当時のコメの重要な供給地であった台湾や朝鮮を失った我が国は、徴兵(ちょうへい)や徴用(ちょうよう)による農家の労働力不足や生産資材の不足などによって、戦時中から続いていた食糧難(しょくりょうなん)を悪化させたのみならず、戦争が終結した昭和20(1945)年の記録的な凶作(きょうさく)がさらに拍車(はくしゃ)をかけました。
政府は占領軍に食糧の援助(えんじょ)を求めましたが、日本に経済的余力を持たせることを危険と考えた占領軍が、当初は国民の最低限の暮(く)らしすら維持不可能な程度の物資しか配給しませんでした。
こういった事情によって、政府によるコメやサツマイモ・トウモロコシなどの代用食の遅配・欠配が相次(あいつ)いだことから、多くの人々が食糧を求めて、戦後の混乱の中で主要都市の駅周辺の焼け跡(あと)で開かれていた闇市(やみいち)へ出かけたり、農村への買出しに向かったりして飢(う)えをしのぎました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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- 黒田先生
青田です。
私が学んだ歴史では、『GHQが、日本に手厚い経済援助をして
日本は、救われた』と教えられました。
違ってたんですね。
ただ、逆に言えば、某国のように援助頼みや、マーシャルプランのヨーロッパと
違い
GHQの援助なしに復活をした日本に誇りを感じます。
この真実の歴史をもっと日本人が知れば、日本人の愛国心が大きくなる気がします。
ぴーち こんにちは!
そうですね。戦争で何もかも失った事実は
本当に無念だったと思います。
けれど、ものは考えようとは良く言ったものですが、
何も無くなった所は新たに開拓出来る絶好のチャンスと捉える人も居たはず。
そこでいつまでも悔やんで泣いているか。
またはすぐさま立ち上がって、再び前進することが出来るか・・
そこの差がこういう時は試されているのだと
感じるお話ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 GHQは当初は日本人が飢え死にしてもいいと思っていました。
考えが変わったのは、昭和天皇がマッカーサーと会見されてからですが、それでも配給だけでは飢えをしのぐのは難しい状態でした。
それだけ陛下が偉大であったとともに、少ない食糧で飢えをしのぎ切った当時の国民の素晴らしさを称えたいと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 日本人は廃墟と絶望の中から、飢えをしのいで立ち上がりました。
このことは素晴らしいですが、更なる追い打ちが日本人を苦しめることになります。
そんな折に、敗戦直後に臨時軍事費が大量に支払われたり、生活に不安を感じた多くの人々が預金を引き出ししたりしたことによって、日本銀行の対民間貸出しが増加するなど、戦後処理にともなって政府が通貨を増発しました。
物不足で供給が停滞(ていたい)している際に、多数の通貨が市中に出回って需要(じゅよう)を誘発(ゆうはつ)したことから、悪性のインフレーション(=ハイパーインフレ)が我が国で進行してしまったのです。
このため、政府は昭和21(1946)年2月に幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣が金融緊急措置令(きんゆうきんきゅうそちれい)を公布し、新紙幣(=新円)を発行した後に一週間を期限として手持ちの紙幣(=旧円)と交換させ(これを「新円切換え」といいます)、それ以降の旧円の流通を禁止しました。
これによって一定額以上の預金封鎖(よきんふうさ)が可能となり、同年2月時点で618億円あった日銀券が3月には152億円に激減(げきげん)するなど、インフレを抑(おさ)える効果をもたらしましたが、結局は一時しのぎに過ぎず、通貨の流通量はその後も増大を続け、インフレも進行しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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- 黒田先生
青田です。
このスーパーインフレは、かなり、きついですね。
しかも、私は、この事実を
知りませんでした。
私は、終戦→GHQの援助→朝鮮特需
とトントン拍子で、復興があったと思ってました。
なぜか、戦後史は、出版されている本も少なく
マスコミでもほとんど報道しませんので、現代人の多くは、この事実を知りませんね。
ぴーち こんにちは!
