こうして日米両国がついに戦争を始めた訳(わけ)ですが、日本軍による真珠湾攻撃を「卑怯(ひきょう)な奇襲(きしゅう)」とフランクリン=ルーズベルト大統領(だいとうりょう)が主張したことによって、アメリカの世論は一気に戦争賛美となり、日本を叩(たた)き潰(つぶ)すことが正義とまで考えられるようになってしまいました。
しかし、我が国は真珠湾をまるで騙(だま)し討(う)ちのように奇襲する意図は全くありませんでした。政府も連合艦隊も、開戦の通告を行ってから真珠湾攻撃を開始するつもりで周到(しゅうとう)な準備を重ね、開戦の30分前にはアメリカのハル国務長官(こくむちょうかん)に対して国交断絶(こっこうだんぜつ)の通告を渡す予定でした。
それなのに、現地(=ワシントン)の日本大使館の大失態(だいしったい)でアメリカへの伝達が遅(おく)れたため、アメリカ国民に「日本軍が奇襲攻撃を仕掛けた」と誤解(ごかい)されてしまったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
何と申しましょうか・・。
この当時の日本は政府と国民と軍との
温度差が余りに差がありすぎて、
国全体のまとまり、連携に欠けていたように
思います。国民は何故に戦争が始まるのかさえ
詳細を知らされずに、軍の勢いばかりが
空回りして、政府はワンテンポ遅れた
怠慢さを感じます。
非常事態に関わらず、国全体がのんびりとした
落ち着きさえ感じられますね・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かにそんな印象もありますが、今回の大失態は全く違う面から起きているのです。
詳しくは次回以降の更新をご覧ください。
ところが、日本大使館の職員が同僚(どうりょう)の送別会を行うために総出(そうで)で引き上げてしまったことで、国交断絶の通告たる「対米覚書(たいべいおぼえがき)」の解読(かいどく)が遅(おく)れてしまったのです。対米覚書は現地時間の12月7日午後1時にアメリカに手渡さなければならなかったのですが、解読に手間取(てまど)った大使館側はアメリカに対して独断で「約束の時間をもう1時間延(の)ばしてほしい」と頼(たの)み込(こ)んでしまいました。
言うまでもないことですが、大使館の身勝手な都合が遥(はる)か遠くで攻撃の準備を進めていた連合艦隊に即座(そくざ)に伝わるはずがありません。結局、大使館側が対米覚書をハル国務長官に届けたのは同日の午後2時20分であり、真珠湾攻撃が終わってから約1時間も経(た)ってからのことでした。
かくして日本大使館員の常識外(はず)れの怠慢(たいまん)によって、真珠湾攻撃は我が国による「奇襲(きしゅう)」とみなされるとともに、フランクリン=ルーズベルト大統領(だいとうりょう)が「奇襲攻撃後に断交通知を持ってきた日本ほど卑劣(ひれつ)で悪辣(あくらつ)な国はない」と喧伝(けんでん、盛んに言いふらすこと)するなど、日本側の大失態(だいしったい)を最大限に利用する流れをつくってしまったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田 黒田先生
青田です。
今回の内容を読んで、唖然とした気持ちなりました。
日本大使館の職員の危機感ゼロは、世界常識どころか、日本の歴史常識でもありませんね。
それが、日本のエリートだったとは、本当に情けない。
江戸時代なら、間違いなく切腹ですね。
それと
『大使館の職員』と『現場の軍人』との危機感の温度差の大きさには、驚きます。
青田さんへ
黒田裕樹 まさしく仰るとおりですね。
「切腹もの」の大使館職員の詳細については次回以降も詳しく紹介します。
ぴーち こんばんは!
やはり、昨日コメントさせていただいたとおり、
政府の危機感無い采配がこの様な事態を引き起こしてしまったのですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはり、昨日コメントさせていただいたとおり、
> 政府の危機感無い采配がこの様な事態を引き起こしてしまったのですね。
残念ながら仰るとおりですね。ただ、他にもやるべきことがあったはずなのですが…。
大使館員の怠慢(たいまん)によって我が国が奇襲(きしゅう)で真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき)を行ったと「誤解」されたこと自体は、戦後に開かれた極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん、別名を東京裁判=とうきょうさいばん)において「日本が真珠湾攻撃を事前に通告する意思があった」と認められましたが、こうした「日本に有利な事実」は我が国や世界の常識となる機会に恵まれず、フランクリン=ルーズベルト大統領(だいとうりょう)が喧伝(けんでん、盛んに言いふらすこと)した「リメンバー・パールハーバー」の精神は、今もなおアメリカの間で広がりを見せています。
さて、これだけの弁解の余地(よち)もない大失態をやらかした大使館員たちですが、彼らは自(みずか)らの怠慢を「タイピングに手間取(てまど)って遅(おく)れた」と言い訳(わけ)してごまかしたのみならず、その後も口を堅(かた)く閉ざして一切の責任を取ることなく戦後に出世を重ね、中には昭和天皇の側近(そっきん)として仕(つか)えた者までいるのです。
国交断絶の通告を手渡すということは、それこそ国家の命運がかかった重要な手続きです。解読が遅れそうであれば清書せずに手渡したり、最悪の場合は要旨(ようし)を口頭(こうとう)で伝えて文書を後回(あとまわ)しにしたりするなど、いくらでもやり方があったはずです。
重要な局面で信じられないような失態を重ね続けた当時の大使館員の責任問題ですが、我が国の国益や誇(ほこ)りを断固(だんこ)として守るとするならば、このまま風化(ふうか)させてしまうことが果たして許されてよいものでしょうか。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田 黒田先生
青田です。
その後のこの官僚への対応と処遇が
日本人として、恥ですね。
正直、情けないです。
『官僚=優秀=頭がイイ』という信奉は、
今でも根強いです。
私の知人も
『官僚は、優秀。政治家は、馬鹿だから、官僚に任していればイイ。』と言います。
そういう単なる思い込みが、日本をどんどん悪くしていくと思うのですが、(たとえば、今度の、●●税の増税。。。)
まず、
『優秀とか、頭がイイ』という定義が曖昧です。
現場経験のある頭の良さ(ストリートスマート)と、勉強のできる頭の良さ
とは、全く、違います。
小市民の私が言う資格はないのかもしれませんが
『本当に腹が立ちます。』・・・
青田さんへ
黒田裕樹 全くその通りですね。
責任を取らない官僚の思い上がりは、今回の消費税増税においても変わることがないのはあきれ果てた限りです。
国内裁判をすべき
青田 黒田先生
青田です。
東京裁判は、戦勝国が日本人を戦争犯罪人として
裁いた違法の裁判です。
これは、結果的に日本が戦争に負けたから、不合理な裁判を押し付けられたのですが
私は、この東京裁判が終わった後に
日本で、国内裁判を開くべきだったと思います。
『東京裁判で、全て終わりという風潮がはびこり、
暗黒の戦争のことを考えずに、未来のことを考えよう。』という風潮がマスコミを始め、国民の間で、起こったことが
結局、今も続くいろいろな問題に繋がっていると思います。
友人と昔、話をしていたのですが
なぜ、日本人は、『戦前=オール悪』だから、考えないと思考停止になるのかと、議論していました。
黒田先生、『世の中というのは、理不尽で、不条理なものですね。つらい。』
青田さんへ その2
黒田裕樹 確かに理不尽ですね。
しかし、理不尽だからこそやる気や生きがいを感じるというものです。
今からでも決着は十分つけられる案件ですからね。
ぴーち こんばんは!
