日華事変(にっかじへん)の泥沼化(どろぬまか)や日独伊三国同盟(にちどくいさんごくどうめい)の締結(ていけつ)、さらには北部仏印進駐(ほくぶふついんしんちゅう)にABCDラインの形成など、様々な戦闘行為(せんとうこうい)や外交状況が重なるなかで、我が国とアメリカとの関係はますます悪化(あっか)していきました。こうした事態を打開するため、第二次近衛文麿(このえふみまろ)内閣は昭和16(1941)年に日米交渉(にちべいこうしょう)を本格化させました。
日米交渉における我が国側の窓口となったのは、駐米大使(ちゅうべいたいし)の野村吉三郎(のむらきちさぶろう)でした。野村はフランクリン=ルーズベルト大統領(だいとうりょう)とは旧知(きゅうち)の間柄(あいだがら)であり、少しでも交渉に有利になるようにという願いが込(こ)められていました。
交渉は野村大使とアメリカのハル国務長官(こくむちょうかん)との間で続けられましたが、松岡洋右(まつおかようすけ)外務大臣(がいむだいじん)が日ソ中立条約(にっソちゅうりつじょうやく)を結ぶなど事態が複雑化(ふくざつか)し、交渉は容易(ようい)にまとまりそうもありませんでした。このため、近衛首相は日米交渉の障害(しょうがい)になると思われた松岡外相(がいしょう)を除(のぞ)くために一旦(いったん)内閣を総辞職(そうじしょく)し、昭和16年7月に第三次内閣を組織しました。
なお、松岡外相は確かに対米強硬派(きょうこうは)でしたが、同時に熱心な「北進」論者でもあり、自(みずか)ら結んだ日ソ中立条約を破棄(はき)してでも日独伊三国同盟を優先し、ドイツと一緒(いっしょ)に東西からソ連を挟撃(きょうげき)すべきだと主張していた人物でした。
松岡が外務大臣を辞(や)めさせられたという事実は、我が国が北進論を取りやめ、英米との対決も辞さない南進論へと国論が大きく傾(かたむ)いたことを意味していたのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
青田 黒田先生
青田です。
まず、この当時の日本国の目的が、どうもわかりません。
戦争というのは、それ自体が目的ではなく、
手段にすぎません。
日清戦争、日露戦争の時は、『日本国の防衛』という目的が観えていた気がするのですが、この時期になると、
なぜか、観えません。
たとえば、『日本の国土を守る。』が目的なら
北進することが絶対に正解です。
しかし、『資源の確保』となるとかなり、ソ連の内陸部まで進軍しないとできないので、不正解です。
逆に『日本の国土を守る。』が目的なら
南進は、『百害あって、一利なし。』です。
なぜなら、海洋国家である日本が、海軍国である
アメリカ・イギリスと戦うことになるからです。
ただ、『資源の確保』が目的なら、北進よりも『資源確保』が容易なので、正解です。
これは、結果論ですが、戦略のミスで、日本の運命が大きく、変わることを考えると、何ともやりきれない気持ちになります。
ただ、この昭和16年の時の政権は、彼らなりに懸命に考えていたと思います。
それに比べて、現代では、数年前の某民●党政権は、
戦略ミスどころか、戦略さえなかったわけですから、昭和16年の政権よりも、はるかに情けないですよね。
ぴーち こんばんは!
太平洋戦争へ移行して行った経緯として
この松岡外務大臣の存在が日本の行く末に
大きく関与していた事になる訳ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり「戦略ミス」の面もありますね。今回の講座では様々な側面から当時の状況を振り返ってみたいと思います。
なお、数年前の政権はそれ以前の問題であるとともに論外ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、松岡大臣の存在は大きかったと思います。
彼が抜けたことでその後の我が国の行く末がどうなったのか。あるいは彼の存在が我が国にどこまで重要だったのか。
あらゆる側面から当時の状況を振り返ってみたいと思います。
不思議なこと
青田 黒田先生
青田です。
私の記憶では、この『北進論』と『南進論』の
話は、学校で、習った記憶がないのですが
これって、私が、憶えてないだけでしょうか。
私のかすかな記憶では、学校の授業で
『北部仏印をして、アメリカから、資源を止められて、そのまま、軍部が暴走した。
当時の日本軍は、何も考えず、行き当たりばったりの思考停止集団』と教師に教えられた記憶があります。
ちょうど、勝新太郎の『兵隊ヤクザ』という映画を観たことがあったので、
私も学生時代は、当時の日本軍は、そんな感じだと思っていました。
ただ、今から、冷静に考えると、
当時の日本のエリートは、世界でも最高レベルだったのですから、そんなはずはないですよね。(陸軍士官学校、海軍兵学校は、東大よりも入るのが難しい。)
青田さんへ その2
黒田裕樹 私はこのあたりは学校で教えられていませんでしたので、当時のことはよく分かりませんが、「思考停止集団」は悪質なプロパガンダですね。
このため、我が国はフランスに対し、植民地である仏印(ふついん、フランス領インドシナのこと)の南部に日本軍を進駐(しんちゅう)させるよう交渉を続けました。南部仏印はタイやイギリスの植民地、あるいは蘭印と接近する要地であり、英米よりも先に進駐することで、我が国が南部で資源を獲得(かくとく)する望みをつなごうと考えられていたからです。
当時のフランスはドイツの激(はげ)しい攻撃(こうげき)によって北半分が占領(せんりょう)され、南半分にはドイツに協力的なヴィシー政権が成立していました。ヴィシー政権の立場は第二次世界大戦後にアメリカの占領を受け、日本国憲法を無理やり制定させられた我が国の政府のようなものだったと言えるかもしれません。
我が国はヴィシー政権をフランスの正式な窓口として交渉を続け、最終的に合意したことで、第三次近衛文麿(このえふみまろ)内閣が誕生した直後(つまり、北進論者の松岡洋右が外務大臣を追われてすぐ)の昭和16(1941)年7月28日に日本軍は南部仏印進駐を開始しました。
以上のように、南部仏印進駐は先に行われた北部仏印進駐と同様に当時のフランス政府との間で決められた合法的なものであったのですが、このことがヴィシー政権を認めていなかったアメリカによる、我が国に対する更(さら)なる報復措置(ほうふくそち)を生んでしまったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
青田 黒田先生
青田です。
この北部仏印、南部仏印が、合法だとは
知りませんでした。
というのは、日本軍による非合法な北部仏印、南部仏印が『侵略戦争』の象徴と
学校の授業で習い、
NHKのドキュメンタリーでも、報じていたからです。
これは、多くの日本人が知るべきことですね。
そうでないと、多くの日本人が『侵略戦争』というマインドコントロールが抜け出せないと思います。
願わくば、テレビ番組で、真実を放送して欲しいです。
青田さんへ
黒田裕樹 当時の国際的常識からすれば、まごうことなき合法でした。
ヴィシー政権がドイツ敗戦によって崩壊した後はもちろん異なりますが、当時の窓口をヴィシー政権に求めることは決して間違っていません。
ただし、連合国側の都合からすれば当然異なるわけですし、そのあたりも考える必要はあります。
管理人のみ閲覧できます
-
ぴーち こんばんは!