戦中もきっと厳しい生活を強いられていたでしょうけれど、こうして伺っていると戦後の方が
人々の生活はかなり過酷を強いられていたんですね・・
青田さんへ
黒田裕樹 冷静に考えれば、朝鮮特需まで5年もあるんですから、順調な復興などありえないんですけどね。
当時の苦難の歴史はもっと知られるべきです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 戦中もきっと厳しい生活を強いられていたでしょうけれど、こうして伺っていると戦後の方が
> 人々の生活はかなり過酷を強いられていたんですね・・
そのとおりですね。戦争に負けて、我が国が滅びるかもしれない。そんな極限状態に加えての飢餓の恐怖や経済の破たん。よくぞ立ち直ったものです。
このため、当時の第一次吉田茂(よしだしげる)内閣は経済安定本部を設置し、昭和22(1947)年には資材と資金を石炭や鉄鋼などの重要産業部分に集中させる傾斜生産方式(けいしゃせいさんほうしき)を採用したほか、復興金融公庫(ふっこうきんゆうきんこ)を創設して、電力や海運などを含めた基幹産業への資金提供を行いました。
翌昭和23(1948)年まで続いた傾斜生産方式は、復興金融公庫の融資(ゆうし)によって大量の通貨が発行されたことでインフレーションを激化(げきか)させましたが、生産が上昇したことで、その後の日本経済発展の基礎を築(きず)くなど大きな効果ももたらしました。
なお、経済安定本部は昭和27(1952)年に規模(きぼ)が縮小(しゅくしょう)されて経済審議庁となり、昭和30(1955)年には経済企画庁に改組され、平成13(2001)年の中央省庁再編で内閣府がその業務を引き継(つ)ぎました。
ちなみに、現在の内閣府特命担当大臣(経済財政政策)として、TPP(=環太平洋戦略的経済連携協定、かんたいへいようせんりゃくてきけいざいれんけいきょうてい)問題を担当しているのは、衆議院議員の甘利明(あまりあきら)氏です。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
やはり政治というのは
大切なんですね。
今日のお話を伺っていると
改めて
政治家の手腕一つでその国の運命までもが
決まるように強く感じました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、政治力は重要です。
GHQの規制を受けながらも、当時の政治は精一杯行っていました。現代も見習うべきですね。
こうした流れを受けて、民主革命を目指した日本共産党と産別会議の指導によって全官公庁共同闘争委員会に結集した官公庁労働者を中心に、当時の第一次吉田内閣打倒をめざし、昭和22(1947)年2月1日を期して鉄道や電信など基幹産業を巻き込んだゼネラル=ストライキが計画されました。これを二・一ゼネストといいます。
しかし、鉄道ストで日本各地に駐留(ちゅうりゅう)する米軍の補給や相互連絡に問題が生じれば、軍事面で重大な懸念(けねん)が発生することを恐れたGHQは、占領目的の妨害(ぼうがい)を理由に前日の1月31日にゼネストの中止を命令しました。
二・一ゼネストの中止は、革命主義的な労働運動を抑制(よくせい)するとともに、後に官公庁職員のストライキを禁止する流れをもたらしました(詳しくは後述します)。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
GHQの息が掛かってのストライキ抑制というのが
どうも気になる所ですが(^_^;)
けれど
ある勢力に対しての反対意見を言える存在というのは、煩わしく感じるものですが、何時の時代でもいて貰わなければいけない存在だと思うんですよね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、反対意見を言える環境は重要です。
ですが、反対派も相手を認めることや、あるいは属する家族や環境、そして祖国を愛する精神を持ってほしいものですね。
ぴーち おはようございます!
仰るとおり、反対意見の根底には、国を何とか良い方向へ改善しようとする思いや、家族や周りの人の幸せを第一に思う心が大切ですよね^^
ただやみくもにある意見に対して反対ばかりしている意見には、
何の意味もなさないと思います。
それときっと黒田さんが仰りたいのは、こういう急務の時には
皆が一丸となってそれに従うべきだと言うことなのだと思いますが
いかがでしょうか?
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 私の見解を斟酌くださり、有難うございます。
まさに仰るとおりでして、特に有事の際には周囲の足を引っ張って国全体を滅ぼすような愚挙をせず、一丸となって危機管理に努めるべきだと考えております。