朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)などで、GHQによる占領政策が転換(てんかん)したことによって、対日講和問題も急速に進展し始めました。
昭和26(1951)年1月に来日した大統領特別顧問(こもん)のダレスは、我が国に対して対日講和七原則を示して、単独(多数)講和や在日米軍の駐留(ちゅうりゅう)などの構想を明らかにするとともに、我が国の再軍備を強く迫(せま)りました。
しかし、当時の吉田茂首相は、日本国憲法第9条によって、我が国が戦争放棄(せんそうほうき)をうたっていることを理由として、再軍備の要求を拒絶(きょぜつ)し、アメリカもこれに同意しました。
こうして我が国は、経済の復興(ふっこう)を最大の目標に掲(かか)げるとともに、国家の防衛をアメリカの軍事力に依存(いそん)するという、戦後日本の基本的な枠組(わくぐ)みを構築(こうちく)したのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
確かに日本の戦争放棄の裏を返せば、
アメリカに全面的に依存すると言う意味に
なりますね。
あの当時は戦争で散々痛めつけられた
後ですので、直ぐにまた軍備を・・・という
目標はさすがに立て辛かったでしょうが、
そろそろ日本もアメリカ依存型の考え方を
崩していっても良い気がしますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 次回(22日)の更新でも明らかにしていますが、当時の我が国を取り巻く環境からすれば、吉田首相の決断も十分理解できると思えます。
政治家の一番重要な仕事は、多くの国民を幸福にすることでもありますからね。
しかし、当時の我が国は復興(ふっこう)への道をようやく歩み始めたばかりであり、経済に過酷(かこく)な負担(ふたん)を強(し)いることになる再軍備が、現実的に可能だったかどうかという見方もあります。
また、朝鮮戦争によって最終的に数百万人もの尊(とうと)い生命が失われていることから、終戦間もない我が国が、戦争に参加することで多数の犠牲者(ぎせいしゃ)を出すことを、当時の国内世論が受けいれたかどうかということも、判断材料の一つとしてとらえるべきではないでしょうか。
いずれにせよ、アメリカによる再軍備の要求は、我が国における講和問題への関心をより加速させる効果をもたらしましたが、同時に講和方針をめぐって国論を二分する対立も生み出していました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
ある国が、ある国を思い通りに洗脳していこうと
考えても、その国だとて、これまでに培われた
歴史や習慣などが長い年月を掛けて刻まれてきたわけですので、そう簡単には動じようとはしないですよね。
また、力ずくでどうにかしようと考えるのも
基本的には間違った考え方だと思いますし・・。
そういう所で、国自体の考え方が分かれたり、
あるいは擦った揉んだが起こるのも無理はないですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
力づくで相手を従わせたところで、その後の統治がうまくいくとは限りません。
基本的には、吉田首相の判断は決して間違ってはいなかったと考えられます。
そして戦後、日本というストッパーがなくなった東アジアは、朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)に代表されるように、中国大陸や満州やモンゴル、あるいはシベリアに至(いた)るまで大陸のほとんどが共産主義と化してしまったのです。
自らが招いた事態の深刻(しんこく)さにようやく気づいたアメリカは、日本を自分たちの陣営に引き込むために、我が国との講和を急ぐようになりましたが、それは日本国内においても講和問題への関心が高まるという効果をもたらしました。
しかし、こうした動きを最も警戒(けいかい)したのがソ連でした。かつて零戦(ゼロせん)や戦艦大和(せんかんやまと)などを自力で作ったほどの実力を持つ日本が、自分たちと敵対する自由主義陣営(=西側諸国)につくことを恐れたからです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
- 黒田先生
青田です。
別に、褒めるつもりは、ないですが
ソ連の謀略力、交渉力、内部離間は、敵ながら
あっぱれですね。(ソ連自体は、大嫌いですが)
自分は、何の手を汚すことなく、漁夫の利を
得ています。(国益を得るために戦わずして
勝つ能力は、凄いです。)
日本人にも、こういうダーティーなやり方を学ばないと、世界では、生きられないですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、敵ながらあっぱれでした。
我が国にもそれだけの強かさがあれば…ですが、現代にこそ生かしてほしいと思います。
ぴーち こんばんは!