よく昔、近所に住んでいたオジサンが
アメリカのやり方は汚い!と罵っている言葉を
耳にしたことがありましたが、その当時
私はその意味が全く理解出来ずにおりました。
むしろ、どうしてアメリカの事をそんなに
悪く言うのか。日本との戦争に勝利した国だから
恨みに思う気持ちだけで、そういう言葉を
発しているのか・・くらいしか
考えていませんでしたが、
こうして黒田さんのお話を伺っていると
その当時のオジサンの複雑な心中を
少しでも理解出来た様な気持ちになり
感謝します。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 日米開戦前の世界状況は、なぜか「日本が一方的に悪い」とされていますからね。
それ自体がプロパガンダそのものなのですが、まずは歴史の「真実」を見極めるために更新を続けたいと思います。
一方、南部仏印(ふついん、フランス領インドシナのこと)を含(ふく)む南洋ルートはゴムや錫(すず)などの天然資源が豊富であり、コメの生産も盛(さか)んでした。北進論を断念した我が国にとって、南部仏印が英米に占領(せんりょう)される前に自国の軍隊を進駐(しんちゅう)させ、ゴムやコメの供給地を確保(かくほ)するという手段は、当時の国際通念上に照らしても当然の自衛行為(じえいこうい)であり、またフランス政府との交渉の末(すえ)に実現した合法的なものでした。
にもかかわらず、日本軍の進駐で自国の植民地支配に危機(きき)が生じると判断したアメリカは、イギリスに亡命(ぼうめい)していたド=ゴール政権こそがフランスの正当なる政府であると主張して我が国の南部仏印進駐を非難(ひなん)し、直後の昭和16(1941)年8月1日に在米日本人の資産凍結や石油など主要物資の対日輸出全面禁止などという措置(そち)をとりました。
言うまでもないことですが、20世紀の国家が石油なくして存在できるはずがありません。それなのに石油を我が国に一滴(いってき)たりとも「売らない」というアメリカの行為は、我が国に「死ね」と言っているに等しい暴挙(ぼうきょ)でした。
なお、1928(昭和3)年にパリ不戦条約が結ばれた際、条約批准(ひじゅん)の是非(ぜひ)をめぐってアメリカ上院議会で討議(とうぎ)が行われた際に、当時のケロッグ国務長官(こくむちょうかん)は「経済封鎖(ふうさ)は戦争行為そのものである」と断言しています。彼の言葉を借りれば、アメリカによる石油禁輸こそが我が国に対する先制攻撃だとは言えないでしょうか。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
青田 黒田先生
青田です。
この段階では、アメリカは、『日本に死ね。』日本に将棋で、
王手をかけています。
ただ、厳しい現実として、その資源を握っているのは
アメリカでした。
私は、やはり、日本の首脳部は、アメリカを甘く見過ぎていたと思います。
アメリカが、そういう理不尽で、不条理で、不合理なことを自国の利益のためなら、平気でできる国であるということを。
ただ、『資源』『アメリカという国』という面から、
これは、現代に通じる大きな教訓にもなると思います。
①(資源にたいする現代の日本人の認識の甘さ)
日本は、資源がないのに、原発再稼働は、イヤ。
かといって、中東の高い石油を買うのは、イヤ。
そして、安全に中東から、石油を確保するために自衛隊を派遣するのもイヤ。
② (アメリカという国にたいする認識の甘さ)
日本人は
米軍基地は、イヤやけど、いざとなったら、アメリカは、守ってくれると多くの日本人は、考えている。
在日米軍は、自国の国益にならないと
いくら日米同盟だといっても、日本から、撤兵するのに。。。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに大きな教訓ですね。私が日頃から発言している「歴史に学ぶ」そのものだと思います。
ぴーち こんばんは!
これからの時代、もしかしたら
日本が藻から石油と同等な成分を開発出来る技術を得とくしているので世界一の産油国として
崇められる時代が到来するかも
知れませんので、この時代、日本は苦しめられた教訓をどう生かすかがこれからの課題でも
有るかもしれませんよね。
水資源も豊富なことも有利ではあると思いますが、
この国土を欲しがる他国からの侵略には注意を払っていきたいものですが。
日本の悲劇は。。
青田 黒田先生
青田です。
やはり、この時の日本の悲劇は、
ルーズベルトが大統領だったことです。
彼は、親中反日の大統領でした。
(彼の側近もコミンテルのスパイ)
一説には、
ルーズベルトは、日本に18個原爆を投下するつもりだったそうです。
ルーズベルトに対日強硬姿勢は、もちろん、日本への無知(無関心)による日本への偏見、彼の側近、そして、中国のロビー活動の結果なのですが、
これって、現代にも通じる気がします。
中国は、ロビー活動をアメリカでしているのに
日本は、ほとんどしてない。
ということは、このままいくと。。。。(泣)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、石油にこだわらない数々の資源活用法が我が国の将来には必須ですね。
原子力の活用とともに、他国の侵略にも気を配らなければいけません。
青田さんへ その2
黒田裕樹 ルーズベルト大統領の件に関しては今後改めて紹介しますので、その内容を返信に替えさせていただきます。
憲章において米英両国は大戦終結後の世界秩序(ちつじょ)の構想(こうそう)を決定したとされていますが、憲章を結んだ段階(だんかい)でアメリカはまだ第二次世界大戦に参戦していないことから、実質的には両国首脳(しゅのう)が対日戦争に関する協議を行ったといえました。
一方、石油禁輸で追いつめられていた我が国は、同年9月6日に昭和天皇(しょうわてんのう)ご臨席(りんせき)のもとで御前会議(ごぜんかいぎ)を開いて帝国国策遂行要領(ていこくこくさくすいこうようりょう)を決定し、対米交渉がまとまらなかった場合には10月下旬(げじゅん)を目安(めやす)としてアジアに植民地を持つアメリカやイギリス、オランダに対する開戦方針が定められました。
なお、この会議において戦争ではなくあくまで外交的な解決を望まれた昭和天皇は、明治天皇がお詠(よ)みになった御製(ぎょせい、天皇による和歌のこと)をご披露(ひろう)されておられます。
「四方(よも)の海 みなはらからと 思う世に など波風の 立ち騒(さわ)ぐらむ」
(※はらから=兄弟姉妹のこと)
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
青田 黒田先生
青田です。
この御前会議は、あくまでも
『開戦方針』であって、『開戦決定』では
ありませんよね。
青田さんへ
黒田裕樹 > この御前会議は、あくまでも
> 『開戦方針』であって、『開戦決定』では
> ありませんよね。
本文にもあるようにあくまでも「開戦方針」です。しかも、この期日は後に延長されています。
詳しくは今後の更新をご覧ください。
ぴーち こんばんは!
