しかし、その一方で、1955(昭和30)年にはスイスのジュネーブで、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の各首脳によって、軍縮やヨーロッパの安全保障、あるいは東西間の交流の拡大などを協議したジュネーブ四巨頭会談が行われました。
ジュネーブ四巨頭会談そのものは具体的な成果に乏(とぼ)しかったものの、米ソによるこうした流れは、両国間の緊張緩和(きんちょうかんわ)への期待を高めることになりました。なお、これらの動きは今日では「雪どけ」と呼ばれています。
米ソの「雪どけ」を受けて、東アジアでも緊張緩和の動きが進みました。1954(昭和29)年には、中華人民共和国の周恩来(しゅうおんらい)首相がインドのネール首相と会談を行い、主権尊重・相互不可侵・内政不干渉・平等互恵(ごけい)・平和共存の平和五原則を確認しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
内政不干渉。。これはイイですね!
日本は他のアジアの国と
平和五原則なる協定を結ばなかったのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 内政不干渉は確かに良いのですが、この後の中国がそれを守ったかというと…。
60年前といえば、中国も誕生から間もなかったですからね。
その後、1954(昭和29)年のジュネーブ国際会議でインドシナ休戦協定(ジュネーブ協定)が結ばれ、フランス軍がベトナムから撤退(てったい)しましたが、北ベトナムは、1949(昭和24)年に誕生したベトナム共和国(南ベトナム)と北緯(ほくい)17度線を境界に分離(ぶんり)されました。
一方、冷戦が続く中において連帯を強めたアジア・アフリカの新興独立諸国を中心として、1955(昭和30)年にインドネシアのバンドンでアジア=アフリカ会議(バンドン会議)が開かれ、我が国など29ヵ国が参加しました。
史上初の有色人種だけによる国際会議となったアジア=アフリカ会議では、反植民地主義や平和共存などの平和十原則が採択され、全世界に「第三勢力」としてのアジア・アフリカ諸国の存在と結束とを印象づけることとなりました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
時々、このまま
先進国が途上国にどんどん進出して行き
侵食し尽してしまった後、先進国は
先進国としての役目をどう終わらせるつもりなのだろう。。どんな末路が待っているのだろうと
漠然とした不安が過ぎることがあります。
私の考えすぎであり、きっとそうなったら
そうなったで様々な解決策が存在するのでしょうしね。。
私が心配をする必要はないのかも知れませんが(^^ゞ
的外れなコメントにて失礼致します<m(__)m>
ぴーちさんへ
黒田裕樹 世界秩序というものは、時代によって様々な変化を見せますからね。
願わくば、我が国古来の思想である、「世界は一家、人類皆兄弟」の「八紘一宇」の精神が世界中に広まれば良いのですが…。
ぴーち おはようございます!
仰るとおりだと私も思いますが、
どうも何に付けても外来種は強いものですし、
どうしても弱い者は負けてしまう傾向が強いので
強かに生きる為には、そちらに足並みを揃えていかなければ、この地球上では生き残っていけないところが、なんとも
哀しい所ではありますが、せめて
心の中には日本古来の思いを常に宿して
生きていきたいものですね。
何かの折にその思いが活躍出来る時を
待ちながら。
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 私もそう思います。
日本という国が生き残るためにも、自らが戦争を仕掛けることは許さずとも、外国からの侵略を防ぐために抑止力だけはしっかりと確保しておきたいですね。我が国の「八紘一宇」の精神が世界全体に行き渡るその日まで…。
ソ連によるこうした動きは、それまでに同国の支配下に置かれてきた東ヨーロッパ諸国において、共産主義体制の過酷(かこく)な抑圧(よくあつ)からの解放を求める声が高まる流れをもたらしました。
例えば、スターリン批判が行われた同じ1956年には、ハンガリーで政治的自由化を求める改革運動が起こりましたが、東欧諸国の自由化の波が拡大することを恐れたソ連が軍事介入のうえ厳しく弾圧(だんあつ)しました。これをハンガリー動乱といいます。
また、1968(昭和43)年には、チェコスロバキアで政治や経済の自由化への改革が行われましたが(これは「プラハの春」と呼ばれています)、ソ連などのワルシャワ条約機構軍が軍事介入を行って強引に弾圧しました。
これら一連の事件は、共産主義に基づく東欧の支配が、スターリン批判後も、軍事力による一方的かつ抑圧的なものであることを世界中に認識させるとともに、国際的な非難を浴びたソ連の影響力を次第に低下させる流れをもたらしました。
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ぴーち こんばんは!
やはり自由を求める声が広がれば、
それをいくら軍事的圧力で弾圧しようとしても
力を封じ込めることは出来ないですよね・・
一人ひとりの力には限界が生じても、
同じ志を持つ集団になれば、底知れぬ威力を発揮しますものね。
オバrev 今日の明け方に、激しい雨と雷がしばらく続き、さすがに(☆☆)!!して目が覚めました。
ザーザー、ピカッ、ドドド~ン!
ザーザー、ピカッ、ドカ~ン!