きっとアメリカとの戦争は、
日本の対応の良し悪しに関わらず
遅かれ早かれ、起きるべくして
起きた戦争なのだと思います。
問題は、日本国内で当時の真実を
戦後深く掘り下げて、審議出来なかった
所に憤りを感じるお話ですね。
日本人の
物事を
白黒はっきりさせるよりも
事実を有耶無耶にする傾向が
強い所がこの状態では
マイナス方向に働いてしまった様ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
この件に関しては有耶無耶で済ますことは許されません。
その際、我が国の大使館員の怠慢(たいまん)で日本軍による「騙(だま)し討(う)ち」とみなされたことで、フランクリン=ルーズベルト大統領(だいとうりょう)は「リメンバー・パールハーバー」と唱(とな)えてそれまで反戦気分の強かったアメリカ国民の我が国に対する敵愾心(てきがいしん)を一気に高め、国家を挙(あ)げて対日参戦のムードをつくり上げることに成功しました。
ところが、我が国が真珠湾攻撃を行うことをルーズベルト大統領をはじめとするアメリカ政府首脳が事前にすべて察知(さっち)しており、我が国が「先制攻撃」を仕掛(しか)けてくるのを待ち構(かま)えていたという説があることを皆(みな)さんはご存知(ぞんじ)でしょうか。
先述(せんじゅつ)のとおり、アメリカ側は我が国の秘密文書の暗号をことごとく解読しており、怠慢の日本大使館が慌(あわ)てて準備していた国交断絶の通告たる「対米覚書」も解読のうえ、ルーズベルト大統領に事前に手渡されていたというのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田 黒田先生
青田です。
いくら、日米開戦の通告が遅れ
アメリカで、厭世ムードは、あったにしろ
日米開戦の可能性が高まったら、当然、大統領責任として、
ハワイの太平洋艦隊において、厳戒態勢を取らせるのは、一国の大統領の責任です。
歴代のアメリカ大統領は、そうしていました。
真珠湾攻撃で、日本軍は、ハワイを占領せず、重油タンクも攻撃していませでしたが
もし、日本軍が、アメリカ太平洋艦隊を壊滅させていれば、、
間違いなく、ルーズベルトは、大統領責任を問われたと思います。
それを、日本の一方的に悪者にすることで、
ルーズベルトは、回避したようですね。
本当腹が立つ。
ぴーち こんにちは!
だまし討ちに関しては、そう伝えられれば
許しがたい感情を持つのは当然ではあると
思いますが、アメリカという国の国民は
皆が皆、そんなに正義感の強い人間ばかり揃っているのでしょうか・・?
私たち、日本人は例え騙まし討ちにあったとしても、怒り心頭して直ぐに行動を起こす者も居る代わりに、それを制する様に宥めすかす考えの
者も多いと思います。
国民の怒りというよりも、アメリカ側も
その部分は勝手に国民の怒りと置き換えて
戦争の正当性を強調していたのでは
無いのでしょうか?
青田さんへ
黒田裕樹 青田さんのお怒りは日本国民全体のお怒りかと思いますが、もう少しこちらで詳細を紹介してから再検討させていただきます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰られる対応も十分に考えられますね。
ルーズベルト大統領が現実に取った行動を見極めたうえで、改めて検討してみたいと思います。
まず真珠湾攻撃の以前、アメリカがハル・ノートを我が国に通告した直後に、真珠湾を母港とする2隻(せき)の空母(くうぼ)すべてが本国の命令によって新鋭艦(しんえいかん)を伴(ともな)って出港しました。この結果、真珠湾に残った軍艦(ぐんかん)はそのほとんどが第一次世界大戦以来の旧型艦(きゅうがたかん)しかなく、しかも空母が存在しないという状態となってしまっていたのです。
また、アメリカは暗号の解読によって我が国の開戦決定と真珠湾攻撃の予定日を事前に知りながら、極(きわ)めて重要なはずのその情報をハワイに知らせるのを何故(なぜ)か遅(おく)らせたため、現地の太平洋艦隊司令官(たいへいようかんたいしれいかん)が実際に情報を受け取ったのは、真珠湾攻撃が終わってから何と6時間以上も経(た)ってからでした。
真珠湾が攻撃された昭和16(1941)年12月7日(現地時間)は日曜日だったため、何も知らされていない現地の司令官は当日にゴルフを楽しむ予定だったと伝えられています。この事実は何を意味しているのでしょうか。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
私の把握違いでしたら、申し訳ありませんが
アメリカ本土は、ハワイを盾にして
そればかりではなく
トカゲの尻尾きり同然な扱いを
していたという事なのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > アメリカ本土は、ハワイを盾にして
> そればかりではなく
> トカゲの尻尾きり同然な扱いを
> していたという事なのでしょうか?
仰るご判断で差支えないと思います。
しかもこの時の大統領の心境は…。
暗号の解読によって事前に攻撃されるのが分かっている以上、ルーズベルト大統領をはじめ政府首脳(しゅのう)は日本軍による攻撃の回避(かいひ)や、あるいはアメリカからの先制攻撃の可能性を探(さぐ)るなど、それこそホワイトハウスに缶詰状態(かんづめじょうたい)となって最大限の努力を重ねるのが当然のはずです。
しかし、実際の彼が攻撃前夜に取った行動は、ホワイトハウスに家族を招(まね)いての食事会でした。その際にルーズベルト大統領は「戦争は明日始まる」と家族に対して満足そうに言ったとされています。
なぜ彼は嬉(うれ)しそうだったのでしょうか。それは、彼にとって悲願であった「日本を挑発(ちょうはつ)し続けることで先制攻撃させて、その結果アメリカが第二次世界大戦に堂々と参戦できる」という目標が達成されようとしていたからです。
そして、その悲願は大西洋を越えたイギリスの首相であるチャーチルにとっても同じことでした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
最初から日本は負け、アメリカは勝利するというシナリオがあり、戦争に勝つという事実上の
結果が付いてくれば、有無も言わさずに世界の頂点に立てるという確信から自然と笑顔がこぼれたのでしょうね。
確かに世界の頂点に立つことで有利な点も多々あるでしょうけれど、果たして
それは本当に幸せに通じる事なのかは、私個人としては疑問に感じる所です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんの疑問はごもっともだと思います。
通常の為政者は国益全体を考えて行動しますが、攻撃を受けて「嬉しそう」というのは理解に苦しみますからね。
彼の考えをもう少し探ってみたいと思います。
そして我が国が真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき)を行うと、チャーチルは「これで戦争に勝った」と心から喜ぶとともに「アメリカが長い間の苦しみから解放された」と後に書かれた自著(じちょ)の中で述(の)べています。
かくしてルーズベルト大統領は、アメリカをヨーロッパ戦線に参加させるために日本をギリギリの状態にまで追い込(こ)み、先制攻撃させるよう罠(わな)を仕掛(しか)けましたが、それは同時に真珠湾攻撃によって戦死した、ハワイの太平洋艦隊(たいへいようかんたい)の兵士たち数千人を「生贄(いけにえ)」にしたことも意味していました。
ルーズベルト大統領の政敵(せいてき)で、当時は野党だった共和党のリーダーを務(つと)めたハミルトン=フィッシュは、後に出版した回顧録(かいころく)の中で「私たちはルーズベルトが欺(あざむ)いて(アメリカを)戦争に導いたなどとは(当時は)疑いもしなかった」と述べています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
戦争で勝利するということは、
正当法で勝利するということは有り得ないのでしょうね。
相手に勝利する。相手よりも優位に立つということは、卑劣で相手が思いも寄らない、もっと言えば人道的に外れた行動を起こさなければ、
勝つことは不可能である気がします。
そういう意味でも、戦争は醜く汚い
人間の醜態を思い切り見せつけられる
