大東亜戦争(だいとうあせんそう)の緒戦(しょせん)において苦戦続きだった一方で航空機の活用が戦局を有利に導(みちび)くと判断したアメリカは、圧倒的な国力を背景に高速空母攻撃部隊(こうそくくうぼこうげきぶたい)の編成に力を入れました。
そして昭和17(1942)年4月18日、東京の東方海上1,200kmの太平洋上の航空母艦(こうくうぼかん、別名を空母=くうぼ)ホーネットからアメリカB25爆撃機(ばくげきき)16機が飛び立ち、東京・名古屋・神戸を爆撃した後に中国の基地へと逃げ込みました。これをドーリットル空襲(くうしゅう)といいます。
それまでハワイやフィリピン、あるいはインドネシアの海上決戦において我が国に連戦連敗だったアメリカにとってはドーリットル空襲の成功は溜飲(りゅういん)を下げたかたちとなりましたが、本土を空襲された日本海軍の衝撃(しょうげき)は大きいものがありました。
屈辱(くつじょく)を味わった日本海軍は、ハワイ諸島(しょとう)の西にあり、アメリカ海軍の中継基地(ちゅうけいきち)となっていたミッドウェーを攻撃することにしました。いわゆるミッドウェー海戦の始まりです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
こういうお話を伺っていると、最初に浮かんで来る疑問があります。
人間ばかりではなく、どうしてあらゆる生き物は
外来種の方が逞しく出来ているのか?という事です。
魚にせよ、草花にせよ、昆虫にせよ・・
日本にこれまで育ってきた生き物たちは、外来種が
入ってきた途端に息絶えてしまいます。
これもやはり生存競争の激しくない世の中の環境が
長年続いた影響で、すっかり戦う為の戦略という遺伝子が
退化してしまった為なのかも知れませんが・・。
それでも生き延びていこうという渋とさ、前向きな生き方を
見出した種族は戦いを受けた事が刺激となり、
あらゆる方策を編み出して,生き残る為の力を必ず持ち合わせていると
思います。何事もそこで諦めてしまえば、自滅の一途を辿ることに
なりますものね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 島国の環境が、ぴーちさんの仰る疑問につながっているかもしれませんね。
戦争はできればやりたくないですが、仕掛けられた以上は戦わねばなりません。
さて、ミッドウェーの開戦当時の戦力は、我が国の主力空母は4隻だったのに対してアメリカのそれは3隻とほぼ互角(ごかく)でしたが、全体の戦力としては米軍の方が明らかに劣勢(れっせい)であり、通常で考えれば日本軍が圧勝してもおかしくありませんでした。
しかし、日本海軍の暗号が解読されてアメリカ側に筒抜(つつぬ)けになっていたことや、相手の諜報(ちょうほう)を全く傍受(ぼうじゅ)しないなど事前の索敵活動(さくてきかつどう)を十分に行わなかったり、戦闘の作戦にも詰(つ)めの甘さが見られたりするなど、これまで連戦連勝を続けていた日本軍には明らかに驕(おご)りや油断が見られました。
こうした中で始まったミッドウェー海戦は、我が国が誇(ほこ)るべき戦闘機(せんとうき)である36機の零戦(ゼロせん、零式艦上戦闘機=れいしきかんじょうせんとうき)がアメリカの戦闘機のうち約50機を撃墜(げきつい)するなど完全に制空権を握(にぎ)り、また敵空母から襲(おそ)ってきた雷撃機(らいげきき)約70機も落とした一方で零戦は一機も失われないなど、日本軍は鬼神(きじん)のごとき活躍(かつやく)を見せました。
しかし、攻撃を急ぐあまり日本軍の航空母艦の上に護衛(ごえい)の戦闘機を一機も配置しなかったという油断があったために、米軍の奇襲(きしゅう)による悲劇(ひげき)が起きてしまったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
