大都市を中心に次々と建てられた工場の労働者は、主として農村から供給されたため、人口の流失した農村では過疎化(かそか)が進み、食料自給率が急速に低下していきました。
このため、政府は昭和36(1961)年に農業基本法を制定して、農業の基本化と構造改革をめざしましたが、農業人口の減少によって兼業農家が増加するようになりました。
一方、大量の人口が流入した都市部では、増加する人口に対処するために住宅団地が次々と建てられ、夫婦と未婚の子供からなる核家族化が進みました。
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ぴーち こんばんは!
なるほど、高度経済成長をするのも良いですが
その反面、日本のこれまでの形態が変化し
特に家族のあり方のバランスが崩れしまった事は残念に思う所です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 高度経済成長も良いことばかりとは限らない、ということですね。
この後、ひずみと呼べるものが次々と出てくるのも致し方ないのかもしれません。
例えば、後に「電化元年」と呼ばれた昭和28(1953)年以降には、白黒テレビや電気洗濯機、電気冷蔵庫が「三種の神器」としてもてはやされ、昭和40年代には「新三種の神器」といわれたカラーテレビ・クーラー・自動車も定着しました。このうち、後者はそれぞれの英語の頭文字をとって「3C」とも呼ばれました。
なお、テレビは昭和28年に放送が開始されましたが、家庭に広く普及したのは、昭和34(1959)年の皇太子明仁親王殿下(こうたいしあきひとしんのうでんか、現在の今上天皇=きんじょうてんのう)のご成婚パレードが実況中継放送されたことがきっかけでした。
終戦直後の連合国による占領政策の影響もあって、国民の食生活は洋風化が進み、肉類や乳製品の消費が増えました。外食産業が発展したほか、インスタント食品や冷凍食品も広く普及するようになりました。
しかし、その一方で米食が減少したことで、いわゆる「コメ余り」が問題となり、政府の食糧管理制度の元での減反政策(げんたんせいさく)が推進されました。
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ぴーち こんにちは!
日本人は、洋風に憧れを持ちますからね^^
けれどそのあこがれはその時代から突然始まった事ではなく、遥か昔から白人に対する憧れがあったのでしょうね。
日本の体型は長い間の米飯を中心にした食文化で培われた体型だけに、その時代からいきなり洋風な食事が食卓に加わり始めると、当然ながら
体調に異常をきたす人が増えて来るのは必須ですよね。
日本人の腸の長さは約9メートル。欧米人は6メートル。腸の長さが長いぶん、胴長になるのは当然ですが、それを肉食中心に激変すれば、欧米人よりも3メートルも余分に長い腸をもつ日本人ですから、それだけ腐敗物が滞留する時間が長くなる。。
大腸の病気が増え、大腸癌が発生しやすくなる。
私達の世代はまだまだ腸の長さが長い世代ですので、病気にかかるリスクは高いですね。。
食生活の変化にようやく対応出来る様になるのは、3世代目辺りからだと聞いた事がありますが、
これからの世代でようやく肉食に対応出来るからだが日本人にも増えて来るのでしょうけれど、
それまでになるのがまた一苦労ですよね。
と、全く関係ない話に逸れてしまい、申し訳ありませんm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いえいえ、興味あるお話を有難うございます。
食生活の変化は、確かに様々な問題をもたらしますよね。和食の良さを今こそ見直したいものですが…。
その後、昭和34(1959)年のIOC総会で東京でのオリンピック開催が決定し、昭和39(1964)年10月に、当時最多の94の国と地域が集まって、東京オリンピックが行われました。東京オリンピックはアジアで最初の大会であり、また有色人種国家における史上初のオリンピックでもありました。
東京オリンピックにおいて、敗戦から復興した日本の姿を世界に強く印象づけることになりましたが、その6年後の昭和45(1970)年3月には、「人類の進歩と調和」をテーマとして、アジア初の国際博覧会となる日本万国博覧会が大阪で開かれ、半年間の開催で延べ6,400万人以上が来場しました。
なお、東京オリンピックの開会式が行われた10月10日は、昭和41(1966)年から「体育の日」として国民の祝日となりました(現在は10月の第2月曜日となっています)。また、万国博覧会は本来ならば戦前のオリンピックと同じ昭和15年に開催される予定でしたが中止となり、当時の前売り券が、昭和45年の日本万国博覧会での代替(だいたい)使用を認められました。
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ぴーち こんばんは!
