大統領の訃報(ふほう)を耳にした鈴木首相は、当時存在(そんざい)した同盟通信社(どうめいつうしんしゃ)の記者の質問に答えるかたちで「大統領の死がアメリカ国民に対して意味する大きな損失(そんしつ)は私にはよく同感できる。深い哀悼(あいとう)の意をアメリカ国民に向けて送るものである」との談話(だんわ)を発表しました。
我が国の同盟国であったドイツのヒトラーがルーズベルトの死に際(さい)して誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)の言葉を並(なら)べ立てたのとは対照的(たいしょうてき)な、敗色濃厚(はいしょくのうこう)の窮地(きゅうち)に立ちながらも品位と礼節(れいせつ)を失(うしな)わなかった、武士道精神の発露(はつろ、表面にあらわれること)たる鈴木首相の言葉は世界中から称賛(しょうさん)されました。
なお、ルーズベルトの急死を受けて、副大統領のトルーマンが新たにアメリカ大統領に就任(しゅうにん)しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
- 黒田先生
青田です。
ヒトラーは、著書『わが闘争』で、日本人のことを
『品位と教養のない東洋の猿。』と語っていましたが、
こういう時に、どちらが品位がないかわかりますよね。
青田さんへ
黒田裕樹 全くもってそのとおりです。
所詮ヒトラーも人種差別の呪縛からは逃れられなかったというところでしょうか。
よたろう あけましておめでとうございます。
今年もいろいろ勉強させてください。
よたろうさんへ
黒田裕樹 明けましておめでとうございます。
今後ともよたろうさんをはじめとする多くの皆様に役立てるような内容を目指しますので、よろしくお願いします。
ぴーち おはようございます!
やはり日本という国の歴史の長さは伊達ではなく、その年月の間に培われた心の成熟度は、世界に類を見ない程に抜きん出ているのではないかと思います。外国からみれば、その懐の深さ、思慮深さに恐れを抱いている人物も数多いのではないでしょうか。そして優れているからこそ、恐れられているからこそ、悪い噂を吹聴したり、自分よりも劣っているのだと言い張る傾向が強くなるのではないかと思われます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私もそう思います。
それだけに、戦後の占領政策やその利権者、あるいは国内の破壊勢力によって「日本人の美徳」が汚されようとしているのが無念でもありますね。
明けましておめでとうございます
D'artagnan 日本のこの精神はやはり素晴らしいと日々実感しております。私は、フランスの大手スーパーのレジで働いているので不特定多数・いろいろな国籍の方と接します。フランスではアジア人を見ると「中国人?」と言われますが、「いいえ、日本人です」と答えると急にお客さんの態度が優しく丁寧になります。「あなたたちの国の精神は素晴らしい」と率直に言って来られるお客さんもいます。日本人でよかったと思う瞬間です。
どんなことがあっても、他の国を誹謗中傷したり、その国の国旗を燃やすような行為をしない日本を守っていきたいですね。
D'artagnanさんへ
黒田裕樹 外国にお住いのD'artagnanさんならではの、実体験に基づかれた貴重なお話を有難うございます。
古来の日本精神をこれからも守っていかなければなりません。
鈴木内閣は、表向きは本土決戦などの強硬策(きょうこうさく)を唱(とな)えながら、その裏(うら)では密(ひそ)かに戦争終結を図(はか)ろうと努力していました。しかし、交渉(こうしょう)がなかなか進まない間に、アメリカのトルーマン大統領(だいとうりょう)とイギリスのチャーチル首相、そしてソ連のスターリンが7月にドイツのベルリン郊外(こうがい)のポツダムで第二次世界大戦の戦後処理(せんごしょり)を決定するための会談(かいだん)を行いました。これをポツダム会談といいます。
会談を受けて、7月26日にはアメリカ・イギリス・中華民国(ちゅうかみんこく)の3ヵ国によるポツダム宣言(せんげん)が発表されました。当時はソ連が対日戦に加わっていなかったため、中国を加えることでカムフラージュしようと考えたのです。
なお、鈴木内閣はソ連が参戦の決定をしていたことを見抜(みぬ)けず、ソ連に対して和平の斡旋(あっせん)を要請(ようせい)していました。このあたりにも当時の我が国の情報戦における決定的な敗北、インテリジェンスの欠如(けつじょ)が見受けられます。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
中国はカモフラージュだったのですか!
