朝鮮戦争によって、我が国に駐留していたアメリカ軍が国連軍として出動しましたが、その際に、アメリカ軍と我が国の業者との間で、国連軍への物資の提供やサービスの調達が、直接契約で結ばれました。
この契約は、我が国が戦地に近いこともあって、アメリカ軍から繊維(せんい)・金属・機械などの発注が急増し、巨額(きょがく)の発注高となったほか、対価の大半がドルで支払われたため、日本政府の手持ちの外貨も、戦争前の約2億ドルから、約9億4000万ドル余りまで一気に増加しました。
かくして我が国の経済は、朝鮮戦争による特需(とくじゅ)によって急激(きゅうげき)に上向きとなったのです。これを特需景気といいます。
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ぴーち おはようございます!
なるほど。。
戦後の日本の目覚しい高度成長化は
国内の労働力の賜物だけではなく、こうした
戦争特需という大きな資金源が存在
したから余計に急上昇したわけですね。
個人でもそうですが、
何か大金が手に入ったことを切欠に
それを元本として
そこから企業へと急成長していく
会社などもありますしね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、特需景気の力には非常に大きなものがありました。
しかし、景気に対して単に浮かれていただけではなかったのです。詳しくは次回(30日)の更新をご覧ください。
しかし、もし当時の我が国の工業力などが不足していれば、アメリカ軍を中心とした巨額な発注を到底(とうてい)受けいれることはできなかったでしょう。逆に言えば、戦争という悲劇(ひげき)を経験してもなお高い水準を保(たも)っていた我が国の生産力が、特需景気を支えるとともに、我が国の経済を復興させたとも言えるのです。
この他、当時の吉田茂首相が、アメリカのダレスからの再軍備の要請を断ったことも、戦争によって生産を支える人手を失ったり、あるいは経済に多大な負担を強いる軍備によって、復興が遅れたりすることを防いだとも考えられますし、また朝鮮戦争は昭和28(1953)年に休戦しましたが、アメリカの沖縄基地建設に関する需要などによって、特需景気はその後も長期間にわたって続いています。
いずれにせよ、敗戦後の混乱のなかで国際競争力に乏(とぼ)しかった我が国の産業に対して、特需景気が巨大な外需をもたらし、日本経済の発展を促(うなが)す基盤(きばん)となったことは間違いないでしょう。
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ぴーち おはようございます!
>戦後における日本の経済回復は、朝鮮戦争という多大な犠牲(ぎせい)によって成り立っている。
ですか・・
確かに朝鮮半島の方はそう考えてもおかしくは
無いかも知れませんが、
それは単なる負け惜しみでは無いでしょうかね・・?
そんな恨み事を言ったら、日本だとて
アメリカが世界一にのし上がれたのは、わが国の
犠牲の元に成り立っているんだと思わざるを得なく
なります。
戦争という一番侵したくない罪で
勝負した結果で敗北を喫したのだから、
自国の負けを真正面から受け取り、まずは認めて
行くことが先決だと思いますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんの仰るとおりです。
我が国がとやかく言われることではないですし、ましてや我が国側からそこまで卑屈に考える必要もないことでしょう。
IMFや世界銀行は、世界金融(きんゆう)の公正かつ円滑(えんかつ)な運営を目的として設立されたほか、GATTは加盟国間の公平な貿易を実現するために、輸入制限や関税の障壁(しょうへき)を取り除(のぞ)くことで、自由で平等な国際貿易を促進することが主な目的でした。
これらは1930年代から40年代にかけて行われた、アメリカやイギリスによるブロック経済などによって、資源を持たない我が国などが経済的に追いつめられ、第二次世界大戦や大東亜戦争を引き起こす原因の一つとなったことを反省して設立されたものでした。
IMFや世界銀行、あるいはGATTの加盟によって、我が国は経済的な面での国際社会復帰を実現させるとともに、自由主義経済の世界的な一員となったことで、貿易上の問題で戦争が起きることを未然に防ぐという抑止力(よくしりょく)を手に入れることとなったのです。
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ぴーち おはようございます!
戦後のこうした日本の目覚しい躍進を脅威と感じている国は沢山あった事でしょうね。
先の戦争の教訓から
貿易面での抑止力は完全に補強されたというのは
納得しました。
けれど、これは今になって言える事かも知れませんが、躍進の為に脇目も振らずに頑張って来た
足元からスルスルと抜け落ちて
育たなかった部分も多くあったはず・・それによって失われたものも多かったようにも思います。(抽象的な表現で、申し訳ありません)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに保護されたことで逆に育たなかった部分もあったかもしれませんね。
現在、TPPの交渉が続けられていますが、これからの某駅も、可能な限り国益にかなったものであり続けてほしいものです。
その後、戦争終結によって働き手が増えたことや、生産技術の向上などによって、コメの生産が史上空前の豊作を繰(く)り返したことで、昭和30(1955)年頃までにはコメの自給が可能となり、食糧難はようやく克服されました。
また、特需景気(とくじゅけいき)を受けて我が国が経済面での国際社会の復帰を果たしたこともあって、国民の個人所得が増加して消費水準も向上し、物価も安定したほか、公営住宅の供給が進んだことで、住宅事情も改善され始めました。
昭和31(1956)年度に発行された我が国の経済白書において、政府は「もはや戦後ではない」と宣言し、当時の国民にもこうした意識が広がったこともあって、昭和30(1955)年~32(1957)年には「神武天皇(じんむてんのう)以来」といわれた神武景気を迎えたのです。
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オバrev そうなんです。昭和30年以降に生まれた我々と29年以前に生まれた先輩とは、その差僅かに数年なんですが明らかに雰囲気が違います。
昭和20年代はまだ戦後を引きずっていましたが、30年以降は戦後処理も終わって、日本が新たな旅立ちをしたようなもんでしょうか?
その分、昭和29年以前生まれの人よりも甘い!です(^_^;)
厳しさや苦労をあまり経験せず、むしろ高度経済成長の中に育ったので、本当の苦しさを知らないし、戦争も知らないです。
親もあまりそのことを話してくれなかったです。
でもここに来て、黒田先生の歴史講座に触れながら、やはり我々の祖先が必死で守ってくれた日本の歴史について、真実を知っておくべきだと思っています。
ぴーち おはようございます!
日本もこの頃が急成長をした頃だったんですね。
植物で言えば、芽が出たと思ったら
急激に茎も葉も大きくなり、ぐんぐんと
空に向かって伸びていく様な。
特需やアメリカからの援助が更にその成長を
促す栄養剤となって。
今はそのピークを過ぎて、新たな世代へ引継ぎ為の
養分となるため、色々な犠牲を担う時期に来ているのかも・・知れませんね(^^ゞ
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
私たちの生まれた時代と我が国の長い歴史とのつながりを深く知るためにも、戦後以降の歴史について私たちはもっと知らなければならないと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 急成長は素晴らしいことですが、その後のケアはもっと重要ですからね。
将来につけを残さないためにも、今の私たちの世代でできることはしっかりと果たさねばと思います。