国家社会主義は当時の「エリート中のエリート」でありながらも決して裕福ではなかった若手の青年将校(せいねんしょうこう)たちが、それゆえに富裕層(ふゆうそう)である地主や資本家あるいは財閥(ざいばつ)に対してやるせない怒りを向けるとともに、彼らと癒着(ゆちゃく、好ましくない状態で強く結びつくこと)している(と思い込んでいた)政党政治をも敵視したことによって大きな広がりを見せるようになりました。
我が国における国家社会主義の拡大は、やがて陸軍内に皇道派(こうどうは)と統制派(とうせいは)という二つの大きなグループをもたらしました。このうち皇道派は荒木貞夫(あらきさだお)や真崎甚三郎(まさきじんざぶろう)などを中心として直接行動によって既成(きせい)の支配層を打倒することで国家体制の転換(てんかん)を狙(ねら)い、永田鉄山(ながたてつざん)や東条英機(とうじょうひでき)らを中心とした統制派は、革新官僚(かくしんかんりょう)と結んで合法的(ごうほうてき)に総力戦(そうりょくせん)という名の社会主義体制を実現しようとしていました。
昭和10(1935)年には統制派の永田鉄山が陸軍省内で執務中(しつむちゅう)に皇道派の陸軍中佐(りくぐんちゅうさ)に殺害(さつがい)されるなど、両派は激(はげ)しい派閥争(はばつあらそ)いを繰(く)り広げていましたが、その一方で「天皇の名によって議会を停止し、私有財産を国有化して社会主義的政策を実行する」という目的は両派(りょうは)共通のものでした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
目的がなまじ同じだった為に
2つの派閥の主導権争いが、激しさを
増してしまったのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、近親憎悪というのはどこにでもありますからね。
お互いが争っている間はまだ良かったのですが…。
そんな折(おり)、昭和10(1935)年に貴族院(きぞくいん)で軍出身議員の菊池武夫(きくちたけお)によって美濃部達吉(みのべたつきち)による天皇機関説(てんのうきかんせつ)が政治問題化しました(詳しくは後述します)。
これを岡田内閣打倒の好機と見た政友会が昭和11(1936)年1月に内閣不信任案を帝国議会に提出したのに対し、岡田内閣は衆議院を解散して総選挙に打って出ましたが、同年2月20日に行われた投票結果は政権与党である立憲民政党(りっけんみんせいとう)の勝利に終わり、政友会は惨敗(ざんぱい)しました。
与党の躍進(やくしん)という結果を受け、岡田内閣の政権基盤(きばん)は安定化すると思われましたが、選挙結果に衝撃(しょうげき)を受けた皇道派による「直接行動」によって、わずか6日後に我が国史上稀(まれ)に見る惨劇(さんげき)が起きてしまうのです。
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ぴーち こんにちは!
直接行動」。
鉄は熱いうちに打てとは申しますが、
その動機や、時期などを誤ると
良からぬ結果にはなりうるでしょうね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり「直接行動」というものは得てしてよからぬ結果になりうるものですからね。
今回の場合はある意味「最悪の結果」となってしまうのですが…。
岡田首相は危(あや)うく難を逃(のが)れましたが(ただし、当時は死亡と伝えられました)、高橋蔵相や斎藤内大臣は殺害(さつがい)され、鈴木侍従長は重傷(じゅうしょう)を負(お)いました。その後、勢(いきお)いに乗った将校たちは国会を含む国政の心臓部を4日間にわたって占拠(せんきょ)しましたが、このクーデターは今日では二・二六事件(に・にろくじけん)と呼ばれています。
前代未聞(ぜんだいみもん)の大事件を受け、将校たちに同情する姿勢を見せた陸軍首脳部は彼らの意図(いと)を認めるか否(いな)かで動揺(どうよう)しましたが、ご自身にとってかけがえのない「股肱(ここう)の臣(しん)」を失(うしな)われた昭和天皇(しょうわてんのう)は激怒(げきど)され、当時は岡田首相が死亡したと伝えられたことで内閣不在の緊急事態(きんきゅうじたい)ということもあり、お自(みずか)らのご意志で事件の解決に乗り出されました。