それは存じませんでした(^^ゞ
しかし、カモフラージュとは言え、それなりに
アメリカの意向を呑んでいたというのは事実
だったわけですよね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ポツダム宣言に中華民国が入っている点は結構見逃されていますよね。
当時の中国は連合国側から様々な援助を受けていましたから、アメリカの意向を受けて宣言の1ヵ国に入らされたのは疑いないところです。
いつの時代であろうとも、天皇なくして我が国の将来(しょうらい)は有り得(え)ません。このため、我が国ではポツダム宣言を受けいれるかどうか、態度(たいど)を明確(めいかく)にしないまま連合国の出方(でかた)をうかがうことにしたのですが、この裏(うら)にはアメリカによるとんでもない謀略(ぼうりゃく)が隠(かく)されていました。
実は、当初の宣言文には「日本が降伏すれば天皇の地位を保証する」と書かれていたのです。駐日大使(ちゅうにちたいし)の経験者で我が国の実情をよく知っていたグルーによって、我が国が宣言に応じやすいようにつくられていたのですが、土壇場(どたんば、最後の場面という意味)でアメリカ大統領(だいとうりょう)のトルーマンが削除(さくじょ)しました。
トルーマンが削除した宣言が発表されたことによって、アメリカは宣言以前に決まっていた計画を実行に移しやすくなったのです。その計画こそが、悪名高い「原子爆弾(げんしばくだん)の日本への投下」だったのでした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
- 黒田先生
青田です。
トルーマン大統領の次の大統領は、アイゼンハワーでした。
このアイゼンハワーは、トルーマンの原爆投下に
断固として、反対しました。
しかも、協調外交を基本としていました。
もし、アイゼンハワーがこの時、大統領だったら、
こんな悪魔のような計画は、実行されなかったと思います。
多くに人間は、誤解していますが
軍人出身は、人が戦場で亡くなるのを観ているのに、逆に非常に平和主義になる気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、この当時のアメリカ大統領がルーズベルトやトルーマンのような人物でなければ…と思います。
我が国でも近衛文麿と東条英機が一般的に逆のイメージでとらえられていますからね。
トルーマン大統領…
鹿児島のタク トルーマン大統領…あまりいいイメージがありません。
彼は、原子爆弾を使用することに、非常に積極的だったようですね。
わざと国体護持を、ポツダム宣言に盛り込まなかったのも…何か意図的だったのでしょう。
もうこのころから、米ソの戦後の“争い”が始まっていたと考えていいのでしょうか。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 ルーズベルト-トルーマンの流れは我が国にとって最悪だったようですね。
ただ、トルーマンに代わったことで仰るような米ソ対立の源流ができたのも間違いないといえそうですが…。
ぴーち こんばんは!
なるほど、トルーマン大統領は日本にとっては、一種の癌的な存在だったのですね。
例えば、通訳が勝手に自分の思惑通りに解釈し、相手国の言葉に変換したり、あるいは全く意味不明な内容を耳の不自由な方に手話で伝えてしまうかの様な重大な問題と重なりました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 例えば、通訳が勝手に自分の思惑通りに解釈し、相手国の言葉に変換したり、あるいは全く意味不明な内容を耳の不自由な方に手話で伝えてしまうかの様な重大な問題と重なりました。
確かに重なりますね。何を言っても自分の思い通りに運ぼうとする。
そんな人間が相手ではどうしようもなかったかもしれません。
我が国が降伏寸前(こうふくすんぜん)であったにもかかわらず、まるで実験を行うかのように原爆を2つも落としたアメリカによる卑劣(ひれつ)極(きわ)まる暴挙(ぼうきょ)は、東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)とともに国際法上でも決して許されることのない、民間人などの非戦闘員(ひせんとういん)を対象(たいしょう)とする空前(くうぜん)の大虐殺(だいぎゃくさつ)です。
さらには、アメリカの原爆投下に慌(あわ)てたのか、ソ連がそれまでの日ソ中立条約を一方的に破って8日に我が国に宣戦布告(せんせんふこく)し、9日から満州(まんしゅう)北部などへの侵攻(しんこう)を開始しました。
このままでは北海道をはじめとする我が国北部の領土がソ連に奪(うば)われてしまいます。我が国はまさに絶体絶命(ぜったいぜつめい)の窮地(きゅうち)に陥(おちい)ってしまったのでした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
- 黒田先生
青田です。
日本にとっては、もちろん、無茶苦茶な残虐行為で、許されません。
しかし、アメリカにとっても、明らかに愚かな行為です。(後にしなくてもイイ苦労をすることになる。)
アメリカ側から、考えた場合でも
完全に戦略ミスです。
戦争を早く終わらせる威嚇として、原爆を使うのなら、太平洋近くの無人島で、原爆実験をすれば、
それで十分。
(アメリカ海軍の有能な将軍は、それを進言し、原爆投下には、断固反対しました。)
このままで、アメリカ単独で、勝てるのに、ソ連を参戦させたことで、ソ連の力を増長させた。
馬鹿がリーダーになると、多くの人命を失うのは何ともやりきれない気持ちになります。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりアメリカの原爆投下は各方面に様々な非難を読んだだけでなく、戦後の米ソ関係すら微妙なものにしてしまいました。
自らの欲求と引き換えに、人間は時として計り知れない大きな失点を残すものなのですね。
ぴーち こんばんは!
