しかし、翌昭和12(1937)年1月の第70回帝国議会(ていこくぎかい)において、立憲政友会(りっけんせいゆうかい)の浜田国松(はまだくにまつ)議員が軍部の政治への干渉(かんしょう)を痛烈(つうれつ)に批判(ひはん)した演説を行ったことがきっかけとなってひと騒動(そうどう)が起きました。
演説を聞いた寺内寿一(てらうちひさいち)陸軍大臣が「軍を侮辱(ぶじょく)しているのではないか」と答弁すると、すかさず浜田議員が「私の発言のどこが侮辱なのだ」と切り返し、寺内陸相が「侮辱したように聞こえた」とたたみかけると、浜田議員は一歩も引かずに「速記録(そっきろく)を調べて侮辱した言葉があれば私は腹を切って謝罪(しゃざい)するが、なかったら君が割腹(かっぷく)せよ」と激(はげ)しく詰(つ)め寄ったのです。
浜田議員と寺内陸相とのいわゆる「腹切り問答」に議場は大混乱となり、翌日から停会(ていかい)しました。激怒(げきど)した寺内陸相は広田首相に議会の解散を要求し、受けいれられなければ辞職(じしょく)すると言い張りました。
首相らは何とか寺内陸相を説得しようとしましたが不調に終わったため、広田内閣は閣内不統一(かくないふとういつ)を理由に総辞職(そうじしょく)に追い込(こ)まれました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
いくら正論で相手を論破しようとしても、悲しいかな・・時の勢力にはなかなか太刀打ち出来ないものですね。(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、統帥権干犯問題の流れが軍部の発言力を大きくしたことから、今回のようなことが起きてしまいました。
そして、軍部の発言力の大きさは、この後も見せつけられることになります。
しかし、軍部に抑(おさ)えが利(き)く人物として宇垣が推薦(すいせん)されたということは、自分たちの主導で政治を行うことを画策(かくさく)していた軍部にとっては都合の悪いことでした。このため、石原莞爾(いしわらかんじ)大佐(当時)ら陸軍中堅層は宇垣内閣誕生を阻止(そし)すべく動きました。
石原らは先の広田内閣で復活した軍部大臣現役武官制に目を付け、宇垣内閣に陸軍大臣に相応(ふさわ)しい人物を一切推薦しなかったのです。このとき宇垣は陸軍大将でありながらも予備役であったため、現役武官制が災(わざわ)いして自身が陸相を兼任することができませんでした。
結局宇垣は組閣を断念し、翌2月に同じ陸軍大将で予備役の林銑十郎(はやしせんじゅうろう)が内閣を組織しましたが、宇垣一成の組閣失敗は軍部の政治的発言力の強さを思い知らされると同時に、軍部大臣現役武官制が倒閣(とうかく)の手段として非常に有効であることを明らかにする結果となりました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます♪
こうなってくると、もう誰にも軍の勢いは
止められないという感じですね。
ブレーキーを失った暴走車の行き着く果ては・・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに止められない印象が強いですね。
ただ、軍をここまで強くしたのは一体何であったのかも同時に考える必要があるかと思います。
原因→結果
ぴーち おはようございます!
仰るとおり、軍がそこまで強くなってしまったという事はつまりは、周りがそうさせてしまったという事ですものね。
確かに軍ばかりを責めることは出来ませんね。(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ご賛同有難うございます。
軍のやったことが正しいとは思えませんが、原因を一方的に押し付けるのではなく、分析力を高めないと本当の歴史は見えてきません。
拙講座では今後とも注意しながら進めていきたいと思っております。
昭和12(1937)年2月に成立した林銑十郎(はやしせんじゅうろう)内閣は、大蔵大臣に財界出身の人物を就任させて軍部と財界との調整を図ろうとしました。これを軍財抱合(ぐんざいほうごう)といいます。また急造の内閣だったため、文部大臣など林自身が兼任した国務大臣(こくむだいじん)が多かったことから「二人三脚(ににんさんきゃく)内閣」と揶揄(やゆ、からかうこと)されました。
林内閣のもとで昭和12年度予算が例年どおり審議(しんぎ)されましたが、成立直後の3月31日に林が突然衆議院を解散しました。内閣にとって予算成立という「ご馳走(ちそう)」を賞味(しょうみ)した直後の解散劇だったことから「食(く)い逃げ解散」と呼ばれましたが、翌月に行われた総選挙の結果は林内閣にとって芳(かんば)しいものではなく、政党からの退陣要求が日増(ひま)しに強くなりました。
結局林内閣は同年6月に総辞職(そうじしょく)し、成立してからわずか4ヵ月余(あま)りで退陣(たいじん)を余儀(よぎ)なくされました。任期が短く大した実績を残せなかったことから、後には林自身の名をもじって「何もせんじゅうろう内閣」と皮肉(ひにく)られています。
さて、林内閣の後には当時の貴族院議長(きぞくいんぎちょう)が内閣総理大臣を務(つと)めることになりましたが、かつての五摂家(ごせっけ)の筆頭という家柄(いえがら)で、しかも本人自身は皇室の血を引く人物として、元老(げんろう)や軍部のみならず一般民衆(いっぱんみんしゅう)まで国民各層の大きな期待を集めていました。
彼こそが近衛文麿(このえふみまろ)だったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
鹿児島のタク 黒田先生
五摂家には,「家格」(順位)が決まっているのですか? 知りませんでした。
私の勘では,筆頭は「近衛家」…はずれましたか?
