停戦協定において満州と接した華北(かほく)地区にあたる河北省東北部(かほくしょうとうほくぶ)には非武装地帯(ひぶそうちたい)が設定され、その治安維持を中国側の警察が担当(たんとう)するようになりましたが、中国側の圧政(あっせい)に苦しんでいた地元民からは、いつしか国民政府(こくみんせいふ)からの独立を求める声が聞かれるようになりました。
なぜなら、当時の華北には日本軍や満州国、あるいは国民政府や中国共産党(ちゅうごくきょうさんとう)、さらには各地の馬賊(ばぞく)と呼ばれた地方有力者による軍閥(ぐんばつ)が入り乱れ、政治的に混乱を極(きわ)めていたからです。これらのうち平和と繁栄(はんえい)が保証されると当時最も信頼されていたのは日本軍や満州国であり、いつしか地元民は日本軍の支配下に入ることを願うようになっていました。
一方、関東軍(かんとうぐん)は満州のさらなる防衛強化のためには華北を日本の影響下(えいきょうか)に置(お)いた方が良いと考えており、地元民と関東軍との思惑(おもわく)が一致(いっち)したこともあって昭和10(1935)年に冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)が樹立(じゅりつ)されるなど、いわゆる華北分離工作(かほくぶんりこうさく)が進められました。
なお、日本政府は昭和11(1936)年1月に「第一次北支処理要綱(だいいちじほくししょりようこう)」を閣議決定(かくぎけってい)しており、これは華北分離工作を国策(こくさく)としたものと解釈(かいしゃく)されているようですが、その背景には「自国の軍隊が自国の判断に従って世界展開する事を自明の事であり、日本なくして国際秩序を維持できない」という当時の日本人の強い自負があったからだと考えられます。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
華北分離工作を国策だと解釈された時のデメリットは・・?
この場合、関東軍が単独で決断した事だという
事が、事実という事ですか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この場合、関東軍が単独で決断した事だという
> 事が、事実という事ですか?
元々は関東軍の施策だったのが追認した格好になりますからね。
軍部の当時の強さがうかがえる事実でもありますが。
なぜなら、抗日救国運動や人民戦線運動は救国のためとか、あるいは世界の人民と連携(れんけい)して行動するといった建前(たてまえ)ばかりではなく、各国でナショナリズムをあおることによって共産主義への敵対心(てきたいしん)を緩和(かんわ)させることが本当の目的だったからです。
中国共産党が提唱した抗日救国運動は1935(昭和10)年から1936(昭和11)年にかけて数多くの在留(ざいりゅう)日本人が殺されるなどのテロ事件を起こしましたが、その間に共産党が山西省(さんせいしょう)に侵入(しんにゅう)するなど勢力の拡大をもたらしたため、国民政府の蒋介石(しょうかいせき)は中国共産党に対する本格的な掃討作戦(そうとうさくせん)を開始しました。
蒋介石の動きに対し、中国共産党は陝西省(せんせいしょう)の延安(えんあん)にまで追いつめられましたが、ここで起死回生(きしかいせい)の事件を起こすことによって共産党の勢力が回復するとともに、国民政府や我が国日本に対して深刻(しんこく)な影響(えいきょう)を与えてしまうのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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- 黒田先生
こんにちは
青田です。
この頃の中国共産党は、ゲリラの一派でしかなかったですね。
卑怯なずる賢さは、かなり、上手です。
特に人民へのマインドコントロールの仕方も
上手ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、当時の中国共産党は追い詰められていました。
現在の中華人民共和国の姿とは大違いですね。ただ、生き残るための「ずる賢さ」は今も昔も変わらないようですが…。
ぴーち おはようございます!