原爆投下という事実は、日本単独だけではなく
関連した国々にも影響が波及していたのですね。
問題が大きくなれば、確かにアメリカの力の誇示には繋がるとは思いますが、それと同時に思わぬ所から綻びが出てしまうことも事実でしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 問題が大きくなれば、確かにアメリカの力の誇示には繋がるとは思いますが、それと同時に思わぬ所から綻びが出てしまうことも事実でしょうね。
仰るとおりです。
アメリカの不必要な「火遊び」が結果としてその後数十年、いや現在も続く混乱をもたらしていると断定しても過言ではないでしょう。
会議は鈴木首相の他に阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣、東郷茂徳(とうごうしげのり)外務大臣など合計7人で行われ、東郷外相は宣言の受諾(じゅだく)を、阿南陸相はいわゆる本土決戦(ほんどけっせん)も辞(じ)さないと徹底抗戦(てっていこうせん)をそれぞれ主張し、いつまで経(た)っても平行線が続きました。
やがて日付も10日に変わり、開始から2時間経ったある時、鈴木首相は立ち上がって昭和天皇に向かい、こう言いました。
「出席者一同がそれぞれ考えを述(の)べましたが、どうしても意見がまとまりません。まことに畏(おそ)れ多いことながら、ここは陛下(へいか)の思(おぼ)し召(め)しをおうかがいして、私どもの考えをまとめたいと思います」。
首相による発言をお受けになって、昭和天皇はお言葉を発せられました。
「それなら意見を言おう。私の考えは外務大臣と同じ(=ポツダム宣言を受諾する)である」。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
あくまでも人命第一であり、平和的解決を願った陛下らしいご判断だったわけですね。
しかしながら、その正しきご判断が示されたにも関わらず、原爆や本土への容赦ない空爆には
返す返すも悔やまれますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 昭和天皇のご聖断が原爆投下やソ連参戦後であったことが仰るとおり悔やまれますね。
「まさかそこまでは…」という我が国の油断があったのかもしれませんが。
本当に危なかった
- 黒田先生
青田です。
この天皇陛下のご聖断がなかったら、日本は
もっと悲惨な状態になったことは、間違いないです。
但し、アメリカ軍も相当被害が出たことは
間違いありません。
というのも、日本は、国土の70%は山で、アメリカ陸軍の近代兵器がほとんど使いものになりません。
(戦車などは、平地でしか役立たない。)
さらに
アメリカ軍は、歴史上、山での戦いを経験したことがありません。
(ナチスドイツもスイスには、手を出せませんでした。)
よく、アメリカの言い分として
『原爆を落としたから、失うかもしれないアメリカ兵の命が救われた。』と言いますが、
そうではありません。
天皇陛下のご聖断があったから
結果として
『アメリカ兵の命も救われた。』と思います。
よく、沖縄の被害の悲惨さを伝えることは、報道されますが、アメリカ兵の戦死者の数を伝える報道がないのは、不思議ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに仰るとおりですね。
昭和天皇が如何に世界の人々の平和を願われていたかということがよく分かります。
御聖断…
鹿児島のタク 黒田先生
明けましておめでとうございます。
鈴木貫太郎首相が天皇陛下にご判断を仰ぐ場面がありますが、これは、もう最後の“手段”だったのでしょうか。…戦局はもう追い込まれていましたが、これはやっていい行為なのかどうか…。
このように、政治が陛下に判断を仰ぐという場面が明治以後あったのかな~と思ったものですから…。
東郷外相のことですが、この方も称賛や批判にさらされる方ですが(政治家というのは当たり前でしょうが…)、ご出身はわが郷土…鹿児島の方です。
ご先祖は豊臣秀吉の挑戦への出兵の時に、島津軍の捕虜になって連れてこられたとのことで…。
戦中も…「先祖は朝鮮からの渡来人だろう…」と陰口をたたかれていたようです。
極東軍事裁判で禁固刑となり、そのまま“獄中”で確か亡くなったと思いますが、一貫して米国に対して、極東軍事裁判が不当であること、そして、アメリカの行った民間人への爆弾投下、原子爆弾の無警告投下を批判しています。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 大日本帝国憲法に基づく立憲君主制で会えば、天皇のご聖断は本来は好ましくないかもしれません。しかし、この場合は内閣が政策の遂行を天皇に委ねる形式となっているため、問題はありません。しかも、この後にご聖断を閣議で承認しているのですから尚更です。
