阿部内閣はアメリカとの関係改善(かいぜん)をめざして交渉(こうしょう)を続けましたが、すでに対日戦略(せんりゃく)を着実(ちゃくじつ)に固めつつあったアメリカは日本軍の軍事行動の拡大(かくだい)や東亜新秩序(とうあしんちつじょ)の声明(せいめい)、あるいは日本軍が天津(てんしん)の英仏租界(そかい、外国人居留地のこと)を封鎖(ふうさ)したことを理由に態度(たいど)を硬化(こうか)させ、関係を改善するどころか昭和14年に日米通商航海条約(にちべいつうしょうこうかいじょうやく)を延長(えんちょう)しないと我が国に通告(つうこく)してきました。
しかしながら、日本軍の軍事行動が拡大したのは日華事変の泥沼化(どろぬまか)やノモンハン事件に代表される対ソ連戦など、侵略(しんりゃく)よりもむしろ自衛(じえい)を目的とする戦闘行為(せんとうこうい)によるものでしたし、また東亜新秩序の声明も、日華事変解決のため国民政府に容共抗日策(ようきょうこうにちさく、中国共産党と連携して我が国に対抗する政策のこと)を捨てて連携(れんけい)するよう呼(よ)びかけただけでした。
さらに付け加えれば、天津における英仏租界の封鎖もイギリスの租界に逃(に)げ込(こ)んだ殺人犯(さつじんはん)の引き渡(わた)しを当事者のイギリスが拒否(きょひ)したのが原因であり、いずれも我が国だけに一方的な否(ひ)があるとは言いがたいものがあったにもかかわらず、後に日英間で協定が結ばれたのを不服(ふふく)としたアメリカがその直後にいきなり条約の破棄(はき)を通告してきたというのが真実だったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
何が何でもわが国を悪者に仕立て上げたいという気持ちがひしひしと感じる今日の記事ですね・・。
こうなると、どんなに正論をぶつけても
とことん捻じ曲げられてしまう勢いを感じます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 何が何でもわが国を悪者に仕立て上げたいという気持ちがひしひしと感じる今日の記事ですね・・。
> こうなると、どんなに正論をぶつけても
> とことん捻じ曲げられてしまう勢いを感じます。
残念ながら仰るとおりなんですよね。
この後の日米関係を暗示させる内容でもあります。
我が国がアメリカから理不尽(りふじん)ともいえる仕打(しう)ちを受けていた頃(ころ)、第二次世界大戦を始めたドイツは破竹(はちく)の勢(いきお)いで緒戦(しょせん)を制(せい)し、大いなる強さを世界に見せつけていましたが、その姿(すがた)を見たことで「ドイツと同盟(どうめい)を結んでおけば日本も安泰(あんたい)だ」という気運(きうん)が我が国で自然と高まりました。
やがて我が国では「バスに乗り遅(おく)れるな」というスローガンが流行してドイツとの同盟を朝日新聞などのマスコミも大々的(だいだいてき)にキャンペーンするようになりましたが、こうした動きの中で、それまで対ソ連など北方の脅威(きょうい)に対処(たいしょ)するために北進論(ほくしんろん)を唱(とな)えていた陸軍(りくぐん)も、ドイツの攻勢(こうせい)に引きずられるかたちで次第に南進論(なんしんろん)へと傾(かたむ)くようになりました。
南進論とは東南アジアに進出して資源(しげん)を確保(かくほ)しようとする考え方でしたが、そこにはイギリスやアメリカ・オランダ・フランスが植民地(しょくみんち)を持っており、いずれ各国と衝突(しょうとつ)するのが確実でしたが、それをも覚悟(かくご)の上でドイツと同盟を結ぼうという考えが陸軍を中心に強まっていったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田 黒田先生
青田です。
私は、歴史の教師から、この当時の日本の首脳部は
『ドイツがやがて、アフリカとヨーロッパを支配する。日本としては、アジアは、日本にまかして欲しいという思惑があった。』
と習いました。
それが、どこまで、真実かは、わかりませんが、
少なくとも、政治家・軍人だけでなく、
マスコミも、それに近い風潮を煽ったことは確かだと思います。
それなのに、戦後、特定の人間だけの責任にするのは、人間の醜さを感じます。
(構造は、秀吉の朝鮮出兵と同じですね。)
ぴーち こんばんは!
この陸軍の判断が結果的には
陸軍は悪であるという
憎まれる材料となっていったのでしょうか・・?
青田さんへ
黒田裕樹 当時は朝日新聞を中心とするマスコミが煽りまくっていましたからね。
尾崎秀実も朝日新聞の記者出身でしたし、責任の取り方というものをいつの時代も学んで欲しいものです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この陸軍の判断が結果的には
> 陸軍は悪であるという
> 憎まれる材料となっていったのでしょうか・・?
