大東亜戦争において、我が国は自存自衛(じそんじえい)と東亜新秩序(とうあしんちつじょ)の建設をその目的と定め、戦争遂行(すいこう)に欠かせない資源を確保(かくほ)するためにアメリカやイギリス、オランダが植民地を有する南方諸地域(なんぽうしょちいき)への進出を強めました。
日本の参戦によって同盟国であったドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告(せんせんふこく)し、第二次世界大戦はヨーロッパとアジアを中心として全世界を巻(ま)き込(こ)んだ本格的な戦争となりました。なお、アメリカ・イギリス・ソ連などは連合国と呼(よ)ばれ、日本・ドイツ・イタリアは枢軸国(すうじくこく)と呼ばれました。
なお、大東亜戦争の呼称(こしょう)は戦後にGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部、れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ)によって使用が禁止され、太平洋戦争(たいへいようせんそう)と呼ばれるようになりました。最近の歴史教科書では「アジア太平洋戦争」という表記も見られるようです。
しかし、歴史の真実を探究(たんきゅう)するには、特定の重要な事象(じしょう)に関して後世(こうせい)の人間が勝手に名称を改めるというようなことをするべきではありません。名は体を表(あらわ)すと言います。「大東亜戦争」という呼び名で戦った戦争の意味は、その名でしか浮(う)かび上がらせる事は出来ません。従(したが)いまして、当講座では「大東亜戦争」と呼称いたします。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
何でもアメリカの言いなりになるのも良し悪しですよね。アメリカにとって不都合な事を力でねじ伏せて、都合の良い様に変えられてしまう事は
非常に遺憾に思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 何でもアメリカの言いなりになるのも良し悪しですよね。アメリカにとって不都合な事を力でねじ伏せて、都合の良い様に変えられてしまう事は
> 非常に遺憾に思います。
そのとおりです。GHQによる占領時は致し方ないとしても、現代に至るまで戦争の呼称がゆがめられることは許されません。
重大な事実をボカしてはならない。
零崎涼介 1937年(昭和12年)9月2日の近衛内閣の閣議で
「支那事変」の呼称と「支那事変は蘆溝橋事件が発端である」
ことが閣議決定され、1941年(昭和16年)12月12日の東條内閣の閣議で
―――――――
今次ノ對米英戰爭及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戰爭ハ
支那事變ヲモ含メ大東亞戰爭ト呼稱ス
―――――――
と閣議決定されているので「大東亜戦争」が正式な名称であり、
1942年(昭和17年)2月17日には「支那事変」の呼称を「大東亜戦争」に
改める法律第9号の閣議決定が行われていますので、
法的には大東亜戦争の発端は蘆溝橋事件となるわけですから、
「大東亜戦争の始まり」と題するのであれば
蘆溝橋事件の始まりから説明すべきではないでしょうか?
なぜかというと、一番大事なポイントは、
盧溝橋事件は中国軍から日本軍を攻撃してきたからです。
日本が戦争を始めたわけではないという重大な事実を
教育、マスコミ、政治などがボカし続けているわけですから、
せめてネットなどでは重大な事実を強調したほうがいいと思います。
日本人は欧米と同じように条約によって中国に居留し、
日本軍は欧米と同じように条約によって中国に駐留していました。
1937年7月7日の盧溝橋事件にしても、
1937年8月13日の第二次上海事変にしても、
中国軍から日本を攻撃してきたものです。
第二次上海事変は1937年8月12日未明、蒋介石軍3万人が
1932年の上海休戦協定に違反して協定線内に侵入し、
上海国際共同租界の日本人居留区域を包囲。
日本領事は1932年・上海休戦協定の締約国である米英仏などで組織する
協定共同委員会を招集し、中国軍の撤退を要求する共同抗議、
および何らかの制裁措置を講ずるよう提案を行ないましたが、
反日・親蒋介石で固まっていた列国は
全く取り上げようとはしませんでした。
翌8月13日午前9時半頃、商務印書館付近の中国軍(蒋介石軍)が
日本軍陣地に対し、突如、機関銃による射撃を開始して
日本軍との間で戦闘状態となり、第二次上海事変が始まりました。
(上海には英米仏などの租界もあったのに日本人居留区のみを攻撃してきた)
英米仏は日中両軍の戦闘開始後に、
日本軍と中国軍の両方が上海国際共同租界から撤退することを勧告。
それまでは日本軍も欧米軍と一緒に上海の警備を地区ごとに
役割分担していたのですが、
http://blog-imgs-44-origin.fc2.com/s/e/i/seitousikan/sks_kg_kbtttk.jpg
以後は日本軍を除く英米仏軍などが上海の租界における
治安維持を担当するという理不尽な提案を行ないました。
本来ならば1932年の上海休戦協定に違反して協定線内に侵入して攻撃してきた