窮地に追い込まれた時にこそ、それまで蓄えていたもの(物質的なもの以外に知識など)がどれだけ備わっているかという事が試されたりしますが、何も持ちあわせていなければ悪魔に魂を売ってまでも何かを得ようと必死になるものですが、
この頃の中国も、やはりそんな状態だったのでしょうか・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 中国共産党の場合は後者かもしれませんね。
コミンテルンの支持を受ければ言いなりになるしかないのですが、それでも生き残るためには仕方がない。
7世紀に唐への朝貢を決意した新羅を彷彿とさせます。やはり歴史は流れていますね。
張学良がなぜ中国共産党に寝返(ねがえ)ったのかは諸説(しょせつ)ありますが、いずれにせよ西安事件によって蒋介石は共産党との内戦を中止して抗日(こうにち)へと方針を転換(てんかん)することになりました。
なお、1937(昭和12)年9月に国民政府は正式に中国共産党との内戦停止と抗日民族統一戦線(こうにちみんぞくとういつせんせん)の形成に踏(ふ)み切りましたが、これらの動きは今日では第二次国共合作(だいにじこっきょうがっさく)といわれています。
西安事件をきっかけとして中国大陸では国民党と共産党との内戦が中止され、彼らの牙(きば)が一斉(いっせい)に我が国に向けられることになるのですが、当時の日本政府がどこまで事態の深刻(しんこく)さを理解していたかは分かりません。
ただ、我が国で共産主義に共鳴(きょうめい)し、ソ連のスパイであった尾崎秀実(おざきほつみ)をブレーンとした第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣が誕生(たんじょう)した直後に、まるでそれを待っていたかのように「ある出来事」が起きてしまったという、偶然(ぐうぜん)とは思えない歴史的事実があったことだけは間違いありません。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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- 黒田先生
こんにちは
青田です。
この蒋介石の中国共産党の寝返りの背景には、
交渉の達人の『周恩来』の存在があったと聞いたことがあります。
周恩来が蒋介石に
『今、中国人同士で、戦っている場合ではない。協力して、日本をやっつけよう。同じ中国人ではないか。』と
真偽のほどは、わかりませんが
周恩来の力なら、その可能性もありますね。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに周恩来なら言いそうな言葉ですね。
いずれにせよ、生命の危険があったとはいえ蒋介石の「寝返り」がその後の様々な問題を引き起こしてしまいました。
ぴーち おはようございます!
他人事とは思えないですねぇ・(^^ゞ
悪い事というのは何故か上手い具合に
重なるものなんですよね・・・(;´д`)トホホ…
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 他人事とは思えないですねぇ・(^^ゞ
> 悪い事というのは何故か上手い具合に
> 重なるものなんですよね・・・(;´д`)トホホ…
その通りですよね。今回の流れも偶然がもたらした産物とは素直に受け取れない側面があります。
そして事態は最悪の方に…。
今、気づきましたが
青田です。 黒田先生
青田です。
今、気づきましたが、冷静に考えると
毛沢東(中国共産党)は、ゲリラの親分であり、
それが、現在の中国を支配しています。
その中国が、国連の常任理事国で、戦勝国になっています。
この中国が、『日本に謝罪を求めている。』
あきらかにおかしいです。
そういえば、中国では、日本のように名家(昔からの名門)は、存在しませんし、歴史的建造物もありません。モラルの規範である孔子を毛沢東は、否定し、文化大革命で、大粛清しました。
この『権威』の欠如が、『権力』の暴走(粛清)に繋がるのかもしれませんね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 なるほど、そのような一面も確かにありますね。
昭和12(1937)年7月7日午後10時40分頃、北京郊外(こうがい)の盧溝橋(ろこうきょう)付近に駐屯(ちゅうとん)していた日本軍が演習(えんしゅう)を終えた時、何者かが軍に向けて発砲(はっぽう)しました。日本軍の周囲には国民政府軍が駐屯していたので、彼らの仕業(しわざ)ではないかと思った日本軍は軍使(ぐんし)を派遣(はけん)しました。
ところが、翌8日の深夜3時25分頃に再び日本軍に向けた発砲事件が起きたため、さすがにこの時は日本軍も戦闘態勢(せんとうたいせい)に入りましたが、事件の拡大を恐(おそ)れて直前で攻撃(こうげき)を中止しました。
すると、今度は日本軍が攻撃してこないと高(たか)をくくったのか、明け方の5時30分頃に国民政府軍が本格的な銃撃(じゅうげき)を浴(あ)びせてきたため、ついに日本軍も反撃(はんげき)を開始しましたが、最初の発砲からすでに約7時間も経過していました。
以上が盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)の真相(しんそう)です。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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鹿児島のタク 黒田先生,おはようございます。
盧溝橋事件については,まず日本軍が発砲したというのが定説と思っていました。
研究の結果,いろいろ新たに分かってくることがあるのですね。
どうもありがとうございました。
ぴーち おはようございます!