現象なのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 戦争は外交手段の一種でもありますが、卑劣さという点では他の外交よりも顕著なのかもしれませんね。
当時の我が国のようにどうしようもないところまで追い詰められてしまうこともありますし。
万里ママ 戦争はやはり、一番卑劣な手段です。
先制攻撃、仕掛けさせられたものだとは、
後にならないとわからないのでしょうね。
ルーズベルトの計算
青田 黒田先生
青田です。
真珠湾攻撃について、見落としてはいけないことは
ルーズベルト大統領が、海軍事務官の経験であり、
海軍に愛情を注いだ大統領だったということです。
そのルーズベルトだからこそ、
本当は旧式の軍艦の被害しかなく、空母は、寄港させず、被害を失くできた。
(通常、アメリカ太平洋艦隊の基地で、あんなに被害が少ないはずがない。)
それと、ルーズベルト大統領としては
米国民のプロパガンダとして、大損害と喧伝する必要がありました。
当時のアメリカ国民は、8割が戦争に反対でしたから、相当なショック療法でないと参戦できませんでした。
そのためには、アメリカ人が戦死したと事実は、ルーズベルト大統領は、絶対に条件だったんでしょうね。
そう考えると、残念ながら、この当時の日本の政治家は、ずる賢さ、逞しさという点において
ルーズベルト大統領、チャーチル首相よりも
劣りますね。
やはり、政治家は、誠実な善人だけでは、向いてないですね。
万里ママさんへ
黒田裕樹 仰る一面はありますね。
後になるまで分からないようにするのは確かに卑劣に感じます。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、政治家に誠実さは求められていません。
徳川家康と足利尊氏を比較すればよくわかりますね。
しかし、大統領の行動を卑劣と感じるということは、裏(うら)を返せば我々が第二次世界大戦当時から「全く成長していない」ことを示している、とも言えるのではないでしょうか。
なぜなら、ルーズベルト大統領がアメリカの大統領である以上、彼がアメリカの国益を第一に考え、日本がその障害(しょうがい)になるのであれば取り除(のぞ)こうとするのはむしろ当然だからです。アメリカ側から見れば、彼の一連の行動、すなわち当時のアメリカは少しも悪くありません。
では、当時の世界において「アメリカにとっての最大限の国益」とは何だったのでしょうか。
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青田 黒田先生
青田です。
おっしゃる通りですね。
卑劣だと言って、泣いて、恨んでも、
現実を生き抜くことはできません。
これは、現代の日本も、某国にたいして
非難をしますが、具体的、根本的な打ち手を打たないのは、成長してない気がします。
(憲法9条も変えようとせず、アメリカの基地も出て行って欲しいと非難する。)
現代でも、自衛意識の強い
アメリカ人のほうが、現実的な気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 まさに仰るとおりですね。
被害者面ではなく、アメリカの立場で大統領の行動を考えてみたいと思います。
ぴーち こんばんは!
日本人は
やはり日本が母国である以上
被害意識を強く感じたりしますが
結局は、日本もその当時は
鼻っ柱が強いだけの傲慢な存在だったから
その出鼻を見事に挫かれたと言う事でしょうかね。
黒田さんこんにちは
万金丹 真珠湾攻撃とその事実
すっごくおもしろい
毎日時間が短くて
後からゆっくりと拝見しますねm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 結局は、日本もその当時は
> 鼻っ柱が強いだけの傲慢な存在だったから
> その出鼻を見事に挫かれたと言う事でしょうかね。
少なくともアメリカからはそう見えた、という一面はあり得ますね。
当時のアメリカの事情を探りながらさらに続けたいと思います。
万金丹さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
今後ともお楽しみいただければ幸いです。
アメリカ人が怒るのは筋違い
青田です。 黒田先生
青田です。
この真珠湾攻撃について
アメリカ人が怒るのに、違和感を感じます。
というのも、この真珠湾攻撃の50年前まで
カメハメハ大王の一族がハワイを支配する
独立した国だったからです。
それを占領して、勝手にハワイ領にしたのは
アメリカです。
アメリカが太平洋への野望を持ち、海軍の拠点を置いていました。
自分のしていることは棚に置いて、日本を卑怯者と呼ぶのは、お門違いです。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおりではありますが、植民地や併合を当然のように行ってきた白人社会ですからね。
自分たちがルールブックと思うからこその傲慢でしょう。
こうした事態を打開するためには、イギリスの要請(ようせい)を受けて第二次世界大戦に参戦し、戦争がもたらす様々な特需(とくじゅ)によって経済を発展させるしかないとルーズベルトは考えましたが、当時のアメリカは伝統的に孤立主義(こりつしゅぎ)であり、他国の戦争に介入(かいにゅう)することを嫌(きら)っていました。
反戦ムードに満ちた国内の雰囲気(ふんいき)を察(さっ)したルーズベルトは、自(みずか)らの本音(ほんね)を封印(ふういん)して「攻撃を受けた場合を除いて絶対に戦争はしない」と公約し、1940(昭和15)年に三選を果たすと、イギリスなどと連携(れんけい)して日本を挑発(ちょうはつ)し、先制攻撃をさせることでアメリカがヨーロッパ戦線に参戦できるように仕向けました。
ありとあらゆる工作や謀略(ぼうりゃく)を行ったルーズベルトは、最終的にハル・ノートを突(つ)き付けることによって日本に真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき)をさせるとともに、現地の司令官だけに情報を流さなかったりしたことでわざと日本を勝たせる(ように見せかける)とともに、空母(くうぼ)や最新鋭(さいしんえい)の軍艦(ぐんかん)を事前に真珠湾から脱出(だっしゅつ)させることで、実際の被害(ひがい)を最小限に食(く)い止めました。
こうしてアメリカの第二次世界大戦への参戦の大義名分(たいぎめいぶん)をつくり出したルーズベルトは、日本大使館の怠慢(たいまん)で国交断絶の通告が遅(おく)れたことも最大限に活用して「リメンバー・パールハーバー」のプロパガンダを完成させ、彼の予想どおりに戦争特需が起きてアメリカ経済は劇的(げきてき)な回復を遂(と)げたのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田 黒田先生
青田です。
この当時、アメリカは、イギリスにたいして
膨大な戦債をつぎこんでいます。
これで、イギリスが、もし、ドイツに負けることがあると、アメリカは、その債務を回収不能になります。
そう考えると、アメリカとしては、何があっても
ヨーロッパでの戦いに参加して、イギリスに勝ってもらわないといけなかったと思います。
そのためには
日本の真珠湾攻撃は、ルーズベルト大統領にとって、絶対に必要だった気がします。
そう考えると
イイか、悪いかという感情論は、別にして、
アメリカ国民にとって、ルーズベルトは、やはり、有能な大統領ということになりますね。
現代の日本の政治家にもこのくらいの『したたかさ』は、必要だと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、世界政治のパワーバランスは我々の想像以上にしたたかです。
我が国も学ぶべきところはしっかり学ぶべきですし、戦国時代にはそれができたはずなのですが…。
アメリカの成長戦略
青田 黒田先生
青田です。
ルーズベルト大統領のニューディール政策が行き詰っていたのを多くの日本人は、知らないですよね。
この当時、アメリカには1000万人の失業者がいました。
第一の矢の金融政策、
第二の矢の財政政策(公共事業で、ダムを建設)
をしていましたが、3本目の矢の成長戦略がなく、
お手上げ状態でした。国の破産も覚悟していました。
その3本目の矢の成長戦略が、軍需産業で、そのおかげで1000万人の失業者が激減したとは
世の中、綺麗ごとだけではいかないですね。
ぴーち こんにちは!