蒋介石軍に対して、日英米仏軍が一致して対処するのが本筋でした。
実際には、この第二次上海事変が支那事変(日中戦争)の始まり
といっても過言ではありません。
法的には大東亜戦争の発端は蘆溝橋事件となりますが、
戦争の原因を考察すれば、
蘆溝橋事件は単なる地方軍閥との軍事衝突事件であり、
しかも蘆溝橋事件は1937年7月11日20:00の
『松井-秦徳純・停戦協定』で終了していますので、
停戦済の軍事衝突事件は蒋介石・中央政府軍が上海を侵略し、
無差別空爆する理由にはなりませんし法的根拠はありません。
たとえ盧溝橋事変が発端だと解釈するにしても、
蘆溝橋事件も第二次上海事変も、
どちらにしても中国軍からの攻撃であり、
それに対して日本軍は応戦・反撃していただけです。
日本本土で援軍(上海派遣軍)が編成され、上海へ向かいました。
蒋介石は日本軍に返り討ちにされて南京に逃げました。
日本軍は追撃して南京を陥落。
蒋介石は武漢に逃げました。
日本軍は追撃して武漢も攻略。
蒋介石は重慶に逃げました。
日本軍は地上軍による重慶攻略を計画しましたが、
重慶が天然の要塞の地であることや兵站の問題もあり、
即時攻略は困難であるという結論に達し、重慶爆撃を行ないました。
日本は何度も何度も和平交渉を申し込んでいました。
アメリカなどは中国の蒋介石(国民党)重慶政府に武器を提供し続け、
資金も提供し続けていたので、
蒋介石は日本からの和平交渉の提案を何度も拒否して
戦争をやめようとしなかったので、
アメリカが中国に武器を輸送していた援蒋ルートを遮断するために、
日本は仏印と平和的に話し合って、日本軍は仏印に進駐。
1940年8月30日の『松岡-アンリ協定』により北部仏印進駐。
1941年7月23日の『日・仏印共同防衛協定』により南部仏印進駐。
するとアメリカが日本への石油禁輸をしました。
石油がないと治安が維持できず、国防できず、経済活動もできなくなるので、
ABCD包囲網【米(America)英(Britain)中(China)オランダ(蘭Dutch)】
の一国であるオランダが支配する蘭印の石油を
日本は武力で確保する決断。
その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるために、
先手を打って真珠湾を攻撃したので自衛戦争でした。
アメリカは中国軍に日本を攻撃させて代理戦争させていたのであり、
勝ち目がないも何も、日本は攻撃されているから反撃したのです。
1938年(昭和13年)10月26日、
武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)が日本軍によって陥落。
支那事変の本格的な戦闘は終了。
以後、米国が支援する蒋介石の重慶政府、
日本が支援する汪兆銘の南京政府、
ソ連が支援する毛沢東の延安政府による三つ巴の抗争が主流となりました。
汪兆銘は1944(昭和19)年3月、南京で病に倒れ、
名古屋で治療を受けましたが11月10日、帰らぬ人となり、
翌年、日本は敗れ南京政府は瓦解。
戦後、米国は蒋介石への支援をやめたため毛沢東が勝ち、
蒋介石は台湾へ逃げました。
零崎涼介さんへ
黒田裕樹 ご丁寧なご解説有難うございます。
本文中にもあるように、大東亜戦争が日華事変(支那事変)からの総称であることは私自身も理解しております。
ただし、一般的には日米開戦からの戦争という認識が強いことや、いわゆる「太平洋戦争」というような呼称と厳格に区別する意味においても、この章の名称を決めたことをご理解いただければと思います。
東洋艦隊(とうようかんたい)を壊滅状態(かいめつじょうたい)に追い込(こ)んだことで対英戦争の大勢を決した日本軍は、同じ12月10日に海軍がアメリカ領グアム島を占領(せんりょう)すると、フィリピンのルソン島への上陸を皮切りに、フィリピンのミンダナオ島、ウェーク島、イギリス領香港(ホンコン)、マニラ、セレベス島、ラバウル、ニューブリテン島ガスマタ、そして重要な産油地であったオランダ植民地のスマトラ島パレンバンなどに次々と上陸あるいは占領し続けました。
そして翌昭和17(1942)年2月15日にはイギリスのアジア支配の拠点(きょてん)であったシンガポールを陥落(かんらく)し、翌3月にはオランダが支配していたジャワ島バタビア(現在のジャカルタ)を占領してオランダ軍を降伏(こうふく)させました。
同じ3月にはビルマ(現在のミャンマー)のラングーン(現在のヤンゴン)も占領し、インドに向かって快進撃を続けるなど、日本軍は各地でアメリカ・イギリス・オランダ軍を破り、大東亜戦争の緒戦(しょせん)を制しました。
なお、フィリピンでの戦いに敗れた現地司令官のマッカーサーは日本軍に追いつめられて敵前逃亡(てきぜんとうぼう)しましたが、軍歴に消すことのできない汚点(おてん)を残したことで我が国を深く恨(うら)み、後のGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部、れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ)による我が国の占領支配に影響(えいきょう)を与えたともいわれています。
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ぴーち こんにちは!