盧溝橋事件については全く経緯を把握していませんが、日本軍側は最初は慎重な態度を示していたのですね。軽率な行動をしないようにと思っていた事が、帰って仇になってしまったのでしょうか?それとも、歴史書には日本側が最初に攻撃してきたとでも書かれていたのでしょうか?
応援凸
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 > 盧溝橋事件については,まず日本軍が発砲したというのが定説と思っていました。
つい最近までは当たり前のように言われてきましたね。
プロパガンダの恐ろしさです。
盧溝橋事件に関してはもうしばらく考察を続けます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 盧溝橋事件については全く経緯を把握していませんが、日本軍側は最初は慎重な態度を示していたのですね。軽率な行動をしないようにと思っていた事が、帰って仇になってしまったのでしょうか?それとも、歴史書には日本側が最初に攻撃してきたとでも書かれていたのでしょうか?
仰るとおり、日本軍の行動は非常に紳士的でしたが、それが仇になった可能性は確かにありますね。
歴史書の記載は最近まではその通りでした(今でも書いてあるのもあるそうですが)。
そのあたりの考察を今後も続けます。
それに、発砲を受けた部隊はその直前まで夜間演習(やかんえんしゅう)を続けていましたが、誤射事故(ごしゃじこ)を避(さ)けるために実弾(じつだん)を使用しておらず、鉄カブトさえかぶっていませんでした。
また事件勃発(ぼっぱつ)後の日本軍は、事態の拡大を恐(おそ)れてできるだけ早く収拾(しゅうしゅう)しようと努め、8日には陸軍や外務省が不拡大の方針を決定したほか、現地においても9日午前2時に現場での停戦協議が成立し、事件から4日後の11日には早くも停戦協定が成立しました。なお、このときに我が国では盧溝橋事件のことを「北支事変(ほくしじへん)」と命名しています。
ところが我が国の意に反して中国との衝突はこの後ますます激化(げきか)し、ついには戦線が大陸全土にまで及(およ)んでしまうのです。なぜこのようなことになってしまったのでしょうか。
当時は不明だったこれらの理由ですが、今では明らかになっています。実は、盧溝橋事件は中国共産党が仕掛(しか)けた罠(わな)だったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
メッキが剥がれる・・などと言いますが、
その時は本物と見まごうばかりに(いかにも真実であるが如く)皆の目をごまかす事が出来ますが、所詮嘘で固めたものというのは、年月と共に風化して剥がれ落ちてしまい、そこに現れるのはいつまでも朽ち果てることにない真実のみという事なのでしょうね。
勿論、その時を待たずに
黒田さんの様に、僅かなメッキの歪みを見逃さずに注目し、その内側に隠された本物を見抜く目を
少しでも養っていけるようにしたいものです^^
応援凸
罠にはまってしまったのですか?
