大東亜戦争の開戦直後は優位(ゆうい)に戦いを進めていた日本軍でしたが、講和の機会を得られぬまま、昭和17(1942)年のミッドウェー海戦の敗北をきっかけに劣勢(れっせい)に転じました。そして昭和19(1944)年7月にサイパン島が陥落(かんらく)すると、我が国の絶対国防圏(ぜったいこくぼうけん)が崩壊(ほうかい)したのみならず、太平洋全域(ぜんいき)における制海権(せいかいけん)並(なら)びに制空権(せいくうけん)をアメリカ軍に奪(うば)われてしまいました。
サイパンからは新開発の長距離重爆撃機(ちょうきょりじゅうばくげきき)B29の行動範囲(こうどうはんい)に東京が入り、我が国は本土の防衛(ぼうえい)すらままならない状況(じょうきょう)となったことから、一連の責任を取って東条英機(とうじょうひでき)内閣が総辞職(そうじしょく)し、昭和19年7月22日に小磯国昭(こいそくにあき)内閣が成立しました。
ところで、昭和19年の夏頃(ごろ)といえば後に激戦(げきせん)となった硫黄島(いおうとう)もまだ防衛されておらず(硫黄島に関しては後述します)、いわゆる本土防衛の準備(じゅんび)もなされていませんでしたが、それまでの日本軍の強さを恐(おそ)れたアメリカ軍は、フィリピン奪回(だっかい)を目論(もくろ)んだマッカーサーの意向(いこう)もあって、日米の次の戦場をフィリピンとしました。
アメリカの立場からすれば、防衛力が低かった当時の日本本土を早々と攻撃(こうげき)していれば、戦争も比較的(ひかくてき)簡単(かんたん)に終わらせたはずです。しかし、かつて日本軍に屈辱(くつじょく)を味わわされたマッカーサーのいわば「私怨(しえん)」によってフィリピンは戦場となり、多くの人々が犠牲(ぎせい)になってしまったのでした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
もしも大東亜戦争で日本が勝利していたら・・・
確かにその時は日本勝利に国全体は沸きあがることが出来たかも知れませんが、直ぐにアメリカからのリベンジを受けて、結局、日本は遅かれ早かれ敗退する運命であったように最近思います。
黒田さんはそこらへんの経緯をどうお考えになられますか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに物量ともに圧倒的な差がある以上、いずれは敗北への道をたどる可能性が高かったのかもしれません。
ただ、これから紹介することになる「あまりにも卑劣な無差別攻撃による大虐殺」を国じゅうで受けることはなかったのではないかとも思えますし、少なくとも今後のような展開はなかったのではないか、と考えております。
マッカーサーの私怨
- 黒田先生
青田です。
マッカーサーにとって、フィリピンからの敵前逃亡は、エリート中のエリートだったマッカーサーにとって、絶対にあってはならいあ汚点だったようですね。
しかも、戦略上意味がないのに、『ルーズベルトも大統領選が近いので、国民に人気のマッカーサーの我儘』を聞くしかなかったようです。
ただ、どちらにしろ、個人の私怨や思惑で、
『日本軍だけではなく、アメリカ軍にも多くの人命を失ったことを考えると、ルーズベルト大統領もマッカーサーもリーダーとしては、???』です。
青田さんへ
黒田裕樹 時の為政者や軍人の意向で自国はおろか世界各国に深刻な影響を与えるのですから、各国の国民はたまったものではないですね。
我が国の前政権にも同じことが言えますが…。
特攻隊の攻撃(こうげき)は「爆弾を載(の)せた飛行機が敵の軍艦(ぐんかん)めがけて体当たりで突撃(とつげき)する」というものであり、飛行機自体を爆弾(ばくだん)ととらえたうえで飛行士もろとも犠牲(ぎせい)になりました。この決死の攻撃によって日本軍は多くのアメリカ空母(くうぼ)を沈(しず)めることができましたが、最終的には翌昭和20(1945)年7月にフィリピンを奪還(だっかん)されてしまいました。
なお、日米の激戦(げきせん)によってフィリピンの多くが戦場となりましたが、なかでも首都(しゅと)のマニラは日本軍が非武装地帯(ひぶそうちたい)とする「オープン・シティ」化に失敗したことから多くの被害(ひがい)を出してしまったため、戦後にフィリピンの対日感情が悪化(あっか)したと伝えられることが多いようですが、マニラの博物館(はくぶつかん)では「米軍の砲撃(ほうげき)によって炎上(えんじょう)するマニラ市街」と当時の様子が紹介(しょうかい)されているとのことです。