東郷外相は仰るとおりの不遇な晩年を過ごしましたが、是は是、否は否を貫いた立派な人物であったといえるでしょう。
「念のため言っておく。今の状態で阿南陸相(あなみりくしょう)が言うように本土決戦に突入(とつにゅう)すれば、我が国がどうなるか私は非常に心配である。あるいは日本民族はみんな死んでしまうかもしれない。もしそうなれば、この国を誰(だれ)が子孫(しそん)に伝えることができるというのか」。
「祖先(そせん)から受け継(つ)いだ我が国を子孫に伝えることが天皇としての務(つと)めであるが、今となっては一人でも多くの日本人に生き残ってもらい、その人々に我が国の未来を任(まか)せる以外に、この国を子孫に伝える道はないと思う」。
「それにこのまま戦いを続けることは、世界人類にとっても不幸なことでもある。明治天皇(めいじてんのう)の三国干渉(さんごくかんしょう)の際(さい)のお心持ちを考え、堪(た)えがたく、また忍(しの)びがたいことであるが、戦争をやめる決心をした」。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
- 黒田先生
青田です。
現代の日本は、
『自分勝手主義』『今さえ良ければ主義』で
国力が低下しています。(自滅型凋落)
だからこそ、昭和天皇の
「祖先(そせん)から受け継(つ)いだ我が国を子孫に伝えることが天皇としての務(つと)めであるが、
今となっては一人でも多くの日本人に生き残ってもらい、その人々に我が国の未来を任(まか)せる以外に、
この国を子孫に伝える道はないと思う」。
を永遠に忘れないようにしないと、20年後の日本は、ペンペン草も生えていないことになると思います。
個人的には
せめて、終戦記念日くらいは、この時の昭和天皇のお言葉をマスコミで、取り上げて欲しいです。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
日本人として何が大切かが理解しやすい昭和天皇のご聖断や終戦の詔書に関してはもっと広められるべきです。
ぴーち こんばんは!
そうですね。
天皇と同じお気持ちを当時の大臣、軍人全てが
持ち合わせてくれていれば、あの戦争で無念にも命を落とす兵士も少なかった事でしょうに・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そうですね。
> 天皇と同じお気持ちを当時の大臣、軍人全てが
> 持ち合わせてくれていれば、あの戦争で無念にも命を落とす兵士も少なかった事でしょうに・・。
私もそう思いますが、ゾルゲ事件のように戦争を続けることで結果として利益になる勢力も少なからず存在したことも大きかったですね。
我が国の条件に対して、連合国側は8月12日に回答を伝えましたが、その内容は「日本政府の地位は国民の自由な意思によって決められ、また天皇の地位や日本政府の統治権は、連合軍最高司令官に従属(じゅうぞく)する」というものでした。
この条件では我が国が連合国の属国(ぞっこく)になってしまう危険性(きけんせい)があり、また何よりも天皇の地位の保証が不完全なままでした。この内容でポツダム宣言を受けいれるべきか、外務側と軍部側で再び意見が対立しましたが、ソ連による我が国侵略(しんりゃく)の脅威(きょうい)が間近(まぢか)に迫(せま)った現状(げんじょう)では時間がありませんでした。
そこで、鈴木貫太郎(すずきかんたろう)首相は14日に改めて御前会議(ごぜんかいぎ)を開きました。会議では自(みずか)らの意見を述(の)べる者も、またそれを聞く者も、すべてが泣いていました。陛下(へいか)も意見をお聞きになりながら何度も涙を流され、しばしば眼鏡(めがね)を押さえられました。そして、昭和天皇による2度目のご聖断が下(くだ)りました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
なるほど。。
背水の陣で望まれた御聖断でもあるわけですね。
天皇の意思としては、何が何でも国民の命を第一に望まれた様に思うのですが、その後の内容が気になります。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、国民並びに世界の人々の生命と我が国の将来をお考えになられてのご聖断でした。
そのご意志は14日の御前会議でも変わることはなく…。
ご聖断(せいだん)が下(くだ)った後、阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣は耐(た)え切れずに激(はげ)しく慟哭(どうこく、悲しみのあまり声をあげて泣くこと)しました。昭和天皇はそんな阿南陸相に対して優(やさ)しく声をおかけになりました。