鹿児島のタク 日本が罠にはめられてしまったのでしょう。
それは,十分に考えられます。
私のような歴史を少ししかかじっていない者にも…。分かる…。
だって,真珠湾攻撃にしても,アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトにしてやられた…ような部分がありそうですよね。
罠にはまる方にも問題があると言われそうですが,歴史はこの罠の掛け合い的な部分がたくさんありそうだから,面白くて,そして怖いです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
仰るとおり真実を見抜く力は重要ですが、教えるだけの歴史教育のままではそれすらかないそうにないのが残念です。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
歴史は時として非情な罠が仕掛けられており、引っかかってしまうと当時の我が国のように亡国の危機にさらされます。
当事者としては恐怖でしかないですよね…。
実際に盧溝橋(ろこうきょう)における国民政府軍に共産党のスパイが紛(まぎ)れ込んでいて、彼らが日本軍に向けて発砲(はっぽう)したことが中国側の資料から明らかになっていますし、また日本軍側でも盧溝橋事件の直後に中国共産党司令部に向けて「成功せり」という緊急電報(きんきゅうでんぽう)が打たれたのを傍受(ぼうじゅ)したという証言が出されています。
なお、第二次世界大戦後に開かれた極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん、別名を東京裁判=とうきょうさいばん)では盧溝橋事件の審査(しんさ)も進められましたが、なぜか途中(とちゅう)で中止されています。おそらくは中国共産党の陰謀(いんぼう)と分かったことで、裁判の進行に都合(つごう)が悪いと判断されたと考えられます。
また、盧溝橋事件の真相(しんそう)が明らかになるにつれて、最近では「そもそもそんなところに日本軍がいたから悪いのだ」という意見のすり替(か)えが平然と行われているようですが、日本軍が北京郊外(こうがい)の盧溝橋付近に駐留(ちゅうりゅう)していたのは先述(せんじゅつ)のとおり北清事変(ほくしんじじへん)後の北京議定書(ペキンぎていしょ)によって認められていたからであり、日米安全保障条約(にちべいあんぜんほしょうじょうやく)によって現在の我が国にアメリカ軍が駐留しているのと同じ理由です。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
「そもそもそんな所に日本軍が居たから悪い」
ですか・・
大層な言い草ですね。
それでも、この言い訳は自国にも多少なりとも否があると半分認めた様な解釈にも聞こえなくもありません。
卑怯な手段を取ってまでも勝利した者の言い訳は
いくら取り繕っても、的はずれな方向へ進んでいくもので、
とても大衆を納得させられる理由にはなりませんね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰ること、まさしくその通りです。
さらに問題なのは、このような言い訳をチャイナのみならず、我が国の反日的勢力が公言しているという事実です。
中国共産党…
鹿児島のタク 「公開された中国側の資料から明らかになっていますし。」…黒田先生,私は,こんなこと全然知らなかったです。
えっ,でも,中国がこんな資料を公開しているのですか。意外です。
ちょっとは「まし」になったのでしょうか。
それにしても,中国(共産党)はあの体制でしか,国を統治できないのでしょうか。
それとも,伝統的な「皇帝」を復活しなければだめなんじゃないの…なんて,半ば本気で考えてしまいます。
中国人民,14億の民を食わせて行かねば…,周近平国家主席は,人民から処刑されるのではないかなどと,余計な心配をしてしまいます。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 中国側の資料は盧溝橋事件の研究者が探し出していますね。
いずれにせよ、現代のチャイナに関しては今後の行方がどうなるかは難しいところです。
北京の東方に位置した通州(つうしゅう)は、親日的だった冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)が支配していたために多くの日本人が居留民(きょりゅうみん)として暮(く)らしていましたが、その一方で反日的行為を繰(く)り返していた国民政府軍も駐屯(ちゅうとん)していました。
このような複雑(ふくざつ)な事情が存在していたこともあったからなのか、盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)を受けて昭和12(1937)年7月に関東軍(かんとうぐん)の爆撃機(ばくげきき)が国民政府軍の兵営(へいえい)を空爆(くうばく)した際に、間違(まちが)って冀東防共自治政府の保安部隊(ほあんぶたい)を攻撃(こうげき)してしまい、数人の保安部隊員が犠牲(ぎせい)になってしまいました。
事故発生後、関東軍は直(ただ)ちに責任者が自治政府の高官を訪問して謝罪(しゃざい)し、保安隊にも訪問して事情を説明したほか、遺族(いぞく)のもとにも足を運ぶなど適切(てきせつ)な事後処理(じごしょり)を行ったため、この事故は一応の解決を見ました。
ところが、その直後の通州で常識では考えられないような虐殺事件(ぎゃくさつじけん)が起きてしまったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
なるほど、
てんぷら油の鍋の中に、水が少量入っている様な状況ですか(*_*;
何かひとつ火種があると油は直ぐに煮えたぎり、水を弾き出してしまいがちですが、熱しやすい油を固まらせるに為には冷やして完全に鎮圧させなければなりませんね。
大変な状況が伺えます。
応援凸
えっ!
鹿児島のタク 虐殺事件とは…?