マッカーサー元帥は、この時に
日本に対しての敵対心を大きく募らせて
戦争責任の成敗を担うという名目で
あの有名な
日本への上陸場面が生まれたと言うわけですか・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 それだけでは原因ではないと思いますが、人間が感情の動物である以上は避けられない現実だったと思いますね。
もっとも、その感情の一部をくつがえしたのが昭和天皇であられたわけですが…。
日本軍の快進撃(かいしんげき)によって、かつての欧米列強(おうべいれっきょう)の植民地は次々と解放されましたが、搾取(さくしゅ)を中心とした劣悪(れつあく)な環境(かんきょう)で過ごしてきた現地の人々は、憎悪(ぞうお)の対象であった白色人種(はくしょくじんしゅ)の列強の兵士が、自分たちと同じ有色人種(ゆうしょくじんしゅ)の日本軍によって駆逐(くちく)される様子(ようす)に歓喜(かんき)しました。
日本軍が新たに占領した旧植民地に対して、我が国は将来の独立も視野に入れた軍政を展開し、ビルマ(現在のミャンマー)やインドネシアでは独立のための義勇軍(ぎゆうぐん)が組織され、軍事訓練が行われました。
また、イギリス軍のインド兵の多くは日本軍の捕虜(ほりょ)となった後にインド国民軍に加わり、インドの独立をめざして日本軍と共にイギリス軍と戦うようになりました。
なお、日本軍は大多数の地域で支配者である欧米人から植民地を解放する「解放軍」として受けいれられましたが、その一方で東南アジアの植民地の分断支配(ぶんだんしはい)を任(まか)され、現地で欧米人に代わって支配階級に置かれていた華僑(かきょう)を中心とする反発もありました。
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ぴーち こんばんは!
なかなか全ての国から支持されることは
出来ないようで難しいものですね。
あちらが立てば、こちらが立たず。
人も万人に好かれると言うことが無いように
どんなにこちらが尽くしても
どうしても分かり合えない事が
生じてしまうのが現実ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 色んな立場の人間が世の中にはいますからね。
国も同じであり、解放が良いことばかりとは限らないということでしょうか。
この選挙では阿部信行(あべのぶゆき)元首相を会長とする翼賛政治体制協議会(よくさんせいじたいせいきょうぎかい)が推(お)す候補者(こうほしゃ)が定員の466人中381議席(全体の8割強)を獲得(かくとく)して絶対多数となり、協議会に所属する議員は選挙後に翼賛政治会(よくさんせいじかい)を結成し、政府の政策(せいさく)に協力しました。こういった経緯(けいい)から、この選挙は翼賛選挙(よくさんせんきょ)とも呼(よ)ばれています。
ところで、この翼賛選挙によって帝国議会は政府の提案の承認(しょうにん)を与えるだけの機関(きかん)と化してしまったとみなす見解が多いようですが、実際には大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう、通称を明治憲法=めいじけんぽう)や議会活動は停止(ていし)したことはありませんでしたし、いわゆる翼賛政治家以外の代議士も83人誕生(たんじょう)しているという事実も存在(そんざい)しています。
なお、この選挙で翼賛政治体制協議会の推薦(すいせん)を受けた候補者には、臨時軍事費(りんじぐんじひ)として計上された機密資金(きみつしきん)を利用した選挙資金が配られていました。民間からの資金提供を受けていないという点ではクリーンと言えるかもしれませんが、逆に言えば選挙民や財閥(ざいばつ)などの顔色を一切うかがう必要がない一方で、資金提供を受けた軍部の意向に逆(さか)らいにくいという流れもありました。
かつて国家社会主義思想(こっかしゃかいしゅぎしそう)が我が国で広がりを見せた際、軍部を中心に「政党政治は腐敗(ふはい)している」と国民に対して喧伝(けんでん、盛んに言いふらすこと)されましたが、表向きは「クリーン」な翼賛選挙もその裏(うら)では「軍部と癒着(ゆちゃく)」していたのみならず、民間の意見が取り入れられない環境(かんきょう)にあったのです。
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ぴーち こんにちは!