「阿南、お前の気持ちはよく分かっている。しかし、私には国体を護(まも)れる確信がある」。
昭和天皇によるご聖断は下りましたが、それだけでは大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう、別名を明治憲法)の規定(きてい)においては何の効力も持たず、内閣による閣議(かくぎ)で承認(しょうにん)されて初めて成立するものでした。もし閣議の前に阿南陸相が辞任(じにん)して、後任者の選任を陸軍が拒否(きょひ)すれば、軍部大臣現役武官制(ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい)によって鈴木貫太郎(すずきかんたろう)内閣は崩壊(ほうかい)し、ご聖断をなかったことにすることは可能でした。
陸軍の強硬派(きょうこうは)は戦争継続(けいぞく)のために阿南陸相に辞任を迫(せま)りましたが、阿南は以下のように一喝(いっかつ)しました。
「ご聖断が下った以上はそれに従(したが)うだけだ。不服の者あらば自分の屍(しかばね)を越(こ)えてゆけ!」
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
天皇のお気持ちが、阿南陸相に通じたのですね!
感動的な場面が目の前に浮かんで来るような
お話です!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 阿南陸相は昭和天皇への崇敬の思いをかねてより強く持っていました。
まさに「阿吽の呼吸」で我が国の危機を救ったといえるでしょう。
この阿南陸相の英断がなければ
- 黒田先生
青田です。
当時は、軍部大臣現役武官制があったとういうことは、
軍事官僚の力が、想像できないくらい強大でした。
ここで、阿南陸相が、盾となって強硬派を止めてなければ、戦争終結どころか日本の議会制自体、崩壊していたかもしれませね。
第二の226の事件が起きていた可能性があります。
事実、強硬派の中には、そういう考えもあったと本で読んだことがあります。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
ここで陸軍大臣として阿南氏を置いておいた鈴木首相の政治力は素晴らしかったですね。
想像を絶する痛みや苦しみのなか、阿南陸相は介錯(かいしゃく、とどめを刺して楽にすること)を断り、午前7時10分に絶命(ぜつめい)しました。以下は血染(ちぞ)めの遺書(いしょ)に残された阿南陸相の最期(さいご)の言葉です。
「一死以テ大罪ヲ謝シ奉(たてまつ)ル 神州不滅(しんしゅうふめつ)ヲ確信シツツ」
阿南陸相の自害(じがい)をお知りになった昭和天皇は仰(おっしゃ)いました。
「阿南には阿南の考えがあったのだ。気の毒な事をした」。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
今でこそ、一人の人間の命を尊ぶわが国ですが、当時は
いかがなものだったのでしょうか・・・
しかしながら
その決断が命がけである事を証明する為に
自らの命を絶たなければいけないことは
非常に辛い判断であった事でしょう。
それだけ阿南陸相はご自分の役職に誇りを持っていたのでしょうし、天皇のご意思を身をもって
貫き通したいと思惑が強かったのでしょうね。
私はどんな理由があろうとも、自決を判断する思いには決して賛成致しませんが、人の為を思いながら、自らの命を差し出そうとする思いだけは
酌んでいかなければいけないものだなと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのお気持ちも理解できますが、後述する「陸軍の暴走」を止めることや、戦争の責任を一身に背負うため、何よりも天皇陛下をお守りするためにはこの手段しかなかったと思われます。
あたら勇士を失うことはつらく悲しいことですが、誤解を恐れずに言えば致し方のないことだったのかもしれません。
真の英雄とは
- 黒田先生
青田です。
阿南陸相は、本当の英雄です。
誰かが、あえて責任を取らないと、世の中には
収まらないことがあるからです。
(私は、阿南陸相には、何の責任もなく、本当に不運な時に陸軍大臣になったと思いますが)
そして、多くを語らず、自決したことが無言のメッセージになった気がします。
この当時の勇士は、メッセージは
『言葉ではなく、行動で示す。』ということが当たり前だったことが、現代人の価値観とは、大きく違います。
ただ、正直、私は、つらい気持ちになります。
青田さんへ
黒田裕樹 私も同感です。