なる程、戦争はアメリカの生き残りを掛けての大きな賭けでもあったわけですか。行き当たりバッタリの作戦ではなく、しっかりと最後のシナリオまで見通しての作戦は、その当時敵国ながら天晴れなりと見なさなければいけませんね。
話が逸れますが、マッカーサー元帥も日本にわざわざ出向いて来たのも、自身が大統領選に勝利する為の戦利品を持ち帰るつもりであった様ですが、さすがに天皇の前ではその野望も影を潜めてしまった様ですね^_^;
青田さんへ その2
黒田裕樹 その通りです。綺麗事だけでは何の解決もありません。
我が国だって戦後に朝鮮戦争の特需があったことで経済が回復しましたからね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 その通りです。我々はルーズベルトを卑劣と罵るだけでなく、彼の行動から様々なことを学ばねばなりません。
マッカーサーについても色々な説がありますね。いずれは紹介できればと思います。
ただし、アメリカのもう一つの悲願であった「東アジアにアメリカの権益を構築(こうちく)する」ことは、ルーズベルトが1945(昭和20)年に急死した後を継(つ)いだトルーマン大統領も果たすことができず、それどころかソ連や中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく)といった共産主義国家を戦後に急成長させる結果となりました。
これはルーズベルトの周囲にソ連(=コミンテルン)のスパイが多数存在していたことが原因とされていますが、それ以外にも日本との戦争が長期間にわたり、約10万人という予想外の多数の戦死者を出したことなどが、戦後のルーズベルトの評価(ひょうか)を下げることにつながりました。
ルーズベルト大統領に関する様々な評価を見れば、国益を追求し続けることの難しさや、謀略(ぼうりゃく)を仕掛(しか)けた一方で自分自身が謀略に引っかかっていたことなど、人間の生き様の複雑さや困難さを思い知らされますね。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田 黒田先生
青田です。
ルーズベルト大統領は、戦略(事前の計算)という面では、日本の政治家よりも
はるかにあるのですが、
戦略では、予測できない『日本兵の士気の高さ』は
計算できなかったようですね。
(戦争の後半のほうがアメリカ兵の死傷者数は激増しています。)
いわゆる、『日本人の現場力の強さ』です。
ただ、このアメリカの計算だけで、勝てるという神話は、朝鮮戦争、ベトナム戦争でも悉く、狂い
長期的には、アメリカの国力を消耗させています。
歴史から、学ばないのは、アメリカも同様ですね。(だからこそ、真の使える歴史教育が必要なんですが)
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
アメリカの経済は確かに回復しましたが、同時に失うものも大きかったことがその後の国家の運営を狂わせましたね。
ぴーち こんばんは!
何事もそうでしょうけれど、最初から
自分の思い通りに事が運ぶなんて事はなかなか出来ないものですよね。
スポーツだとて、前評判ばかり良くても
実際に戦ってみたら、全く相手に通用しなかったなんて話は良くありますしね。
ある程度の予測は立てることが出来ても、
始まってみると苦戦を強いられることは
むしろ計算のうちと考えるのが妥当だったと
思うのですがね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 思い通りに事が運ぶということは通常では有り得ませんからね。
アメリカも策を弄したつもりが、詰めの甘さが更なる困難を呼ぶことになった。
現代もあまり変わっていないようですね。
繰(く)り返しますが、私たち日本国民がルーズベルトの一連の手法を「卑劣(ひれつ)」と断じることは無理もないことです。しかし、それならそれで当時の日本政府の首脳(しゅのう)がなぜルーズベルトに勝てなかったのかということを「反省」する必要も同時にあるのではないでしょうか。
戦いに敗れた相手を罵(ののし)るだけでは、私たちは永遠(えいえん)にその相手には勝てません。もし将来にリベンジの機会があった場合、絶対に負けないようにするには私たちに何が足りないのか。あるいはどの部分を「改良」すれば勝てるのか。
二度と負けられない「次」のためにあらん限りの対策を考え、それを実行することこそが、我が国の輝(かがや)かしい未来を信じて潔(いさぎよ)く散っていった無数の戦死者や犠牲者(ぎせいしゃ)、すなわち「英霊(えいれい)」の皆様に報(むく)いる道ではないでしょうか。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田 黒田先生
青田です。
120%同感です。
なぜなら、幕末・明治の時の日本も、この日米開戦の直前・直後の時以上の危機的状況だったのに
先人達は、命懸けで、昭和にバトンを繋いでくれたました。
そう考えると、本当は、危機的な状況なのに
危機感のない状況の平和ボケが人材不足を生み出し、悲劇を生んでいる気がします。
そう考えると
まさしく、今の日本は、超危険ですね。(危機的なのに平和ボケ)
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
歴史を学ぶことは危機から救われることでもあります。
今こそ正しい歴史を取り戻さねばなりません。
ぴーち こんにちは!
時に負けることも勉強のひとつだと思いました。
アメリカの過去の戦争の事は存じませんが、百戦錬磨であれば有るほど、勝つことだけに固執し、負けたものの気持ちなど全く気づきもせずに闇雲にまた戦争を仕掛ける。
あの9.11以前のアメリカの映画製作は、アメリカが勝利する戦争映画ばかり華々しく製作されていましたが、直接的に本土を狙われた形となったあの事件以降、少しずつアメリカ人の心の中に
人の命の尊さ、儚さ。戦うことへの罪悪感などの
憂いが見られる作品が多く排出されてきています。
悲しみを味わう事は辛いけれど、その分
心に深みが生まれ、人の気持ちが分かる人間が出来あがるものです。
そういう意味も含めて、戦争によって負けたからと言って悔しさばかりを募らせずに
精神的には沢山の人間として大切なものを得られたと思いたいですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、アメリカの立場もやはり変わりつつあるようですね。
負けることは仕方がない場合があっても、問題はその後どうするか、でしょうね。
大東亜戦争において、我が国は自存自衛(じそんじえい)と東亜新秩序(とうあしんちつじょ)の建設をその目的と定め、戦争遂行(すいこう)に欠かせない資源を確保(かくほ)するためにアメリカやイギリス、オランダが植民地を有する南方諸地域(なんぽうしょちいき)への進出を強めました。
日本の参戦によって同盟国であったドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告(せんせんふこく)し、第二次世界大戦はヨーロッパとアジアを中心として全世界を巻(ま)き込(こ)んだ本格的な戦争となりました。なお、アメリカ・イギリス・ソ連などは連合国と呼(よ)ばれ、日本・ドイツ・イタリアは枢軸国(すうじくこく)と呼ばれました。
なお、大東亜戦争の呼称(こしょう)は戦後にGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部、れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ)によって使用が禁止され、太平洋戦争(たいへいようせんそう)と呼ばれるようになりました。最近の歴史教科書では「アジア太平洋戦争」という表記も見られるようです。
しかし、歴史の真実を探究(たんきゅう)するには、特定の重要な事象(じしょう)に関して後世(こうせい)の人間が勝手に名称を改めるというようなことをするべきではありません。名は体を表(あらわ)すと言います。「大東亜戦争」という呼び名で戦った戦争の意味は、その名でしか浮(う)かび上がらせる事は出来ません。従(したが)いまして、当講座では「大東亜戦争」と呼称いたします。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
何でもアメリカの言いなりになるのも良し悪しですよね。アメリカにとって不都合な事を力でねじ伏せて、都合の良い様に変えられてしまう事は
非常に遺憾に思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 何でもアメリカの言いなりになるのも良し悪しですよね。アメリカにとって不都合な事を力でねじ伏せて、都合の良い様に変えられてしまう事は
> 非常に遺憾に思います。
そのとおりです。GHQによる占領時は致し方ないとしても、現代に至るまで戦争の呼称がゆがめられることは許されません。
重大な事実をボカしてはならない。
零崎涼介 1937年(昭和12年)9月2日の近衛内閣の閣議で
「支那事変」の呼称と「支那事変は蘆溝橋事件が発端である」
ことが閣議決定され、1941年(昭和16年)12月12日の東條内閣の閣議で
―――――――
今次ノ對米英戰爭及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戰爭ハ
支那事變ヲモ含メ大東亞戰爭ト呼稱ス
―――――――
と閣議決定されているので「大東亜戦争」が正式な名称であり、
1942年(昭和17年)2月17日には「支那事変」の呼称を「大東亜戦争」に
改める法律第9号の閣議決定が行われていますので、
法的には大東亜戦争の発端は蘆溝橋事件となるわけですから、
「大東亜戦争の始まり」と題するのであれば
蘆溝橋事件の始まりから説明すべきではないでしょうか?