本文を見れば確かにそうなりますね。
ですが、問題は「陸軍=悪」というイメージを誰が植えつけたか、ということです。
これに関しては別の機会で詳しく紹介する必要があるかもしれませんね。
米内にかわって内閣を組織したのは、元(もと)枢密院(すうみついん)議長(ぎちょう)の近衛文麿(このえふみまろ)でした(第二次)。第二次近衛内閣は組閣直後(そかくちょくご)に基本国策要綱(きほんこくさくようこう)を閣議決定(かくぎけってい)し、欧米列強(おうべいれっきょう)がアジアに持っていた植民地(しょくみんち)を開放して、日本を盟主(めいしゅ)とする共存共栄(きょうぞんきょうえい)の新たな国際秩序(こくさいちつじょ)を建設しようという「大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)」の構想(こうそう)を発表しました。
そして昭和15年9月には、第二次近衛内閣の外務大臣(がいむだいじん)であった松岡洋右(まつおかようすけ)や陸軍の熱心な推進(すいしん)もあって、昭和11(1936)年に締結(ていけつ)した日独防共協定(にちどくぼうきょうきょうてい)を発展(はってん)するかたちでドイツやイタリアと日独伊三国同盟(にちどくいさんごくどうめい)を結びました。
いわゆる三国同盟においてはアジアおよびヨーロッパにおける三国の指導的地位(しどうてきちい)の相互確認(そうごかくにん)や、ヨーロッパの戦争や日華事変(にっかじへん)に参加していない国から攻撃(こうげき)を受けた場合の三国の政治・経済・軍事面における相互援助(そうごえんじょ)などが定められました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
無知な発言で大変申し訳ありませんが、
日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結んだ
事でよりアメリカから目の上のタンコブの様な存在だと決定付けられてしまったかのように思うのでしょうけれど、どうなのでしょうか?
勿論、それだけの理由では無いでしょうけれど、このことでよりアメリカの逆鱗に触れた様に感じました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結んだ
> 事でよりアメリカから目の上のタンコブの様な存在だと決定付けられてしまったかのように思うのでしょうけれど、どうなのでしょうか?
> 勿論、それだけの理由では無いでしょうけれど、このことでよりアメリカの逆鱗に触れた様に感じました。
ぴーちさん、鋭いですねぇ(笑)。
そのあたりについては近日中に詳しく紹介できると思います。
やっと夢が叶いそうですね。
青田です。 青田です。
トランプ大統領で、TPPが廃案になると
日本のマスコミや知識人が大騒ぎしていますが、
私は、これは、日本やアジアにとって、最大のチャンスだと思います。
私は、アメリカ抜きのTPPをすることが
大東亜共栄圏の土台になると思います。
大東亜共栄圏とは、欧米列強(おうべいれっきょう)がアジアに持っていた植民地(しょくみんち)を開放して、日本を盟主(めいしゅ)とする共存共栄(きょうぞんきょうえい)の新たな国際秩序(こくさいちつじょ)を建設しようという「大東亜共栄圏」でした。
それが、アジアでは、大東亜戦争後、結局は、ソ連の赤化、アメリカ、ヨーロッパの経済的な下請けのような
扱いをしました。
私は、アメリカ抜きのTPPは、
アジア太平洋地域の経済同盟。
そして
アジアの安定と平和・、日本がアジアのリーダーとして、日本の復活、そして、アジアが世界の中心になるチャンスだと思います。
これから、アメリカ、ヨーロッパは衰退し、
アジアの新興国(ベトナム、インドネシア、タイ、ミャンマー、マレーシア)がもの凄い、人口ボーナスです。
アメリカ抜きの経済同盟関係の土台の上に
政治的な同盟があります。
おそらく、安倍総理の一連の動きは、それを考えてのことだと思います。(アジアに技術供与、支援をしているのは、その土台創り。)
青田さんへ
黒田裕樹 確かに、仰るとおりの流れになれば、我が国にとってプラスになりそうですが…。
こうして我が国はドイツやイタリアと日独伊三国同盟(にちどくいさんごくどうめい)を結んだわけですが、この三国が急接近(きゅうせっきん)した背景(はいけい)には、かつての世界恐慌(せかいきょうこう)がもたらしたブロック経済が大きくかかわっていました。
ブロック経済はアメリカやイギリス・フランスなどのように広大な領土や植民地(しょくみんち)を有する「持てる国」であれば自給自足(じきゅうじそく)が可能ですが、広大な領土や植民地を「持たざる国」である我が国やドイツ・イタリアなどにとってはまさに死活問題(しかつもんだい)でした。
我が国が外交関係によって正式な権益(けんえき)を得(え)た満州(まんしゅう)を基本として海外に進出したのに対し、ドイツやイタリアは戦争によって領土(りょうど)を奪(うば)うという手段(しゅだん)の違(ちが)いはあったものの、いずれもブロック経済を乗り切って自給自足をめざすという目的が存在していました。
要するに「持てる国」の囲(かこ)い込(こ)みに対して「持たざる国」が生き残りをかけて結びついたのが三国同盟であったともいえるわけですが、この同盟は我が国にとって「百害(ひゃくがい)あって一利(いちり)なし」という結果となってしまったのです。
なぜそう言い切れるのでしょうか。
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青田 黒田先生
青田です。
昔、ヒトラーの『わが闘争』を読んだことがありますが、
本の中で、
ヒトラーは、日本人のことを
『東洋の劣る猿。』と書いていました。
優生思想に凝り固まったドイツが、よく、日本と同盟したものだと思います。
ぴーち こんばんは!