もし,1~5まで,決まっているのでしたら,教えていただきたいです。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 五摂家の家格の順位は様々な説がありますが、少なくとも一番上とみなされているのは仰るとおりです。
五摂家の筆頭は近衛家(このえけ)でしたが、その血筋は江戸時代に一旦(いったん)は断絶(だんぜつ)したものの、外孫(がいそん、他家に嫁いだ娘にできた子のこと)として皇室の血統を迎えたことで高貴(こうき)さが強化されていました。
やがて明治維新(めいじいしん)を迎えると五摂家は華族(かぞく)となり、爵位(しゃくい)としては最高の公爵(こうしゃく)に叙(じょ)せられるとともに貴族院議員(きぞくいんぎいん)を務(つと)めました。そんな家柄(いえがら)の嫡男(ちゃくなん)として生まれた近衛文麿(このえふみまろ)は若い頃(ころ)から端正(たんせい)な風貌(ふうぼう)かつ颯爽(さっそう)とした長身(ちょうしん)を持ち、大衆的(たいしゅうてき)な人気を得ていました。
そして昭和12(1937)年6月、近衛文麿はついに内閣総理大臣となりました。血統が異(こと)なるとはいえ、藤原氏の末裔(まつえい)が国政の最高責任者として君臨(くんりん)する日がやって来たことに、悠久(ゆうきゅう)の日本の歴史の大きな流れを実感した人々は当時もさぞかし多かったことでしょう。
しかし現実は時として冷酷(れいこく)であり、この微妙(びみょう)かつ重要な時期に彼が首相であったことから、我が国は果てしない泥沼(どろぬま)の戦争状態に突入(とつにゅう)することになってしまうのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
近衛文麿はそんなに容姿端麗な人物だったのですか^^姿を模写したような絵画などは文献として残されてはいませんか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 近衛氏の写真は検索すればかなり出てきますが、著作権の関係でここで明らかにできないのが残念です。
は血統の良さなどで「贔屓目」に見られていた可能性もありますが、人気が先行すると実像がカムフラージュされてしまうという傾向はよくないですね。
河上のもとで熱心にマルクス経済学を学んだ近衛は共産主義に大いに共鳴し、20代の頃には「私有財産制が諸悪の根源であり、財産や貧困の害悪を断ち切るには社会主義を実現するしかない」という論文を発表しています。
近衛はやがて昭和11(1936)年に政策集団の昭和研究会を結成しましたが、その有力メンバーには革新派の官僚や学者・評論家・ジャーナリストなどが参加し、政党関係者としては社会大衆党の幹部が多く加わりました。
近衛が首相に就任する直前の昭和12(1937)年4月には、朝日新聞の記者で後に近衛の有力なブレーンとなった、かのゾルゲ事件で有名な尾崎秀実(おざきほつみ)も参加しています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
近衛文麿が、社会主義思想に染まっていて
そのブレインが尾崎秀実がいたという事実は
本当に本当に驚きました。(驚天動地)!!
ただ、同時に疑問を感じたのは、当時の
日本は、特高警察があり、『社会主義運動には
過敏になっていたのになぜ?』と思いました。
やはり、
『大衆迎合主義』と『軍部の権力拡大』が真実を観えなくしたのしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 意外と知られていない事実ですからね。
個人的には、近衛文麿は歴史が生んだ我が国最大の「売国主義者」だと分析しています。
これからも折に触れて彼の名前が出ることでしょう。
ぴーち おはようございます!
