しかし、大東亜戦争(だいとうあせんそう)開戦前の昭和16(1941)年10月には大学及び専門学校の卒業予定者を3ヵ月繰(く)り上げ卒業させて翌昭和17(1942)年2月に入隊させたほか、翌年度には6ヵ月繰り上げさせて10月に入隊させました。
その後、戦局の悪化に伴(ともな)う慢性的(まんせいてき)な兵力不足を打開するため、昭和18(1943)年10月2日に「在学徴集(ちょうしゅう)延期臨時特例に関する勅令(ちょくれい)」が出され、文科系の高等教育諸学校(しょがっこう)の在学生の徴兵延期の措置(そち)が撤廃(てっぱい)されました。
昭和18年10月21日、雨が降(ふ)り続く東京の明治神宮外苑競技場(がいえんきょうぎじょう)で関東地方入隊学生を中心に約3万人の出陣学徒壮行会(しゅつじんがくとそうこうかい)が行われ、学徒出陣によって多くの学生が戦場へ向かうことになりました。
なお、この日の雨は勢(いきお)いが激(はげ)しく、その中での出陣式は悲壮感(ひそうかん)を一層(いっそう)あおる劇的(げきてき)なものであり、今も繰り返しテレビ放送やYouTubeなどで見ることができます。ただ、高等教育を受けている学生は本来徴兵が免除(めんじょ)されて当たり前との一種のエリート意識がそこにはあり、そのエリート意識が無自覚(むじかく)に隠(かく)されもせず今も放送されていることには、現代にまで続いている何か重要な見落としが潜(ひそ)んでいるかもしれません。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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- 黒田先生
青田です。その当時
私は、高学歴者の徴兵制度は、当たり前と思い込んでいましたが、
その当時の世界の常識では、全く、違うようですね。
第二次世界大戦時
●アメリカは、18歳~45歳の全ての男性。
● イギリスは、16歳以上の男性、独身の女性
(世界初)
イギリスでは、エリート高校の戦死者の碑があるそうです。
私は、アメリカ、イギリスのような階層社会は、
徴兵制度も特権があると思い込んでいたので、意外でした。
青田さんへ
黒田裕樹 徴兵制度は各国によってさまざまな事情がありますからね。
募兵の方が良いこともあるようですが、ケースバイケースなのでしょう。
ぴーち おはようございます!
確かに高学歴者の方が、飛行訓練も短期間で
要領を掴んでくれるという利点もあったでしょうし、何につけても、直ぐに上官の命令を
理解出来るという的確さを見込んでいたのかも
知れませんね。
テレビ放送でも拝見出来るのですね。
今度、機会がありましたら見てみようかと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時の人材不足もあって、いずれは国家のために役立つと思われた学生も前線に送り出すを得なかったという悲劇でもありましたね。
テレビ放送でも見られますし、YouTubeでも見られますよ。本文を修正しましたのでご確認ください。
オバrev 遅コメ申し訳ないです。
エリート意識は当時の方が現在よりも遥かに高かったんじゃないでしょうか。その代わり、国のために頑張るという奉仕意識もそれ以上に高かったように思っていますが、その辺りはどうなんでしょうか?
それと本文でわからない所が1箇所ありました^^;
「現代にまで続いている何か重要な見落としが潜(ひそ)んでいるかもしれません。」
の重要な見落としとはいったい何なんでしょうか(?o?)
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、単なるエリート意識だけでなく国家の誇りをかけて戦場に赴いた人々も多かったですね。
> 「現代にまで続いている何か重要な見落としが潜(ひそ)んでいるかもしれません。」
> の重要な見落としとはいったい何なんでしょうか(?o?)
