争に限りませんが、陸軍と海軍とはずっとライバル関係にありました。
海軍だけで大丈夫と豪語してしまった以上は引くに引けないところもあったのではないでしょうか。
いずれにせよ、このタイムラグが乃木将軍率いる第三軍を苦労させたことに変わりはなく、悔やまれる問題です。
乃木が第三軍の司令官に選ばれた理由は、先述(せんじゅつ)のように日清戦争において乃木が旅順の要塞をわずか一日で攻略したからでした。そんな流れがあったからか、陸軍はロシアが守る旅順要塞も容易(ようい)に落とせると錯覚(さっかく)し、敵の兵力を約15,000人と見積もったうえで、その約3倍となる約50,000人の兵力を第三軍に与えました。
しかし、それは児玉源太郎参謀次長(さんぼうじちょう、後に総参謀長=そうさんぼうちょうに昇任)を始めとする陸軍参謀本部の完全な誤解でした。1898(明治31)年に清国から租借(そしゃく、他国の領土の一部を一定の期間を限って借りること)して以来、ロシアが旅順の要塞工事に多大の労力を費(つい)やしたことで、旅順要塞は兵力約47,000人を誇(ほこ)る世界一の堅城(けんじょう)と化し、いかなる敵を引き受けても「3年は支えることができる」という「永久要塞」となっていたのです。
そんな事情も知らず、乃木は旅順攻略の司令官としてロシアとほぼ同じ数だけの兵数しか与えられずに現地で指揮をとることになりました。想像を遥(はる)かに超越(ちょうえつ)した堅固(けんご)な要塞と化した旅順を、バルチック艦隊が合流するまでに一日も早く攻略しなければならない。乃木率いる第三軍の苦難(くなん)に満ちた死闘(しとう)が始まろうとしていました。





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ぴーち こんにちは!
いかなる無敵な巨大勢力だとしても
弱点が微塵も無い作戦など存在しないと
思いますので、乃木将軍がどうそこを見つけ出し、突破することが出来たのか
その後のお話に期待したいと思いますが。。
大丈夫でしょうか^^;
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに深刻な問題ですからね。
乃木将軍の手腕にも注目いただければと思います。
そもそも要塞を攻略しようとすれば、攻撃側は守備側の少なくとも3倍以上の兵力を要する一方で、犠牲者(ぎせいしゃ)は相手に倍するのが通常でした。
陸軍参謀の情報不足から結果的にロシア軍とほぼ同数の兵力しか与えられなかった第三軍の苦闘は、前哨戦からすでにその兆候(ちょうこう)を見せるという結果となったのです。
しかし、前途多難(ぜんとたなん)を思わせた前哨戦を制した第三軍は、兵力と火力の絶対的不足にもかかわらず意気軒昂(いきけんこう、意気込みの盛んな様子のこと)でした。決死の覚悟(かくご)で旅順に乗り込んだ乃木の「腹を括(くく)ったリーダー」ぶりに、多くの兵士がロシアに対する闘志(とうし)をみなぎらせ続けたからです。





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ぴーち こんにちは!