黒田先生の次回のupを待ちます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり危機的な状況ではありました。
ただ、物事には程度というものもありますからね。
詳しくは今後の更新で明らかにします。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 この後起きる虐殺事件はなぜか知られていませんからね。
今後の更新で明らかにします。
中国兵は日本人を婦女子(ふじょし)に至(いた)るまで、およそ人間がやったとは思えぬような残忍(ざんにん)極(きわ)まりない方法で虐殺しましたが、この事件のあまりの残虐(ざんぎゃく)さに我が国日本の世論は一気に沸騰(ふっとう)し、対中感情が取り返しの付かないほど悪化してしまったのです。
通州事件は民間人を巻(ま)き込(こ)んで虐殺するという、当時の国際法に明らかに違反(いはん)する暴挙(ぼうきょ)であり、軍同士が衝突(しょうとつ)した盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)とは全く性格が異(こと)なります。にもかかわらず、第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん、別名を東京裁判=とうきょうさいばん)では通州事件についての論議は却下(きゃっか)されてしまいました。
また我が国の歴史教育においても、ほとんどの歴史教科書が通州事件に関する記載(きさい)を省(はぶ)いているなど、史上稀(まれ)に見る日本人の大量虐殺という重要な事件でありながら、その扱(あつか)いは極めて不当であると言わざるを得ません。
なぜこのようなことになっているのでしょうか?
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鹿児島のタク 「なぜこのようなことになっているのでしょうか?」…次回のupがまた楽しみです。…でも,この場合,「楽しみです。」と書くのはよくないですね。虐殺事件ですから。
知的な好奇心がわいてしまうものですから…。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 いえいえ、お気持ちはよく分かるつもりです。
いずれにせよ真相を知ることは重要ですね。
ぴーち おはようございます!
ここでもまた大きな圧力が加わっているのでしょうかね・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > ここでもまた大きな圧力が加わっているのでしょうかね・・?
人によっては色々な見方があるとは思いますが、全体的な印象や仕打ちとしてはいかがなものでしょうか。
詳しくは次回の更新をお待ちください。
ただ、怒りがわいてきますが。。。
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
通州事件について、全く、知りませんでした。
ウィキペディアで、詳しく、殺され方を観て、
身の毛が立つ思いを感じました。
個人的には、『日本に謝れと言う前に中国が謝れ!』と思いました。
血圧が上がってきました。(激怒)
青田さんへ
黒田裕樹 やはりご存じありませんでしたか。
歴史教育の罪は深いですね…。
通州事件について
- 黒田先生
おはようございます。
青田です。
私は、かなり、歴史については、知識について
自信がありましたし、
近現代史についても、かなり、本を読みましたが
知りませんでした。
ただ、私が、20代の頃は、インターネットがなく、
出版されている本も自虐史観の本(今から、考えると)ばかりでした。
私は、20年前、中国と貿易をしている会社に勤めていて、その時、中国人の同僚と、近現代史については、かなり、激論を交わしました。
しかし、彼曰く
『中国人なら、731部隊を全員知っている。』と語っていました。
おそらく、現在の中国人も『731部隊は、知っていても、通州事件について、知らない』と思います。
周辺諸国条項(私は、反対ですが)が共通の歴史認識を持つことが目的なら、日本の教科書にも
中国の教科書にも載せる必要がありますね。
現実的には、ありえませんが。。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、歴史の闇に埋もれてしまっている通州事件は多くの人々が知らないでしょう。
中国側の教科書に乗ればベストですが、現状では期待薄ですね。
731部隊
青田です。 黒田先生
青田です。
私は、28歳の時、中国に鉄を輸出している貿易会社に勤めていて、
その時、上海人の同僚と仕事以外でも、かなり、
議論をしていました。