政治というのは難しい舵取りを強いられるものだとつくづく感じました。
人口が多くなればなるほど
その傾向は強く
こちらでは賛成する者があっても、片方では
反対する者が出て来たりと
国民の大多数が程々な満足感が得られるという状態が
最高で、満点を望むのは酷な事なのでしょう。
政党に関しても、国民と接している表は
種も仕掛けもない何も疑う余地のない
ただの空箱の様に見えても、見えない部分では
しっかりと仕掛けが用意されているということでしょうかね。
そういう意味では、政治家は
腕の良い「マジシャン」でなければ
通用しない職業なのかもしれませんね(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
綺麗事や正義が通用するとは限らないのが政治ですから、政治家にクリーンさばかり求めるのは無意味と言ってよいかもしれません。
また選ぶ側の国民も、政権を託した以上は国益に反しない限りは長期的視野での展開を求めるべきかと思われます。
「峰つづき おほふむら雲 ふく風の はやくはらへと ただいのるなり」
厚い雲のように世界全体を巻(ま)き込(こ)んだ戦争が早く終わってほしい、という陛下(へいか)の切実なお祈(いの)りのお気持ちを私たちは知ることができますが、現実には大東亜戦争は長期化し、結果として我が国は敗戦となってしまいました。
しかし、先述(せんじゅつ)したとおり大東亜戦争の緒戦(しょせん)において我が国は快進撃(かいしんげき)を続け、開戦後わずか半年でアジアにあった欧米列強(おうべいれっきょう)の植民地のほとんどを占領(せんりょう)あるいは支配し、石油などの重要資源も確保(かくほ)しました。
もし我が国が優勢(ゆうせい)な段階(だんかい)でアメリカなどの連合国と講和が出来れば、その後の歴史が大きく変わったことは間違(まちが)いありませんが、果(は)たしてそれは可能だったのでしょうか。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
そうですね。
過ぎ去ってみて、後で冷静になった時には
あの時はああすれば良かった。こうすれば良かったと後悔の念が浮かんで来るものですよね。
後悔、先に立たずですが、その反省の思いが
強ければ強いほど、後々の事例に活かす事が出来ると良いですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
過去を反省するというのであれば、失敗の経験を活かして次につなげなければなりません。
今回の件に関しても、もう少し検討を重ねたうえで総合的に判断できればと願っております。
日露戦争において我が国は様々な戦いを苦労の末(すえ)に勝ち抜(ぬ)いてきましたが、奉天会戦(ほうてんかいせん)を制し、また日本海海戦(にほんかいかいせん)に勝利したあたりで戦力が限界に達しました。
このまま戦いを続ければ国力に勝るロシアの逆襲(ぎゃくしゅう)も十分に考えられましたが、国内の政情不安に悩(なや)まされたロシアはアメリカの仲裁(ちゅうさい)を受けて講和に応じ、我が国は辛(から)くも勝利を収めることができました。
つまり、アメリカの仲裁やロシアの政情不安があったからこそ我が国は日露戦争を制することができたともいえるのですが、勝利をもたらした背景には何があったのでしょうか。
実は政治力による「政略(せいりゃく)」なのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
なるほど、ただ単に
ロシアに勝利したのは
運ばかりが良かったわけではなかったのですね。
運を引き寄せるにも、
下準備がなければ成り立たないということですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、運を引き寄せることは重要であっても、それだけでは勝てません。
次回以降にそのあたりを詳しく紹介いたしますので、ぜひご覧ください。
他国と戦争となった場合、勝利を得るために「戦略(せんりゃく)」を練(ね)って戦い続けるのは軍人の役割ですが、彼らには戦争を終わらせることができません。戦争終結は外交努力の結果であり、それは「政略」を行う政治家の仕事です。
我が国が日露戦争(にちろせんそう)で勝利できたのもこの「大原則」に従(したが)ったからであり、明治政府は我が国の国力の限界を見極(みきわ)めたうえで、長期戦と化して日本軍が劣勢(れっせい)となる前に戦争を終わらせるため、ロシアと開戦前から講和への道を探(さぐ)っていました。
日露両国に対して当時は中立的な立場であったアメリカを仲介国に選び、当時のセオドア=ルーズベルト大統領(だいとうりょう)と親交のあった金子堅太郎(かねこけんたろう)を特使としてアメリカへ派遣(はけん)したり、明石元二郎(あかしもとじろう)による諜報活動(ちょうほうかつどう)が成果を挙(あ)げたりするなど、少しでも我が国に有利な展開になるようにとあらゆる努力を重ねました。
開戦前から講和への道を探るなど「政略」を練った政府と、現場において命がけで戦い続けた「戦略」担当の軍隊。政治家と軍人とがそれぞれの役割をしっかりと果たしていたからこそ、我が国は日露戦争において戦局が有利なうちにロシアと講和を結ぶことが可能となったのです。
戦争は始めることよりも「終わらせること」の方がはるかに重要であり、日露戦争はそれを実現できた代表例だったのですが、日露戦争と大東亜戦争とで大きな違(ちが)いが出来てしまったのはなぜでしょうか。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
なるほど・・
戦争は始めるときよりも、終わらせることが重要。