「腹を括ったリーダーぶり」は、
それ以前に犯してしまった旗喪失の一件が
乃木将軍を強靭な精神力に仕立てたのでしょうね。
死をも恐れぬ攻撃というのは、相手にとっては
最強に怖い存在となりますものね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「腹を括ったリーダーぶり」は、
> それ以前に犯してしまった旗喪失の一件が
> 乃木将軍を強靭な精神力に仕立てたのでしょうね。
> 死をも恐れぬ攻撃というのは、相手にとっては
> 最強に怖い存在となりますものね。
なるほど、そういう観点もありますね。
いずれにせよ、厳しい戦いになると「腹を括った」乃木将軍と、彼を慕った前線の将兵たちとの精神力がその後の我が国の運命を変えたといえそうです。
もし西北正面を中心に攻めるとすれば、第三軍を西方に移動させなければならず、時間がかかるうえに軍の背後が脅かされて挟み撃(う)ちにあう危険性(きけんせい)があったからです。一方、要塞の心臓部である東北正面に大きな打撃(だげき)が与えられれば、速やかに旅順を攻略できるというメリットがありました。
第三軍は海軍から「ロシアのバルチック艦隊が旅順の太平洋艦隊と合流する前に一刻も早く旅順を落としてほしい」という要請を受けており、旅順の早期攻略は至上命令(しじょうめいれい)でもありましたから、日数のかかる西北正面の攻撃ははじめから考慮(こうりょ)されなかったのです。
さらに付け加えれば、東北正面への攻略は第三軍が独断(どくだん)で決めたのではなく、満州軍総司令部(まんしゅうぐんそうしれいぶ)の大山巌(おおやまいわお)総司令官も児玉総参謀長も全く異存(いぞん)がなく、そもそも参謀本部が旅順攻略について作戦を立てた当初においても東北正面への攻撃を優先していたという事実も私たちは知るべきでしょう。





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ぴーち こんにちは!
私は囲碁は嗜んだことがありませんが、
囲碁は互いの国同士の戦に似ていると
聞いた事があります。
きっと戦術に長けた方の頭の中には、碁盤お目のような展開が常に駆け巡っているのでしょうね。
一触即発になるやもしれないリスクを犯してまでも、その地雷をわざと踏むことで
解決のスピードを速める戦略もあるのですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私も囲碁は趣味としておりませんが、一口に戦いと言っても様々な手法がありますからね。
旅順攻略の場合は時間的制約もありましたから、乃木将軍の判断には当然の理由もありました。
事後の理屈はいくらでも述べられますが、当時の状況を理解してから論ずるべきでしょうね。
さて、先述のとおり旅順の早期攻略を要請されていた第三軍は、旅順要塞の総攻撃にあたり強襲法(きょうしゅうほう)を採用し、8月19日から総攻撃を開始しました。
しかし、永久要塞を自称(じしょう)する旅順要塞の堅固さは、第三軍の度重(たびかさ)なる砲撃(ほうげき)にびくともせず、ロシア軍の守兵もほぼ無傷(むきず)でした。第三軍は圧倒的なロシア軍の攻勢に苦しみながらも健闘(けんとう)を重ね、一時は重要な堡塁(ほうるい、土塁や石塁などを巡らした堅固な砦のこと)を2つ占領(せんりょう)するなどの戦果を挙げましたが、無念にも砲弾(ほうだん)が尽(つ)きてしまい、同月24日に乃木は攻撃を中止せざるを得ませんでした。
後に第一次総攻撃と呼ばれたこの戦いは敗北に終わり、第三軍は総兵力約50,000人のうち約16,000人という3割以上の膨大(ぼうだい)な死傷者を出してしまいました。
さて、後年になって第一次総攻撃の失敗は乃木の無能な突撃(とつげき)によるものとして非難(ひなん)されることが多いようですが、そもそも海軍の遅すぎた攻撃要請がロシア軍による旅順の永久要塞化をもたらしたという事実があるうえに、事前に情報入手を怠(おこた)った陸軍参謀本部にこそ主因(しゅいん)があるのではないでしょうか。
ましてや第三軍の兵力がロシア軍とほぼ同数であるという絶対的な兵力不足や、一時は堡塁を占領するなど奮戦(ふんせん)していながら攻撃を中止せざるを得なかったという砲弾不足もありましたし、さらに付け加えれば、当時の日本軍は知る由(よし)もなかったのですが、第一次総攻撃でロシア軍が受けた打撃も決して少なくなかったのです。





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ぴーち こんばんは!