砂場で大きな山を作りあげるときの工程に
まずは砂を周りからどんどん集めて盛りつけて行き、ある程度砂が盛りつけられると、上から圧力を掛けて、一旦表面を平らに踏み固めて
そして再び、砂を集めて盛りつけていくと
次第に大きな山に形成されていきますが
ひとつの国を大きく、豊かにしていく工程も
この砂山作りに類似している様だとふと感じました。砂を集める作業は、私財を蓄える作業。
一旦踏み固めて平らにする作業が、社会主義的圧力。そんな歴史を繰り返しながら、次第にこの国は成長して来たのかと思いました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かにそのようなたとえも考えられますね。
それが国家のためになればそれはそれでよいのかもしれませんが…。
近衛の思惑(おもわく)は結局実現しませんでしたが、この大赦論は皇道派(こうどうは)の将校の救済が主な目的だったとされている一方で大赦の対象者の多くが社会主義あるいは共産主義者の熱心な運動者であったからではないかという見方もあります。
要するに近衛はかつてのロシア革命のように「直接行動」も辞さない共産主義に共鳴(きょうめい)していたのであり、彼がなぜそう考えたのかという理由としては、尾崎秀実(おざきほつみ)をブレーンに迎えていたように、やはり彼自身が共産主義に染(そ)まっていたからではないでしょうか。
そして、そんな彼の思想が首相就任の翌月に起きた「ある出来事」をきっかけとして、我が国はおろか全世界を揺(ゆ)るがした大きな戦争へと導(みちび)いてしまうのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
晴雨堂ミカエル 近衛文麿はプリンスを絵に描いたキャラですね。摂関家出身で将軍家とも縁続き、千年単位で日本の権力中枢にいた血縁集団の氏の長者です。
不本意ながら、少し近衛を弁護する形になりますが、今でこそ社会主義思想の破綻は明らかですが、つい二昔前まで「革新」などと良いイメージで呼ばれていました。保守は「反動」とか「守旧派」などと良くないイメージでした。
ましてや当時の社会主義は学生や知識人の間に広がった流行思想です。早い話がカッコイイ思想でした。スペイン内戦では欧米各国から学生や知識人が義勇兵として参加したものです。
近衛文麿は、(異論はあるでしょうが)根は善良で世の中を良くしたいと考えるお坊っちゃん。左翼にかぶれても無理ないでしょう。
保守の論客の多くは青少年時代に左翼にかぶれました。かぶれたからこそ、内部で左翼の欺瞞を思い知り保守の正しさを再確認するのです。
私は左翼にかぶれることは成長過程で必要な通過儀礼とさえ思っています。
近衛文麿は時代のタイミングが悪すぎた。
極端な理想主義者
- 黒田先生
こんには
青田です。
今の時点で、近衛文麿について、わかりませんが、
ただ、言えることは
苦労知らずにお坊っちゃんは、絵に描いた餅
お花畑思考になる気がします。
226事件の青年将校も、実戦経験のないエリートでした。
この前の民〇党の鳩〇元首相のように。。
(本人は、悪気がないだけに、さらにタチが悪いです。)
ぴーち おはようございます!
なるほど・・・近衛文麿は真の平和主義者という訳ではなく、共産主義、社会主義者だけをひいきして
いた事で、融和政策を打ち出したのですね。
しかし、その思惑も当時は既に周知のことだったのですね。
応援凸
大赦の関係者・・・
鹿児島のタク 黒田先生,おはようございます。
2.26事件にかかわったような将校が「社会主義あるいは共産主義」の熱心な運動かだったとの見方があるなんて知りませんでした。
何となく「右側」だった方々だったのでは…というイメージがあります。
でも,このころ政党政治への不満や昭和恐慌,特に東北地方で娘を身売りにださなけらばならないような状態を考えると…。
こんなこと書いたら叱られるでしょうが,2.26事件には「義挙」の面がありますよね。(?)
でも,昭和天皇はこの2.26事件に対して御怒りになったと何か本で読んだことがあります。これは昭和天皇としては当然だったと思いますし,そうせざるを得なかったのでしょう。ご判断に,お悩みになられたことでしょうね。苦しまれたことでしょう。
明治憲法は天皇が「絶対的な主権者」ですが,総理大臣をはじめ各国務大臣が「輔弼」をすることになっています。実際には最終的な責任は,総理大臣をはじめする国務大臣で終わり。実質的に明治天皇も,大正天皇のことはよく存じ上げないのですが,昭和天皇も政治的なご発言はできるだけ,御控えになったと聞いています。
2.26事件は日本の歴史(近現代史)にとって,大きすぎる事件ですね。
長文となってしまいました。
黒田先生,すみません。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、そういう見方も確かにありますね。
今さらながら一人の人間が歴史に及ぼす影響の恐ろしさを思い知らされます。
青田さんへ
黒田裕樹 分かりやすいたとえ(?)を有難うございます。
悪気のなさは同じかもしれませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 大赦論を出した時点で「お里が知れる」状態でしたね。
ただ、それがスパイなど一部の人間にとっては都合が良かったことで、彼はさらに「利用」されることになります。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 二・二六事件に関する私の見解は以下の内容をご覧ください。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-1675.html
色々と意見が分かれる事件だと思います。