そうですよね。
明治天皇が思われたように
人類みな兄弟であるとしたら、
どうして仲良く出来ない
ものか・・と思いますが、
肉親の間だとて、憎しみあってしまう
事も事実起こるものです。
自分ひとりで生まれて、一人で
大きく成長したんだという
驕りは、次第に目を曇らせて
しまうのでしょう。
その思いをそのまま国の成長に
当てはめてみることも出来ると
思います。
人間の業の深さを
改めて感じます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
理想と現実の違いに打ちのめされそうになりますが、それでも歯を食いしばって生きていかねばなりません。
ところで、そもそも世界情勢というものは、今も昔もほんのわずかな、それも遥(はる)か彼方(かなた)で起こった小さな出来事によって、それまでの常識が根底(こんてい)から覆(くつがえ)されてしまうことが日常茶飯事(にちじょうさはんじ)です。
鎖国(さこく)の状態が長く続いて平和ボケしていた我が国が幕末(ばくまつ)に無理やり開国させられ、不平等条約を押し付けられたことは大きな屈辱(くつじょく)でしたが、我が国はその悔(くや)しさをバネとして血のにじむような努力によって近代化を成し遂(と)げ、開国からわずか半世紀で世界の一等国にまで成長しました。
短期間で急成長した我が国を支(ささ)えたものは何だったのでしょうか。無論、そこには三国干渉(さんごくかんしょう)の際(さい)に見られたような「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」をはじめとする精神論もあったでしょうが、何よりも重要だったのは「世界の中の日本の位置付けを正確に分析(ぶんせき)し、我が国の発展のためにあらゆる知恵を絞(しぼ)る」という地道な努力でした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
確かに精神力だけの「万歳突撃」では
共倒れするだけで、未来に受け継がれるものまで
失ってしまいますものね。
用意周到、備えあれば憂いなし。
将来に向けてのビジョンを明確に分析して
今何をするべきかということをしっかり
見極めていくべきなんでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、将来のビジョンを持つことは重要です。
明治時代の我が国にはそれがしっかりとできていましたが、そのあたりを次回(6日)以降の更新で明らかにしていきたいと思います。
それは我が国においても例外ではなく、動乱の戦国時代を最終的に制した者は、単なる戦上手(いくさじょうず)だけではなく、ありとあらゆる謀略を使ったうえで江戸幕府による200年以上の長きにわたる平和を築(きず)き上げた徳川家康(とくがわいえやす)でした。
また、開国など様々な影響(えいきょう)を受けた幕末の混乱期においても、幕府や薩長(さっちょう)、あるいは朝廷(ちょうてい)などの内部で様々な人物が蠢(うごめ)き合い、血で血を洗う国内での勢力争いを繰(く)り広げる一方で、日本の植民地化を狙(ねら)った外国による過度の干渉(かんしょう)を防ぎきり、明治新政権を誕生させることに成功しました。
さらには明治期においても、超大国だったロシアを内部から崩壊(ほうかい)させるべく明石元二郎(あかしもとじろう)が革命(かくめい)の裏工作を行ったことなどによって日露戦争(にちろせんそう)を勝利に導(みちび)くなど、我が国には生き残りのためにあるとあらゆる工作や謀略を駆使(くし)してきたという「もう一つの歴史」が存在していたのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
青田 黒田先生
青田です。
今回の内容は、100%(120%)同感です。
それと
日本人は、明石元次郎について、知らなさすぎますね。(彼だけで、映画が1本作れます。)
ぴーち こんにちは!
謀略と聞いて、今日のニュースを思い出しました。韓国が汚染水拡大を理由に我が県も含む
水産物輸入を全面禁止するという発表をしましたが、ここへ来てこういう処置を行うということは、数日後に控えるオリンピック東京招致への
ある種、妨害行為とも受け取れたのですが、
黒田さんはどうお考えになりますか?
記事と関係ないコメントで申し訳ありません。
青田さんへ
黒田裕樹 明石元次郎に関してはそのとおりですね。
日本国民は過去の歴史に目くらましされすぎです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 今頃になっての措置ですから、確かに妨害行為の疑いがありますね。
ただ、謀略というのは「見た目でそうとは分かりにくい」から謀略なのであり、今回のような「バレバレ」のものはかえって世界の失笑を誘うような気がしますが…。
戦国時代や幕末、あるいは明治期において数々の工作や謀略を成功させてきた我が国が、なぜこの時期になって先人の経験を生かすことができなかったのでしょうか。
その理由として考えられることは、そうした先人の智恵を活用するだけの器量、あるいは度量を当時の指導者が持ち合わせていなかったのではないか、ということであり、もっと厳(きび)しい言い方をすれば「当時の指導者たちは表向き優秀(ゆうしゅう)であっても、百戦錬磨(ひゃくせんれんま)の先人たちに比べれば遥(はる)かに劣(おと)っていた」という見解が成立します。
また、そうなってしまった流れとしては、現場での経験よりも筆記試験を中心とした「机上(きじょう)の考え」が優先される傾向(けいこう)があり、これは現代においても全く変わっていません。
先人の経験を日本民族の智恵として生かせなかった理由は何であったのかということは、現代の私たちにも突(つ)き付けられている重要な課題ではないでしょうか。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
確かに何か行動を起こす前に
それなりに予備知識を持っていなければ
せっかくの行動も無駄に終わることもあるでしょうし、また、予備知識だけで何も行動を
起こさなければ、その知識も無用の長物と化してしまうでしょう。
そういう現象を一言でなんと言うのかは存じませんが、何事も知識と行動力の両輪ががっちりと
駆動してこそ、成功への道が開けるのだと思いますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
今の我が国は成績は優秀でも、いざという時の度胸や器量がどうしても不足しているように見えます。
第二次安倍政権も、最初の政権より一層たくましくなっているとは感じますが…。
エリートとは何か?