あの東京オリンピックの開催以前にも
一度そういう事実があったんですか!
全く存じませんでした(^^ゞ
様々な事情で開催に漕ぎ着けない場合も
あるという事なのでしょうけれど、
今回決まった東京開催は、ぜひとも
成功させていきたいものです^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 意外と知られていませんが、東京オリンピックは一度は「幻」に終わっているんですよね。
来る2020年まで、世界が平和であってほしいものです。
高度経済成長期以後の我が国では、鉄道などの交通網(こうつうもう)も幅広く整備されました。東京オリンピック開催直前の昭和39(1964)年10月1日には、当時世界一の速度を誇った東海道新幹線が開業し、東京と大阪(新大阪)間を4時間で結びました(現在は2時間半にまで短縮)。
東海道新幹線は今年(平成26年=2014年)で開通以来50年を迎えますが、これまでに重大事故を一度も起こしておらず、我が国の科学技術力の高さの象徴となっているほか、近年は諸外国への技術の輸出もなされています。
なお、新幹線の建設はその後も進み、昭和50(1975)年には山陽新幹線が全通したほか、昭和57(1982)年には東北・上越新幹線が、平成4(1992)年には山形新幹線が、平成9(1997)年には秋田新幹線や北陸新幹線の一部としての長野新幹線が、平成23(2011)年には九州新幹線がそれぞれ開通あるいは全通しています。
また、昭和40(1965)年には名神高速道路が、昭和44(1969)年には東名高速道路が開通して、高速自動車道路網の整備が急速に進み、さらに昭和63(1988)年には青函(せいかん)トンネルと瀬戸大橋が開通し、北海道と本州・九州・四国が陸路で結ばれました。
一方、航空輸送も昭和35(1960)年のジェット機の導入によって一挙に拡大し、昭和53(1978)年には新東京国際空港(=成田空港)が、平成6(1994)年には関西国際空港が開港しています。
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ぴーち こんにちは!
当時の日本人の技術力は最高潮だったんですね!
現代もリニアモーターカーを導入する話が
あるようですが、オリンピックまでには
導入出来る見込みは。。どうなんでしょうかね~
ぴーちさんへ
黒田裕樹 リニアに関しては国家事業ではなく、JR東海が費用を全額負担しての工事になりますから、時間がかかるのもやむを得ないのかもしれませんね。国が運営すると駅の設置などの様々な問題がありますし、難しいところです。
しかし、年月が経つにつれて、高度経済成長のひずみが、海水や河川の汚染、あるいは大気汚染などの公害問題として表面化し始めました。熊本県の水俣病(みなまたびょう)に関する訴訟(そしょう)をはじめとして、富山県のイタイイタイ病、新潟県の新潟水俣病、三重県の四日市ぜんそくの四大公害訴訟が起こされ、いずれも原告が勝訴しました。
こうした公害問題の深刻化に伴い、昭和42(1967)年に公害対策基本法が制定され、昭和46(1971)年には環境庁が発足しました。
その後、公害問題は企業の生産活動に伴う産業公害のみならず、都市化や消費社会化の進展がもたらした、合成洗剤による水の汚染といった生活公害あるいは都市公害も問題化したため、平成5(1993)年には環境基本法が制定されたほか、平成13(2001)年の中央省庁再編によって、新たに環境省が設置されました。
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ぴーち こんばんは!