それと同時に、おそらくはこうなるであろうと分かったうえで、阿南陸軍大将を大臣に据えた鈴木首相の非情ともいえる政治力を私は高く評価します。
陸軍の最高責任者として、戦争への責任などが何かと問題視される阿南陸相ですが、昭和天皇のご聖断を受けて陸軍全体をまとめ上げ、最後にはすべての責任を一人で取ったその潔(いさぎよ)い姿勢(しせい)は、立派(りっぱ)なものであったというべきでしょう。
また、陛下(へいか)の侍従長(じじゅうちょう)として長く仕(つか)えたことで、昭和天皇とまさに阿吽(あうん)の呼吸でご聖断を導(みちび)き出し、本土決戦による我が国滅亡(めつぼう)の危機(きき)や、ソ連の参戦による北海道などの侵略(しんりゃく)をギリギリのタイミングで防ぎきった鈴木貫太郎(すずきかんたろう)首相の政治力も素晴(すば)らしいものがありました。
国民のことのみを考え、自らを顧(かえり)みずに下(くだ)された昭和天皇のご聖断の背景には、こうした「忠臣」による我が国への無私(むし、私心や私欲のないこと)の行動もあったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
- 黒田先生
青田です。
戦争というのは、始めることよりも
終わらせることがいかに難しいかということを多くの人間は、わかっていませんね。
もう、この時期には、開戦前の中心人物は、誰も残っていません。
歴史教育でも、戦争を起こした人間ばかり取り上げられますが
戦争を終わらせた最後の幕引きをした人間を教えません。
お恥ずかしい話ですが、私も開戦時の政治家・軍人は、知っていましたが、阿南陸相、鈴木貫太郎について、知りませんでした。
この2人の人物は、終戦記念日には、英雄として、取り上げて欲しいです。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、戦争終結という困難な作業をしっかりと成し遂げた鈴木首相や阿南陸相の功績を、現代の国民がもう少し見直しても良いのでは思います。
ぴーち こんばんは!
先日拝見した映画「永遠の0」の中の特攻を経験された方の台詞の中に、戦争を知らない世代の若者に対して、お前たちは平和の世の中で生まれ育ったから、そんな生易しい事が言えるんだ。と叱責するシーンがありましたが、私も当然ながら平和な世の中で生まれ育った人間の一人ですので、どうしても考え方が平和主義に傾倒してしまいがちですので、当時の人間の決死な思いなどは、なかなか自分の事の様に考える事が出来ずにおりました。
そういう意味では、あの言葉は私のこれまでの
認識を変えてくれる内容でもありました。
皆さん、お正月には歴史上で活躍した人物の神社などに参拝なされた方も多いかと思いますが、その人物がどう生きたのか。どういう時代を通り抜けてきたのかという事を深く考える方はどれほどいらっしゃるのでしょうか。そういう意味では、ただ人気があるからとか、とりあえず手を合わせておけば。。という考えだけではなく、それを機会に歴史に少しでも深く興味を持たれることを
期待したいものですね(と、歴史に疎い私が言っても、何の説得力もないでしょうけれどw)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのお気持ちと同じ思いに至る皆様が一人でも増えてくだされば、と私は常々願っています。
今の平和な世の中を築き上げた先人の足跡と、次の世代につないでいく重要性を心しなければなりません。
「終戦の詔書」は御前会議(ごぜんかいぎ)での陛下(へいか)のお言葉を基(もと)に起草(きそう、文案を作成すること)されましたが、その一番重要な部分が実は最後に記(しる)されていることを皆(みな)さんはご存知(ぞんじ)でしょうか。
「爾(なんじ)臣民(しんみん)其(そ)レ克(よ)ク朕(ちん)ガ意(い)ヲ体(たい)セヨ」
(現代語訳:我が国民は以上の私の意思に基づいて行動してほしい)
この最後のお言葉があったからこそ、敗戦後に連合国軍が上陸しても、軍人は粛々(しゅくしゅく)と武装解除(ぶそうかいじょ)に応じ、国民も黙(だま)って現実を受けいれたのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
やはり、上の人間がしっかりとしたビジョンを持ち、目標を掲げ、それに従うように促すことは大事な事ですよね。
特に日本人は、リーダーに従って行動していくという
習性を多分に持ち合わせている民族であるようなので、一つ大きな決まりを掲げると、皆があっという間にそれに従うというまとまり感は、優れているものと存じます。
当時の国民の意識
- 黒田先生
青田です。
私は、歴史の授業で、教師から、このことを軽く
しか教えてもらえませんでした。