青田 黒田先生
青田です。
日本人は、『試験が出来る人間』=『優秀な人間』という
誤解が昭和のこの時代も、現代も持ちすぎです。
彼らは、集中力があるので、『答えのある問題』を解くのは得意です。
しかし、『答えのない問題』を解く力は、ありません。
戦国時代、幕末などを生き抜いた人物は、
『答えのない状況』で、答えを考え、それを乗り切る能力がありました。
ただ、不思議と今でも、政治家・財界人・官僚が尊敬する人物で、『坂本竜馬』『織田信長』の名前を挙げる人が多いのですね。。。
(ブラックジョークのようですが)
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、暗記力だけでは世の中は渡っていけません。
いざという時に応用力なくしてどうやって乗り切ろうというのでしょうか。
近衛文麿は、かなり、ヒドイような
青田です。 黒田先生
青田です。
海外では、東条英機が、ヒトラー、ムッソリーニ―のように独裁者のように思われていますが、
実際には、大混乱にした張本人は、
近衛文麿だったんですね。
ちなみに、世界で、悪いイメージを持たれているイギリスの首相のチェンバレンは、日英同盟を復活させようと日本に打診したそうですが、
近衛文麿は、断ったそうです。
そして、対日強硬派のチャーチル首相になると
日英同盟の復活は、完全に途絶えました。
東条英機は、完全に被害者です。
青田さんへ その2
黒田裕樹 そのとおりです。
国難の時期にとんでもない指導者を選ぶとどのようなことになるのか。
4年前の東日本大震災を思い出せば…。
当時の軍部や国民から多くの期待を背負(せお)って誕生した近衛内閣でしたが、国家総動員法(こっかそうどういんほう)など国家社会主義(こっかしゃかいしゅぎ)に基(もと)づく様々な施策(しさく)を行って国民への統制(とうせい)を強めた一方で、外交面においても南進論を押し進めて日米交渉を暗礁(あんしょう)に乗り上げさせたのみならず、対米開戦を行うかどうかという重要な政治的判断を行うこともなく、最終的に「政権を投げ出す」という無責任な形で内閣崩壊(ほうかい)となったのです。
第三次近衛内閣の後任には陸軍大臣だった東条英機が首相に選ばれました。この背景には、対米開戦の最強硬派(さいきょうこいうは)であった陸軍を抑(おさ)えるためにはそのトップたる東条こそが相応(ふさわ)しく、また東条自身が天皇のご意向(いこう)を絶対視する人物であったことから、昭和天皇が願っておられた戦争回避(かいひ)に最も有効であろうという思惑(おもわく)があったとされています。
こうして誕生した東条英機内閣でしたが、新内閣発足(ほっそく)と前後して日本国内でとんでもない謀略(ぼうりゃく)事件が発覚していました。いわゆるゾルゲ事件のことです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
ゾルゲ事件というのは
恥ずかしながら
初めて聞いた事件です。
歴史の教科で
登場していたのかも今となっては
記憶が不明瞭です^_^;
どんな内容の事件なのでしょうか・・・?
凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ゾルゲ事件は今の歴史教育ではなかなか紹介される機会がありません。
なぜなら「ソ連のスパイ」という身分がばれるからです。
詳しくは次回(9日)の更新をご覧ください。
ゾルゲはドイツの新聞記者として昭和8(1933)年に来日し、ドイツ大使の信頼を得るなどして巧(たく)みに様々な情報をスパイ活動によって入手するようになりました。また、近衛文麿(このえふみまろ)のブレーンとして活躍(かつやく)した尾崎秀実とも親しくなり、両者は連携(れんけい)してソ連(=コミンテルン)のスパイとして暗躍(あんやく)するようになりました。
我が国が日華事変(にっかじへん)の泥沼化(どろぬまか)や対米交渉の行きづまりなどによって北進か南進かの決断を迫(せま)られた際にも、ゾルゲと尾崎は協力して南進へと国論を傾(かたむ)けさせ、北進によってソ連がドイツと我が国によって東西から挟撃(きょうげき)されるという事態を防ぐなど、我が国の重要な政治的あるいは外交的決断の多くに関わったと考えられており、その影響(えいきょう)は極(きわ)めて大きかったと言わざるを得ません。
なお、尾崎は昭和16年10月14日に、ゾルゲは同月18日にそれぞれ逮捕され、二人とも後日に死刑に処(しょ)されていますが、二人の逮捕が第三次近衛内閣の総辞職(10月18日)とほとんど同じ時期であることは単なる偶然(ぐうぜん)なのでしょうか。
諜報活動が明らかになった場合、その当事者、すなわちスパイにすべての責任を被(かぶ)せてしまうことは歴史上よくある話で、実際には当時の国民が知っていた事件の内容よりも遥(はる)かに大がかりなものであったのは間違(まちが)いないことですが、いずれにせよゾルゲ事件の発覚が東条英機内閣の成立時と重なっていたということが、その後の外交交渉が極めて難しいものであることを暗示していたと言えるでしょう。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
青田 黒田先生
青田です。
このゾルゲですが、
あれだけ、猜疑心の塊りのスターリンが、
このゾルゲからの情報を信じ、
日本の北進のために、配備していた全シベリア旅団を
西に大移動させたスターリンの決断も大きかったです。
ドイツ軍に追い詰められたスターリンとしては、
このゾルゲの情報を信じた大きな賭けだったとは、思います。
逆に、この時の日本政府の首脳部の情報戦での脆弱性は、ちょっと情けないです。
ただ、現代の日本は、スパイ天国と言われていますので、論外ですが。。
日露戦争の時は、世界中にいた日本人が、ロシアに勝つための情報を日本のために流していたのに。。。(嘆き)
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、追いつめられていたがゆえの大きな賭けだったのでしょう。
そして、この段階において運命はソ連に味方しました。その理由は今もなお不明ではありますが…。
ぴーち こんばんは!