今日は本当に暑い一日でしたね!
東京も相当な暑さではありませんでしたか?
先日、宮崎監督の「風立ちぬ」を鑑賞した際に
日本のゼロ戦の構造をドイツまで出向いて
研究してきた主人公堀越二郎氏一行に対して
ドイツ軍は、「日本は技術だけを盗んですぐに真似する国だから、飛行機の内部までは見せられない」と拒絶するシーンがありましたが、
当時から日本は世界からそんな風に見られていたのかと思うと少々がっかりさせられましたが、裏を返せば、それだけ日本の優れた技術力は警戒されていたのでしょうね。
青田さんへ
黒田裕樹 ヒトラーからしてみれば、我が国は「東洋の劣るサル」であったとしても、遠国であり当面は手を結ぶことに問題はない我が国との同盟を選択したのではないでしょうか。
外交関係が地理的な環境に左右されることは良くありますからね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 東京は昨日(10日)も今日(11日)も相当な暑さですね(´・ω・`)
お言葉は仰るとおりですね。
我が国の技術力の高さの裏返しと解釈してよいと思います。
日独伊三国同盟を活かすには
青田 黒田先生
青田です。
日独伊三国同盟は、結ばべきではありませんが、
結んでしまった限りは、武器の相互供与というカタチで
協力すべきだったと思います。
たとえば、
● ドイツのメサシュミットが、イギリスでの空中戦で、勝てなかったのは、航続距離が短かったことが弱点でした。
もし、日本の零戦をドイツに与えていたら、制空権を奪取でき、イギリスを落とせた可能性があります。そうなると、アメリカは、ヨーロッパ戦線に戦力を投入し、太平洋戦争に戦力を十分に投入できず、日本に少しでも有利に戦えたかもしれません。
● ドイツのUボートを日本がドイツから、得ると、補給物資を十分に届けることが出来て、
日本軍は、各戦線で、補給であれほど、苦しまずにすんだと思います。
とにかく、この日独伊三国同盟は、中途半端な有名無実化すぎます。
青田さんへ その2
黒田裕樹 確かにそうですね。
質問というよりも、ご自身のご意見をご披露する場としては充分価値があるかと思われます。
ダルタニョン はじめまして。黒田先生の歴史講座で一度だけ(だと思いますが)コメントをさせていただいたことがあります。
私も、「我が闘争」を読んでいます。同時に、フランス語の「La seduction du diable」も読んでいます。フランス在住で、ここでは「我が闘争」は発行禁止なので日本から取り寄せました。もちろん、表紙や写真などは切り取りました。
ヒトラーが日本人を「東洋の劣る猿」と言ったことに対して、彼にしては普通だと思いますよ。アーリア人がなにしろ優れているという考えですもの。しかし、彼も政治家となっては、本心に反しても手を取り合わないといけないことは学んだはずです。例えば、ユダヤ人排除という点についてクリスチャン二ズムの党と手を組んでいます。
なので、日本と同盟を結んだことについて、何等か彼には接点があったのでしょう。日露戦争を知って彼が感動した時のように。
三国同盟を結んでしまったことは、黒田先生もおっしゃられているように、「持てない国」の生き残りをかけたものだったので、日本も必死だったのでしょう。なので、「三国同盟は結ぶべきではなかった」という意見をどう今後に生かしていくか。。。歴史を学び、未来にどう生かしていくかだと思います。私たちの先輩が教えてくれていると私は思います。
ダルタニョンさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
まさしく仰るとおりだと私も思います。未来に生かしていくためにも正しい歴史を学ばないといけませんね。