ただ、天皇の玉音放送の重みは、当時と現代の
国民の意識が全く、違うことを前提にしていませんよね。
それと、今考えると、その歴史教師は、大日本国憲法について、理解ゼロだったと思います。
そういう教師から、私の世代は、歴史教育を受けたので、日本の本当の歴史を知る人間は、どんどん減っていくのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
我が国は確固たるリーダーのもとに集結して、これまでの歴史を守り抜いてきました。
今後も全国や地方を問わず、大都市においてもしっかりしたリーダーのもとで日々を生きたいですね。
オバrev 天皇陛下のお言葉は理屈云々ではなく、日本人の心の中に長い歴史の中で培われた絶対的な信頼があるのではないでしょうか。
だからこそ今の日本があるし、それは今も続いていることに感謝したい思いです。
全く比較になりませんが、私のような零細企業でも、やはり経営者の言葉は最終ですから、だからこそ常に感情的にならず冷静に論理的に考え結論を出すように心掛けています。
でも全然説得力ないし、信頼も薄く、いつも内心ハラハラで後悔すること多しです orz
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、教科書会社や受験産業のシナリオ通りに教えることで満足する「サラリーマン教師」が増えすぎたことが最大の問題になっていますね。
このツケはいずれ大きくのしかかってくるかもしれません。いや、もうすでに…。
オバrevさんへ
黒田裕樹 天皇陛下のお言葉の力強さと絶対的な信頼には、日本国民は感謝してもしきれませんね。
そのご姿勢を私たちが拝見することで、指導者としても、またその下で仕える者としても大きな教訓になるのだと思います。
一般邦人の帰国は困難(こんなん)を極(きわ)め、終戦時にいわゆる外地(がいち)にあった邦人居留民(きょりゅうみん)のうちソ連の支配下に入った満州や、北朝鮮(きたちょうせん)からの引揚げの際には多くの犠牲者(ぎせいしゃ)が出ました。後に横綱(よこづな)に昇進(しょうしん)し、国民栄誉賞(こくみんえいよしょう)を受賞した大鵬関(たいほうぜき)も、幼少の頃に命からがら南樺太(みなみからふと)から引揚げています。
ソ連軍は我が国がポツダム宣言を受けいれた後も侵攻(しんこう)を重ね、8月18日には千島列島(ちしまれっとう)の北東端(ほくとうたん)に位置していた占守島(しゅむしゅとう)に攻め込(こ)みましたが、樋口季一郎(ひぐちきいちろう)司令官の決断によって日本軍が勇敢(ゆうかん)に戦ったこともあり、北海道をソ連に占領(せんりょう)されることは免(まぬが)れることができました。
しかし、ソ連の理不尽(りふじん)さはこの後も止(とど)まることを知らず、占守島上陸作戦の後も南樺太を占領したほか、択捉島(えとろふとう)や国後島(くなしりとう)なども不法に支配し、我が国固有の領土である北方領土(ほっぽうりょうど)はいまだにロシアから返還(へんかん)されていません。
加えて、ソ連軍が侵攻した満州や北朝鮮・南樺太・千島列島で武装解除(ぶそうかいじょ)された軍人のうち、60万人近くがシベリアなど各地の収容所(しゅうようじょ)に送られるという抑留(よくりゅう)を受け、長期間の過酷(かこく)な強制労働によって約6万人もの人々が亡(な)くなったという悲劇(ひげき)があったことを、私たちは決して忘(わす)れてはならないでしょう。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
シベリア抑留に関してのニュースや、特集などはこれまで度々映像と共にテレビなどで見たことがありますが、仰るとおり、命からがら日本へ戻って来られた方のお話など伺うと、悲惨極まりない状態であったと涙ながらに訴えている姿を目にした時には、こちらもいたたまれない気持ちにさせられました。
人は自分の身に直接降りかかって来ない出来事には、無関心で居る事さえ出来ますが、こういう出来事は、明日はもしかしたら我が身に?と常々考えながら、しっかりと耳を傾けなければいけませんね。
シベリア抑留の件
鹿児島のタク 私の周りには(親戚等、また郷土の人)、驚くほどの「シベリア抑留者」がいらっしゃいます。
もう、年齢的に“寿命”が近く、今のうちに話を聞いておきたいと思っています。
本当に、命がけで、頑張ってくださいました。
多くのシベリア抑留者の犠牲者に、哀悼の意を表します。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、かけがえのない同胞がシベリア抑留で悲惨な境遇となった事実を忘れてはいけません。