こう言っては元も子も無いかも知れませんが、
共産主義であれ、大陸の多くの国に受け容れられたということは、共産主義にもなんらかのメリットが存在するからこそ、そこまで勢力が拡充されたのだと思います。それと同時に、自由主義にも同じ事が言えると思います。
要はソ連もアメリカも互いの主義を口実に
争いを勃発し、少しでも多くの領土獲得に専念したいというのが本音の様な気がしたのですが、いかがでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 共産主義の国家体制は、ソ連の崩壊などで失敗が通説となっていますが、我が国の社会保険制度など、社会主義的な発想や政策は役立っている面がありますからね。
仰るとおり、対立を煽ることで国家を成り立たせようというのもありますから、難しいものです。
昭和25(1950)年1月には、当時の南原繁(なんばらしげる)東大総長などが「単独講和は特定国家への依存(いそん)や隷属(れいぞく)をもたらすものである」と全面講和を主張し、また一部の新聞社や雑誌社、あるいは社会党や共産党、さらには総評(そうひょう)や日本教職員組合(にほんきょうしょくいんくみあい、別名を日教組=にっきょうそ)も活発な反対運動を展開しました。
しかし、彼らが主張する「全面講和」に対して、いわゆる「単独講和」はソ連やその衛星国数ヵ国を除(のぞ)いたものに過ぎず、さらには米ソによる「冷戦」が続く状況下では、全面講和論は現実性を持たないものでした。
南原総長の主張に対し、当時の吉田茂首相は「全面講和は到底(とうてい)行われないことであり、政治家の領域(りょういき)に立ち入ってかれこれ言うことは、曲学阿世(きょくがくあせい、真理にそむいて時代の好みにおもねり世間の人に気に入られるような説を唱えること)の徒(と)に他ならない」と批判(ひはん)しています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
例え、理想を掲げても
その時の状況によっては妥協しなければいけない
時もありますよね。
なんでもかんでもそうでなければいけないと言う
四角四面の型にハマった考え方よりも
時には臨機応変な対応が成功を齎す
場合もあることでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、理想を追い求めるよりも、目の前にある現実を見つめて敏速な行動をとることの方が重要な場面もあります。
一国の命運がかかっているのならば、なおさらでしょうね。
連合国のうち、ソ連やチェコスロバキア・ポーランドは講和会議に出席したものの調印せず、インド・ビルマ(現在のミャンマー)・ユーゴスラビアは参加しませんでした。また、中華人民共和国および中華民国(台湾)は、代表政権をめぐる意見不一致のため、会議に招かれませんでした。
サンフランシスコ講和条約において、我が国は海外に持っていた領土などの権利をすべて放棄(ほうき)しましたが、同時に交戦国の多くが我が国への賠償請求権(ばいしょうせいきゅうけん)を放棄しました。我が国は1年後の昭和27年にインドと日印平和条約を、中華民国(台湾)と日華平和条約を結びましたが、両国とも賠償請求権を放棄しています。
結局、我が国が戦後補償に応じたのは、フィリピンやビルマ(現在のミャンマー)・インドネシア・南ベトナム(当時)などの一部の国に留(とど)まりました。なお、我が国は南樺太(みなみからふと)や千島列島の権利を放棄しましたが、ソ連がサンフランシスコ講和条約に調印していないため、国際上における、北方領土を除(のぞ)く千島列島や南樺太の帰属は確定していません。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
いわゆる「喧嘩両成敗」の様な条件で成立したのでしょうか?(イマイチ、状況が飲み込めずに申し訳ありません)
ソ連のこのときにとった行動というのは、卑怯な手口だと見て良いのでしょうか?(調印しなかったこと)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 今回の場合は、我が国の西側諸国としての独立が、ソ連にとって都合が悪かったことから、一方的に調印しなかっただけあり、我が国には何の落ち度もありません。
講和会議そのものにはちゃっかり出席しているあたりは何とも言えないものがありますが…。
第11条の正確な内容は「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに国内外の他の連合国戦争犯罪法廷の『諸判決(しょはんけつ)』を受諾(じゅだく)する」ですが、当時の外務省によって「諸判決」が「裁判」と誤訳(ごやく)されてしまったのです。