松岡外相はアメリカを説得(せっとく)するため、ドイツと不可侵条約(ふかしんじょうやく)を結んでいたソ連にも接近(せっきん)して昭和16(1941)年4月に日ソ中立条約(にっソちゅうりつじょうやく)を締結(ていけつ)しましたが、そのわずか2ヵ月後の6月にドイツが不可侵条約を破(やぶ)ってソ連に侵攻(しんこう)し(独ソ戦)、松岡外相の目論見(もくろみ)は崩(くず)れてしまいました。
また、三国同盟を結んだといっても遠く離(はな)れたドイツやイタリアが我が国の危機(きき)に際(さい)して援軍(えんぐん)をすぐに送ってくれる可能性(かのうせい)は低かったですし、何よりも三国同盟を口実(こうじつ)にアメリカが我が国に対して態度(たいど)をさらに硬化(こうか)させ、後述(こうじゅつ)するような報復(ほうふく)ともいえる措置(そち)を次々と行うようになるのです。
さらに付け加えれば、同盟締結時は破竹(はちく)の勢(いきお)いだったドイツがやがて劣勢(れっせい)に転じたことで、そんなドイツと同盟を結んでしまっていた我が国がますます不利になっていくのは避(さ)けようもない流れとなってしまいました。
要するに我が国は第二次世界大戦の開戦直後(かいせんちょくご)にドイツが見せた強さに驚(おどろ)くあまり、その行(ゆ)く末(すえ)を見誤(みあやま)ったのです。もし我が国が当時の世界各国の本当の情勢(じょうせい)を的確(てきかく)につかんでいればと悔(く)やまれてなりません。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田 黒田先生
青田です。
私は、日英同盟と日独伊三国同盟に違いを時々
考えることがあります。
英国も、日本よりも、はるかに離れていましたが
世界中に植民地を持ち、制海権も握っていましたから、いろいろメリットがあったと思います。
この時も、ドイツから、攻撃されても、海軍は健在であり、航空機もドイツよりも優れていました。
それにたいして、ドイツは、欧州の中央にあり、
陸軍国であり、(海軍、空軍とも陸軍の補完的な役割しかありませんでした。)
海洋国家である日本にとって、何のメリットもありません。
これは、歴史のifですが、
もし、日独伊を結ばなかったら、米国は、ある程度、日本に圧力をかけることは、あっても、
日米開戦は、回避することは、可能だったと思います。
アメリカとしても、太平洋とヨーロッパの二方面に戦力を分散するよりも、
まずは、ドイツを叩いておきたいと思うからです。
ぴーち こんにちは!
昔から、遠い親戚よりも近くの他人などと言われていますように、いざとなった時には近所で親しくしている人のほうが力になってくれるものですよね。出来ることなら日本も近隣諸国と志を同じにし、仲良くすることが出来れば、鬼に金棒なのでしょうけれど、なかなか上手い事いかないのが現状ですね(^^ゞ
凸
青田さんへ
黒田裕樹 仰る一面は確かにありますね。
そのあたりも考慮しながら今後も講座を続けたいと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 出来ることなら日本も近隣諸国と志を同じにし、仲良くすることが出来れば、鬼に金棒なのでしょうけれど、なかなか上手い事いかないのが現状ですね(^^ゞ
我が国に限らず、近隣諸国と仲が良い国というのは存在しませんからね…。
現在の安倍政権の外交のように、周囲の国と同盟を結んだ方が抑止力として効果的だと思います。
オバrev 確かにこの日独伊三国同盟は、その実質的な距離からしてメリットがなく、アメリカに攻撃をする名目を与えただけのような気がします。
もしこれがなかったら、さすがのアメリカも日本を攻めることはできなかったんじゃないでしょうか?