任命されたのなら、成功するのが当たり前
だと認識されてしまうのは、きついですね(^^ゞ
少しでも失敗が生じれば、全責任を主導者が
請け負わなければいけなくなるのも、腑に落ちないこととは言え、それも人間である以上、一番犯しやすい罪なのかも知れませんね。人のせいにすれば、気が楽ですから(^^ゞ
それにしても、戦争で圧勝すれば、敵を多く作ることにも繋がる事ですし、これはあくまで個人的な意見ですが、国の為には何も圧勝出来なくても良いのでは
無いかと思うんですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、様々な原因が重なっての失敗を、現場だけの責任で済ませるのはあまりにも無責任です。
なお、いわゆるパーフェクトゲームに関しては確かに恨みなどが残りそうですが、中途半端で済ませてしまうと後々息を吹き返す原因ともなりかねませんし、難しいですね。
つまり、第三軍に今少しの兵力とあと数日分の砲弾があれば、旅順はこの時に陥落した可能性が高かったのです。第一次総攻撃自体は確かに第三軍の敗北に終わりましたが、その一方でロシア軍に精神的なものを含(ふく)めた大きな打撃を確実に与えていたことを私たちは忘(わす)れてはならないでしょう。
また、第一次総攻撃において第三軍は約3割の死傷者を出しましたが、これだけの犠牲を出せば通常であれば全軍が意気消沈(いきしょうちん)し、壊滅しても決しておかしくはありません。しかし、軍の将兵は「次こそはきっと勝てる」と大敗北を喫(きっ)したにも関わらず意気軒昂でした。
最悪の環境(かんきょう)や不利な条件の下でも決して希望を失わず、敗れてなお闘志を燃やし続けた第三軍を支えたのが、乃木という「腹を括(くく)った」司令官の存在であったことは言うまでもありません。





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ぴーち こんにちは!
これまで色々と日本の戦いぶりを拝見していると、日本の戦い方というのは、日本人独特な要素が随所に見られますね。最終的に相手を追い詰めても、最後の一撃は加えない。それ以上執拗に追い詰めない。武士の情けという武士道精神がそれを許さないのかも知れませんが、確かに戦争というのは、徹底的に相手国にダメージを加え、二度と立ち上がれない程に追い詰めなければいけないのでしょうけれど、人道的な思いと戦争である現実の狭間で戦争とは自分を先に殺さないと、相手を殺害することが出来ない惨いものだと感じました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 我が国の戦争には仰る一面が確かにありますね。
史実の日本軍の健闘ぶりや武士道精神を鑑みれば、大東亜戦争の頃の残虐行為とされるものがいかに「眉唾物」であるか理解できるというものです。
すなわち敵の各堡塁に向かって塹壕(ざんごう、戦場にて歩兵が敵弾を避けるために作る防御施設のこと)を掘り進み、安全な攻撃路をつくって堡塁の手前に突撃陣地(とつげきじんち)を構築(こうちく)することで、攻撃距離(きょり)を短くしようとしたのです。第一次総攻撃の尊(とうと)い犠牲を決して無駄(むだ)にはしない、乃木ならではの柔軟(じゅうなん)な決断でした。
工事がある程度(ていど)進んだ9月19日からは局地的(きょくちてき)攻撃を行い、約4,800人の死傷者を出しながらも重要な堡塁を占領するなど、第三軍は着実な成果を挙げると共に旅順攻略に向けて自信を深めました。
かくして10月26日から第三軍は第二次総攻撃を開始したのですが、その際にまたしても不利な条件で戦わねばならなかったのです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど!
成功する人の共通する考え方に、柔軟性というのが存在するのですね^^
そういえば、○パネット高田の社長も、前日まで
一押し商品を翌日のCMに採り上げようと予定していても、その翌日の天候次第で
急遽、その内容を変更して、違う商品の宣伝に切り替える事で商品売り上げを伸ばしているという話を伺った事があります。
臨機応変に対応していく能力も、また豊富な経験知識の賜物なのでしょうね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、固定観念にとらわれていては進歩は有り得ません。
臨機応変に対処できる能力がリーダーには必須ということですね。
第二次総攻撃において第三軍は複数の堡塁の占領には成功したものの、最後には砲弾不足で攻撃を中止せざるを得ませんでした。またしても日本軍の敗北となったのです。
しかし、第二次総攻撃における日本軍の死傷者が約3,800人で全体の1割を切ったのに対して、ロシア軍のそれは約4,500人と日本軍を上回ったほか、全体の割合も14%に達していました。
失敗したとはいえ死傷者の数や割合が明らかに低下した裏(うら)には、乃木による正攻法への転換(てんかん)がありました。彼の判断は決して間違(まちが)っていなかったのです。





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ぴーち こんにちは!