確かに夫婦関係も、結婚するよりも、離婚するほうがはるかに難しいし、倍の労力がいるものです・・・って、余り関係の無い例えになって
すみませんm(__)m(苦笑)
大東亜戦争のときはその終わらせ方に
何か問題が生じてしまった訳なんですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いえいえ、とんでもないです。
私自身は未婚ですので両方ともよく分からないのですが(笑)、仰る話はよく耳にしております。
大東亜戦争の場合については、日露戦争と比較することでその問題がより浮き彫りになると思います。
しかし、昭和に入る頃には元老の多くが死に絶(た)えており、元老の権威(けんい)が必然的に低下したことで、彼らが推薦(すいせん)して組織された内閣の指導力も同時に低下したのみならず、大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう、通称を明治憲法=めいじけんぽう)制定時には予期していなかった大きな問題が起きました。いわゆる統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)のことです。
確かに明治憲法の第11条には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥(とうすい)ス」と書かれており、条文を素直(すなお)に読めば「統帥権(=軍隊を指揮する権利)は天皇のみが有する」という規定だとも読めますが、もちろん実際に天皇ご自身が指揮(しき)を取られることはありません。
そもそも一国の軍備について決定を下すことは統治権(とうちけん)の一部であり、統治権は天皇の名のもとに内閣(ないかく)が行うものです。従って、軍部による主張は統帥権の拡大解釈(かくだいかいしゃく)に過ぎず、統帥権干犯問題は軍部による反撃(はんげき)の一つでしかありませんでした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田 黒田先生
青田です。
こういうことは、古今東西、世の常かもしれない気がします。
① 世代交代による人材不足。
② 都合のイイように法律の拡大解釈。
さらに、悪いことに、明治の有能な人材は、日露戦争後に
かなりの人材が病気などで、亡くなってしまいました。(それだけ、日露戦争が重かったからだと思いますが)
やはり、どんな状況にも対応できる柔軟で、逞しい人材への教育改革を日露戦争後にすべきだったと思います。
教育改革は、常に必要ですね。(永遠のテーマ)
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、教育改革は永遠のテーマですね。
そのためにも「過去の失敗」をしっかりと勉強する必要があります。
ぴーち こんばんは!
こういうお話をお伺いすると
何の職業でもそうですが、後継者という
存在がいかに大事であるかという事を
思い知らされます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、後継者は重要ですね。
現代の為政者もしっかりした後継の有無で明暗が分かれそうです。
なぜなら、政党政治を行う立場である政党人自(みずか)らが「軍部は政府のいうことを聞く必要がない=内閣は軍に干渉(かんしょう)できない」ことを認めてしまったからです。事実、この問題をきっかけとして我が国では軍部の暴走(ぼうそう)を事実上誰(だれ)も止められなくなってしまいました。
軍部の暴走はやがて昭和7(1932)年の五・一五事件や昭和11(1936)年の二・二六事件といった大事件をもたらし、また軍部大臣現役武官制(ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい)が復活したことによって、首相が陸海軍大臣の意向を無視(むし)できなくなるなど、我が国の政治は事実上軍部に乗っ取られた状態(じょうたい)と化しました。
これでは戦争遂行(すいこう)のための「戦略」を練(ね)ることはともかく、外交努力などの「政略」が期待できるわけがありません。結局、我が国は大東亜戦争で戦況(せんきょう)が有利なうちに講和への道を探(さぐ)るための何のイニシアチブも取ることができませんでした。
しかも、こうした問題の根幹(こんかん)となった統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)は、さらなる悲劇(ひげき)を我が国に及(およ)ぼしていったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田 黒田先生
青田です。
私が学んだ歴史教育では、軍部の暴走だけが強調され、軍部だけが悪というふうに教えられました。
しかし、実際には、この時、議会政治、政党政治が行われていたわけですから、
軍部だけの責任にするのは、現代人は、何の教訓も学んでいない気がします。
結局は、全員の責任だと思います。『自分勝手主義。』
● 政党は、国益よりも、政党の利益を考える。
● 軍部は、国益よりも、軍拡を考える。
● 官僚(特に外務省)は、国益を考えず、自分のキャリアのことだけを考える。
● マスコミは、国益を考えず、自社の利益だけを考える。
現代では、個人主義=善、全体主義=悪と
されていますが
あの戦争の内部原因として『国益を考えず、自分勝手主義』がもたらしたことを
今の日本人が自覚しないと、今の日本の崩壊の危機をもたらすと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
今の政治家や官僚、あるいはマスゴミも全く歴史に学んでいないといえるかもしれません。
あるいはわざとやっているのかもしれませんが…。
ぴーち こんばんは!