『なぜ、戦争になったのか』は、熱心に語るのに
『なぜ、戦争に負けたのか』について、真剣に議論しない評論家が多い気がします。
(よく、最初から、アメリカと戦っても、勝てないと言って思考を停止させている気がします。)
このミッドウェー開戦まで、日本の海軍力は、アメリカと互角であり、兵力の差が勝敗でなかったということをもっと、多くの日本人が知るべきですよね。
青田さんへ
黒田裕樹 「戦争になった」ことよりも「戦争に負けた」ことの方が遥かに重要なのですが、まるで我が国が次も負けるようにと仕向けられている思いがしますね。
当時の状況を冷静に判断しながら真実を見極めるべきです。
米軍による乾坤一擲(けんこんいってき、運を天にまかせてのるかそるかの大勝負をすること)の奇襲によって我が国の空母4隻(せき)のうち3隻が炎上(えんじょう)し、残りの1隻も後に爆撃を受けて沈没(ちんぼつ)するなど、日本海軍は大敗を喫(きっ)してしまったのです。
もし我が国がアメリカ軍の奇襲を許していなければ、日本海軍が勝利する可能性は高かったでしょう。日本軍がミッドウェーを制すれば、アメリカはすぐ近くにあったハワイを持ちこたえることができず、陸軍を西海岸に集結せざるを得なかったでしょう。
そうなればアメリカはヨーロッパにまで手が回らなくなりますからイギリスを援護(えんご)することができず、イギリスはドイツの軍門に下った可能性が高いですし、アメリカも我が国と講和を結ぶしかなかったはずです。
ミッドウェー海戦は結果として大東亜戦争のみならず、第二次世界大戦全体の分水嶺(ぶんすいれい、物事の方向性が決まる分かれ目のこと)となりました。そして主力空母という物的資源や、少数精鋭のベテラン飛行士が戦死するなど人的資源を失ったのみならず、太平洋における制海権の確保が難しくなった我が国は、この大敗北を境目(さかいめ)として劣勢(れっせい)に転じていくことになったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
- 黒田先生
青田です。
ミッドウェー海戦を日米戦争の戦いの一つ程度にしか
捉えていない方もいますが、
これは、間違いなく『関ヶ原の戦い』ですね。
アメリカが勝ったのは、本当に乾坤一擲の攻撃とタイミングで、日本海軍が、全滅に近い状態になりました。
ミリ単位の小さな判断・出来事が、戦いの趨勢と決めるというのは、いつの世も変わりませんね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、関ヶ原の戦いに匹敵する一大決戦であったと思われます。
それだけに日本海軍の油断が悔やまれますし、今後の教訓として生かさねばなりませんね。
ぴーち おはようございます!
きっと日本軍の兵士の中には、
この時、アメリカに対してあくまで攻めの姿勢を望んでいた者も居たことでしょうけれど、軍部は上官の命令が絶対なる権限があった事でしょうから、この上官の判断ミスによって、涙を飲んだ者も少なからず居たことでしょうね。
上の者の指揮がいかに甘かったか、分かるお話ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰る一面は確かにありました。
上官の責任は重大ですね。
アメリカ雷撃機
にくにく 黒田先生
先生のブログ、勉強になります🙇
ミッドウェイ海戦にアメリカ雷撃機は、意識的に囮になったのではなく
「たまたま」囮になったという理解でよろしいでしょうか?
にくにくさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
> ミッドウェイ海戦にアメリカ雷撃機は、意識的に囮になったのではなく
> 「たまたま」囮になったという理解でよろしいでしょうか?