スパイと聞いて記憶に新しいのは
北朝鮮の工作員だった金賢姫。
彼女は蜂谷真由美という日本人に成りすまして
いましたが、
やはり問い詰めると、北朝鮮人である
事が言葉や記憶の端々で日本とは異なることが判明しましたよね。
民主党政権の時に
彼女がVIP待遇で日本観光する様子を
観たときに、政府の勘違い方針を疑問に
思ったのを思い出しました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 スパイは現代にも数えきれないくらい存在していますからね。
民主党政権時代には、スパイ防止法のない我が国が良くもまぁあんな愚行をやったものです。
怪物スターリン
青田 黒田先生
青田です。
残念ながら、東条英機、近衛文麿では、スターリンと冷酷さ、陰湿さでは、全く、歯が立ちません。
このスターリンは、
●日本とのノモンハン事件で、ソ連のT34の弱点が防御にあることを知り、それを改良し、ドイツとの戦いで、勝ちました。
● 自分の政敵を粛清するために秘密警察の組織を拡大させ、それを世界最強のスパイ組織にして世界中に送り込みました。
●当時、ソ連は、経済的に成功している国に思われて、スターリンは、自分のプロパガンダもうまく、世界の社会主義者から、英雄でした。
スターリンの所業が明らかになり、スターリン批判をしたのは、その死後です。
このスターリンは
その人生が、恐ろしいほどのサバイバル能力を彼に身につけさせました。
幼い時から幼児虐待を受け
子供のころに馬車で、
二回大怪我に合い、体に障害を持ち、
シベリアにも3回も流刑に合いながら、
生き延びた凄まじいまでの生命力と冷酷さを持った人物です。
ヒトラーも恐ろしい人物ですが、スターリンは
さらにもっと恐ろしいです。
願わくば、徳川家康、毛利元就なみに人物が日本の首脳部にいたら、歴史も変わっていたと思います。
青田さんへ その2
黒田裕樹 スターリンに関しては確かのその通りでしょう。
ただし、現在の講座と直接関係がないので、この間に関してはこれまでとしていただきます。以上。
昭和天皇に絶対の忠誠(ちゅうせい)を誓(ちか)っていた東条ならではの方針の転換(てんかん)でしたが、さらに東条は外務大臣に対米協調派の東郷茂徳(とうごうしげのり)を選んだほか、大本営(だいほんえい)政府連絡会議を連日開いて戦争回避への外交策を検討しました。
会議において統帥部(とうすいぶ)からは「開戦後2ヵ年は成算があるがそれ以降は不明である」との意見があり、政府もそれを了承(りょうしょう)しました。当時の我が国の石油の備蓄量(びちくりょう)は民需(みんじゅ)の分を含(ふく)めて2年分しかなく、まさに石油の有無(うむ)が我が国の生命線を握(にぎ)っていたと言えました。
この他(ほか)、外交交渉の期限を11月30日夜12時(12月1日午前0時)と定めたほか、対米交渉の切り札としてアメリカの希望を可能な限り考慮(こうりょ)した「甲案」「乙案」を取りまとめました。この時、交渉期限まで既(すで)に1ヵ月を切っており、まさに土俵際(どひょうぎわ)の外交交渉だったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
こうして伺っていると
結果的には東条英機はA級戦犯として
処刑されてしまいましたが、
開戦前から既に日本が
どのような運命を辿るかを分かっていただけに
この任務を任された時は
相当の重責だった事でしょうね・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 東条英機は首相に就任したことで、本文にもあるようにそれまでの開戦派から180度方針を転換し、戦争回避に全力を挙げました。
しかしながら前政権の投げ出しの後始末や、アメリカのかたくなな態度に苦労するとともに、カウントダウンが刻一刻と迫る中ではそのストレスは相当なものだったと思いますね。
来栖大使はルーズベルト大統領に我が国の苦しい立場を素直に表明して交渉に応じるよう懸命(けんめい)に説得しましたが、大統領は言葉を適当にはぐらかして、やんわりと拒否(きょひ)するばかりでした。
実は、この時までにアメリカ側は我が国の秘密文書の暗号を解読しており、我が国の交渉過程(かてい)は筒抜(つつぬ)けだったのです。我が国は事実上の最後の切り札である「乙案」も提示したほか、日独伊三国同盟(にちどくいさんごくどうめい)の死文化(しぶんか)すら申し入れましたが、アメリカは聞き入れず、11月26日に両大使に対して一つの「外交文書」を突(つ)き付けました。
それこそが悪名高い「ハル・ノート」だったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
青田 黒田先生
青田です。
私は
この『ハルノート』に関してのルーズベルト大統領に態度には、いつも、凄まじい怒りを感じます。
結局は、日本側が、
どんな万策を尽くしても、ルーズベルト大統領は、難癖をつけて
どうしても、日本を潰しておきたかった気がします。
もちろん、アメリカの国益もあったでしょうが、
ルーズベルトの日本にたいする個人的な嫌悪の感情もあると思います。
(あまり、知られてませんが、実は、アメリカにも親日・知日派の議員は、多くいました。)
青田さんへ
黒田裕樹 通常の日本人なら確かに怒りを覚えますね。
この問題は今後さらに時間をかけて検証したいと思います。
1.中国大陸や仏印(ふついん、フランス領インドシナのこと)からの全面撤兵(てっぺい)
2.蒋介石(しょうかいせき)の重慶(じゅうけい)国民政府以外の中国における政府の否認
3.日独伊三国同盟(にちどくいさんごくどうめい)の破棄(はき)
もしこれらの条件を我が国が受けいれれば、満州(まんしゅう)を含(ふく)む我が国がこれまでの外交努力によって正式に得た権益をすべて手放すのみならず、汪兆銘(おうちょうめい)の親日的な南京国民政府、更(さら)には満州国すら否認することを意味していました。要するに我が国に満州事変(まんしゅうじへん)以前の状態に戻(もど)ることをアメリカは要求したのです。
ただ、ハル・ノートに記された内容は確かに厳(きび)しいものがありましたが、例えば満州は中国大陸に含まれないなど、我が国がハル・ノートの条件を検討する姿勢を見せながらも粘(ねば)り腰(ごし)で様々な工作を行い、戦争回避(かいひ)に向けてあらん限りの努力をすべきではなかったでしょうか。
現実において我が国はそうした外交努力をすることもなく、ハル・ノートの条件を認められないという結果となりましたが、それは同時に対米交渉の打ち切りを意味しており、もはやアメリカと戦争するしか道が残されていないということにつながりましたが、それこそがアメリカ側の思う壺(つぼ)でもありました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
青田 黒田先生
青田です。
確かに黒田先生の言う通り
「粘り強い交渉の道」を探すべきだった気がします。
アメリカがいかに巨大で、ずる賢くても
それを乗り越えるのが、外交交渉です。
たとえば、
● 超大国の隋の煬帝に対等外交を認めさせた
聖徳太子の交渉能力。
● 幕末の長州藩で、欧米列強から、彦島の租借を断固拒否して、それを認めさせた高杉晋作の交渉能力。
●明治時代、不平等条約の改正を実現した外務大臣の陸奥宗光の交渉能力。
これらの偉大な日本の先人を考えると
相手の無理難題を交渉力で、ひっくり返すのが
外交だと言えますね。
この頃は、日本の政治家も完全に官僚化していた気がします。(官僚としては、優秀ですが)
青田さんへ
黒田裕樹 ハル・ノートの衝撃は確かに大きかったと思いますし、今の私たち日本国民が怒るのも無理はありませんが、それならそれでやり方があったのもまた事実だと思います。
打たれ弱いエリートだけでは困りものですね。
ぴーち こんばんは!