要するに、戦争でマニラの市街を破壊(はかい)したのは日本軍ではなく、一般市民の被害を何とも思わぬアメリカ軍(このことは後述する我が国への無差別攻撃からも明らかです)によって甚大(じんだい)な被害を受けたとマニラ市民は考えており、フィリピンの人々にとって対米感情こそが遥(はる)かに悪いことを示しているといえるでしょう。
ところで、我が国で初めての神風特攻隊の作戦実行をお聞きになった昭和天皇(しょうわてんのう)は「そのようにまでしなければならなかったのか!」と叫(さけ)ばれ、しばし絶句(ぜっく)された後に「しかしよくやった」と仰(おっしゃ)いました。このお言葉は決して特攻隊を称賛(しょうさん)するのではなく、国のために生命を散(ち)らした兵士たちの尊(とうと)い犠牲に対する労(いたわ)りのお気持ちが込(こ)められていると考えるべきではないでしょうか。
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ぴーち こんばんは!
仰るとおり、あの当時、特攻の任務を請け負った兵士の間でも、自らの操縦する飛行機もろとも、敵艦隊に激突するなどという戦略を取らざるを得ない日本の絶望的立場をはっきりと感じていたことでしょう。それでも、自分たちが行かなければ日本の未来も、威信も守れないであろうという決死の思いが背中を押したのでしょうね。
考えれば考えるほど、痛ましい思いに駆られますが、それと同時に、こういう事実を風化させることがあってはいけないものだと思いますね。
アメリカのトラウマ
- 黒田先生
青田です。
この神風特攻隊ですが、日本の歴史教育では
『あまり、アメリカ軍に損害を与えず、日本の尊い人命を失った不毛な戦術。』と教えていますが
アメリカ軍にもたたした精神的な恐怖は、
『原爆並み』だったそうです。
白人のキリスト教社会では、そんなことをすることは、超想定外だからです。
この日本の精神性が、アメリカ軍のトラウマになっていったと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私も同感です。
先人が生命を賭けて守ってくれた重い現実を、同じ日本国民が理解できなくてどうするというのでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 特攻隊が与えた精神的な影響は、仰るとおり大きいものでした。
もともと無駄死になんて有り得ないのですが、英霊の皆様のご活躍がその後の我が国に与えた影響の大きさがうかがえますね。
硫黄島の重要性を理解していた日本軍は、不充分(ふじゅうぶん)ながら武装(ぶそう)と資材をかき集めて短期間で防衛設備(ぼうえいせつび)を構築(こうちく)しましたが、昭和20(1945)年2月19日に始まった戦闘では、島全体の地表(ちひょう)が全部変形するほどの徹底的(てっていてき)な艦砲射撃(かんほうしゃげき)と空爆(くうばく)を受けました。
絶望的(ぜつぼうてき)な情勢のなか、司令官であった栗林忠道(くりばやしただみち)中将(ちゅうじょう)の巧(たく)みなリーダーシップもあって奇跡的な奮闘(ふんとう)を重ねた日本軍でしたが、ついに刀折れ矢尽(つ)きて同年3月26日までに守備兵のほとんどが玉砕(ぎょくさい)しました。
戦いに敗れた日本軍ではありましたが、死傷者(ししょうしゃ)の全体的な数は圧倒的に優位だったはずのアメリカ軍が上回っており、鬼神(きじん)に勝る働きを見せる日本軍に対する恐怖(きょうふ)をアメリカ軍に嫌(いや)でも見せつけることになりました。
ただし、硫黄島を取られたことによってアメリカ軍は日本本土への攻撃をより有利に展開できるようになったことから、この後に行われた悪魔(あくま)のような本土爆撃が実現してしまったのです。





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- 黒田先生
青田です。
硫黄島がアメリカに奪われたことは、本当に痛恨でした。
しかし
日本としては、その後のアメリカの本土空爆がそこまで、残虐なことをするとは、想定外だったと思います。
裏を返せば、アメリカは、それだけ日本が怖かったということですが。。
青田さんへ
黒田裕樹 > 日本としては、その後のアメリカの本土空爆がそこまで、残虐なことをするとは、想定外だったと思います。
> 裏を返せば、アメリカは、それだけ日本が怖かったということですが。。
仰るとおり、アメリカの「ここまでやるか」という攻撃に驚愕した事実はあると思いますが、残虐な攻撃は実は我が国だけが受けたのではありません。
そのあたりもいずれ紹介したいと思います。
ぴーち こんばんは!
