昭和7(1932)年に社会民衆党(しゃかいみんしゅうとう)を脱党(だっとう)した赤松克麿(あかまつかつまろ)は日本国家社会党(にほんこっかしゃかいとう)を結成し、資本主義体制の打破と国際的な領土再分割(りょうどさいぶんかつ)を綱領(こうりょう)に掲(かか)げました。なお、同年には他の無産政党が大合同を行い、社会大衆党(しゃかいたいしゅうとう)を結成しています。
昭和8(1933)年には、治安維持法(ちあんいじほう)違反(いはん)などで獄中(ごくちゅう)にあった日本共産党(にほんきょうさんとう)の最高幹部の佐野学(さのまなぶ)や鍋山貞親(なべやまさだちか)が転向声明書(てんこうせいめいしょ)を発表して、ソ連のコミンテルンが日本共産党に指示した「君主制の廃止(はいし)」が日本の現実にそぐわないことから、共産党の組織が大衆(たいしゅう)から離(はな)れてしまったことを厳(きび)しく批判(ひはん)しました。
また、佐野らが天皇を民族的統一の中心とした独自(どくじ)の「一国社会主義(いっこくしゃかいしゅぎ)」を提起(ていき)したことから、獄中の大半の党員が同じように「転向」するなど、その影響(えいきょう)は大きいものがありました。
なお、佐野らのように「転向」したのも、あるいは「非転向」を貫(つらぬ)いて第二次世界大戦後に釈放(しゃくほう)された人物が存在したのも、いずれも治安維持法で「最高刑が死刑(しけい)」とされていながら、実際には一人も死刑に処(しょ)されなかったからという事実があることを忘れてはいけません。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
嶋田不二雄 なるほど。死刑に処された者がいなかったという事実は知りませんでした。小林多喜二はあくまでも特高警察による拷問による死ですからね。
日本人が勘違いしている点
- 黒田先生
こんにちは
青田です。
よく、日本人の一部、あるいは、某国が
戦前の日本の特高警察を
ナチスドイツの秘密警察(ゲシュタッポ)と
同じように考えたり、それに例えたりしますが
これこそ、過度の一般化ですね。
ナチスドイツの秘密警察は、政治犯は、
裁判なしに強制収容所で、殺されるか、
裁判で、本当に何人も死刑にされてましたから。。
嶋田不二雄さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、思想犯を死刑にするという考えは我が国に相応しいものではありません。
他の社会主義国家や共産主義国家とは全く異なることを私たちはもっと知るべきでしょう。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
戦前の我が国を暗黒であると一方的に断じる手法はプロパガンダ以外の何物でもありません。
ぴーち おはようございます^^
今回の記事の内容の趣旨からは少しだけ外れてしまいますが、
社会・共産主義にもそれぞれ良いところは存在し、
勿論、資本主義にも良い所はありますが、
こうして色々な主義主張が混在する中、
何が日本にとって一番得策なのか・と考えた時に、本当にこの国の将来の為に考えられた主張なのか。あるいは自分たちの私利私欲が絡んだ
ただの野心だけが言わせていることなのか。
そこら辺の思いの違いによって、いづれ
淘汰されるべきか、存続されるべきかの道が
分かれて来るように感じました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと私も思います。
「日本型社会主義」という言葉もありますし、時代によってそれぞれ形を変えていくものなのかもしれません。
オバrev 治安維持法は、国民の自由を束縛したとんでもない悪法という認識だし、そのように教わってきたと思います。
しかしそれは治安維持法の一部を表していることで、全容ではありませんよね。
最近の安倍総理の発言に対して中韓は強く反発しているし、日本でも批判が大きくなっていますが、お互いにコミュニケーションしていくためにも、まずは我々日本人が戦前戦後の歴史的事実について、客観的な正しい歴史認識を持つことが必要な時代になってきているんじゃないでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 治安維持法は、国民の自由を束縛したとんでもない悪法という認識だし、そのように教わってきたと思います。
> しかしそれは治安維持法の一部を表していることで、全容ではありませんよね。
その通りです。全体を見せずに一部だけで非難しているところが大いなる疑問を感じます。
> 最近の安倍総理の発言に対して中韓は強く反発しているし、日本でも批判が大きくなっていますが、お互いにコミュニケーションしていくためにも、まずは我々日本人が戦前戦後の歴史的事実について、客観的な正しい歴史認識を持つことが必要な時代になってきているんじゃないでしょうか。
これも仰るとおりです。
歴史認識で他国と論戦しようと思えば、自国の正しい歴史を知ることが不可欠ですからね。
せいこう
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
この当時の日本は、社会主義運動家の問題は
やはり、ソ連が経済的に成功しているように見えたことが一番、大きかったように思います。
特に日本を含め
資本主義国が不況で喘いでいた状況だから
なおさらです。
この時期の社会主義運動家は、『隣の芝生』は
良く、観えたのでしょうね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、当時は恐慌の連続で資本主義社会の限界説がささやかれていましたから、余計に社会主義が標榜されたという側面がありますね。
なお、それぞれの作品としては、川端康成は「伊豆(いず)の踊子(おどりこ)」が、横光利一は「旅愁(りょしゅう)」が有名です。