これに関しては様々な解釈がありますので、一概には言えないと私自身は考えております。
また同年5月には、北太平洋のアメリカ領アラスカ州西のアリューシャン列島の先にあるアッツ島にて日本軍の守備隊が全滅(ぜんめつ)するという、いわゆる玉砕(ぎょくさい)の悲劇(ひげき)が初めて起きてしまいました。
なお、アッツ島での玉砕直後に悲報を耳にされた昭和天皇は「最後までよく戦った」という惜別(せきべつ)の電報を、二度と聞くことのできない部隊に対して発するように命じられたと伝えられています。
またアッツ島の玉砕を受け、すぐそばにあったキスカ島の約5,000人の部隊も全滅の危機に瀕(ひん)しましたが、樋口季一郎(ひぐちきいちろう)将軍の指揮(しき)によって全員の帰還(きかん)を達成するという奇跡もありました(樋口季一郎に関しては今月の第39回歴史講座で詳しく紹介する予定です)。
ただし、アメリカ軍は一連のアリューシャン列島の戦いにおいてほとんど無傷(むきず)の零戦(ゼロせん)を手に入れており、零戦を徹底的(てっていてき)に研究して新鋭機器(しんえいきき)の開発と大量生産に没頭(ぼっとう)したアメリカによって零戦の優位性は失われ、やがて我が国は制空権すら奪(うば)われるようになっていったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
- 黒田先生
青田です。
日米戦争は、アメリカの物量作戦ばかりが強調されますが
アメリカの勝因は、前半の敗北から、徹底的に学んだ謙虚さにあったと思います。
真珠湾攻撃まで、海軍で、航空機は、戦いの主力ではありませんでした。
しかし、日本が航空機を中心にした戦いで、快勝したのを研究し、
アメリカは、海軍の編成を航空機中心に見事に方向転換しました。
日本の個々の技術、パイロットの能力は、アメリカよりもはるかに上でしたが、
日本の緒戦の快勝が皮肉にも、アメリカの戦略、戦術能力を高めた気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 アメリカの学習能力は確かにすごいですね。
その能力を支える物資が豊富であったことがさらにアメリカを有利にさせました。
こうなることが分かっているのであれば、なおさら短期決戦に持ち込めなかったことが悔やまれます。
ぴーち おはようございます!
なまじ、性能の良すぎる戦闘機を持ってしまったがゆえに、それを過信し過ぎた時点で日本軍は
相手に隙を与えてしまっていたのでしょうね。
技術力の高さがかえって命の危険をも脅かすことは現代にも通じるものだと思いました。つい先日も、自動制御装置が誤作動を起こして、しっかり止まるはずの車のブレーキが掛からなくなるという事故が起こりましたが、全面的にその性能に期待を掛けるのは、自殺行為だと感じました。
零戦に関しては、その飛行機を操縦する者の圧倒的時間を費やした飛行訓練と、熟練された操縦技術が勝利を目前にまで導いた要因になったように
機械の技術が高まるのは確かに良い事でしょうけれど、機械そのものは知られたくない所に万が一渡ってしまった場合、研究されて真似されてしまう危険性を孕んでいますので、当然ながら
その腕を持つ人材を大切に育成して、増やしていくことの方が、有意義であるような気がしました。(ノウハウさえ身についていれば、いつでも開発に着手できるという意味で)
話の要点からズレてしまい、申し訳ありません^^;
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに、零戦の神秘がまるわかりになってしまったのは痛かったですね。
人材育成の方が時間がかかりますし、より重要であると思います。
昭和18(1943)年11月5日、東条英機(とうじょうひでき)首相は大東亜新秩序(だいとうあしんちつじょ)の建設の方針を協議するため、アジア各地域(かくちいき)の代表を東京に集め、世界史上初めて有色人種のみで行われた首脳会議(しゅのうかいぎ)でもあった大東亜会議を開催(かいさい)しました。
大東亜会議には東条首相の他に南京国民政府の汪兆銘(おうちょうめい)行政院長、満州国国務総理の張景恵(ちょうけいけい)、タイ首相代理のワン=ワイタヤコーン、フィリピン大統領のラウレル、ビルマ首相のバー・モウ、またオブザーバーとして自由インド仮政府代表のチャンドラ・ボースが出席しました。