さらに現在の中国も内戦が危うい状況ですが、もしそうなってもアメリカは手を出すことが出来ないはずだと思っています。
ドイツ国防軍にとっても肩透かし。
晴雨堂ミカエル 同盟を結んだ途端にドイツの景気が悪くなり泥船に乗ってしまった日本ですが、ドイツにとっても肩透かしですね。
モスクワ市街を一望できるところまで軍を進めながら冬将軍と思わぬ抵抗で立ち往生、日本が沿海州へ上陸して東西から挟撃してくれたら助かるのに、日ソ不可侵条約。
盟友イタリアはアフリカで惨敗、イタリア救援のためアフリカに兵力を割かなければならない。
コンドル軍団を派遣して助けたスペインのフランコは動かないどころか、物資の補給すら非協力。
ドイツにとっても、今まで当たりクジばかりだったのが、貧乏クジばかり。
現代からみると面白いくらい噛み合わない同盟です。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、アメリカにとってはかえって都合の良い話となりましたね。
そして、当時の状況を最も喜んだのはどの国なのか…。
現代のチャイナもどうなるか予測がつきませんね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 確かに同盟を結んで以降の各国は良いことが少なかったですね。
外交関係は時としてマイナスに作用することもあるということなのでしょうか。
首脳会談がない同盟
青田です。 黒田先生
青田です。
イギリス、アメリカ、ソ連は、何回か
首脳会談を開催してますが、
日独伊は、一度も首脳会談を開いていません。
完全にドイツに利用されただけだったと思います。
青田さんへ その2
黒田裕樹 確かにそうでしたね。
外交を見誤るとどうなるか、という大きな教訓でもあります。
我が国は蒋介石への援助を断(た)ち切るため中国の沿岸(えんがん)を封鎖(ふうさ)しましたが、各国は日本軍の勢力範囲外(せいりょくはんいがい)の陸路(りくろ)を通じて援助を続けました。なお、これらの陸路を当時は「援蒋(えんしょう)ルート」と呼(よ)んでいました。
援蒋ルートの主(おも)なものには仏印(ふついん、フランス領インドシナのこと)ルートやビルマルート・西北ルート・南支(なんし)ルートの4つがありましたが、このうち最も重要だったのは仏印ルートであり、全ルートの半分以上の輸送量(ゆそうりょう)を占(し)めていました。
我が国はフランスに対して仏印ルートによる援助行為(こうい)を禁止(きんし)するよう申(もう)し入れましたが、フランス政府は容易(ようい)に承諾(しょうだく)しようとしませんでした。しかし、昭和15(1940)年にフランスがドイツに降伏(こうふく)すると仏印ルートの封鎖を認(みと)めるようになり、2ヵ月に及(およ)ぶ外交交渉(こうしょう)の末(すえ)に協定(きょうてい)が成立し、これに基(もと)づいて我が国は日本軍を仏印に進駐(しんちゅう)させました。これを北部仏印進駐といいます。
我が国による北部仏印進駐は、ドイツに降伏した後のフランス政府であるヴィシー政権との間に結ばれた合法的なものでしたが、我が国に対する態度(たいど)を硬化(こうか)させていたアメリカはこれに反発し、イギリスに亡命(ぼうめい)していたド=ゴール政権こそがフランスの正当なる政府であるという口実(こうじつ)で、我が国に対するくず鉄・鉄鋼(てっこう)の輸出禁止の方針(ほうしん)を発表しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田 黒田先生
青田です。
この北部仏印が合法的なものとは、知りませんでした。
20歳の時、友人と、
『だいたい北部仏印するから、日本が悪い。
そんなことをしたら、アメリカを怒らせるだけ。
先のことを考えずに、思いつきの行きばったり。』と
否定的でしたが、黒田先生の内容を読んで、
① 北部仏印の理由。
② 北部仏印の合法性。
を知り、今まで受けた歴史教育の怖さを感じました。
歴史の捏造とは、部分的な事実だけを取り出し、つなぎ合わせると、簡単にできてしまうものなんですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、北部仏印進駐に関しては日本軍に何の落ち度もありません。
歴史的事実を切り取ってバラバラに解釈させることの恐ろしさがよく分かりますね。
ぴーち こんばんは!