何かの勢力が過剰に強くなるという事は
その他の勢力にそれを食い止める力が
無かったということですものね。
どうしても表面に現れた事だけを見て
それが悪だと決め付けてしまう傾向が
誰氏にも有るかとは思いますが、
影に隠れて分からない部分にも実は
腐った部分も存在している・・という
事にも目を向けなければいけませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
軍部の暴走が戦争を招いたという見方が事実であるとしても、そこまでに至った流れを見極めないことには何の教訓にもなりません。
例えば陸軍大将でもあった東条英機(とうじょうひでき)首相は陸軍大臣も兼任(けんにん)していましたが、彼が海軍に命令することはできませんでした。東条首相は後に陸軍の軍令機関(ぐんれいきかん)のトップである参謀総長(さんぼうそうちょう)も兼任して何とかリーダーシップを一元化(いちげんか)しようとしましたが、海軍の軍令機関のトップたる軍令部総長(ぐんれいぶそうちょう)に就任(しゅうにん)できない以上は同じことでした。
かくして我が国では終戦を迎(むか)えるまで、戦争終結への外交努力に欠かせない「政略」がないがしろにされたのみならず、陸軍と海軍との意見を調整できる人物や機関(きかん)が存在しないことで「戦略」すらままならない状況(じょうきょう)が続いたのです。
統帥権干犯問題で実権を握(にぎ)ったはずの軍部でしたが、やがてはその軍部すら身動きを封(ふう)じられたのみならず、最後には国家の統治機関(とうちきかん)の中心部にまでその影響(えいきょう)が及(およ)んでしまうという結果となりました。
そして、戦争終結へ向けての「政略」が何もなされぬまま我が国の戦局が暗転したことで、苦しい状態が続いていた我が国がさらに追い込(こ)まれてしまうようになるのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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零崎涼介 『大東亜戦争の始まり その1』のコメント欄で、
「重大な事実をボカしてはならない。」との題でコメントしましたが、
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-1866.html
やはり条約によっての合法居留の日本人・合法駐留の日本軍に対して、
中国側からテロ攻撃してきたこと、そしてその中国軍(蒋介石軍)に
資金・武器援助していた筆頭がアメリカであったこと、
そしてアメリカは日本に対しては経済制裁してきたことを
忘れてはいけないと思います。
『大東亜戦争の始まり』という題でありながら、
その肝心な始まりが記述されていないことは、
右下のプロフィールで表明されていらっしゃる
「歴史全体の大きな流れを重視」
することになっていないと言わざるを得ません。
大日本帝国憲法に「天皇は陸海軍を統帥す」と書かれていなければ
攻撃されることはなかったのでしょうか?
戦争には相手がいます。
相手の動きの検証が少なすぎませんか?
こちらが勝っている時に
外交努力で戦争をやめれば良かったという趣旨のようですが、
アメリカは資源が豊富で、アメリカ本土には何ら被害が出ていない状態で、
はたしてアメリカは停戦に応じたでしょうか?
「リメンバー・パールファーバー」とは、「やり返す!」ということで、
日本には資源がないと知っているわけですから、普通に考えて、
日本が良いときに戦争を終えてくれるはずはなかったのではありませんか?
まだ『大東亜戦争の始まり その11、12』と続きそうですから、
どういう組織で、どのような外交を展開していたら、どうなったのか、
今後、述べられるのでしょうが、
現時点で、どうしても投稿したくなって投稿させていただきました。
ぴーち こんばんは!