このお話は、映画「硫黄島の戦い」で鑑賞したことがありました。
映画なので、詳細はどうしても省かれてしまい、あらすじのみでしか理解出来ませんが、それでも栗原中尉の基本的な考え方に則って、日本軍は途中で自決を試みずに、一人10人を相手に戦い勝利する事が出来たら、もう少し戦況は日本優位に持っていけたのではないかと悔やまれます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > このお話は、映画「硫黄島の戦い」で鑑賞したことがありました。
> 映画なので、詳細はどうしても省かれてしまい、あらすじのみでしか理解出来ませんが、それでも栗原中尉の基本的な考え方に則って、日本軍は途中で自決を試みずに、一人10人を相手に戦い勝利する事が出来たら、もう少し戦況は日本優位に持っていけたのではないかと悔やまれます。
戦いの当事者にしかわからない事情もあったとは思いますが、奮戦した分の歴史的事実があったことは大きかったと思いますね。
しかし、ソ連は昭和20(1945)年2月に、スターリンがアメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領(だいとうりょう)、イギリスのチャーチル首相とソ連領クリミア半島のヤルタで協議を行っていました。これをヤルタ会談といいます。
ヤルタ会談において、ルーズベルト大統領は日本の領土である南樺太(みなみからふと)や千島列島(ちしまれっとう)全体、さらには満州(まんしゅう)など日本が有する数々の権益(けんえき)をソ連に与(あた)える見返りとして、中立条約を無視してソ連に対日参戦をさせることをスターリンに約束させました。
ソ連のこうした動きを全(まった)く知らずに、中立国だからという理由で社会主義国家に仲介を頼もうという姿勢(しせい)に、当時の我が国における政略の大きな欠如(けつじょ)がうかがえるのではないでしょうか。ちなみにヤルタ会談における密約(みつやく)が、我が国とソ連(現在のロシア)との「北方領土問題(ほっぽうりょうどもんだい)」の原因の一つとなっています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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- 黒田先生
青田です。
このヤルタ会談は、ソ連主導で、行われたような気がします。
それだけ、ソ連のインテリジェンス能力が優れていたと思います。
この時、スターリンは、アメリカの原爆の開発のこと、ルーズベルト大統領の体調が弱っていることも全て知っていました。
つまり、スターリンは、全て知っていて、自国に有利な条件で、交渉を進めることができたわけです。
ただ、スウェーデンの駐在武官の小野寺信は、
『ヤルタ会談で、ソ連が対日参戦する』最高機密文書を日本に送っていました。
あきらかに、日本の政府の判断ミスですね。
ぴーち こんばんは!