大東亜会議において各国は「お互(たが)いを尊重(そんちょう)し、それぞれの民族が歴史や文化、あるいは伝統を活(い)かしながら文化交流を深め、経済関係を強化することで相互(そうご)に発展し、世界各国とも進んで仲良くすべきである」という内容の大東亜共同宣言を採択(さいたく)しました。なお、戦後の1960(昭和35)年の第15回国連会議で植民地独立宣言が決議されていますが、その内容は大東亜共同宣言とほぼ同じでした。
ところで、戦局の悪化につれて中国大陸では日本軍が中国共産党のゲリラ戦に悩(なや)まされた際、我が国側から「三光作戦(さんこうさくせん)」と呼(よ)ばれた虐殺(ぎゃくさつ)を行ったり、また中国戦線において毒ガスを使用したり、あるいは捕虜(ほりょ)の兵士を細菌(さいきん)の生体実験に利用したりしたという記載(きさい)が歴史教科書に見られますが、これらはいずれも根拠(こんきょ)もない捏造(ねつぞう)であることが今では明らかになっています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
- 黒田先生
青田です。
私は、20代の時、三光作戦が本当にあったと
思い込んでいました。
高校の歴史教育でも、そう教えられましたし、
社会人になり、中国への輸出企業に就職した時、
一緒に働いていた上海の中国人の同僚も
『中国人は、みんな知っている。』と語っていました。
それが、捏造であることがわかったのは、インターネットの普及が、あると思います。
そう考えると、戦後50年近くも
日本人も中国人も
その捏造を信じていたというのは、恐ろしい話ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、ネットの影響力は素晴らしいものがあると思います。
だからこそ言論統制へと走る勢力が存在するのもまた真理なのですが…。
ぴーち おはようございます!
毒ガス使用?虐殺?
そんな事実が存在したのなら、アメリカとの戦争にも、優勢を保っていたかもしれませんのに・・。
凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 まさにその通りです。
当時の我が国の状態を考慮すれば、そんな余裕は全くありません。
にもかかわらず事実のように喧伝されるのは、自軍の残虐行為を誤魔化すためのプロパガンダに他なりません。
我が国は絶対国防圏として千島、小笠原、マリアナ、西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含(ふく)む圏域と定め、この外郭線(がいかくせん)において敵の侵攻(しんこう)を食い止めながら航空戦力を中心とした反撃戦力を整備し、来襲(らいしゅう)する敵に対する攻勢(こうせい)を強めようとしました。
その一方で、日本軍はチャンドラ・ボースの自由インド仮政府を支援(しえん)するためにビルマ(現在のミャンマー)からインド北東部の要衝(ようしょう)であったインパールを攻略しようとして作戦をたて、昭和19(1944)年3月に行動を開始しました。これをインパール作戦と言います。
絶対国防圏の基本戦略外でもあったインパール作戦において、日本陸軍は倍近くの兵数を擁(よう)したイギリス軍を相手に健闘しましたが、最終的には多数の犠牲者(ぎせいしゃ)を出した末(すえ)に同年6月に退却(たいきゃく)せざるを得ませんでした。
ただし、日本軍の鬼気迫(ききせま)る奮闘(ふんとう)ぶりはイギリス軍を恐怖に陥(おとしい)れ、作戦後のインドにおけるイギリスの支配に重大な影響(えいきょう)を与えるとともに、戦後のインドの独立につながっていったとも考えられています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
インド独立に関して、少なからず日本の関与が影響していたとは、初めて伺いましたし、結果的には敗北を喫してしまったとしても、なんらかの意義を残せたのなら、むしろ
誇りに感じるお話ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > インド独立に関して、少なからず日本の関与が影響していたとは、初めて伺いましたし、結果的には敗北を喫してしまったとしても、なんらかの意義を残せたのなら、むしろ