こうして二・二六事件は昭和天皇の強いご指示による勅令(ちょくれい、天皇による命令のこと)が出され、決起した将校たちは反乱軍となり、東京に戒厳令(かいげんれい)が出された後に事態はようやく収拾(しゅうしゅう)へと向かいました。その後、事件に関係した軍人や民間人の多くが検挙(けんきょ)され、死刑(しけい)を含(ふく)む厳(きび)しい処分(しょぶん)が行われましたが、処刑(しょけい)された中には「日本改造法案大綱(にほんかいぞうほうあんたいこう)」を著(あらわ)して軍人のクーデターによる国家社会主義の実現をめざした、民間人の北一輝(きたいっき)もいました。
なお、二・二六事件をきっかけとして陸軍内部で皇道派はその力を失い、統制派(とうせいは)が主導権(しゅどうけん)を握(にぎ)ることになったのですが、クーデターによる「血の粛清(しゅくせい)」の爪痕(つめあと)は想像以上に大きく、この後は統制派の意思が陸軍の意思、ひいては我が国全体の意思として大きな影響(えいきょう)を持つようになるのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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晴雨堂ミカエル 北一輝は民間人ですが、他の青年将校らと同じ扱いの銃殺刑に処されたようですね。
「真の敵は昭和天皇だった」と憤怒したとか。
思い込みが過ぎると、とんでもない悲劇が起こります。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 確かにそうですね。
天皇のためと言いながら実際には昭和天皇を敵視する。
本末転倒も甚だしいです。
ぴーち こんばんは!
こうして歴史の一環として
伺っている分には、こう言った惨劇が過去にあったのか・・・と思うくらいでしかありませんが、
この当時の政治家達はいつ命を狙われても可怪しくはない状態であった事が文章からひしひしと伝わって来ます。
今よりもずっと過酷で濃厚な毎日を
過ごしていたのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、当時の政治は命がけでした。
無念の死を遂げた人物もいれば、九死に一生を得て再び歴史の表舞台に登場した人物もいます。
どちらにせよ大変な日々を過ごされてますね。
また、内閣の方針として決定された「国策(こくさく)の基準」は、軍備を大規模(だいきぼ)に拡張するとともに、従来の対ソ連に加えて対英米の戦略も念頭に置いた、いわゆる南進路線(なんしんろせん)の強化が目指されました。
その一方で、陸軍の強い要求を受けた広田内閣は、廃止(はいし)されていた軍部大臣現役武官制(ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい)を復活させたため、軍部の政治に対する影響力をさらに強めることになってしまいました。
なお、広田弘毅は第二次世界大戦後に開かれた極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん、別名を東京裁判=とうきょうさいばん)において、文官(ぶんかん)でただ一人A級戦犯(きゅうせんぱん)にされて死刑となりましたが、その理由の一つとして軍部大臣現役武官制の復活があったといわれています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
これらの行為や状態は、許されるべきことではありませんが
広田弘毅に同情的な気持ちを持ってしまいます。
というのも
私は
昔、この二・二六事件の前後の新聞を図書館で
閲覧したことがありました。
そこで、感じたことは、
今では、考えられないくらい不安な社会です。
もの凄い停滞感・閉塞感・無力感を感じる記事ばかりです。
当然、当時の新聞の記事からしか、その当時のことがわからず
マスコミの情報誘導はあったとは思いますが
社会不安があれだけ大きいと
相当カリスマ性のある政治家がいないと
(高橋是清、鈴木貫太郎レベルまで、襲われるのですから)
軍部の暴走を
抑えられる状況になかったことも納得できます。
青田さんへ
黒田裕樹 青田さんのお気持ちも理解できますね。
二・二六事件に関しては、次回(10日)に再度考察してみたいと思いますので、そちらもご覧ください。
ぴーち おはようございます!