全くの素人考えで恐縮ですが、
今の中国の汚染問題などから比べれば
日本は江戸時代からの環境への配慮がベースとなっていたせいなのか、直ぐにそういう問題が生じた時の対応が早い気がしたのですが、いかがなものなのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに仰るとおりですね。
江戸時代のエコ感覚は現代以上であったという記録がありましたし、その流れはしっかりと受け継がれていると感じます。
このため、都市部では住民運動が活発化し、経済成長よりも福祉を優先させる革新政党に支持が集まるようになりました。
その結果として、昭和42(1967)年から54(1979)年まで東京都知事を務めた美濃部亮吉(みのべりょうきち)に代表されるような、革新勢力出身の自治体首長たる「革新首長」が大都市圏(だいとしけん)を中心に次々と誕生し、革新自治体が成立しました。
革新自治体は、公害の規制や老人医療の無料化といった福祉政策で成果を上げましたが、人件費の増加や福祉偏重(へんちょう)の予算などによって多くの財政赤字を残し、次世代の地方自治に負担を強(し)いる結果となりました。
なお、美濃部亮吉は憲法学者として天皇機関説を唱えた美濃部達吉(みのべたつきち)の長男であり、自身はマルクス経済学者としても知られています。
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ぴーち こんばんは!
人間、一人ひとりの力はたかが知れていますが、
こういうお話を伺っていると、人も集団になると
その動きや流れは
政治、経済、地形、歴史とあらゆるものに影響を与えていくものなんですねぇ。。。
そう言えば、ドーナツ化現象なんて言葉も習ったのを思い出しました(笑)
オバrev 私はその高度経済成長と副作用ともいえる歪の中でに育った世代です。
まさに光と影を見たのですが、影の部分として、革新政党が躍進して東京や京都は左派の首長になったりしていましたが、その間に公立高校の目も当てられない進学実績の衰退を招いた責任も大きいと思います。
こういう教育に対する彼らの考えはどうだったんでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そう言えば、ドーナツ化現象なんて言葉も習ったのを思い出しました(笑)
ありましたね。人間の動きや流れは様々な大きな影響を与えていきますね。
時には失敗もありますし、それを大きな教訓にすべきです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 公立高校の目も当てられない進学実績の衰退を招いた責任も大きいと思います。
> こういう教育に対する彼らの考えはどうだったんでしょうか?
詳しくは次回でも紹介しますが、確かにレベルの低下を招いた点は否めませんね。
責任は…もしとっていればもっと改善されているかもしれません。
黒田知事は、選挙公約でもあった公害規制をはじめ、老人医療無料化や、「15の春は泣かせない」というセリフで有名な府立高等学校の増設など、低所得者層を重視した福祉政策を次々と行いました。
その後、昭和50(1975)年の知事選で共産党のみの推薦(すいせん)を受けた黒田知事は、対立候補に約45万票の大差をつけて再選を果たしましたが、史上初の日本共産党単独与党の知事が誕生したことは、当時の衝撃的(しょうげきてき)なニュースとなり、UPI通信が「日本共産党が史上初めて自らのガバナー(知事)を持った」と世界に報じたほどでした。
しかし、福祉重視の政策などによって、他の革新自治体と同様に財政赤字が拡大したこともあり、次の昭和54(1979)年の知事選では、対立候補に12万票の差で敗れ去りました。
なお、黒田了一氏は私(黒田裕樹)と同姓ですが、血縁関係はありません。
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ぴーち こんばんは!
なるほど、何か1つに特化した政策に
力を入れてしまうとそちらへの財政資金不足で
混乱を招きかねないという事の実例になって
しまった訳ですね。
黒田さんという苗字の方は、いづれも
勇名を馳せる人物が多く存在するんですね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 政治家というものは、本来はあらゆる局面を考えて行動すべきですし、ましてや予算の配分は可能な限り適材適所で考慮すべきでしょうね。
黒田ですか?
まぁ確かに色んな人材がいますね(^^;