情報と言うのは、常に迅速でありながら、正確でなければいけないものだと感じるエピソードですね。この当時のわが国の情報入手能力と言うのは、相当乏しかった訳ですね。
もっとも、今でもこれだけの情報化社会の中であっても、わが国はいつもワンテンポ出遅れてしまう傾向が強いと感じるのは、私だけでしょうか?(^^ゞ
青田さんへ
黒田裕樹 当時のソ連は軍事大国への道を突き進んでいましたから、後戻りが許されませんでした。
だからこそのインテリジェンスだったといえるでしょう。
諜報能力の欠如は国家にとって致命傷であることがよく分かりますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > もっとも、今でもこれだけの情報化社会の中であっても、わが国はいつもワンテンポ出遅れてしまう傾向が強いと感じるのは、私だけでしょうか?(^^ゞ
ぴーちさんの危惧するところはよく理解できます。
時の政権に危機管理がしっかりとなされていなければ、それだけで致命傷になることがよく分かりますね。
ひるがえって現行の安倍政権はどうでしょうか…。
空襲はイギリス軍が何百機もの航空機で市街地を爆撃(ばくげき)した後、アメリカ軍による何百機ものB29爆撃機が約65万個の焼夷弾(しょういだん)を落とし、さらに戦闘機が機銃掃討(きじゅうそうとう)を行うという徹底(てってい)ぶりであり、約135,000人もの死者を出してしまいました。
やられたのはドイツだけではなく、イタリアのベネディクト会修道院(しゅうどういん)発祥(はっしょう)の地であるモンテカッシノの修道院が破壊(はかい)されるなど、無差別(むさべつ)に民間人を殺戮(さつりく)するという明らかな戦時国際法違反(いはん)の虐殺(ぎゃくさつ)が繰(く)り広げられました。
そして、米英による無慈悲(むじひ)な爆撃は、ついに我が国に対しても牙(きば)をむくようになってしまうのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
仰るとおり、日本ばかりではなく、ドイツも同じような運命を辿った国の一つですよね。
ドイツの場合は、国を分断されてしまいましたが、日本も分断されるおそれがあったという事は
以前何処かで聞いた事がありましたが、それを食い止めることが出来た要因は何であったのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > ドイツの場合は、国を分断されてしまいましたが、日本も分断されるおそれがあったという事は
> 以前何処かで聞いた事がありましたが、それを食い止めることが出来た要因は何であったのでしょうか?
我が国が戦後の分断を回避できた理由は諸説ありますが、反日親ソのルーズベルト大統領が急死してトルーマン大統領となり、対ソ政策が転換されたのが大きいと私は考えています。
オバrev ドレスデンの悲劇は聞いたことあります。
また最近知ったのはズデーテン地方をめぐるヒトラーの残虐行為とドイツ敗退後のチェコスロバキアによるドイツ人虐殺問題で、結局第二次世界大戦のその問題が未だに尾を引いていて、チェコはユーロに加盟できずに技術はありながら経済的に疲弊しているらしいです。
先の戦争が尾を引いているのは日本も同じで、安部総理が靖国参拝をして、例のごとく中韓が激しく抗議しています。
安部総理の言われていることは正論だと思うし、日本を守ってくれた我々の祖先に対する思いは日本人誰もが心に持っているものだと思います。
そして靖国神社に祀られている多くの戦没者の遺族や我々も、そこで不戦の誓いを新たにこそすれ、戦争を焚きつけるような思いは一切ないはずです。
安部総理には、その信念を貫くことよりも、まず経済再生を優先し、そのための政治的判断を優先して欲しかった。
これが悲劇的な方向へ向かわないように願いたいです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 戦争が様々な悲劇を生むのは今も昔も変わりませんね。
オバrevさんのお気持ちもよく分かりますが、「国防は最大の福祉」とも言います。
経済発展は安定した防衛力なくして成し遂げられないのもまた事実なのです。
わずか1回の空襲で約26万戸の家が焼(や)かれ、12万以上の人々が死傷(ししょう)し、100万人を超(こ)える人々が焼け出されるという甚大(じんだい)な被害をもたらすなど、世界史上でも例を見ない非戦闘員(ひせんとういん)に対する大虐殺(だいぎゃくさつ)となりました。
空襲後、昭和天皇(しょうわてんのう)はご自身で被災地(ひさいち)を訪問したいと希望なされ、約1週間後の18日に実現しました。空襲から間(ま)もない東京は焼け野原と化しており、焼け死んだ人々の遺体(いたい)もそのままになっていました。陛下(へいか)は被災者をお励(はげ)ましになりながら、東京の変わり果てた姿(すがた)に胸が痛む思いでいらっしゃいました。
「もはや一刻(いっこく)の猶予(ゆうよ)もなく、一日も早く戦争を終わらせないといけない」。そうお考えになった昭和天皇は、翌4月の小磯国昭(こいそくにあき)内閣の総辞職(そうじしょく)後に、次の内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)として元侍従長(じじゅうちょう)の鈴木貫太郎(すずきかんたろう)を指名されました。ご自身との縁(えにし)が深い鈴木ならば、この戦争を終わらせることができると期待されたのです。