マルクス主義が次第に退潮(たいちょう)していく中で、保田與重郎(やすだよじゅうろう)が主宰(しゅさい)した日本浪曼派(にほんろうまんは)では、日本の近代化の諸現象(しょげんしょう)を否定的に評価する反近代主義の立場から、日本民族のもつ伝統美やアジア主義に注目し、民族的美意識(みんぞくてきびいしき)を追求した「日本への回帰(かいき)」という傾向(けいこう)を代表するようになりました。
また、昭和9(1934)年に陸軍省によって発行された「国防の本義と其(その)強化の提唱」(別名:陸軍パンフレット)では社会主義につながる統制経済(とうせいけいざい)など国防優先の国会改造が提唱(ていしょう)されましたが、政党政治家が反対を唱(とな)える一方で、国家社会主義を標榜(ひょうぼう、主義や主張などをはっきりと示すこと)した赤松克麿(あかまつかつまろ)や社会大衆党(しゃかいたいしゅうとう)らはこれを支持しました。
こうした陸軍パンフレットをめぐる動きをきっかけとして陸軍が政治への介入(かいにゅう)をより深めて、批判(ひはん)した勢力(せいりょく)に対する取り締(し)まりを強化するようになるのですが、その批判した人物のひとりに美濃部達吉(みのべたつきち)がいました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
軍による武力で全てを鎮圧していこうという
考え方よりも、(いづれ、どこからか
反発運動が起こることが容易に想定される)
何事にも動じない
また何者にも加担しない
中立で崇高な立場の者の一言で
全ての揉め事が解決出来るような
そんな絶対的権限を備える者の
存在(すなわち、ここでは天皇の存在)
を認めていくことの方が
確かに国民からの反発は買い難く
なりますよね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
天皇というある意味「絶対的な存在」を前面に押し出せば国民の反発は少なくなりますが、その後の政治手法が本当に正しかったのか。
戦前における最大の問題の一つであると思います。
昭和8(1933)年の帝国議会(ていこくぎかい)において、京都帝国大学(きょうとていこくだいがく)法学部教授の滝川幸辰(たきがわゆきとき)が著(あらわ)した「刑法読本」や「刑法講義」が国家を破壊(はかい)する著作(ちょさく)であるとして問題とされました。これを滝川事件といいます。
滝川教授の著作が問題にされた背景には、前年の昭和7(1932)年に中央大学で講演した「復活に現われたるトルストイの刑罰思想(けいばつしそう)」における内容が「国家が刑罰を加えるのは不当である」とみなされ、国家の否認につながるものであると非難されたというのがありました。
時の斎藤実(さいとうまこと)内閣の文部大臣であった鳩山一郎(はとやまいちろう)は「刑法読本」や「刑法講義」を発禁処分(はっきんしょぶん)としたほか、京大に滝川教授の退官を要求しましたが、京大法学部教授会が「大学の自治への介入(かいにゅう)」として拒否(きょひ)したため、政府は文官分限令(ぶんかんぶんげんれい)を発動して滝川教授を休職処分(きゅうしょくしょぶん)としました。
なお、滝川教授は休職処分後に京大を退官しましたが、第二次世界大戦後に復帰して後に京大総長(そうちょう)を務(つと)めました。また、京大に一連の処分を迫(せま)った鳩山一郎は戦後に総理大臣を務めたほか、彼の孫にあたる鳩山由紀夫(はとやまゆきお)も同様に首相となった経験があります。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
なるほど、全ては軍のお眼鏡に適わない発言は
尽く潰されていった受難の時代だったのですね。
それ故に、一旦口に出した言葉には
命がけの覚悟が必要だった事でしょうし、自分の思想に絶対的な責任や、確固たる信念がそこに宿っていた事でしょうね。
その当時の情勢と今の世の中は
違いますが、いつの時代でも政治家さんには少しは緊張感を
心に止めて発言、行動していただきたいものです。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり命がけの時代でした。
受難ではありましたが、その分自信と誇りを持っていたともいえますね。
今のように不用意な発言が多すぎるのも困りものですし、適度な緊張感があった方が良いのかもしれません。
天皇機関説は憲法学説の一つとして我が国で受けいれられてきましたが、昭和10(1935)年2月に開かれた帝国議会(ていこくぎかい)における貴族院(きぞくいん)の本会議において、軍出身の菊池武夫(きくちたけお)議員が「天皇機関説は国体(こくたい、国家としての体制のこと)に反するものである」と非難(ひなん)したことから大きな問題となりました。これを天皇機関説事件といいます。
当時は天皇を中心とする国家社会主義が軍部を中心に広がりを見せており、天皇を絶対視するあまり、天皇機関説が統治権の主体を国家とみなしていることが「不敬(ふけい)」であるとされてしまったのです。
貴族院や衆議院は同年3月に天皇機関説を排(はい)する決議を採択(さいたく)したほか、当時の岡田啓介(おかだけいすけ)内閣も世論の圧力に屈(くっ)して国体明徴声明(こくたいめいちょうせいめい)を出したことによって、昭和天皇も当然のものであると思われていた天皇機関説は国家によって完全に否定されてしまいました。なお、美濃部達吉は事件を受けて貴族院議員を辞職しています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
先走った話で恐縮ですが、
この後、軍はカリスマ的な天皇の存在を利用して
国民の意識を戦争への意欲へと高めていく訳ですよね・?