一口に戦争に勝利した負けたと言っても、
その戦い方や詳細な内容を見てみると
明らかに圧勝だった場合もあれば、辛うじて勝利した場合もあるわけですね。
勝利したものは、どちらかというと
勝利の美酒を味わうことに酔ってしまい、
本当の勝因を見極めることが出来なくなる可能性はあるものの、負けた方は何が敗因だったのかという事を深く反省する機会を与えられるので、
しっかりとその時に原因探求できれば、何か次に起こった時の指針になるものなのだと思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、勝敗が時の運である以上は負けてしまうこともあります。
むしろ負けてからが本当の勝負であり、次回の勝利につなぐために何をなすべきかということを真剣に考えかつ実行することが重要と言えますね。
訓練の賜物
- 黒田先生
青田です。
単純に事実だけを観るとこの凄さが実感できませんが、
当時の写真を観ると
日露戦争時の日本とロシアの装備の違い、
それと
白兵戦の格闘になった時の、当時の
小柄な日本兵と大柄なロシア人との違いで、
これだけの成果を出せたこと自体、賞賛に値します。
それだけ、日頃の訓練がしっかりしていたということですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
日頃の訓練と精神面の鍛錬が重要であると痛感します。
第三軍に対する非難はついに「乃木更迭論(こうてつろん)」にまで達しました。しかし、天皇ご自身が選ばれた親任官であった乃木を辞めさせるには、明治天皇のご裁可(さいか)が必要でした。
このため、陸軍参謀総長の山県有朋(やまがたありとも)は御前会議(ごぜんかいぎ)において第三軍司令官を交代(こうたい)させるべく明治天皇にお伺(うかが)いを立てましたが、陛下はただ一言仰られたのみでした。
「乃木を替えれば、乃木は生きてはおらぬぞ」。
第三軍の苦戦が続く最中(さなか)であっても、明治天皇の乃木へのご信任はいささかも揺(ゆ)るぐことはなかったのです。





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ぴーち こんにちは!
そうですよね。乃木将軍の責任感の強さを十分承知している立場上、もしもこの任務から降ろせば、自害してしまうかもしれない危うさは自ずと推測出来ますものね。
それから、例え周りに自分にとって何万の敵がいようが、一番信頼している人物に信頼を得ている事は、乃木将軍にとっては、この上なく有り難い事であったのでは無いでしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、明治天皇のご親任の深さが拝察できるエピソードですね。
裏を返せば乃木将軍の優秀さもうかがえると思います。
オバrev 現場の実態を知らない人間の雑言はよくありますね┐(´д`)┌ヤレヤレ
しかしお互いに100%信じることができる関係というのは素晴らしいし、幸せなことです。
最近の政治の世界は、その逆ばかりですけど(^^ゞ
現場を知らないと
- 黒田先生
青田です。
いつの時代でも、現場を知らない人間は、
表面的な結果論だけで、物事を判断しますよね。
歴史のifとして、もし、乃木を更迭して
別の司令官が着任しても、この状況では、
どうなっていたか、想像するだけでも恐ろしいです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、両者の素晴らしい信頼関係が我が国を救ったといえそうです。
現代の権謀術数ばかりを重視する政治の世界とはエライ違いですね…。
青田さんへ
黒田裕樹 そのとおりですね。
もし乃木を更迭させていれば、我が国の勝利は有り得なかったことでしょう。
海軍の攻撃要請の遅れや陸海軍の情報力不足、さらには戦力や弾薬不足など、旅順攻略が進まないことに対して、乃木一人にすべての責任をかぶせるにはあまりにも酷(こく)な条件がそろい過ぎていました。しかし、乃木は一切言い訳(わけ)をせず、多くの犠牲者を出しながら旅順を落とせない責任を一人で被(かぶ)る決意をしていました。
そんな乃木の悲壮(ひそう)な覚悟が、第三軍の士気に影響しないはずがありません。「乃木将軍は多数の犠牲者が出たことに苦しんでおられるのみならず、我々のことを本当に心配しなさっておられる。将軍のためにも我々が頑張(がんば)らなくてどうするというのだ」。
明治天皇のご慧眼(けいがん、物事の本質や裏面を見抜く鋭い洞察力のこと)どおり、第三軍は「乃木なればこそ」苦しい戦いをいとわず一丸となって奮戦し、また「乃木なればこそ」最終的に勝利をつかむことが可能となったのです。





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ぴーち こんにちは!