> 誇りに感じるお話ですね。
こうした事実はなぜか歴史教科書では明らかにされていません。
日本軍の努力を認めるのが余程嫌なのでしょうか。
昭和19(1944)年6月にアメリカ軍がマリアナ諸島(しょとう)のサイパン島に上陸すると、日本軍は同月のマリアナ沖海戦に大敗するなど、圧倒的物量を誇(ほこ)るアメリカ軍の前に次第に追いつめられるようになりました。
そして7月7日には「今ここに米軍に一撃を加え、太平洋の防波堤(ぼうはてい)としてサイパン島に骨を埋(うず)めんとす。勇躍(ゆうやく)全力を尽(つ)くして従容(しょうよう)として悠久(ゆうきゅう)の大儀(たいぎ)に生きるを悦(よろこ)びとすべし。米鬼(べいき)をもとめて攻勢に前進し、 一人よく十人をたおし、以て全員玉砕(ぎょくさい)せんとす」との最後の命令を発して指揮官(しきかん)が自決しました。
指揮官の命令を受けた我が国の将兵は、同日から8日にかけてアメリカ軍めがけて最後の突撃(とつげき)を敢行して壮絶(そうぜつ)な玉砕を遂(と)げ、多くの民間人も自決した末に、翌9日にアメリカ軍はサイパン島占領を宣言しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
いつも思うのですが、
日本軍(日本人)は、相手を10人倒して・・までは良いと思うのですが、その後、何としても生き伸びて再び祖国の地を踏むのだ!と言うポジティヴな考えが出来なかったものかと
悔やまれてなりません。
どうしてそこで自決やら、玉砕やらという決意に傾倒してしまうのでしょう・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時は捕虜の劣悪な環境から「生きて虜囚の辱めを受けず」という風潮が流行っていたことと、祖国の危機を思えば生きて帰ってくるより自分を犠牲にしてでも我が国を守りたいという思いが強かったことがありますね。
もちろん例外も存在しましたが、尊い自己犠牲の精神が大きく作用していたことは間違いないと思います。
一方、サイパン島のマッピ岬(みさき)に取り残された民間人がアメリカ軍の目前で岬の絶壁(ぜっぺき)から「天皇陛下(てんのうへいか)、万歳(ばんざい)!」と叫びながら次々に身を投げて自決したことから、マッピ岬はやがて「バンザイクリフ」と呼(よ)ばれるようになりました。
なお、平成17(2005)年6月には天皇・皇后両陛下が戦没者慰霊(せんぼつしゃいれい)の目的でバンザイクリフをご訪問され、岸壁(がんぺき)まで歩まれた後に多くの方々が身を投げた海に向かわれ、黙祷(もくとう)を捧(ささ)げられました。
さて、サイパン島の陥落(かんらく)によって日本軍は絶対国防圏(ぜったいこくぼうけん)が崩壊(ほうかい)したのみならず、太平洋全域(ぜんいき)における制海権並(なら)びに制空権をアメリカ軍に奪(うば)われました。さらにはサイパン島の基地を飛び立った新開発の長距離重爆撃機(ちょうきょりばくげきき)B29が日本本土の工業地帯に爆撃を加え始めるなど、我が国は本土の防衛(ぼうえい)すらままならない状況(じょうきょう)へと追いつめられていったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
- 黒田先生
青田です。
高校の歴史の授業で、この『バンザイ攻撃』を
教師が『非合理的な精神主義』と批判していました。
しかし、
私は、この年になって、漸く
『究極の兵器は、自らの肉体を凶器とした人間』だと考えるようになりました。
その証拠に
アメリカ兵にとって、この『バンザイ攻撃』は、
精神的には、原爆並みの恐怖を与えたと思います。
さらに
このバンザイ攻撃から、アメリカは、多くを学び
アメリカ海兵隊が主要な戦いの主役になっていきます。
近代戦では、抑止力になっています。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、日本軍の捨て身の「バンザイ攻撃」には大きな意味があり、今のその精神が受け継がれています。
歴史の流れを全く考えず、自己の考えのみで軽率な判断を下すのみならず、それを生徒に強制させるような行為は許されません。
ぴーち おはようございます!