これは皆さんで色々とご検討いただければと思います(笑)。
上記の思いで行進している人々もいれば…ですね。
昭和19(1944)年に入ると、学徒出陣で徴兵(ちょうへい)されなかった学生・生徒は軍需工業(ぐんじゅこうぎょう)に動員され、高学年の生徒の男女を問わない深夜作業も許可されました。そして昭和20(1945)年3月には決戦教育措置要綱(けっせんきょういくそちようこう)が定められ、国民学校初等科を除(のぞ)いたすべての学生・生徒の授業が停止され、学徒勤労総動員の体制がとられました。
学徒出陣や学徒勤労動員が行われた背景には、大東亜戦争における戦局の悪化による人材不足がありました。男子の多くが出征(しゅっせい)したこともあって女子挺身隊(じょしていしんたい)が結成され、兵役(へいえき)のなかった女子も未婚者(みこんしゃ)が工場での生産に動員されました。
また、戦局の悪化でアメリカ軍による本土への空襲(くうしゅう)の危険性(きけんせい)が高まると、政府は学童を保護(ほご)するため昭和19年8月頃(ごろ)から大都市の学童を集団で地方へ疎開(そかい)させました。これを学童疎開といいます。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
何度も繰り返す様ですが、人材不足に陥る背景には、総玉砕やら、自決やらという日本軍の基本的な考え方がこのような事態を招いていたのではないかと思え、残念に思えてなりません。
戦争自体を一つのゲームか、スポーツの様な感覚で戦うアメリカと、方や日本人はその気質通りに真剣勝負の捨て身で挑んでいくような戦いをどうしても展開せざるを得ません。(戦い方のバリエーションに乏しいという意味で)
その戦争に向き不向きがあるとしたら、きっと日本人は戦いには基本的に不向きな人種なのではないでしょうか。(特に長期戦に持ち込まれると、完全に不利な立場に立たされると思います)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、日本人の生真面目な気質が逆効果になっているような気もしますね。
資源に恵まれないところも長期戦に不向きであるといえそうです。
大東亜戦争当時、軍隊に動員された青壮年(せいそうねん)男性は400万人から500万人に達したため、日本国内で生産に必要な労働力は学徒勤労動員(がくときんろうどういん)でも挽回(ばんかい)できないほど慢性的(まんせいてき)に不足しました。また、制海権や制空権を日本軍が喪失(そうしつ)したことで南方諸地域(なんぽうしょちいき)からの海上輸送が困難(こんなん)となったため、軍需(ぐんじゅ)生産に欠かせない鉄鉱石(てっこうせき)や石炭・石油などの物資も欠乏(けつぼう)しました。
このため、我が国の各種の軍需生産力は戦局の悪化につれて急速に低下し、戦場の前線に対する補給も困難になるなど、作戦の遂行(すいこう)すらままならなくなるようになりました。
様々な物資不足は国民生活にも大きな影響(えいきょう)を及(およ)ぼし、衣料では総合切符制(そうごうきっぷせい)が敷(し)かれたものの、切符があっても物(もの)がない状況(じょうきょう)となったり、コメの配給(はいきゅう)も滞(とどこお)ってイモや小麦粉など代用品の割合が増えたりしていきましたが、多くの国民は生活物資の逼迫(ひっぱく)や食糧事情の悪化などの悪条件に耐(た)え、我が国の勝利を信じて協力しました。
なお、国民の多くが食糧不足に悩(なや)まされている現実をお考えになった昭和天皇は、ご自身のお食事に国民と同じ配給を強くお命じになられ、代用食や水団(すいとん)などを進んでお召(め)し上がりになられたそうです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
今でこそ、すいとん料理は色々な野菜や味が工夫され、一つの郷土料理としてメニューに挙げているお店なども多いですが、当時の「すいとん」といえば、とてもとても料理などと言えるものではなく、大変粗末な食べ物だったと伺った事があります。そういえば、今年流行した「まめぶ汁」なども、すいとんの一種でしょうね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、当時の水団は料理というよりも「粗末な代用食」でしたからね。
現代のように様々な工夫ができれば郷土料理にもなりますが…。