前回の記事の文中に悪名高いと書かれておりましたが、ハルノートなる名称を聞いたのは、後のも先にも今回が初めてのぴーちですm(__)m
(いつもながら、無知で申し訳ありません)
それにしても、どんなに温厚な人柄であっても、
この条件を突きつけられたら、待て!と思わず
叫んで動揺してしまうような内容ですね・・
アメリカ側からすれば、無理難題をわざと押し付ける事で相手の怒りを買い、戦争をけしかけようとする意図が十分にあったのでしょうね。
それにまんまと引っかかってしまった日本は
アメリカの掌で上手く転がされたことになりますね。
三国干渉の教訓
青田 黒田先生
青田です。
外交交渉の目的は、2つしかありません。
① 自分の国の利益になるようにすること。
② 自分の国の不利益(損になること)をすること。
この場合、
(アメリカの利益)
アメリカの目指す利益は、中国への権益であるので、
黒田先生の意見の通り、
満州は、中国とは、違うことをアメリカに認めさせ、アメリカの中国への権益に協力するべきだったと思います。そうなっても
おそらく、
アメリカと中国が戦うことになったと思います。
そうなれば、日本は、漁夫の利を得ることも可能になります。
(アメリカの不利益)
やはり、アメリカにとっての不利益は、ドイツと同盟を結んでいるということだと思います。
それは、アメリカの同盟国であるイギリスとなり、アジアにおけるイギリスの権益になるかもしれないからです。
やはり、日独伊三国同盟は、破棄すべきでした。
ちなみに
ハルノートは、無理難題でした。
しかし、
明治時代も同じような無理難題がありました。
それは、三国干渉です。
その時の明治時代の政治家・国民は、三国を相手に戦うのは、無理だと判断し、
「臥薪嘗胆」の精神で、その要求を受け入れました。
この時の日本のエリートは、知識はありましたが
見識・胆識が、欠如していたようですね。
東郷外相に興味があります
たける いつも拝見させていただいております。
私は戦争を回避しようとしていた、東郷外相がハルノートを見てもう開戦しかないと思った事に興味があります。
ハルノートの内容を詳しく検討することもなく、粘り強く交渉することもなく、糸が切れたように、戦争しかないと何故東郷外相が思ったのか。
先生のどのように考えますでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、ハル・ノートによって我が国はアメリカの作戦にまんまと乗せられました。
正攻法ばかりでなく、もう少しひねった対応ができなかったものかと悔やまれます。
青田さんへ その2
黒田裕樹 いつもながらのブログのコメント欄を活用したご自説の展開、お見事ですね。
たけるさんへ
黒田裕樹 東郷外相は先述のとおり対米協調派でした。
協調派と言えば好戦派よりは戦争回避に向いていると思いがちですが、裏を返せばアメリカの善意を時と場合によっては「盲信」するという可能性も秘めていると考えられます。
人間、相手を信じれば信じるほど、裏切られた場合のショックは大きくなります。
東郷外相の場合も、裏切られたという衝撃でそれ以上先の考えを見いだせなかったのかもしれませんね。
それにしてもなぜアメリカはこうした「最後通牒(さいごつうちょう)」ともいえるハル・ノートを我が国に突(つ)き付けたのでしょうか。そこにはアメリカの卑劣(ひれつ)ともいえる思惑(おもわく)がありました。
アメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領(だいとうりょう)は自国の疲弊(ひへい)した経済の打開や、あるいはイギリスを助ける意味などもあって日本との戦争を望んでいましたが、大統領自身は「攻撃を受けた場合を除(のぞ)いて絶対に戦争はしない」とアメリカ国民に公約していました。
アメリカが日本と戦争するためにはその第一撃(だいいちげき)、すなわち先制攻撃(せんせいこうげき)を日本に始めさせる必要があり、その引き金(がね)としてハル・ノートを我が国に突き付けたのです。この後、我が国が対米開戦に踏(ふ)み切ることでアメリカの目標は達成されたのでした。
私たち日本人にとって、当時のアメリカのやり方は卑劣そのものに見えますが、実は我々がこれを卑劣と感じるということは、裏を返せば我々が成長していないことを示しているのかもしれません。なお、この件に関しては近日中に再検討(さいけんとう)します。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
仰るとおり、どんなに相手が卑劣な手段をとって
攻撃して来ても、それを受ける側にも
その攻撃を避ける為の
何かしら方策があるものですね。
日本という国は、江戸時代の鎖国を経験して
しまった事が外国との交渉に余計に鈍感になって
しまっていたのでは無いでしょうかね・・?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 日本という国は、江戸時代の鎖国を経験して
> しまった事が外国との交渉に余計に鈍感になって
> しまっていたのでは無いでしょうかね・・?