北朝鮮による国家的犯罪である拉致被害者とその家族の皆様に思いをはせるのと同じですね。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 私も同感です。
抑留経験者で90歳近くの方を私は存じておりますが、いつまでも長生きなさっていただきたいものです。
シベリア抑留
- 黒田先生
青田です。
第二次世界大戦を舞台した映画では
ナチスドイツの『アウシュビッツ収容所』ばかり描かれます。
そして、ドイツ=悪、連合国(アメリカ、ソ連、中国)=善
という構図になります。
それゆえ、シベリアの収容所のことをあまり、描かれませんが、シベリア収容所は、あまりにも過酷です。
両方の収容所を経験したポーランド政治犯の言葉です。
『地獄のアウシュビッツ、鬼のシベリア』
『こんなことなら、アウシュビッツで、死んでいるほうがマシ。』
ポーランドの人が、現在、ドイツと友好的なのは、ソ連のほうがひどかったからだということを知っている人は少ないですね。
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、両方を経験したポーランドの実体験に基づく証言は重みが違いますね。
ソ連が崩壊して早や20年以上、シベリア抑留の真実がもっと広まってしかるべきでしょう。
開戦前まで長い間アジアを抑圧(よくあつ)してきた欧米列強(おうべいれっきょう)の支配が、大東亜戦争をきっかけに急速に崩壊(ほうかい)への道を歩んだからです。緒戦(しょせん)の日本軍の勝利によってイギリスやアメリカ、オランダの支配から脱出(だっしゅつ)したアジアの諸民族(しょみんぞく)は、日本軍の占領統治(せんりょうとうち)を受ける間に独立心(どくりつしん)を高めました。
そして、我が国の敗戦後に再び植民地(しょくみんち)として支配しようとした欧米列強と激(はげ)しい戦闘(せんとう)を重ねた諸民族は、インドネシアのように現地に残った日本軍将兵(しょうへい)の協力もあって次々と独立を果(は)たしたのです。こうした動きはやがてアジアからアフリカ・アメリカ大陸に広がり、多くの国家が独立する流れへとつながっていきました。
大東亜戦争は我が国に敗戦という厳(きび)しい結果を課した一方で、戦前からの日本など有色人種(ゆうしょくじんしゅ)の国家にとって悲願(ひがん)でもあった「人種差別(じんしゅさべつ)の撤廃(てっぱい)」という大きな理想を実現したといえるのではないでしょうか。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
こう言っては大変不謹慎かも知れませんが、
戦争という大きな怪我(痛手)も「功名」となりうるものなのでしょうね。
そう言う意味では、この世で起こる全ての現象には無駄なことは一つも無いという事になりましょうか・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そう言う意味では、この世で起こる全ての現象には無駄なことは一つも無いという事になりましょうか・・
私もそう思います。無駄だと思うことは、自分の人生そのものを否定することにつながりますからね。
「日本のおかげでアジア諸国(しょこく)はすべて独立した。日本というお母さんは難産(なんざん)して母体(ぼたい)をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている」。
「今日、東南アジアの諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは、いったい誰(だれ)のおかげであるのか。それは身を殺(ころ)して仁(じん)をなした日本というお母さんがあったためである」。
「十二月八日(=大東亜戦争の開戦日)は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭(と)して重大決心をされた日である。我々はこの日を忘(わす)れてはならない」。
(※これで昭和時代・戦中は終了です。次回[1月15日]からは昭和時代・戦後の更新を開始します)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
そうですか^^
こうして日本のお陰だと賞賛してくださる
気持ちだけでも救われた思いがしますし、
受けた恩をこういう形で述べられる国というのも
素晴らしいと思います。
ただただ悪口を言いふらすどこぞの国の代表にも
こうした精神を見習っていただきたいと
思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 全くもって仰るとおりです。
恨みつらみだけで世の中は渡っていけません。
自分の足で動かなければならない以上は、是々非々で対応することが一番です。