なぜかというと、一番大事なポイントは、
盧溝橋事件は中国軍から日本軍を攻撃してきたからです。
日本が戦争を始めたわけではないという重大な事実を
教育、マスコミ、政治などがボカし続けているわけですから、
せめてネットなどでは重大な事実を強調したほうがいいと思います。
日本人は欧米と同じように条約によって中国に居留し、
日本軍は欧米と同じように条約によって中国に駐留していました。
1937年7月7日の盧溝橋事件にしても、
1937年8月13日の第二次上海事変にしても、
中国軍から日本を攻撃してきたものです。
第二次上海事変は1937年8月12日未明、蒋介石軍3万人が
1932年の上海休戦協定に違反して協定線内に侵入し、
上海国際共同租界の日本人居留区域を包囲。
日本領事は1932年・上海休戦協定の締約国である米英仏などで組織する
協定共同委員会を招集し、中国軍の撤退を要求する共同抗議、
および何らかの制裁措置を講ずるよう提案を行ないましたが、
反日・親蒋介石で固まっていた列国は
全く取り上げようとはしませんでした。
翌8月13日午前9時半頃、商務印書館付近の中国軍(蒋介石軍)が
日本軍陣地に対し、突如、機関銃による射撃を開始して
日本軍との間で戦闘状態となり、第二次上海事変が始まりました。
(上海には英米仏などの租界もあったのに日本人居留区のみを攻撃してきた)
英米仏は日中両軍の戦闘開始後に、
日本軍と中国軍の両方が上海国際共同租界から撤退することを勧告。
それまでは日本軍も欧米軍と一緒に上海の警備を地区ごとに
役割分担していたのですが、
http://blog-imgs-44-origin.fc2.com/s/e/i/seitousikan/sks_kg_kbtttk.jpg
以後は日本軍を除く英米仏軍などが上海の租界における
治安維持を担当するという理不尽な提案を行ないました。
本来ならば1932年の上海休戦協定に違反して協定線内に侵入して攻撃してきた
蒋介石軍に対して、日英米仏軍が一致して対処するのが本筋でした。
実際には、この第二次上海事変が支那事変(日中戦争)の始まり
といっても過言ではありません。
法的には大東亜戦争の発端は蘆溝橋事件となりますが、
戦争の原因を考察すれば、
蘆溝橋事件は単なる地方軍閥との軍事衝突事件であり、
しかも蘆溝橋事件は1937年7月11日20:00の
『松井-秦徳純・停戦協定』で終了していますので、
停戦済の軍事衝突事件は蒋介石・中央政府軍が上海を侵略し、
無差別空爆する理由にはなりませんし法的根拠はありません。
たとえ盧溝橋事変が発端だと解釈するにしても、
蘆溝橋事件も第二次上海事変も、
どちらにしても中国軍からの攻撃であり、
それに対して日本軍は応戦・反撃していただけです。
日本本土で援軍(上海派遣軍)が編成され、上海へ向かいました。
蒋介石は日本軍に返り討ちにされて南京に逃げました。
日本軍は追撃して南京を陥落。
蒋介石は武漢に逃げました。
日本軍は追撃して武漢も攻略。
蒋介石は重慶に逃げました。
日本軍は地上軍による重慶攻略を計画しましたが、
重慶が天然の要塞の地であることや兵站の問題もあり、
即時攻略は困難であるという結論に達し、重慶爆撃を行ないました。
日本は何度も何度も和平交渉を申し込んでいました。
アメリカなどは中国の蒋介石(国民党)重慶政府に武器を提供し続け、
資金も提供し続けていたので、
蒋介石は日本からの和平交渉の提案を何度も拒否して
戦争をやめようとしなかったので、
アメリカが中国に武器を輸送していた援蒋ルートを遮断するために、
日本は仏印と平和的に話し合って、日本軍は仏印に進駐。
1940年8月30日の『松岡-アンリ協定』により北部仏印進駐。
1941年7月23日の『日・仏印共同防衛協定』により南部仏印進駐。
するとアメリカが日本への石油禁輸をしました。
石油がないと治安が維持できず、国防できず、経済活動もできなくなるので、
ABCD包囲網【米(America)英(Britain)中(China)オランダ(蘭Dutch)】
の一国であるオランダが支配する蘭印の石油を
日本は武力で確保する決断。
その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるために、
先手を打って真珠湾を攻撃したので自衛戦争でした。
アメリカは中国軍に日本を攻撃させて代理戦争させていたのであり、
勝ち目がないも何も、日本は攻撃されているから反撃したのです。
1938年(昭和13年)10月26日、
武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)が日本軍によって陥落。
支那事変の本格的な戦闘は終了。
以後、米国が支援する蒋介石の重慶政府、
日本が支援する汪兆銘の南京政府、
ソ連が支援する毛沢東の延安政府による三つ巴の抗争が主流となりました。
汪兆銘は1944(昭和19)年3月、南京で病に倒れ、
名古屋で治療を受けましたが11月10日、帰らぬ人となり、
翌年、日本は敗れ南京政府は瓦解。
戦後、米国は蒋介石への支援をやめたため毛沢東が勝ち、
蒋介石は台湾へ逃げました。
零崎涼介さんへ
黒田裕樹 ご丁寧なご解説有難うございます。
本文中にもあるように、大東亜戦争が日華事変(支那事変)からの総称であることは私自身も理解しております。
ただし、一般的には日米開戦からの戦争という認識が強いことや、いわゆる「太平洋戦争」というような呼称と厳格に区別する意味においても、この章の名称を決めたことをご理解いただければと思います。
東洋艦隊(とうようかんたい)を壊滅状態(かいめつじょうたい)に追い込(こ)んだことで対英戦争の大勢を決した日本軍は、同じ12月10日に海軍がアメリカ領グアム島を占領(せんりょう)すると、フィリピンのルソン島への上陸を皮切りに、フィリピンのミンダナオ島、ウェーク島、イギリス領香港(ホンコン)、マニラ、セレベス島、ラバウル、ニューブリテン島ガスマタ、そして重要な産油地であったオランダ植民地のスマトラ島パレンバンなどに次々と上陸あるいは占領し続けました。
そして翌昭和17(1942)年2月15日にはイギリスのアジア支配の拠点(きょてん)であったシンガポールを陥落(かんらく)し、翌3月にはオランダが支配していたジャワ島バタビア(現在のジャカルタ)を占領してオランダ軍を降伏(こうふく)させました。
同じ3月にはビルマ(現在のミャンマー)のラングーン(現在のヤンゴン)も占領し、インドに向かって快進撃を続けるなど、日本軍は各地でアメリカ・イギリス・オランダ軍を破り、大東亜戦争の緒戦(しょせん)を制しました。
なお、フィリピンでの戦いに敗れた現地司令官のマッカーサーは日本軍に追いつめられて敵前逃亡(てきぜんとうぼう)しましたが、軍歴に消すことのできない汚点(おてん)を残したことで我が国を深く恨(うら)み、後のGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部、れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ)による我が国の占領支配に影響(えいきょう)を与えたともいわれています。
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ぴーち こんにちは!