アメリカ側の目線でみると
この攻撃をされたら、日本軍は狂人化したのでは無いかという錯覚に陥るでしょうね。
とても正気の沙汰には思えなかった事でしょう。
人間、何を一番怖いと感じるかと問われたら、
やはり気が触れて、暴徒化した生身の人間に
恐怖心を抱きますものね^^;
それこそ、アメリカ人にとっては
想定外な出来事であって、恐怖心も倍増したことでしょうね・・・。
勿論、日本軍なりの正当な理由があって
この結論を下したのでしょうけれど。
凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、捨て身の攻撃はアメリカ軍を恐怖に陥れました。
だからこそ、戦後にGHQは日本人の精神を破壊する占領政策(教育など)を行い、その影響が今も広がっているようですが…。
当初はドイツが優勢(ゆうせい)だったヨーロッパ戦線は、1943(昭和18)年を境にイギリスやアメリカ・ソ連などの連合国が反攻に転じ、同年2月にはドイツが東部戦線で壊滅的(かいめつてき)な打撃(だげき)を受けました。
さらに同年7月にイタリアのムッソリーニが国王に解任され、彼が率(ひき)いたファシスタ党が解散すると、連合軍がイタリア本土に上陸した9月にはイタリア新政府が降伏(こうふく)し、枢軸国の一角が崩(くず)れ落ちました。
その後、同年11月にイランのテヘランでアメリカ・イギリス・ソ連の首脳(しゅのう)が一堂(いちどう)に会した初めての会談が行われ(これをテヘラン会談といいます)、ドイツに占領(せんりょう)されていた北フランスの上陸作戦が協議されると、これにもとづいて翌1944(昭和19)年4月には連合軍がノルマンディに上陸しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
この当時、ドイツなども
日本と同じような運命を辿ってしまった
訳ですね。
同じ運命を辿った国などの
その後の行く末も同時に鑑みてみる
必要が歴史を勉強する意味では大切な
事なのでしょうね^^
凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、特にこの時代の国史(日本史)は世界史の流れと同時進行で見極める必要があります。
返す返すもドイツの将来を見誤って同盟を結んだ当時の我が国の首脳部の判断が悔やまれますね。
カイロ宣言の主な内容は第一次世界大戦後に日本が取得した南洋諸島(なんようしょとう)の奪還(だっかん)や満州・台湾などの中国への返還(へんかん)、朝鮮の独立などに向けた同盟諸国の行動継続(けいぞく)を呼(よ)びかけたものであり、日本の無条件降伏(むじょうけんこうふく)も求めていました。
カイロ宣言がもたらした影響は、後に昭和20(1945)年に発表されたポツダム宣言(詳しくは後述します)において「カイロ宣言を履行(りこう)すべきである」と書かれるなど、決して少なくありませんでした。
ただし、カイロ宣言には3首脳(しゅのう)の署名(しょめい)がないこともあり、最近では「カイロ宣言は外交的に有効な宣言ではなかった」とする説も主張されています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
やはり重要な契約には日本なら認印。
外国なら署名がなければ、ただの紙切れ
同然の扱いになってしまうのは
今も変わりませんね。
口約束だけで交わされた事が結果的に
果たされずに泣かされた・・なんて言う方、結構
いらっしゃいます。日本人同士の
約束にはよくありがちなパターンでは
有りますが、それは互いの信頼というものが
そこに存在して初めて成立するものですが、
今回のお話の様に
後世に残すような大事な出来事に
署名が無い事も非常に信頼性に欠ける事だと
思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、署名がない以上は信ぴょう性を疑われて当然です。
それなのに宣言自体が有効だと思われている流れの一つとしては、やはり我が国が戦争に負けたという厳然たる事実があるからかもしれません。