なお、東京大空襲の日を3月10日としたのは、この日が陸軍記念日(りくぐんきねんび)であったからだという説があります。また、こうしたB29による焼夷弾を使用した集中爆撃は、東京だけでなく大阪など全国の60余(あま)りの都市がその被害を受けました。これを本土爆撃(ほんどばくげき)といいます。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
東京だけではなく、主要都市60箇所も・・
そして、大阪も甚大な被害を被ったのですね。
我が県でも、中島飛行場など
軍関連の施設が次々と爆撃を受けたと伺っております。
私の父はまだその当時3歳と言う幼い年齢にも関わらず、目の前の飛行場に爆撃を受けて、怖い思いをしたという事を今でも鮮明に覚えていると常々申しておりますが、当時は生きた心地はまずしなかった事だろうと思います
カーチス・ルメイへの怒り
- 黒田先生
青田です。
私は、この東京大空襲を指揮したカーチス・ルメイには、怒りを感じています。
元々、東京大空襲は、軍需産業を中心にした爆撃予定でした。
しかし、カーチス・ルメイ少将は、東京への無差別爆撃を進言し、行いました。
この無差別爆撃は、実は、絨毯爆撃ではなく
かなりの精度で、民家に爆撃しています。
しかも、後にこのカーチス・ルメイは、日本政府から、勲一等旭日章を授与されていますが、
授与は天皇が直接手渡す“親授”が通例ですが、
昭和天皇は、“親授”を行いませんでした。
昭和天皇の胸中を察することができます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 民間人への無差別空襲は、どんな理由をつけようが決して許されるものではありません。
ぴーちさんのお父様のように実際に恐怖を体験された方も無数におられますし。
某国がしきりに主張する「○○大虐殺」とは違って、間違いなく発生した暴挙ですからね。
青田さんへ
黒田裕樹 昭和天皇の静かなお怒りが察せられるエピソードですね。
およそ血の通った人間がやることではない空襲です。
東京大空襲の被害
- 黒田先生
青田です。
以前、友人から、東京大空襲の被害を聞いて、
驚きました。
というのも
広島・長崎への原爆投下への被害が強調され、
それだけしか被害を受けてないと思い込んでいたからです。
原爆投下の被害は、爆弾1個で、大きな被害があったということで、衝撃的だったのですね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおりです。
東京大空襲の被害は広島や長崎の原爆投下による被害と遜色ありません。
我が国は連合国によって各都市を徹底的に破壊されつくしたのです。
よたろう 一年間、ありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。
来年も、いろいろ勉強させてください。
よたろうさんへ
黒田裕樹 こちらこそいつも拙ブログをご訪問くださり、有難うございます。
来年もよろしくお願いいたします。
硫黄島(いおうとう)を手に入れたアメリカ軍は、ついに沖縄(おきなわ)を支配すべく攻(せ)め込(こ)み始めました。沖縄は無論(むろん)我が国固有の領土であり、どうしても救(すく)わねばならない場所でもありました。
日本陸軍は制空権(せいくうけん)を失(うしな)った状況(じょうきょう)の下(もと)で懸命(けんめい)な指揮(しき)を執(と)り、一般県民(いっぱんけんみん)の防衛隊(ぼうえいたい)も兵力に加えた守備隊(しゅびたい)が軍民一体となって、上陸したアメリカ軍と激(はげ)しい戦闘を続けました。
また多数の神風特攻隊(かみかぜとっこうたい)が出撃(しゅつげき)したほか、潜航艇(せんこうてい)も「人間魚雷(にんげんぎょらい)」などの特攻隊としてアメリカ艦隊(かんたい)に大きな損害(そんがい)を与え、さらには沖縄を助けるべく戦艦大和(せんかんやまと)も出撃(しゅつげき)しました。
しかし、戦艦大和は昭和20(1945)年4月7日に撃沈(げきちん)され、アメリカ軍の攻撃(こうげき)によって沖縄は一般県民を含(ふく)む多くの死傷者(ししょうしゃ)を出した末(すえ)、6月22日の攻撃を最後として守備隊が全滅(ぜんめつ)しました。沖縄はアメリカによって占領(せんりょう)され、昭和47(1972)年まで我が国に返還(へんかん)されなかったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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- 黒田先生
青田です。
この時期から、世界の戦争の歴史が変わったと思います。
それまでの戦争は、あくまでも、
軍隊と軍隊との戦いでした。
たとえば、日露戦争の時の戦いでは、
軍隊同士の戦いで、水師営の会見のような武士道、騎士道的な要素は、残っていました。
しかし、東京大空襲から、沖縄までの戦いは、一般市民を虐殺することが当たり前の戦いに変わっています。
ナチスドイツの残虐行為ばかりが非難されますが
アメリカも無茶苦茶です。
(もっとも、アメリカの将軍の多くがドイツ系ですが)
青田さんへ
黒田裕樹 確かに仰るとおりですね。
わが国が武士道精神を最後まで保とうとしたのとは対照的な虐殺行為の連続には怒りを覚えます。
ぴーち こんばんは!