マッカーサー元帥は、この時に
日本に対しての敵対心を大きく募らせて
戦争責任の成敗を担うという名目で
あの有名な
日本への上陸場面が生まれたと言うわけですか・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 それだけでは原因ではないと思いますが、人間が感情の動物である以上は避けられない現実だったと思いますね。
もっとも、その感情の一部をくつがえしたのが昭和天皇であられたわけですが…。
日本軍の快進撃(かいしんげき)によって、かつての欧米列強(おうべいれっきょう)の植民地は次々と解放されましたが、搾取(さくしゅ)を中心とした劣悪(れつあく)な環境(かんきょう)で過ごしてきた現地の人々は、憎悪(ぞうお)の対象であった白色人種(はくしょくじんしゅ)の列強の兵士が、自分たちと同じ有色人種(ゆうしょくじんしゅ)の日本軍によって駆逐(くちく)される様子(ようす)に歓喜(かんき)しました。
日本軍が新たに占領した旧植民地に対して、我が国は将来の独立も視野に入れた軍政を展開し、ビルマ(現在のミャンマー)やインドネシアでは独立のための義勇軍(ぎゆうぐん)が組織され、軍事訓練が行われました。
また、イギリス軍のインド兵の多くは日本軍の捕虜(ほりょ)となった後にインド国民軍に加わり、インドの独立をめざして日本軍と共にイギリス軍と戦うようになりました。
なお、日本軍は大多数の地域で支配者である欧米人から植民地を解放する「解放軍」として受けいれられましたが、その一方で東南アジアの植民地の分断支配(ぶんだんしはい)を任(まか)され、現地で欧米人に代わって支配階級に置かれていた華僑(かきょう)を中心とする反発もありました。
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ぴーち こんばんは!
なかなか全ての国から支持されることは
出来ないようで難しいものですね。
あちらが立てば、こちらが立たず。
人も万人に好かれると言うことが無いように
どんなにこちらが尽くしても
どうしても分かり合えない事が
生じてしまうのが現実ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 色んな立場の人間が世の中にはいますからね。
国も同じであり、解放が良いことばかりとは限らないということでしょうか。
この選挙では阿部信行(あべのぶゆき)元首相を会長とする翼賛政治体制協議会(よくさんせいじたいせいきょうぎかい)が推(お)す候補者(こうほしゃ)が定員の466人中381議席(全体の8割強)を獲得(かくとく)して絶対多数となり、協議会に所属する議員は選挙後に翼賛政治会(よくさんせいじかい)を結成し、政府の政策(せいさく)に協力しました。こういった経緯(けいい)から、この選挙は翼賛選挙(よくさんせんきょ)とも呼(よ)ばれています。
ところで、この翼賛選挙によって帝国議会は政府の提案の承認(しょうにん)を与えるだけの機関(きかん)と化してしまったとみなす見解が多いようですが、実際には大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう、通称を明治憲法=めいじけんぽう)や議会活動は停止(ていし)したことはありませんでしたし、いわゆる翼賛政治家以外の代議士も83人誕生(たんじょう)しているという事実も存在(そんざい)しています。
なお、この選挙で翼賛政治体制協議会の推薦(すいせん)を受けた候補者には、臨時軍事費(りんじぐんじひ)として計上された機密資金(きみつしきん)を利用した選挙資金が配られていました。民間からの資金提供を受けていないという点ではクリーンと言えるかもしれませんが、逆に言えば選挙民や財閥(ざいばつ)などの顔色を一切うかがう必要がない一方で、資金提供を受けた軍部の意向に逆(さか)らいにくいという流れもありました。
かつて国家社会主義思想(こっかしゃかいしゅぎしそう)が我が国で広がりを見せた際、軍部を中心に「政党政治は腐敗(ふはい)している」と国民に対して喧伝(けんでん、盛んに言いふらすこと)されましたが、表向きは「クリーン」な翼賛選挙もその裏(うら)では「軍部と癒着(ゆちゃく)」していたのみならず、民間の意見が取り入れられない環境(かんきょう)にあったのです。
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ぴーち こんにちは!
政治というのは難しい舵取りを強いられるものだとつくづく感じました。
人口が多くなればなるほど
その傾向は強く
こちらでは賛成する者があっても、片方では
反対する者が出て来たりと
国民の大多数が程々な満足感が得られるという状態が
最高で、満点を望むのは酷な事なのでしょう。
政党に関しても、国民と接している表は
種も仕掛けもない何も疑う余地のない
ただの空箱の様に見えても、見えない部分では
しっかりと仕掛けが用意されているということでしょうかね。
そういう意味では、政治家は
腕の良い「マジシャン」でなければ
通用しない職業なのかもしれませんね(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
綺麗事や正義が通用するとは限らないのが政治ですから、政治家にクリーンさばかり求めるのは無意味と言ってよいかもしれません。
また選ぶ側の国民も、政権を託した以上は国益に反しない限りは長期的視野での展開を求めるべきかと思われます。
「峰つづき おほふむら雲 ふく風の はやくはらへと ただいのるなり」
厚い雲のように世界全体を巻(ま)き込(こ)んだ戦争が早く終わってほしい、という陛下(へいか)の切実なお祈(いの)りのお気持ちを私たちは知ることができますが、現実には大東亜戦争は長期化し、結果として我が国は敗戦となってしまいました。
しかし、先述(せんじゅつ)したとおり大東亜戦争の緒戦(しょせん)において我が国は快進撃(かいしんげき)を続け、開戦後わずか半年でアジアにあった欧米列強(おうべいれっきょう)の植民地のほとんどを占領(せんりょう)あるいは支配し、石油などの重要資源も確保(かくほ)しました。
もし我が国が優勢(ゆうせい)な段階(だんかい)でアメリカなどの連合国と講和が出来れば、その後の歴史が大きく変わったことは間違(まちが)いありませんが、果(は)たしてそれは可能だったのでしょうか。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
そうですね。
過ぎ去ってみて、後で冷静になった時には
あの時はああすれば良かった。こうすれば良かったと後悔の念が浮かんで来るものですよね。
後悔、先に立たずですが、その反省の思いが
強ければ強いほど、後々の事例に活かす事が出来ると良いですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
過去を反省するというのであれば、失敗の経験を活かして次につなげなければなりません。
今回の件に関しても、もう少し検討を重ねたうえで総合的に判断できればと願っております。
日露戦争において我が国は様々な戦いを苦労の末(すえ)に勝ち抜(ぬ)いてきましたが、奉天会戦(ほうてんかいせん)を制し、また日本海海戦(にほんかいかいせん)に勝利したあたりで戦力が限界に達しました。
このまま戦いを続ければ国力に勝るロシアの逆襲(ぎゃくしゅう)も十分に考えられましたが、国内の政情不安に悩(なや)まされたロシアはアメリカの仲裁(ちゅうさい)を受けて講和に応じ、我が国は辛(から)くも勝利を収めることができました。
つまり、アメリカの仲裁やロシアの政情不安があったからこそ我が国は日露戦争を制することができたともいえるのですが、勝利をもたらした背景には何があったのでしょうか。
実は政治力による「政略(せいりゃく)」なのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
なるほど、ただ単に