人は失敗しない人は居ませんが、
失敗した時にどのような思いを抱き、
どのような行動を起こすかによって
その人物の本当の姿が浮かび上がるものと思います。
ある者は、他人に責任を転嫁することで
自分の保身を保とうと必死になったり、
ある者は、開き直り自分は悪くないと維持でも
自分のミスを認めようとしなかったり・・
そこで何をさておいても、謝罪の意思が
最初からあるのならば、すばやく、潔く
自分の非を認め、まずは回りに迷惑を
かけたことに対しての思いを表すことが肝心ですよね。
乃木将軍は自分の事はさておき、周りの人間に対してしっかり配慮出来た事が、結果的に身近な周りの人間から助けられたことに繋がったのではないかと
思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
責任逃れに懸命な人間が多いなかで、乃木将軍の姿勢は実に立派でした。
上司がしっかりしていれば、部下の士気も上がって最終的な成功へと導くのは当然のことですよね。
しかし、二〇三高地を占領したとしても旅順要塞の攻略には直結しないことから、満州軍総司令部の大山巌総司令官は要請を拒否(きょひ)しました。これに対し、参謀総長の山県有朋は御前会議における決議まで行って総司令部に翻意(ほんい)させようとしましたが、結果は同じでした。
現場の状況を理解していたゆえに乃木の苦衷(くちゅう)を察した総司令部は、あくまで正攻法による旅順要塞の攻略を目指(めざ)していたのです。
そんな乃木に対して、明治天皇は11月22日に勅語(ちょくご、天皇が直接に国民に下賜するという形で発した意思表示のこと)を下されました。勅語を賜(たまわ)るという栄誉(えいよ)に感激した乃木は覚悟を決め、今度こその思いを秘(ひ)めて11月26日に第三次総攻撃を開始しましたが、永久要塞とうたわれた旅順の攻略は今回も困難(こんなん)を極めました。
各師団の攻撃がことごとく失敗に終わったことを知った乃木は、切り札であった「特別部隊」を投入する決断を迫(せま)られたのです。





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ぴーち こんばんは!
その人が乗り越えられない程の苦難を天は与えはしないと言われていますが、乃木将軍は、明治天皇という最大にして、最強な存在を味方になってくれたのだから、これほどに心強いものはありませんし、怖気づく理由は全くありませんね!