あくまで素人の考えで恐縮ですが、
アメリカは後に沖縄を日本へ返還しただけ、まだ
寛容であった気がしますが、(ソ連よりも)
もしかしたら、
それに対して日本に何か見返りを要求したのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 アメリカの場合、戦後は我が国と同盟国になったことが大きいと思います。
ソ連は事実上の敵国でしたからね。その流れが今も続いているということでしょうか…。
たっつん 今年一年お世話になりました。
来年もよろしくお願い申し上げます。
黒田先生とご家族様のご健康をお祈り申し上げます。
良いお年をお迎えください。
たっつんさんへ
黒田裕樹 こちらこそお世話になり、有難うございました。
良い年をお迎えください。
管理人のみ閲覧できます
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当時の沖縄では日本軍の敗北が決定的となったこともあって多くの民間人が集団自決(しゅうだんじけつ)を遂(と)げるという悲劇(ひげき)が見られましたが、この集団自決は「日本軍の命令」によって行われたという説が小説家やマスコミを通じて広く流布(るふ)され、歴史教科書にも載(の)せられました。
しかし、これは「自決では年金が出ないので、軍の命令があったことにした」という背景があり、当時の指揮官(しきかん)が敢(あ)えて罪をかぶることで多くの住民を救おうとした自己犠牲(じこぎせい)の精神(せいしん)がその真実だったのです。
沖縄戦から60年が経(た)った平成17(2005)年、当時の指揮官や遺族(いぞく)が小説家やその出版社を相手に名誉毀損(めいよきそん)で訴(うった)えました。これを沖縄集団自決冤罪訴訟(おきなわしゅうだんじけつえんざいそしょう)といいます。
冤罪訴訟は損害賠償請求(そんがいばいしょうせいきゅう)を目的とする民事訴訟(みんじそしょう)だったので、「損害賠償金を取れなかった」という点では原告側の敗訴(はいそ)に終わりましたが、その一方で裁判所は「軍による自決命令は証明されていない」と判断(はんだん)しました。歴史の真実を明らかにするという点では実質的に勝訴(しょうそ)だったのであり、こうした流れを受けて、最近の教科書からは「軍命による自決」の記載(きさい)が削除(さくじょ)されています。
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女は女らしく わかりやすい歴史講座、迫力溢れる講演をありがとうございました。来年のご活躍も期待しております。
良いお年をお迎え下さいませ。
ぴーち こんばんは!
今年も大変お世話になりましたm(__)m
来年もどうぞ宜しくお願い致します!
女は女らしくさんへ
黒田裕樹 こちらこそいつもご訪問くださり有難うございました。
来年もよろしくお願いいたします。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 こちらこそお世話になり、有難うございました。
来年もよろしくお願いしますね(^o^)/
オバrev 黒田先生って、大学で歴史を専門としていたわけではないにもかかわらず、緻密で正確な歴史記事にはただただ驚きです。
ということはこれはほとんど独学ですか?
それなら、さらに本当に腰が抜けるくらいの驚きですけど^^;
でも来年も記事を楽しみにしてます。
どうぞ良いお年をお迎えください。
オバrevさんへ
黒田裕樹 過分のお言葉、恐縮です。
> ということはこれはほとんど独学ですか?
> それなら、さらに本当に腰が抜けるくらいの驚きですけど^^;
趣味で歴史教育系のサークルに所属していましたから独学とは言い切れない面もありますが、ブログで書いているのは様々な内容を自分で学んで身に着けたといっても差支えないかもしれません。
> でも来年も記事を楽しみにしてます。
> どうぞ良いお年をお迎えください。
こちらこそお世話になり、有難うございました。
来年もよろしくお願いいたします。