という感じで、てっきり某国が空爆をしてきて戦争が始まったと思いました(^_^;)
それにしても左翼って、結局独裁政権になり、力や武力で無理やり押さえつけるという結果になってしまっているように思いますけど、何故そうなるんでしょうかねぇ┐(´д`)┌ヤレヤレ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはり自由を求める声が広がれば、
> それをいくら軍事的圧力で弾圧しようとしても
> 力を封じ込めることは出来ないですよね・・
> 一人ひとりの力には限界が生じても、
> 同じ志を持つ集団になれば、底知れぬ威力を発揮しますものね。
仰る流れが実現したのが、1980年代終盤からのソ連や東欧諸国での民主化運動でした。
そこまで至るには、数えきれないほどの粛清があったのも事実なんですよね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 ずいぶん大変な目にあわれましたね。台風の行方も気がかりですが…。
> それにしても左翼って、結局独裁政権になり、力や武力で無理やり押さえつけるという結果になってしまっているように思いますけど、何故そうなるんでしょうかねぇ┐(´д`)┌ヤレヤレ
考えられる理由は多々ありますが、根本として言えるのは、「数多くの国民を幸せにできる政治制度であったか」ということだと思います。満足する国民が多ければ、暴動は起きませんからね。
ソ連の動きを警戒したアメリカのケネディ大統領がキューバを海上封鎖(かいじょうふうさ)したため、米ソ両国の間で核戦争の危機(きき)が迫(せま)りました。これをキューバ危機といいます。この危機はその後、ソ連がミサイルを撤去(てっきょ)したことで治まりました。
キューバ危機を回避(かいひ)した翌年の1963(昭和38)年に、アメリカ・イギリス・ソ連の3ヵ国を中心として、地下以外の核実験を禁止した部分的核実験停止条約(=PTBT)が結ばれ、また1968(昭和43)年には56ヵ国が核拡散防止条約(=NPT)に調印するなど、核軍縮に向けて世界が動き出しました。
一方、ヨーロッパでは1958(昭和33)年に西欧の6ヵ国で成立していたヨーロッパ経済共同体(=EEC)が、1967(昭和42)年にはヨーロッパ共同体(=EC)に発展し、関税同盟や農業協同市場を形成するなど経済統合を進めて、米ソに並ぶ経済力をつけていきました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
今から半世紀近く前にも、核軍縮の動きはあったのですね。
それでも、減るどころか
益々核の所有を進めている国が増えていることには
遺憾に思う所大ではありますが、
本当に平和を願う為だけに核軍縮を求めているのではなく、相手国の出方に応じて顔色を互いに
伺いながらの駆け引きの材料になっている
事がもっと残念でなりません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 核を所有することが、それぞれの国家の抑止力になっている現状の打開は難しいでしょうね。
我が国の立場を明らかにするために、核を用いないとすれば、いったい何が可能なのか、ということも考える必要もあると思います。
そして、1965(昭和40)年には、アメリカが北ベトナムへの爆撃(ばくげき)を開始し(これは「北爆」と呼ばれています)、アメリカや南ベトナム政府と、ソ連や中華人民共和国の支援を受けた南ベトナム解放民族戦線および北ベトナムとの全面対決へと発展しました。これをベトナム戦争といいます。
その後、1973(昭和48)年にベトナム和平協定が結ばれてアメリカ軍が撤退(てったい)すると、1975(昭和50)年にはサイゴン(現在のホーチミン市)が陥落(かんらく)して戦争が終結し、北ベトナムが南ベトナムを併合すると、翌1976(昭和51)年にはベトナム社会主義共和国が成立しました。
なお、ベトナムの社会主義化によって多くの難民が生まれ、南シナ海に漂流船に乗ったボート・ピープルとよばれるベトナム人が助けを求めました。また、ベトナム戦争に参戦した韓国軍によって現地のベトナム人女性が暴行され、その結果として誕生した子供が迫害(はくがい)を受けるといった、ライダイハンの問題が起きています。
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ぴーち こんばんは!
韓国から日本の「慰安婦問題」がどうのこうのと
言われていますが、
このお話を伺うと、
韓国の方がかなり非情なことをしているではありませんか!
自国の事は棚上げですか・・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 韓国から日本の「慰安婦問題」がどうのこうのと
> 言われていますが、
> このお話を伺うと、
> 韓国の方がかなり非情なことをしているではありませんか!
> 自国の事は棚上げですか・・・
まさしく仰るとおりです。
他国の、しかも軍による強制が疑わしい慰安婦問題を取り上げるよりも、自国によるかつての恥ずべき行動を見つめなおすのが先というものでしょう。
そんな中で、1964(昭和39)年に初の核実験を行い、核保有国となった中華人民共和国は、西側諸国に対する発言力を強めるとともに、1966(昭和41)年には毛沢東(もうたくとう)が復権をめざして文化大革命を起こし、劉少奇(りゅうしょうき)国家主席ら実権派を追放しました。約10年間続いた文化大革命によって、一説には数百万人が犠牲(ぎせい)となるなど、国内は大混乱となりました。
また、ベトナム戦争による軍事支出の増大や、西側諸国への援助などによって国際収支が悪化したアメリカの、ドルへの信頼が揺(ゆ)らぎ始めると、1971(昭和46)年に、ニクソン大統領が金とドルとの交換停止というドル防衛策を発表しました。これをドル=ショックといいます。
ドル=ショック後、固定相場制を維持するため、スミソニアン協定によって円が1ドル=360円から308円に切り上げられましたが、1973(昭和48)年にはドル不安が再燃し、我が国は西欧諸国とともに変動為替相場制(へんどうかわせそうばせい)へと移行しました。
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ぴーち こんばんは!
経済関連の話は特に苦手ですので(苦笑)
今回のお話を読ませていただくだけでは
どうも一度で理解する事が出来ずに、
申し訳ありません<m(__)m>
けれど、1ドル360円という言葉は
伺った事があります。懐かしさを感じます^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 !ドル=360円は長い間続きましたからね。
一時期に70円までいったときには大変でしたが、今でもまだまだ円高だと思います。