今回は
蒋介石の立場をつい現代の北朝鮮に置き換えて
見てしまいました(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今回は
> 蒋介石の立場をつい現代の北朝鮮に置き換えて
> 見てしまいました(^^ゞ
なるほど、そういう見方もあるものですね(^^ゞ
現代の某国家の運命はどうなるのでしょうか…。
こうして我が国はアメリカ(America)・イギリス(Britain)・中国(China)・オランダ(Dutch)といった東アジアに権益(けんえき)を持つ国々が共同して我が国の南方進出(なんぽうしんしゅつ)を抑(おさ)えようとする構図(こうず)が形成されました。これをABCDライン(またはABCD包囲陣=ほういじん)といいます。
ABCDラインの中心となったのはアメリカでしたが、ハリマンが提案した南満州鉄道(みなみまんしゅうてつどう、別名を満鉄=まんてつ)の共同経営の拒否(きょひ)以来、長い時間をかけて反日体制が構築(こうちく)されてきたとはいえ、なぜここまで日本に対する強気(つよき)の姿勢(しせい)を崩(くず)さず、我が国を追いつめようとしたのでしょうか。
実は、この背景(はいけい)にはアメリカとイギリスによる「利害(りがい)の一致(いっち)」に基(もと)づく共同戦線(きょうどうせんせん)があったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田 黒田先生
青田です。
それにしても、この時の、米英の関係は、強固ですね。
ベルサイユ会議に日本が『人種差別撤廃』を提唱した時も
イギリスの植民地支配の弊害になると考えた
アメリカ大統領のウィルソンは、
その提唱を反対しました。
アメリカは、イギリスから、独立したはずなのに
ここまで、関係が強固なのには、驚かされます。
以前、イギリス人の知人がアメリカに移住した時、
全く、違和感がなかったと語っていました。
思考がかなり、近いんでしょうね。
青田さんへ
黒田裕樹 アメリカとイギリスの連携の強さには「利害の一致」という思惑がありました。
詳しくは次回の更新で紹介します。
一方、アメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領(だいとうりょう)は「攻撃(こうげき)を受けた場合を除(のぞ)いて絶対(ぜったい)に戦争はしない」と公約(こうやく)して1940(昭和15)年に三選(さんせん)を果(は)たしたものの、ニューディール政策(せいさく)の行きづまりもあって経済が疲弊(ひへい)し、失業者(しつぎょうしゃ)が増加していました。
このため、チャーチルとルーズベルトが手を組(く)み、まず日本に先に攻撃させるかたちで、日米間で戦争を起こさせ、その後に日本と同盟関係(どうめいかんけい)にあるドイツとアメリカが戦(たたか)うように仕向(しむ)けたのではないかと考えられているのです。実際(じっさい)に両国は1940年にアメリカがイギリスに戦艦(せんかん)や武器弾薬(ぶきだんやく)を貸与(たいよ)するなど連携(れんけい)を強めており、日本と石油などの輸出入(ゆしゅつにゅう)の交渉(こうしょう)をしていたオランダにも圧力(あつりょく)をかけるなど、真綿(まわた)で首を絞(し)めるように我が国を追いつめていきました。
史実では後述(こうじゅつ)するように昭和16(1941)年12月に日米開戦となり、アメリカは多大な犠牲(ぎせい)を払(はら)った末(すえ)に我が国を徹底的(てっていてき)に叩(たた)き潰(つぶ)したほか、戦争による特需(とくじゅ)で経済が活性化(かっせいか)するという効果(こうか)をもたらし、イギリスもアメリカの参戦(さんせん)で息を吹(ふ)き返して最終的にドイツに勝利することができました。
しかし、アメリカとイギリスはお互(たが)いに手を組むことによって「当面の敵」であった我が国やドイツを倒(たお)すことはできましたが、実はこれらは「目先の利益」でしかなく、大局的(たいきょくてき)には両国とも「敗戦同様(はいせんどうよう)」だったという事実を皆(みな)さんはご存知(ぞんじ)でしょうか。カギを握(にぎ)るのは「ソ連」の存在(そんざい)です。
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青田 黒田先生
青田です。
多くの日本人は、知りませんが、
この時のアメリカ人の80%は、戦争には
絶対には反対でした。
通常、この状態で、戦争にはならないのですが、
『国民世論は、謀略で、何とでもなる。』と言うことなんですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、フランクリン=ルーズベルト大統領はまさに世界的な謀略によって国内世論をひっくり返し、我が国との戦争に踏み切りました。
当時のアメリカにとっては「良いことづくめ」のように思えましたが、その実体は…ですね。
オバrev 成る程というか、さすが黒田先生の歴史講座、奥が深いですね~(ΦωΦ)
となると、やはり外交というのは各国の政治経済から庶民生活に関わるシビアな情報を集めて、それを正確に分析し、どこをついていくかという戦略で動かなくては勝つことが出来ないということですかね?
そこまで当時は読めてなかったんですかね?
オバrevさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございますm(_ _)m
> となると、やはり外交というのは各国の政治経済から庶民生活に関わるシビアな情報を集めて、それを正確に分析し、どこをついていくかという戦略で動かなくては勝つことが出来ないということですかね?
外交はあくまで自国の利益を最優先して行うものであり、どこかの国のように自国を犠牲にしてまで他国のために尽くすのは愚の骨頂です。
> そこまで当時は読めてなかったんですかね?
鋭いですね(笑)。
そのあたりは今後の更新にご期待ください。
ぴーち おはようございます!