当初は、天皇機関説を激しく批難していたのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 先走った話で恐縮ですが、
> この後、軍はカリスマ的な天皇の存在を利用して
> 国民の意識を戦争への意欲へと高めていく訳ですよね・?
> 当初は、天皇機関説を激しく批難していたのですね。
仰る流れは戦争原因の一つとして確かに存在します。
ただ、それだけであのような戦争ができるほど単純というわけでもありません。
しかし、政友会の目論見(もくろみ)は翌年の総選挙で惨敗(ざんぱい)して失敗に終わったばかりか、岡田内閣の信任に焦(あせ)った陸軍の皇道派(こうどうは)によって二・二六事件が引き起こされるという悲劇(ひげき)を生んでしまいました。
さて、自由主義的な思想への弾圧(だんあつ)はこの後も続き、政府による植民地政策を批判した矢内原忠雄(やないはらただお)の「国家の理想」や自由主義経済学者の河合栄次郎(かわいえいじろう)の「ファシズム批判」、歴史学者の津田左右吉(つだそうきち)の「神代史の研究」などの著書が発禁処分(はっきんしょぶん)となりました。
また、昭和12(1937)年にはコミンテルンが指令した人民戦線方式(じんみんせんせんほうしき、人民戦線とは自由主義から無政府主義まで幅広く結集した組織のこと)による活動を行った容疑(ようぎ)で日本無産党(にほんむさんとう)の多数が検挙(けんきょ)されたほか、翌昭和13(1938)年には関係者として経済学者の大内兵衛(おおうちひょうえ)らが検挙されました。これを人民戦線事件といいます。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
この頃の日本は、今の中国、北朝鮮を批難出来ない程に言論の自由が極めて制限されていた時代だったんですね・・
軍国主義というのは、人種そのものの性格まで
屈折させてしまうものなんだなと思いました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに言論弾圧という点では否定できないものがあります。
救いがあるとすれば、治安維持法に代表されるように死刑になることはなかったことでしょうか。
そこが中国や北朝鮮との大きな違いでもありますが。
それぞれの著書は、戦後を迎(むか)えてから「国民思想の教化(きょうか)を意図(いと)したもの」として否定的(ひていてき)に扱(あつか)われることが多くいようですが、我が国古来(こらい)の伝統を擁護(ようご)しようとした思想書であったとする見方もあるようです。
ところで、昭和に入って様々な思想が否定されるという動きの中で、明るい話題もありました。昭和6(1931)年にはラジオの聴取者(ちょうしゅしゃ)が100万人を突破(とっぱ)し、各新聞も発行部数を増やしました。この時期においても国民の「知る権利」そのものは確実に広がりを見せていたのです。
また昭和12年には、当時の広田弘毅(ひろたこうき)首相の発案によって、科学技術や芸術などの文化の発展や向上にめざましい功績(こうせき)を残した人々に授与(じゅよ)される文化勲章(ぶんかくんしょう)が制定され、物理学者の長岡半太郎(ながおかはんたろう)に初代文化勲章が与えられました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます♪
人間が本能的に持ちあわせている向上心や、好奇心、学びたいという欲求などを完全に封じ込む事は出来ないものですよね。
個人個人は弾圧出来ても、大きな勢力に膨れ上がってきた場合は、多勢に無勢。
どんなに抑えこもうとしても、無駄な様ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 人間が本能的に持ちあわせている向上心や、好奇心、学びたいという欲求などを完全に封じ込む事は出来ないものですよね。
> 個人個人は弾圧出来ても、大きな勢力に膨れ上がってきた場合は、多勢に無勢。
> どんなに抑えこもうとしても、無駄な様ですね。
仰るとおりです。
ただ、これまでの我が国を含む世界では国家権力やマスコミなどによって国民の「知る権利」が抑えられてきたという歴史もありました。
しかし、ネットの世界が当然になった現代は違うようですね。