ひたすら戦略を練りながら
戦争を推し進めていくのが軍の役目だとすれば、
その行く末を何処でどう締めくくるかという役目が政府の仕事だと言いますね。
けれど、今日のお話を伺うと
要となる人物、あるいは機関が不在という事は
いかに恐ろしい事であることか
少しだけ理解出来たように思います。
零崎涼介さんへ
黒田裕樹 まずは貴殿のご質問に答えたいと思います。
>やはり条約によっての合法居留の日本人・合法駐留の日本軍に対して、
>中国側からテロ攻撃してきたこと、そしてその中国軍(蒋介石軍)に
>資金・武器援助していた筆頭がアメリカであったこと、
>そしてアメリカは日本に対しては経済制裁してきたことを
>忘れてはいけないと思います。
貴殿のご指摘がなくとも、すでに私のブログで詳しく述べております。
「どうしても投稿したくなった」前にご自身で検索されましたか。それとも一つの最新記事に関して貴殿のために過去の該当記事をすべて掲載する必要があるのですか。
>「歴史全体の大きな流れを重視」
>することになっていないと言わざるを得ません。
過去記事をご覧いただければ私がブログにおける最大のテーマとしてずっと「歴史全体の大きな流れを重視」していることがご理解いただけると存じますし、何よりも一つの記事だけで勝手に断定されるのはいかがなものでしょうか。
>こちらが勝っている時に
>外交努力で戦争をやめれば良かったという趣旨のようですが、
>アメリカは資源が豊富で、アメリカ本土には何ら被害が出ていない状態で、
>はたしてアメリカは停戦に応じたでしょうか?
>「リメンバー・パールファーバー」とは、「やり返す!」ということで、
>日本には資源がないと知っているわけですから、普通に考えて、
>日本が良いときに戦争を終えてくれるはずはなかったのではありませんか?
なるほど、我が国が緒戦を制しただけでは「アメリカは」講和に応じなかったかもしれません。しかし、例えば「同盟国のイギリスやオランダと講和を先に結ぶ」とか、あるいは日露戦争の明石元二郎のように「巧妙な諜報活動でアメリカ内部から揺さぶりをかける」など、いくらでも方策があると思いますがいかがですか。さらに言えば、貴殿のためにそこまでブログ本文で説明する義務が私にあるのですか。
貴殿のご賢察が傾聴に値するかどうかはともかくとして、そもそも事前の調査もせずに他人のブログで長々とご高説を述べられる姿勢はいかがなものかと存じます。
今後のブログの展開は貴殿がご心配なさらずとも、私なりの考えで進めてまいります。
それでも投稿なさりたいと仰るのであれば、既にお持ちの場合は失礼な話ではありますが、ご自身のブログで自説を堂々と述べられたうえで私にご指南されてはいかがですか。
もし今後も同じような投稿が続けられた場合、承認をするか否かについては管理人たる私自身で判断させていただきます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、当時の政府の機能不全ぶりは現代でも空恐ろしいほどですね。
現代にもつながる大きな教訓だと思います。
なぜ、こうなってしまったのか?
青田 黒田先生
青田です。
どこの国も、例外なく、陸軍と海軍は、仲が悪いです。
それを、統括してコントロールするのが政治家の仕事なんですが、
政治家の言うことに従う必要がないとなると
シビリアンコントールができていません。
明治時代も集団指導体制でしたが、元老が
国家戦略局の役割を果たしていた気がします。
(私の学んだ歴史教育では、元老が悪の権化のように教えられましたが)
該当記事のアドレスを教えていただきたいです。
零崎涼介 >貴殿のご指摘がなくとも、すでに私のブログで詳しく述べております。
量が多いので、できれば該当記事のURLを貼って
教えていただければと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、陸軍と海軍の仲が悪いからこそのシビリアンコントロールのはずです。
「元老=悪」という図式も短絡的ですが、それだけが理由ではないとはいえ、軍の暴走がどんな結果をもたらすかということが今回の教訓で良く分かりますね。
零崎涼介さんへ その2
黒田裕樹 まずは貴殿のご質問に答えます。
> 量が多いので、できれば該当記事のURLを貼って
> 教えていただければと思います。
私のはプラグインの右下にありますが、通常のブログであれば「検索フォーム」というのがあり、そこで調べたい用語を検索にかければ関連記事が出るようになっています。
そこでたとえば「盧溝橋事件」「日華事変」「日米交渉」「大東亜戦争」などと入力すれば必ずヒットしますので、そこからお探しください。
一回のコメントにあれだけ大量の長文を送りつけるだけの度量や力量、あるいはご意志があれば、ご自身でお探しできるのが常識というものです。