なるほど、アメリカも背水の陣で挑んだ
一か八かの大勝負だった訳ですか。
誰も好き好んで多くの犠牲を伴う
戦争を起こしたいとは思わないものですしね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、アメリカにとっても大勝負でした。
しかし、その勝負は「目先の利益」にこだわってのものであり、長期的視野においてはその後も「負の遺産」を背負い込むことになってしまうのです。
しかし、満州(まんしゅう)を含(ふく)む中国大陸(ちゅうごくたいりく)では蒋介石(しょうかいせき)が追われて中国共産党(ちゅうごくきょうさんとう)の毛沢東(もうたくとう)が中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく)を建国(けんこく)し、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)もソ連と南北に分割(ぶんかつ)してそれぞれ北朝鮮(きたちょうせん、正式名称を朝鮮民主主義人民共和国=ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく)と韓国(かんこく、正式名称を大韓民国=だいかんみんこく)として独立(どくりつ)させただけとなってしまいました。
また一方のイギリスもインドなど植民地(しょくみんち)のほとんどを失(うしな)うなどかつての「大英帝国(だいえいていこく)」が事実上解体(かいたい)させられてしまったのみならず、気が付けば東ヨーロッパがソ連を中心とする社会主義国家で固(かた)められてしまうなど、米英ともに大戦後に得た「果実(かじつ)」は存在(そんざい)せず、それまでのドイツにかわってソ連という名の社会主義国家の更(さら)なる強敵(きょうてき)をつくってしまっただけに終わったのです。
こうした結果を鑑(かんが)みれば、アメリカやイギリスは「真(しん)の強敵(きょうてき)」であったはずのソ連を見過(みす)ごした一方で「目先(めさき)の敵」でしかなかった我が国やドイツを叩(たた)いてしまうという、長期的な視野(しや)に立たずに短絡的(たんらくてき)な戦略(せんりゃく)にこだわったゆえの大失敗(だいしっぱい)をおかしてしまったと言えるのではないでしょうか。
そして、この「大失敗」は我が国においても例外ではなかったのです。
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青田 黒田先生
青田です。
第二次世界大戦のソ連ですが、
正直、常識では、考えられないことがあります。
それは、ソ連の戦死者数は、異常に多いことです。
【国別の戦死者数】
●ソ連 1611万5千人(軍人611万5000人、民間人1000万人)
●ドイツ 660万人(軍人325万人、民間人335万人)
●ポーランド 555万人(軍人55万人、民間人500万人)
●米国 54万5108人(軍人)
●英連邦 59万2767人(軍人53万2178人、民間人6万595人)
◆ 日本310万人(軍人230万人、民間人80万人)
通常、1600万人の戦死者が出ると、その国は、降伏すると思いました。
おそらく、ドイツ軍もソ連がこれだけの戦死者を出すと根を上げると考えたと思います。
以前、友人になぜ、『ソ連は、それだけの戦死者が出て、スターリンが独裁者なのに、降伏しなかったのか』と私が言うと、
その友人曰く
『いくらスターリンが嫌いでも、母なるロシアが攻められたら、戦うのが普通。それは、ロシアだけでなく、おそらく、個人主義の国のアメリカでも、イギリスでも同じ。』と語っていました。
私は、ソ連は、大嫌いですが、
今の日本のように竹島、尖閣諸島に侵入されて、
平和ボケしているほうが、世界的には、おかしい気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 恐るべき事実を数字が淡々と証明していますね。
平和ボケの我が国の将来は確かに不安です。
ぴーち こんばんは!
こうして伺っていると戦いによって
百戦錬磨の強者のようなアメリカでさえも
思い通りにいかないジレンマに
駆られているのですね。
戦いの全てに勝利したかに思えても
実情は上手くいかなかったり
するものなのは、戦争ばかりでは
ありませんがね(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
あれだけ多くの血を流しながら何の果実も得られなかったどころか、後に果てしない冷戦を繰り広げるソ連をみすみす成長させてしまう。
一体何のために戦争したんでしょうね。
ソ連の強さ
青田 黒田先生
青田です。
独ソ戦で、ソ連軍(赤軍)
陸上での、あらゆる大規模な戦いを
経験しました。
◆ モスクワ攻防戦。
◆ キエフ大攻防戦。
◆ レニングラードの戦い。(市街戦)
◆ スンリングラードの戦い。(市街戦)
◆ クルクスの戦い。(戦車同士の大規模な戦い。)
結局、ソ連は、陸軍においては、この当時、最強のモンスターになったと思います。
陸続きの国は、ソ連に飲み込まれてしまうほどになっていました。
アメリカ・イギリスは、海軍力では、ソ連を圧倒していましたし、アメリカが、核を持っていたことが、ソ連の膨張を抑える唯一の抑止力だったと思います。
これは、結果論ですが、アメリカ・イギリスは、ソ連の力を甘く見過ぎていました。