ロシアに勝利したのは
運ばかりが良かったわけではなかったのですね。
運を引き寄せるにも、
下準備がなければ成り立たないということですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、運を引き寄せることは重要であっても、それだけでは勝てません。
次回以降にそのあたりを詳しく紹介いたしますので、ぜひご覧ください。
他国と戦争となった場合、勝利を得るために「戦略(せんりゃく)」を練(ね)って戦い続けるのは軍人の役割ですが、彼らには戦争を終わらせることができません。戦争終結は外交努力の結果であり、それは「政略」を行う政治家の仕事です。
我が国が日露戦争(にちろせんそう)で勝利できたのもこの「大原則」に従(したが)ったからであり、明治政府は我が国の国力の限界を見極(みきわ)めたうえで、長期戦と化して日本軍が劣勢(れっせい)となる前に戦争を終わらせるため、ロシアと開戦前から講和への道を探(さぐ)っていました。
日露両国に対して当時は中立的な立場であったアメリカを仲介国に選び、当時のセオドア=ルーズベルト大統領(だいとうりょう)と親交のあった金子堅太郎(かねこけんたろう)を特使としてアメリカへ派遣(はけん)したり、明石元二郎(あかしもとじろう)による諜報活動(ちょうほうかつどう)が成果を挙(あ)げたりするなど、少しでも我が国に有利な展開になるようにとあらゆる努力を重ねました。
開戦前から講和への道を探るなど「政略」を練った政府と、現場において命がけで戦い続けた「戦略」担当の軍隊。政治家と軍人とがそれぞれの役割をしっかりと果たしていたからこそ、我が国は日露戦争において戦局が有利なうちにロシアと講和を結ぶことが可能となったのです。
戦争は始めることよりも「終わらせること」の方がはるかに重要であり、日露戦争はそれを実現できた代表例だったのですが、日露戦争と大東亜戦争とで大きな違(ちが)いが出来てしまったのはなぜでしょうか。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
なるほど・・
戦争は始めるときよりも、終わらせることが重要。
確かに夫婦関係も、結婚するよりも、離婚するほうがはるかに難しいし、倍の労力がいるものです・・・って、余り関係の無い例えになって
すみませんm(__)m(苦笑)
大東亜戦争のときはその終わらせ方に
何か問題が生じてしまった訳なんですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いえいえ、とんでもないです。
私自身は未婚ですので両方ともよく分からないのですが(笑)、仰る話はよく耳にしております。
大東亜戦争の場合については、日露戦争と比較することでその問題がより浮き彫りになると思います。
しかし、昭和に入る頃には元老の多くが死に絶(た)えており、元老の権威(けんい)が必然的に低下したことで、彼らが推薦(すいせん)して組織された内閣の指導力も同時に低下したのみならず、大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう、通称を明治憲法=めいじけんぽう)制定時には予期していなかった大きな問題が起きました。いわゆる統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)のことです。
確かに明治憲法の第11条には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥(とうすい)ス」と書かれており、条文を素直(すなお)に読めば「統帥権(=軍隊を指揮する権利)は天皇のみが有する」という規定だとも読めますが、もちろん実際に天皇ご自身が指揮(しき)を取られることはありません。
そもそも一国の軍備について決定を下すことは統治権(とうちけん)の一部であり、統治権は天皇の名のもとに内閣(ないかく)が行うものです。従って、軍部による主張は統帥権の拡大解釈(かくだいかいしゃく)に過ぎず、統帥権干犯問題は軍部による反撃(はんげき)の一つでしかありませんでした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田 黒田先生
青田です。
こういうことは、古今東西、世の常かもしれない気がします。
① 世代交代による人材不足。
② 都合のイイように法律の拡大解釈。
さらに、悪いことに、明治の有能な人材は、日露戦争後に
かなりの人材が病気などで、亡くなってしまいました。(それだけ、日露戦争が重かったからだと思いますが)
やはり、どんな状況にも対応できる柔軟で、逞しい人材への教育改革を日露戦争後にすべきだったと思います。
教育改革は、常に必要ですね。(永遠のテーマ)
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、教育改革は永遠のテーマですね。
そのためにも「過去の失敗」をしっかりと勉強する必要があります。
ぴーち こんばんは!
こういうお話をお伺いすると
何の職業でもそうですが、後継者という
存在がいかに大事であるかという事を
思い知らされます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、後継者は重要ですね。
現代の為政者もしっかりした後継の有無で明暗が分かれそうです。
なぜなら、政党政治を行う立場である政党人自(みずか)らが「軍部は政府のいうことを聞く必要がない=内閣は軍に干渉(かんしょう)できない」ことを認めてしまったからです。事実、この問題をきっかけとして我が国では軍部の暴走(ぼうそう)を事実上誰(だれ)も止められなくなってしまいました。
軍部の暴走はやがて昭和7(1932)年の五・一五事件や昭和11(1936)年の二・二六事件といった大事件をもたらし、また軍部大臣現役武官制(ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい)が復活したことによって、首相が陸海軍大臣の意向を無視(むし)できなくなるなど、我が国の政治は事実上軍部に乗っ取られた状態(じょうたい)と化しました。
これでは戦争遂行(すいこう)のための「戦略」を練(ね)ることはともかく、外交努力などの「政略」が期待できるわけがありません。結局、我が国は大東亜戦争で戦況(せんきょう)が有利なうちに講和への道を探(さぐ)るための何のイニシアチブも取ることができませんでした。
しかも、こうした問題の根幹(こんかん)となった統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)は、さらなる悲劇(ひげき)を我が国に及(およ)ぼしていったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田 黒田先生
青田です。
私が学んだ歴史教育では、軍部の暴走だけが強調され、軍部だけが悪というふうに教えられました。
しかし、実際には、この時、議会政治、政党政治が行われていたわけですから、
軍部だけの責任にするのは、現代人は、何の教訓も学んでいない気がします。
結局は、全員の責任だと思います。『自分勝手主義。』
● 政党は、国益よりも、政党の利益を考える。
● 軍部は、国益よりも、軍拡を考える。
● 官僚(特に外務省)は、国益を考えず、自分のキャリアのことだけを考える。
● マスコミは、国益を考えず、自社の利益だけを考える。
現代では、個人主義=善、全体主義=悪と
されていますが
あの戦争の内部原因として『国益を考えず、自分勝手主義』がもたらしたことを
今の日本人が自覚しないと、今の日本の崩壊の危機をもたらすと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
今の政治家や官僚、あるいはマスゴミも全く歴史に学んでいないといえるかもしれません。
あるいはわざとやっているのかもしれませんが…。
ぴーち こんばんは!