(この同僚は、お父さんが、大学教授で、叔父さんが中央政府の役人で、上海大学卒業で、日本の会社の2人社長が身元保証人というエリートでした。)
その時、通春事件については、一切、出ませんでした。私も知りませんでしたし、その上海出身の同僚も知りませんでした。
その上海の同僚曰く、
「731部隊のことは、中国人なら、誰でも知っている。」と語っていました。
この『731部隊』については、黒田先生の通史の中には、全く、出てきませんが、
これは、何か理由があってのことでしょうか。
(通春事件を捏造の可能性があるとか)
中国人がみんな知っているわりには、中国政府も、
「731部隊」については、一切、沈黙しています。(南京大虐殺の捏造は、主張するのに)
何か不気味です。
青田さんへ その3
黒田裕樹 731部隊に関しては、「有り得ない」ので載せていないだけです。
ところが、通州事件に関しては中国側の悪行(あくぎょう)はごまかしようがないほど残忍(ざんにん)なものであり、これを詳(くわ)しく説明すれば「日本が悪玉、中国が善玉」という洗脳(せんのう)が崩壊(ほうかい)してしまうため、卑怯(ひきょう)にも口をつぐんできたのです。
しかし、21世紀を迎(むか)えてインターネットによる情報が広がったことで通州事件の残虐(ざんぎゃく)さが次第に理解されると、これまでのように口をつぐんでごまかすことができなくなってしまいました。
すると、今度は「通州事件が起きたのはそもそも日本軍が通州の保安部隊施設(しせつ)を誤爆(ごばく)したからだ」と主張し始め、事件の本質をゆがめようとしていますが、もちろんこの考えは正しくありません。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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鹿児島のタク 極東軍事裁判等の資料をしっかり見ることがこれまでありません。
「勝てば官軍」だから,勝者が敗者を裁く…。
だいたい,歴史をさかのぼるときりがないので,遡るといけないのかもしれませんが,先の大戦中,我々は戦争にルールなし。たくさん殺した方の勝ち! というようなイメージを持ちがちですが…。
黒田先生,実は戦争(戦闘)にもルールがありますよね。例えば,一般人への空襲(都市空襲),原子力爆弾の無警告投下など…。
勉強不足で分からないことばかりですが,上の二つは,当時の戦争のルールとしては,OKなのでしょうか。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 > 実は戦争(戦闘)にもルールがありますよね。例えば,一般人への空襲(都市空襲),原子力爆弾の無警告投下など…。
> 勉強不足で分からないことばかりですが,上の二つは,当時の戦争のルールとしては,OKなのでしょうか。
民間人への空襲も、原爆投下ももちろん国際法の重大なる違反であり、許されるものではありません。
だからこそ戦勝国はこぞって我が国を悪者扱いにするプロパガンダとしての東京裁判を行ったのです。
ご回答ありがとうございます。
鹿児島のタク ご回答ありがとうございました。
それにしても,黒田先生の正体は何者なのですか?(笑)只者ではありませんね。
高校教師というのは仮の姿でしょうか。(笑)
鹿児島のタクさんへ その2
黒田裕樹 > それにしても,黒田先生の正体は何者なのですか?(笑)只者ではありませんね。
> 高校教師というのは仮の姿でしょうか。(笑)
いえいえ、単なる教師の端くれにすぎませんよ(笑)。
普通に勉強すればこれくらいの知識は身に付きます。
それに、数人の軍関係者である保安部隊員が殺された報復として二百数十人の民間人を含(ふく)む日本人を虐殺(ぎゃくさつ)するというのはどう考えても筋が通りません。ではなぜ本来は親日であったはずの冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)の保安部隊があそこまで残忍(ざんにん)な虐殺を行ったのでしょうか。
これは最近明らかになったことですが、実は保安部隊は通州事件以前から反日側に寝返(ねがえ)っており、事件の際にはまず日本人居留民(きょりゅうみん)らを通州城内に集合させ、その後に門を閉めて計画的に虐殺を行っていたようです。要するに事前に日本人の虐殺を計画し、かつ実行に移したことになりますが、こうした血の通(かよ)った人間とは思えないようなセンスを日本人が持ち合わせているとはとても考えられません。
それにしても、通州事件の存在をこれまで口をつぐんで無視し続け、ごまかせなくなると事実の本質をゆがめようとする人々は、この虐殺がもたらした事態の深刻(しんこく)さに気づいていないか、あるいは気づかないふりをしているつもりなのでしょうか。