明治時代には理想的な外交を行っていたのが、世界の一等国になって「先祖返り」を起こしてしまったのかもしれませんね。
ダルタニョン 黒田先生、素晴らしいです!
一方が悪いではなく、こちら側にもこうなってしまった原因がある・・・。本当にそうですよね。
「先祖返り」まさにそうかもしれません。ヒトラーの政権もビスマルク時代に戻したかったようですし。ドイツの場合は、「世界の一等国」ではなく、第一次世界大戦とベルサイユ条約の恨みですが。
今は、Heydrich et la solution finaleを読んでいます。なぜユダヤ人大量虐殺に至ってしまったのか・・・
いろいろなことや事情が複雑に絡み合っているのがよくわかります。
日本も戦争へと進んでしまったのも本当にさまざまな事情が絡み合っていたのでしょうね。
ダルタニョンさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
仰るとおり、第二次世界大戦や大東亜戦争に至るまでの背景は様々なものが複雑に絡み合っており、どちらか一方の侵略という単純な手段で表現できるものではありません。
もしハリー・ホワイトが本当にソ連のスパイであったとすれば、彼がフランクリン=ルーズベルト大統領(だいとうりょう)に取り入ったことで日米間に埋(う)めようもない深い溝(みぞ)を構築(こうちく)し、日米開戦を誘発(ゆうはつ)したことになりますが、果たしてソ連にそのようなメリットが存在したでしょうか。
アメリカはかねてから東アジアにおける権益を狙(ねら)っており、そのための障害(しょうがい)となっていた日本を敵視(てきし)し続け、日米開戦によってついに我が国の勢力を中国大陸などから駆逐(くちく)することに成功しました。
しかし、我が国の後釜(あとがま)としてソ連と同じ共産主義国家の中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく)が成立したことなどで、戦後にアメリカが得た「果実」はほとんど存在せず、さらに日本の弱体化によって東アジアは当時の東ヨーロッパと並(なら)んで世界で最も「赤化(せきか)」した地域(ちいき)となってしまったのです。
こうした歴史的事実を鑑(かんが)みれば、ルーズベルト大統領の夫人が共産主義に憧(あこが)れていたように、アメリカの大統領近辺(きんぺん)にまでソ連のスパイが暗躍(あんやく)していたという説は十分に成立すると言えるのではないでしょうか。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
青田 黒田先生
青田です。
政治家というのは、結果が全てだという前提で
考えると
ルーズベルト大統領は、極東において
膨大な戦力を消耗して、得たモノはゼロに近いことを考えると無能だと思います。
もちろん、ソ連のスパイに洗脳されたことも原因だとは、思いますが、
以前、友人とも話しましたが、
そういうことも含めて政治家としての能力だと思います。(スパイを見抜き、スパイに洗脳されないのも、政治家の能力)
日本も反面教師にしたいですね。
青田さんへ
黒田裕樹 その通りだと思います。
この件は近日中に再検討します。
ぴーち こんばんは!
アメリカと日本の関係を悪化させる為に
間に入って、工作したのがソ連だったということなのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > アメリカと日本の関係を悪化させる為に
> 間に入って、工作したのがソ連だったということなのでしょうか?
結果的にはそうなりますね。
我が国にもゾルゲ事件がありましたし。
なぜ、人間は、こんなにも騙されるのか
青田です。 黒田先生
青田です。
アメリカのルーズベルト大統領の側近も
日本の近衛文麿の側近もソ連のスパイだったと
言われていますが、
私が、不思議で仕方ないのは、アメリカは、
ともかく、日本でも社会主義活動家を取り締まる「治安維持法」「特高警察」がありました。
それでも、ソ連のスパイが中枢に入れるのは
信じられません。
これは、個人的な意見ですが
保守の仮面、愛国主義者の仮面を被った共産主義者には、案外、簡単だったのかもしれませんね。
表面的な考えだけは、その振りができますから。。
これは、今の日本の政治家を観るうえでも、
気をつけないといけないですね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおりですね。敵もさるものとはよく言ったものです。
現代にも生かさねばなりません。
しかし、いわゆるハリマン問題などを原因としてアメリカとの間に出来た溝(みぞ)はやがて人種差別(じんしゅさべつ)に基(もと)づく日本人敵視政策を生みだし、また昭和初期のアメリカやイギリスなどによるブロック経済は、世界との貿易で生計(せいけい)を立ててきた我が国に大きな打撃(だげき)を与えました。
さらに、巨大な共産主義国家であったソ連による軍事的あるいは思想的脅威(きょうい)は我が国の内外に大きな刺激(しげき)を与え、関東軍による満州事変(まんしゅうじへん)から満州国建国への流れをもたらすとともに、大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう、通称を明治憲法=めいじけんぽう)の大きな欠陥(けっかん)であった「統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)問題」が軍部の暴走(ぼうそう)をもたらしたことで、二重政府の状態となった我が国は世界の信頼を失いました。
加えて日華事変(にっかじへん)の泥沼化(どろぬまか)が我が国の体力を徐々(じょじょ)に奪(うば)ってきたところへ日独伊三国同盟(にちどくいさんごくどうめい)をきっかけにABCDラインが引かれ、資源を求めて合法的な南部仏印進駐(なんぶふついんしんちゅう)を行えば石油禁輸となり、それでも粘(ねば)り強く対米交渉を行えばハル・ノートを突(つ)き付けられました。
かくして命綱(いのちづな)でもあった石油の入手経路を完全に断(た)たれたばかりか、国家としての存続も風前(ふうぜん)の灯(ともしび)となってしまった我が国は、自衛(じえい)のための最終手段として日米開戦の選択肢(せんたくし)しか残らないという状況に追いつめられてしまったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
青田 黒田先生
青田です。
こういった歴史の流れを観ると、
外部要因、内部要因が複雑に絡まって、
将棋のように、ジワジワ詰められて、王手になった気がします。
外部要因(共産主義の拡大、ブロック経済など)については、日本国の力では、直接、どうすることも出来なかったとは思いますが
内部要因(軍部の暴走、政党のモラルの低下、人材不足)は、日本人自身の手で何とかするべきだったと思います。
幕末・明治の人間は、最悪の外部要因(超大国の欧米列強)、
内部要因(江戸時代の平和ボケ、米と絹以外何の産業もない当時の日本)の中で、何とかそれを乗り切ってきたわけですから。。
やはり、『最大の資源は、人』ですね。
ぴーち こんばんは!