明治天皇の存在が、乃木将軍にとって大きなバックボーンだったのでしょうね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そのとおりですね。
明治天皇の乃木将軍に対するご親愛が将軍とともに我が国を救うことになる。
まさに歴史のロマンです。
白襷隊の任務は夜陰(やいん)に乗じて刀や銃剣(じゅうけん)をもって敵陣(てきじん)に攻め込む奇襲であり、まさに命がけでした。乃木は白襷隊に訓示をした際、一人ひとりに「死んでくれ、死んでくれ」と滂沱(ぼうだ)の涙を流しなから声をかけました。
白襷隊は26日の夜間に敵陣を奇襲し、攻撃は激烈(げきれつ)を極めましたが約2,000人の死傷者を出した末(すえ)に敗れてしまいました。しかし、いかにも無謀(むぼう)と思われたこの奇襲は、ロシア軍に大きな恐怖(きょうふ)と精神的な衝撃(しょうげき)を与え、軍の士気に少なからぬ影響を与えたのです。
必勝を期したにもかかわらず三度目の東北正面からの攻撃に失敗した乃木は、翌27日に攻撃を中止すると、攻撃目標を西正面の二〇三高地に切り替えました。なお、この時の乃木の決断が「遅すぎる」という意見がありますが、それは結果論しか見ていない早計(そうけい)であると言わざるを得ません。
そもそも東北正面への攻撃は乃木の独断ではなく、満州軍総司令部の総意でもありました。また失敗したとはいえ三度にわたる総攻撃は白襷隊の奮闘を含めてロシア軍に尋常(じんじょう)ならざる衝撃を与えると共に、陸海軍による矢のような催促、加えて勅語を下されたほどの明治天皇のお苦しみを察しての、まさにギリギリのタイミングでの方針転換だったのです。





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ぴーち こんにちは!
白袴隊ですか・・
これは後の太平洋戦争時の特攻部隊のルーツの様なお話ですねぇ・・。
乃木将軍のお考えを否定する訳ではありませんし、乃木将軍のこの時の
断腸の思いは
よく分かりましたが、日本人の捨て身の攻撃というのは、人命尊厳を無視した攻撃ではないかと思ったりします。
日本人は今でこそ、人命第一と一にも二にも
人の命をいかにも大事にしているかのように叫ぶけれど、戦争中のこういった一連の考え方を鑑みた時に、例えば、アメリカならば、兵士には戦いの後は休息を与え、次の戦闘に万全の体制で送り込むといいます。勿論、それは物資、経済ともに豊かであることが大前提なのだと思いますが、基本的にアメリカ人の考えの方が、日本人が声を大にして叫んでいるよりも、よほど人命を大切に考えているのではないかと思います。
それが日本の体質なのか
分かりませんが、戦争こそしなくても、大企業はお構いなしに人材切りを断行したりますが、考え方は同じであるように思います。
人間一人切り捨てる事など痛くもかゆくも無い
という考え方。
戦争という切羽詰まった特殊な環境だからこそ、生まれた作戦ならまだしも、どうも基本的な考え方は解せない気がします。
それと確かに後から論評はいくらでも書けますし、物事はメリット、デメリットどちらも存在するものですので、悪いほうへ考えたら切がありませんものね。
何でもそうですが、最初にそのアイディアを思いついた人。行動を起こした人には、敵いませんし、その場の酷な環境下で実際に同じように考えられるかというと、出来ないものだと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのお気持ちも理解できないことはありませんが、戦争などの非常時の行動はその場での判断が大きく影響しますからね。
白襷隊の行動は傍目には無謀としか思えませんが、この後の戦いにおいてロシア側の甚大な影響を与えることになりますし、こういった物事は総合的に判断することがベターであると思われます。
ぴーち 確かに仰るとおり、
人間にとって何が一番恐ろしいものであると言えば、
死をも恐れない堂々たる態度であり、その気迫ある態度を見て、相手は怯み恐れ戦くことだと思います。
切り札とありましたが、まさに
最後の切り札がこの方法だったのでしょうし、
それだけ、乃木将軍はこの時は、四面楚歌な状態で、相当追い詰められていたと言う証拠なのでしょうね。
まさに「勝利」に固執する姿は軍人としては
天晴れであったのかも知れません。
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 当時の我が国には「ロシアとの戦いで負ければ終わり」という並々ならぬ危機感がありました。
その危機感が鬼神ともいえる働きをひとりひとりにさせるとともに、指揮官たる乃木将軍の覚悟にもつながったと考えられますね。