ただ、現代の日本にも言えることだと思います。
なぜならば、地理的に
今の日本は、核を持っていて強大な軍事力を持つ
ソ連、中国、北朝鮮、アメリカに囲まれら世界で唯一の国なんですね。
ぞっとしてきました。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおりですが、国史(=日本史)というよりも世界史の話になってきましたね。
私も含めて皆さんには勉強になりますが。
紗那 お久しぶりです。
前回の記事と今回の記事の内容の事実はすべて知っていたのですが、それを繋げて考えるとアメリカとイギリスは何ら得をしていない、そんなことには全く思い至りませんでした。
言われてみれば、世界史の流れを考えても第二次世界大戦を境に、ソ連の存在は大きく変わっているんですよね。教科書を読んでいても、急に出現頻度が上がりますし。
こうした見方ができていなかった私も、「大局的な視点を持てない」一人であるのかもしれません^^;
紗那さんへ
黒田裕樹 こちらこそお久しぶりです。
> こうした見方ができていなかった私も、「大局的な視点を持てない」一人であるのかもしれません^^;
いえいえ、私だって未だにそうですよ(^^ゞ
だからこそ「歴史に学ぶ」価値は高いんです。
しかし、いかにドイツやイタリアと三国同盟を結んでいたとしても、日ソ中立条約(にっソちゅうりつじょうやく)が結ばれてからわずか2ヵ月でソ連を攻撃すれば、我が国に対する国際的な非難(ひなん)が集中するのは明白(めいはく)でした。結局我が国は翌7月に、昭和天皇(しょうわてんのう)ご臨席(りんせき)のもとで開かれた御前会議(ごぜんかいぎ)において南方への進出を決定したのです。
なお、御前会議においてソ連への攻撃は情勢(じょうせい)が有利になった場合に行うこととなり、独ソ開戦後に陸軍が満州(まんしゅう)などに約70万人の兵力を集結させた、関東軍特権演習(かんとうぐんとっけんえんしゅう)と呼(よ)ばれた動員(どういん)も8月に中止されましたが、この決定を誰(だれ)よりも喜(よろこ)んだのが、東西の二方面から攻撃されるという危機(きき)が回避(かいひ)されたソ連のスターリンであったことは言うまでもありません。
かくしてアメリカを牽制(けんせい)するために我が国が結んだはずの日独伊三国同盟や日ソ中立条約は、結果としてことごとく裏目(うらめ)に出てしまい、我が国はソ連(=コミンテルン)のスパイであった尾崎秀実(おざきほつみ)らが強く主張していたとおりの南進論を選択(せんたく)してしまったことになります。
つまり、我が国はコミンテルンのスパイに操(あやつ)られるかたちで南進以外の選択肢(せんたくし)を失(うしな)ってしまったとも考えられるのです。そして、この選択は当然のようにアメリカを刺激(しげき)し、更(さら)なる苦難が我が国を待ち受ける事態(じたい)となってしまったのでした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
(※次回[8月17日]からは第37回歴史講座の内容の更新を開始します)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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青田 黒田先生
青田です。
私は、日本の国益を考えると
やはり、北進すべきだったと思います。
正直、この時の日本は、完全に国際戦略を
欠如していました。(日独伊三国同盟、北進の放棄など)
というのも、
ドイツに、ソ連は、緒戦で、大打撃を受け
軍隊は、壊滅状態でした。
そのドイツに対して、ソ連は、日本が北進しないことを知り、
満州の国境近くに配備しいていたシベリア旅団を
モスクワに集結させ、ドイツ軍を打ち破りました。(ドイツ軍自体も、どこから、これだけの軍隊があるのか、驚いたそうですが)
もし、このシベリア旅団を日本が釘付けにしていれば、
モスクワは陥落し、かつての、ロシア革命のようにスターリンは、失脚したと思います。
私は、ナチスドイツ、ソ連も大嫌いですが、
『敵の敵は味方、毒は、毒を持って制す。』ことで、日本の国益を守れるには、必要だと思います。
でも、不思議に近現代史では、この北進か、南進かについての選択が軽くしか扱われていませんね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりでしたね。
逆に考えれば、だからこそソ連はスパイを駆使して我が国の北清論を何としても食い止めたかったのでしょう。
日ソ中立条約を結んだ時点で事実上の「詰み」だったわけですが。
ぴーち こんばんは!
北進か、南進かという究極の選択を
この時期、迫られていたという話は
初めて伺いました!
ソ連にとっては、日ソ中立条約は
割に合う保険を掛けていた様なものだったのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 北進か、南進かという究極の選択を
> この時期、迫られていたという話は
> 初めて伺いました!
北進論か南進論かがまさに「運命の分かれ道」だった割にはあまり知られていませんからね。
> ソ連にとっては、日ソ中立条約は
> 割に合う保険を掛けていた様なものだったのでしょうか?
結果としてはそうなりますね。
スターリンにとっては万々歳だったことでしょう。