なるほど・・
日本が世界から孤立無援の状態へ
陥れられた状況が
よく分かりました。
ここまではわが国は
他国からすれば
単なる「出る杭」でしかなかったのかも
知れませんね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、内部要因を支える人的資源の不足が当時の我が国を追いつめた格好になりましたね。
現代も決して無縁とは言えませんが…。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 こうやって大きな歴史の流れをたどっていけば、我が国の「出る杭」ぶりがよく分かりますね。
繰り言になりますが、やはり歴史は「点」で見てはいけません。
「木を見て森を見ず」では話にならないのです。
外交の現実
青田 黒田先生、ぴーちさん
青田です。
幕末から、この昭和16年までの歴史の大きな流れを観ると
現実社会の厳しさを感じます。
● 弱い国は、強い国に『いじめられる』か、『植民地』にされる。
・・幕末・明治の欧米列強の植民地支配。
● 上に昇ろうとすると「足を引っ張る国」(某半島国)が出てくる。
・・日韓併合までの日本の苦労。
● 強い国になると「出る杭」は、打たれる。
・・昭和初期のアメリカの日本への対応。
結局は、どちらにしろ
常に攻撃される可能性からは、脱却できないんですね。
やはり、自国防衛の精神は、必要だと痛感します。
どこかの国の元総理の鳩●総理が
「友愛外交」と言いましたが、それは、『奇跡』のような話ですね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 世界に誇れる軍隊を持っていた当時ですら戦争せざるを得ませんでしたからね。
平和ボケの友愛外交などとんでもない話です。
また、先述(せんじゅつ)したケロッグ国務長官(こくむちょうかん)の「経済封鎖(ふうさ)は戦争行為そのものである」という言葉を借りれば、先の石油禁輸の例を出すまでもなく、ハル・ノートによってアメリカは我が国に対して侵略戦争(しんりゃくせんそう)を先に仕掛(しか)けたも同然であり、我が国が対米開戦に踏(ふ)み切ったのも無理からぬことではありました。
ハル・ノートを突(つ)き付けられた東条英機(とうじょうひでき)内閣は半年以上続けてきた日米交渉を断念(だんねん)し、昭和16(1941)年12月1日の御前会議(ごぜんかいぎ)においてついに「開戦のご聖断(せいだん)」が下(くだ)りました。なお、戦争開始の閣議(かくぎ)決定の裁可(さいか)を求められた昭和天皇は、ご自身のお気持ちを封印(ふういん)され、立憲君主制(りっけんくんしゅせい)に基づく大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう、通称を明治憲法=めいじけんぽう)の規定どおりにお認めになられました。
昭和天皇のご意志であった「対米戦争回避(かいひ)」を実現できなかった東条首相は、開戦日(12月8日)の未明に首相官邸(しゅしょうかんてい)の自室において、皇居(こうきょ)に向かって号泣(ごうきゅう)しながらお詫(わ)びしたと伝えられています。
一般的な歴史認識においては「東条英機こそ日本を戦争に巻(ま)き込(こ)んだ重大な戦争犯罪人である」とされることが多いですが、前任の第三次近衛文麿(このえふみまろ)内閣が「戦争の決断をしたくない」とばかりに無責任に政権を投げ出した後に国論(こくろん)をまとめ上げ、ギリギリまで戦争回避に努力したという「歴史の真実」を私たちはどのように評価(ひょうか)すべきでしょうか。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
そうですよね。
大きな責任を前にして逃げ出した人間は制裁を受けずに済んで、責任を果たそうと
ある意味人身御供として
祭られた人物が後世にまで重罪人物だと
語り継がれていくのは遺憾な話ですよね。
結果はいづれにせよ、その重責を担った
事実に対して、せめてもの労いの言葉を
捧げたいものですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、東条英機もある意味「時代の犠牲者」でした。
いずれ詳しく紹介しますが、前任者が戦犯指定された直後に自殺を遂げた一方で、極刑を覚悟しながら最期まで堂々と主張すべきところは主張し続けた東条の方がよほど立派であったともいえます。
東条英機の無念
青田 黒田先生
青田です。
私も、小学生の時、『東条英機=凶暴な独裁者』と
洗脳されました。
大人になり、東条英機について、本を読み
彼が、エリート中のエリートであり、かなりの
見識・胆識を持っていたことを知りました。
やはり、日米開戦の責任を彼一人に押し付けるのは、同じ日本人として、情けないと思います。
しかも、東条英機の遺族(家族)の方は、その後、つらい日々を過ごしました。
忘れてはいけいのは、この時の日本は、議会制民主政治が行われていた国であり、選挙で選ばれた政治家が政治を行っていたということです。
東条英機が、クーデターで、総理大臣になったわけではありません。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
我々は東条英機氏を誤解しすぎていますし、彼の真実の姿を見極めたうえで批評などをすべきでしょう。
漢文体で書かれた文面は、東条英機(とうじょうひでき)内閣によって原案が作成されましたが、昭和天皇はその文面をご覧(らん)になった後に、あるお言葉を付け加えられました。そのお言葉を拝読(はいどく)した際に、私たちは陛下(へいか)の本当のお考えを知ることができます。
「豈(あに)朕(ちん)ガ志(こころざし)ナラムヤ」
(現代語訳:どうしてこれが私の望むところであろうか、いや望むところではない)
こうして我が国はついに対米開戦という事態となったのですが、その際の我が国内部における「信じられない手違(てちが)い」によって、我が国の正当な戦闘行為が「奇襲攻撃(きしゅうこうげき)」と後年に至(いた)るまで誤解(ごかい)されてしまう結果となったことを皆さんはご存知(ぞんじ)でしょうか。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
(※これで昭和時代・戦前は終了です。次回[9月18日]からは昭和時代・戦中の更新を開始します)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
手違いであったと有りますが、私が以前
映画の中で鑑賞した内容で知らされたのは
日本が
アメリカへ送るべき文章を翻訳するのに手間取って遅れてしまった為といわれていましたが、本当のところは
どうなのでしょうか・・・?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 さすがぴーちさん、良くご存知ですね。
そのあたりも含めて真相に迫りたいと思います。