それにしても、ここまできて自分のことしかお書きにならないとは…。
大東亜戦争は決して「無謀(むぼう)な戦争」ではなく、当時の軍事力や国力の比較(ひかく)からすれば、日清戦争(にっしんせんそう)あるいは日露戦争(にちろせんそう)よりももっと勝てる可能性(かのうせい)の高かった戦争だったともいえるのであり、実際にそのような見解も存在(そんざい)しています。
今回のように大きな歴史の流れを見てゆくと、日清・日露両戦争当時と比べ、大東亜戦争においてはいかに我が国の政治家も軍人も、その中枢(ちゅうすう)の人材が払底(ふってい)あるいは堕落(だらく)し、自壊(じかい)するように負けていったかということがよく分かります。
我が国の未来のためにも、単なる「戦争は良くない」という否定的(ひていてき)な見解のみに終始するのではなく、今回のような「大東亜戦争で我が国が勝てなかったのは何故(なぜ)なのか」ということこそが、歴史教育でよく学ばねばならない重要な課題ではないでしょうか。
「あの戦争は勝てたのではないか」という観点を、我々は絶対に失うべきではありません。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
(※次回[10月10日]からは第38回歴史講座の内容の更新を開始します)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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青田 黒田先生
青田です。
大東亜戦争の敗北の原因として、
唯物論があった気がします。
日清戦争・日露戦争の時の政治家・軍人は、
幕末にしっかりとした道徳教育を受け、その土台の上に欧米の知識を吸収しました。
いわば、日本にとって『最大の資源は、人』だったわけです。
それが、大東亜戦争の時期になると、欧米の知識だけを吸収し、『最大の資源は、人』という概念が
欠如しました。
そして、戦後も、唯物論の観方だけで、『資源のあるアメリカと戦ったから、最初から、勝てないのが当たり前』で、結論づけて終わっています。
しかし、世界の歴史において、『優秀な人材のいる小国』が、『人材不足の大国』で、勝った例は、いくらでもあります。
そう考えると、今の日本は、大東亜戦争時代よりも、唯物論が蔓延していて、『人=資源』という概念が欠如しているので、危機的だと思います。
人材不足の経済大国が、没落するのは、世界の歴史の常識です。
たとえば、今のポルトガルを観て、大航海時代に世界中に植民地を持っていた大国だとイメージできる現代人は、いません。
青田さんへ
黒田裕樹 唯物史観は共産主義との縁が深いですからね。
確かに危機的状況ですが、だからと言って歴史教育の正常化への歩みを止めるわけにもいきません。
他人との意見交換をスムーズに行うためにも、一方的な物言いは厳禁ですね。
ぴーち こんにちは!
今日たまたまニュースで中国の駐米大使の発言した言葉を聞いていたのですが、その言葉をふと
今日のお話で思い出しました。
日本は原爆で負けたわけではない。
アメリカに嫌われないように、アメリカばかりに気を遣いすぎていて、周辺諸国には注意を向けようとしないなど、プロパガンダに傾倒した発言だとは思いましたが、確かにアメリカにコバンザメのように寄り添う姿がそう言われても仕方がないのは否めない気がしました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かにコバンザメはみっともないですね。
ただし、憲法9条などにがんじがらめになっている現状で、最大の国益を求めた場合には「致し方ない」という判断も出てくるかもしれません。
何事も世界情勢と国家のバランスでしょうね。
広報仲原 黒田先生こんにちは。
大東亜戦争は勝てたというお話ですが、私は以前、百田尚樹さんにツイッターで「大東亜戦争は勝てたと思いますか?」と質問したことがあります。
百田さんのお答えは「絶対勝てない」でした。
理由は「たとえミッドウェーで勝てたとしても、日米の物量差を考えれば絶対勝てない」とのことでした。
黒田先生はどうお考えでしょうか?
広報仲原さんへ
黒田裕樹 百田さんには百田さんのお考えがあると思いますし、現実的には難しいものがあったのも事実です。
ただ、早期講和に持ち込めるだけの外交努力(例えば連合国の間にくさびを打ってイギリスなどと単独講和を結ぶとか)があれば、あるいは可能だったかもしれません。
最初から無謀な戦争と切り捨てる前に、当時の失敗を活かして後の世に生かすことが重要であればこそ、なおさら「大東亜戦争に勝つためには何をすれば良かったのか」と検討する必要があると思います。