「日本は極東国際軍事裁判、すなわち『東京裁判』の『諸判決』を受けいれた」という条約の正式な英文は「Japan accepted judgments of International Military Tribunal for the Far East.」ですが、これが「東京裁判」の「判決」を受けいれたという英語であれば、「Japan accepted judgment of International Military Tribunal for the Far East.」と言う表記となります。
この場合なら、相当無理をして「単数形」の「judgment」を「裁判」と訳し、「日本は極東軍事法廷の裁判を受けいれた」と全体を翻訳(ほんやく)することは有り得るかもしれませんが、正式な条文では、そのような「誤解」を無くするために、英語の正文では「複数形」たる「judgments」として、これが「裁判」ではなく「諸判決」であることを明確にする意図(いと)があったと考えられます。
さらに付け加えれば、これが「日本は極東軍事裁判を受けいれた」となると、英語の直訳では「Japan accepted International Military Tribunal for the Far East.」という表記となるわけで、「judgments of」がなくなります。従って、条文を『裁判』と訳したのは明らかに「誤訳」であり、条約を調印した最初の段階から、我が国に贖罪意識(しょくざいいしき、「贖罪」とは犯した罪をつぐなうこと)を植えつけるといったような、何らかの意図や思惑(おもわく)があったのではとも疑われるのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
確かに「複数形」と「単数形」では
意味が変わってしまいますものね。
それと一つ確認させていただきますが、
贖罪意識を植え付けたいと願っていたのは
アメリカ側の意識と言う事なのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹
仰るとおり、単数形と複数形とをごちゃ混ぜにする解釈は無理がありすぎますが、こうなった背景には、アメリカのみならず、「日本を悪者にしておきたい」という勢力が国内にも当時からはびこっていたとも考えられますね。
オバrev こういう非常に重要な条文は、翻訳者の意図が入る日本語訳ではなく、原文のままのほうがベターな気がしますが、英語圏ではに日本では難しいんですかね?
いずれにしても、一つ一つを原簿に立ち返って見直すという作業が正しい歴史認識には必要じゃないでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、原文をそのまま理解できればよいのですが、日本語圏ではやはり難しいところがありますので、外国由来の文章は、常に原文とともに見直すという作業が必要だと思います。
無論、我が国は茶番劇(ちゃばんげき)たる東京裁判のすべてを受けいれる意図はありませんでした。しかし、戦後から40年が経過した昭和60(1985)年頃から、日本政府の公式な見解として「東京裁判を受諾して日本は国際社会に復帰した」という表現をするようになっています。
そもそも我が国は、東京裁判などの「諸判決」のみを受けいれたからこそ、独立回復後の昭和28(1953)年に、一方的に戦犯(せんぱん)として処罰(しょばつ)された人々の名誉(めいよ)を全会一致で回復させ、我が国から戦犯をなくしたのです。
我が国の名誉のためにも、意図的ともいえる誤訳を何としても解消しなければならないのではないでしょうか。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
- 黒田先生
青田です。
日本には、戦犯が存在しなかったというのは
その当時の野党である社会党でさえも全会一致で
決まりました。
つまり、その当時の日本人の意識自体が、戦犯は存在しない、東京裁判は、あきらかにおかしいと
思っていたわけです。
それが、いつの間にか
『戦犯という言葉』『東京裁判は仕方なかった。』が日本人に浸透して、それが当たり前のような風潮になっているのは
単なるGHQだけの責任ではない気がします。
日本人自身が、時間とともに
『捏造』『風化』『劣化』をしてきた気がします。
もしかしたら、その当時の日本人と今の日本人とでは、全く、違うのかもしれませんね。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに当時と今との日本人が同じとは思えない一面がありますね。
私には、そうなった「諸悪の根源」が、戦後における教育に他ならないと思えてなりません。
ぴーち こんばんは!