何かの勢力が過剰に強くなるという事は
その他の勢力にそれを食い止める力が
無かったということですものね。
どうしても表面に現れた事だけを見て
それが悪だと決め付けてしまう傾向が
誰氏にも有るかとは思いますが、
影に隠れて分からない部分にも実は
腐った部分も存在している・・という
事にも目を向けなければいけませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
軍部の暴走が戦争を招いたという見方が事実であるとしても、そこまでに至った流れを見極めないことには何の教訓にもなりません。
例えば陸軍大将でもあった東条英機(とうじょうひでき)首相は陸軍大臣も兼任(けんにん)していましたが、彼が海軍に命令することはできませんでした。東条首相は後に陸軍の軍令機関(ぐんれいきかん)のトップである参謀総長(さんぼうそうちょう)も兼任して何とかリーダーシップを一元化(いちげんか)しようとしましたが、海軍の軍令機関のトップたる軍令部総長(ぐんれいぶそうちょう)に就任(しゅうにん)できない以上は同じことでした。
かくして我が国では終戦を迎(むか)えるまで、戦争終結への外交努力に欠かせない「政略」がないがしろにされたのみならず、陸軍と海軍との意見を調整できる人物や機関(きかん)が存在しないことで「戦略」すらままならない状況(じょうきょう)が続いたのです。
統帥権干犯問題で実権を握(にぎ)ったはずの軍部でしたが、やがてはその軍部すら身動きを封(ふう)じられたのみならず、最後には国家の統治機関(とうちきかん)の中心部にまでその影響(えいきょう)が及(およ)んでしまうという結果となりました。
そして、戦争終結へ向けての「政略」が何もなされぬまま我が国の戦局が暗転したことで、苦しい状態が続いていた我が国がさらに追い込(こ)まれてしまうようになるのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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零崎涼介 『大東亜戦争の始まり その1』のコメント欄で、
「重大な事実をボカしてはならない。」との題でコメントしましたが、
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-1866.html
やはり条約によっての合法居留の日本人・合法駐留の日本軍に対して、
中国側からテロ攻撃してきたこと、そしてその中国軍(蒋介石軍)に
資金・武器援助していた筆頭がアメリカであったこと、
そしてアメリカは日本に対しては経済制裁してきたことを
忘れてはいけないと思います。
『大東亜戦争の始まり』という題でありながら、
その肝心な始まりが記述されていないことは、
右下のプロフィールで表明されていらっしゃる
「歴史全体の大きな流れを重視」
することになっていないと言わざるを得ません。
大日本帝国憲法に「天皇は陸海軍を統帥す」と書かれていなければ
攻撃されることはなかったのでしょうか?
戦争には相手がいます。
相手の動きの検証が少なすぎませんか?
こちらが勝っている時に
外交努力で戦争をやめれば良かったという趣旨のようですが、
アメリカは資源が豊富で、アメリカ本土には何ら被害が出ていない状態で、
はたしてアメリカは停戦に応じたでしょうか?
「リメンバー・パールファーバー」とは、「やり返す!」ということで、
日本には資源がないと知っているわけですから、普通に考えて、
日本が良いときに戦争を終えてくれるはずはなかったのではありませんか?
まだ『大東亜戦争の始まり その11、12』と続きそうですから、
どういう組織で、どのような外交を展開していたら、どうなったのか、
今後、述べられるのでしょうが、
現時点で、どうしても投稿したくなって投稿させていただきました。
ぴーち こんばんは!
ひたすら戦略を練りながら
戦争を推し進めていくのが軍の役目だとすれば、
その行く末を何処でどう締めくくるかという役目が政府の仕事だと言いますね。
けれど、今日のお話を伺うと
要となる人物、あるいは機関が不在という事は
いかに恐ろしい事であることか
少しだけ理解出来たように思います。
零崎涼介さんへ
黒田裕樹 まずは貴殿のご質問に答えたいと思います。
>やはり条約によっての合法居留の日本人・合法駐留の日本軍に対して、
>中国側からテロ攻撃してきたこと、そしてその中国軍(蒋介石軍)に
>資金・武器援助していた筆頭がアメリカであったこと、
>そしてアメリカは日本に対しては経済制裁してきたことを
>忘れてはいけないと思います。
貴殿のご指摘がなくとも、すでに私のブログで詳しく述べております。
「どうしても投稿したくなった」前にご自身で検索されましたか。それとも一つの最新記事に関して貴殿のために過去の該当記事をすべて掲載する必要があるのですか。
>「歴史全体の大きな流れを重視」
>することになっていないと言わざるを得ません。
過去記事をご覧いただければ私がブログにおける最大のテーマとしてずっと「歴史全体の大きな流れを重視」していることがご理解いただけると存じますし、何よりも一つの記事だけで勝手に断定されるのはいかがなものでしょうか。
>こちらが勝っている時に
>外交努力で戦争をやめれば良かったという趣旨のようですが、
>アメリカは資源が豊富で、アメリカ本土には何ら被害が出ていない状態で、
>はたしてアメリカは停戦に応じたでしょうか?
>「リメンバー・パールファーバー」とは、「やり返す!」ということで、
>日本には資源がないと知っているわけですから、普通に考えて、
>日本が良いときに戦争を終えてくれるはずはなかったのではありませんか?
なるほど、我が国が緒戦を制しただけでは「アメリカは」講和に応じなかったかもしれません。しかし、例えば「同盟国のイギリスやオランダと講和を先に結ぶ」とか、あるいは日露戦争の明石元二郎のように「巧妙な諜報活動でアメリカ内部から揺さぶりをかける」など、いくらでも方策があると思いますがいかがですか。さらに言えば、貴殿のためにそこまでブログ本文で説明する義務が私にあるのですか。
貴殿のご賢察が傾聴に値するかどうかはともかくとして、そもそも事前の調査もせずに他人のブログで長々とご高説を述べられる姿勢はいかがなものかと存じます。
今後のブログの展開は貴殿がご心配なさらずとも、私なりの考えで進めてまいります。
それでも投稿なさりたいと仰るのであれば、既にお持ちの場合は失礼な話ではありますが、ご自身のブログで自説を堂々と述べられたうえで私にご指南されてはいかがですか。
もし今後も同じような投稿が続けられた場合、承認をするか否かについては管理人たる私自身で判断させていただきます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、当時の政府の機能不全ぶりは現代でも空恐ろしいほどですね。
現代にもつながる大きな教訓だと思います。
なぜ、こうなってしまったのか?
青田 黒田先生
青田です。
どこの国も、例外なく、陸軍と海軍は、仲が悪いです。
それを、統括してコントロールするのが政治家の仕事なんですが、
政治家の言うことに従う必要がないとなると
シビリアンコントールができていません。
明治時代も集団指導体制でしたが、元老が
国家戦略局の役割を果たしていた気がします。
(私の学んだ歴史教育では、元老が悪の権化のように教えられましたが)
該当記事のアドレスを教えていただきたいです。
零崎涼介 >貴殿のご指摘がなくとも、すでに私のブログで詳しく述べております。
量が多いので、できれば該当記事のURLを貼って
教えていただければと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、陸軍と海軍の仲が悪いからこそのシビリアンコントロールのはずです。
「元老=悪」という図式も短絡的ですが、それだけが理由ではないとはいえ、軍の暴走がどんな結果をもたらすかということが今回の教訓で良く分かりますね。
零崎涼介さんへ その2
黒田裕樹 まずは貴殿のご質問に答えます。
> 量が多いので、できれば該当記事のURLを貼って
> 教えていただければと思います。
私のはプラグインの右下にありますが、通常のブログであれば「検索フォーム」というのがあり、そこで調べたい用語を検索にかければ関連記事が出るようになっています。
そこでたとえば「盧溝橋事件」「日華事変」「日米交渉」「大東亜戦争」などと入力すれば必ずヒットしますので、そこからお探しください。
一回のコメントにあれだけ大量の長文を送りつけるだけの度量や力量、あるいはご意志があれば、ご自身でお探しできるのが常識というものです。
それにしても、ここまできて自分のことしかお書きにならないとは…。