「通州事件の残虐さに当時の多くの日本人が激高(げきこう)し、対中感情が一気に悪化してこの後の中国との関係に決定的な影響を与えた」。この歴史的事実をしっかりと理解し、かつ教えなければ、我が国を含む近現代史の真実は永久に見えてこないのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
(※次回[6月5日]からは第36回歴史講座の内容の更新を開始します)





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- 黒田先生
こんにちは
青田です。
この事件のついて、まず
日本人が、これから、生きていく上で
知らないといけないですね。
というのも、この事件は、『それは、単に昔の話。』で、済まされることではないからです。
この事件を知っていて、この前の『反日デモ』を観ると、中国に対する恐怖感が違い、中国との付き合い方を
もっと、日本人が真剣に考えるからです。
ただ、『これからは、中国の時代』と言っている経営者・評論家は、どれほど、いるのか、疑問ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 私も同感です。
いわゆる「中国べったり」の人々は、事実を知っているのかあるいは知っていて頬かむりをするのか。
いずれにせよ許されざる行為でしょうね。
この事実について
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
<「中国べったり」の人々は、事実を知っているの<かあるいは知っていて頬かむりをするのか。
あるいは
<尖閣諸島問題に無関心な日本人
について、思い出した人物がいます。アメリカの哲学書
ジョン・ロールズです。
(日本への原爆投下に激しくトルーマンを批判した人物です。)
彼曰く
『無知だと怒りもわかない、無知だと不安にもならない。無知だと悩みもない。無知だと愛国心もなくなる。』と語っていました。
この言葉を考えると
近現代史について、無知な日本人について
非常に適格だと思います。
青田さんへ その2
黒田裕樹 無知な日本人には確かに的確な言葉ですね。
ただし、生き馬の目を抜く厳しい国際社会において、無知は大罪です。
私たちは歴史に詳しくなくてはいけません。
ぴーち おはようございます!
事実でもない事を国民に広め、
無理に相手国を憎む感情を植え付ける様な
教育は言語道断ではありますが、
事実は事実としてしっかりと
伝えていけるような、歴史教育は
これからは必須であると感じました。
どうして今まで受けてきた歴史教育の中で
何も頭に残らない様な授業が多かったのでしょう。
通り一遍の詰め込み教育の弊害を感じます。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰ること、まさにそのとおりです。
単なる詰め込み教育では自分の頭で過去に起きた様々な出来事を考察し、将来に生かすという重要な作業ができようはずがありません。
いろいろ~あ~難しい!
鹿児島のタク 黒田先生の「我が国を含む近現代史の真実は永久に見えてこないのです。」についてです。
日本の小・中・高等学校での日本史の学習は,近現代史が疎かにされているような気がします。
確かに,近現代史よりも,戦国時代の方が“面白かったり”,“幕末・明治維新”の方が楽しい部分もあります。それがいけないとは言いませんが,もっと近現代史に学校教育でも光を当てないといけないのでは…。
何といっても,近現代史は現在に直結していますから…。(だから,学校では取り扱いにくい部分もあるでしょう。)
近現代史は,多くの学校では,3学期末に学習するようにカリキュラムが組んであるでしょう(?)。そうなるとどうしても,軽く扱ってしまいがちになるのではないでしょうか。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、近年の歴史教育においては近現代史が軽視されている傾向にあります。
受験が主体で時間がない、というのもありますが、良くないことであると常々思っております。
素朴な質問
仲原和孝 黒田先生、覚えていますか?
先月の久野潤先生の講演会でご一緒させていただいた仲原です。
この記事について素朴な質問なんですが、なぜ冀東防共自治政府は親日から反日に寝返ったんですか?
お金が入ってくるからですか?
初歩的な質問で申し訳ありません。
仲原和孝さんへ
黒田裕樹 もちろん覚えていますよ。その際はお世話になりました。
冀東防共自治政府が裏切った理由には諸説ありますが、そのうちの一つに日本軍が敗北して国民政府軍が攻めてくるというデマが流されたからではないか、というのがあります。
いずれにせよ、裏切っただけでなくこのようなおぞましい虐殺事件を起こした段階でその後の運命が決まってしまったような感がありますね。