前回のお返事の中で
わが国の中にもわが国を陥れようとする人物が居るというような
事を仰っていましたが、
それは日本人ではなく、外国人であるという
事でしょうか(いわゆるスパイと呼ばれる)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 あくまでも想像の域を出ない範囲ですが、大東亜戦争直前のゾルゲ事件の例もありますから、どこに落とし穴があるか分からない状況にある、と言えるでしょうね。
オバrev 今回の従軍慰安婦問題に対する政府の姿勢でもありましたが、過去の歴史問題をぶり返すのではなく、歴史的文献・資料に基づいた、客観的事実を明らかにすることが今後必要なような気がします。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 今回の従軍慰安婦問題に対する政府の姿勢でもありましたが、過去の歴史問題をぶり返すのではなく、歴史的文献・資料に基づいた、客観的事実を明らかにすることが今後必要なような気がします。
客観的な事実は歴史研究にとって重要ですからね。
一方的な主観だけではない、正しい歴史教育こそが求められています。
かくして、我が国は自国の安全保障をアメリカに委(ゆだ)ねるかたちとなりましたが、当初結ばれた条約は片務的(へんむてき、契約の当事者の一方のみが義務を負うこと)であり、アメリカに有利な内容となっていました。
例えば、我が国に駐留するアメリカ軍に日本防衛の義務がないことや、駐留軍には日本政府の要請(ようせい)に応じて内乱を鎮圧(ちんあつ)する権利があってもその義務がないこと、あるいは日本の意思だけでは条約を廃棄(はいき)できないことなどが規定されていたのです。
しかし、日本国憲法において事実上の非武装国(ひぶそうこく)と化していた我が国が、独立回復を機に米軍に撤退(てったい)されれば、丸裸となった我が国が他国に侵略(しんりゃく)されるのは自明の理でした。現実問題として、我が国が現在に至(いた)るまで平和が保(たも)たれているのは、アメリカの「核の傘(かさ)」に入り込むかたちとなった日米安保条約のおかげであり、決して日本国憲法第9条によるものではありません。
なお、日米安保条約は、対等な立場での日米軍事同盟の構築(こうちく)を目指して、約10年後の昭和35(1960)年に改定されましたが、その際に大規模(だいきぼ)な抗議行動が起こりました(詳しくは後述します)。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
この平和を保つことが出来た理由が憲法9条ではないと言う事は理解出来ましたが、何故にこれまでこの9条に関して、国内でこれほどまでに改定に対して反対の声や、渋る様な様子が続いて来たのでしょうか。
全く無関係だとすれば、どうしてすんなり改定にこぎつくことが出来ないのでしょう。
それは国内ばかりではなく、アメリカとの関係の中で日本が気遣いしなければいけない理由でも
あったのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 憲法改正が現実になろうとしつつある現在では信じられないかもしれませんが、当時の我が国は米ソ冷戦のあおりを受け、国内における「反米親ソ」のうねりが非常に大きかったことが主因です。
親ソの思想からすれば、アメリカの「核の傘」は我が国の共産主義化にとって大敵であり、だからこそ現実を見ないようにするため、憲法9条の平和主義をことさらに持ち上げたのです。そして、この流れはソ連崩壊から20年以上たった今でも、親ソが親中に代わっただけで基本的には同じです。
無名の読書人 いつも訪問してくださり、ありがとうございます。現役教員だけあって、資料も相当読み込まれているようですね。8月が近づくと、どうしても戦争を意識させられます。書かれている内容はとても興味深いです。
ぴーち おはようございます!
いつもながら、丁寧なご解答、ありがとうございます<m(__)m>
そうですか・・
悪く言うと
日本はそうやって、アメリカとソ連のどちらにも
媚を売ることで、これまで生き延びて来たということなのですね。
そう考えると、日本は強かな国でもあるわけですねぇ・・・
無名の読書人さんへ
黒田裕樹 こちらこそ、お褒めのお言葉有難うございます。
現在は戦後の話が中心となっておりますが、過去記事で先の大戦についても詳しく紹介しておりますので、ぜひご覧ください。
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 確かに親米派と親ソ派の混在が、結果的に媚びを売るかたちになって我が国が生き残った感はありますね。
しかしながら、戦後70年近くがたったいまでは、我が国独自の外交に専念すべきかもしれません。