人は最初に何に影響されたかによって
その後の人生に大きく響いて来るものなのですね。広田氏は軍の影響を強く受け、洗脳されてしまっていた事が、自身の運命を左右することとなってしまった様ですね。
何も打開策がない場合には、荒療法が功を奏する場合がございますが、広田氏は自ら日本の為の人身御供となってしまった人物だったのかと感じました。もっともお話の流れからすれば、広田氏の行動は
必ずしも日本に幸福を齎したものではなかったようですが(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 国を揺るがすクーデター、しかも自分のみがどうなるか分からないという緊迫した事態でも首相就任でしたから、その気苦労は想像を絶するものであったと思われます。
しかしながら、結果として軍部の意見が拡大する制度を作ったとはいえ、メチャクチャな東京裁判で死刑に処されること自体が許されざることではありますが…。
もっとも、二・二六事件の頃(ころ)までには高橋是清(たかはしこれきよ)蔵相の積極財政による経済政策が功を奏(そう)して景気自体は回復していましたが、煮詰(につ)まった景気を抑制(よくせい)するために高橋蔵相が緊縮財政(きんしゅくざいせい)に政策を切り替(か)え、その際に軍事予算が削(けず)られようとしたことに軍部が激怒(げきど)したことや、さらには事件よりわずか6日前の2月20日に行われた衆議院の総選挙で岡田啓介(おかだけいすけ)内閣が信任されたことを受け、追いつめられた皇道派の一部の青年将校たちが「血の粛清(しゅくせい)」を断行(だんこう)したのです。
極端(きょくたん)な言い方をすれば、皇道派が自己(じこ)の理想を現実のものとするために「天皇を中心とした国家社会主義体制をつくる」→「それを邪魔(じゃま)する政治家や官僚(かんりょう)は国賊(こくぞく)である」という、ある意味一方的な考えに走ったことで事件が起きたとも判断(はんだん)できるのです。
しかし、皇道派の青年将校たちには国賊に思えた政治家や官僚は、同時に「昭和天皇にとってかけがえのない股肱(ここう)の臣」でもありました。また、当時は岡田首相も暗殺(あんさつ)されたと思われており、内閣不在の異常事態(いじょうじたい)であったからこそ、クーデターに激怒(げきど)された昭和天皇が立憲君主制(りっけんくんしゅせい)の原則を破られて、お自(みずか)ら事件の鎮圧(ちんあつ)に乗り出されたのです。
二・二六事件を起こした青年将校たちへの同情論が多いのも理解できなくはないですが、股肱の臣を一度に失われた昭和天皇のお怒りやお悲しみも私たちは同時に考えなければならないでしょう。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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- 黒田先生
こんにちは
青田です。
私は、20歳の時、226事件を描いた映画『動乱』高倉健主演を観て
青年将校を立派な人間と思い込んでしまいました。
その話を友人に話すと
友人は、私の意見に真っ向から、反論しました。
彼曰く、
『高橋是清などの優秀な政治家を殺した罪は、何があっても、重すぎる。』
今になって、その友人の語った意味が良く分かります。
それにしても、映画、ドラマというのは、描き方で、ヒーローにも悪人にもなるので、怖いですね。
青田さんへ
黒田裕樹 映画は時として史実を見誤るものです。
演出もありますが、中には巧妙なプロパガンダもありますから注意が必要ですね。
本来の共産主義は・・。
晴雨堂ミカエル 本来の共産主義は、特権階級を粉砕して真に平等な社会を創る思想で、カリスマを世襲する王族も撲滅の対象でした。自らを偶像化した毛沢東や金日成やスターリンをみてたら意外に思うでしょう。
ですから、たぶん本格のコミュニストが黒田氏の説を聞いたら、「北ら天皇制支持者と一緒くたにすな!マルエル全集でちゃんと勉強してから論ぜよ」と怒鳴るでしょうな。
しかし、比較的真面目なコミュニストのカストロは自分の銅像や肖像画を作ることを禁止しましたが、結局盟友ゲバラの銅像は沢山つくり、権力は実弟ラウルに移譲しました。
私はどんな思想も全否定はしませんが、共産主義については自然の摂理と矛盾する点が多々あったと診ていますし、現実に共産圏は破綻し中国は事実上社会主義を棄てています。
そういう意味で、北一輝は天皇制を利用して平等社会を目指しただけ、若干柔軟でしょう。連合赤軍みたいに共食いもしなかった。
己らは佞臣を誅したつもりでいたのが、短兵急で狭量。言動から昭和天皇のお気持ちも全く考えない独善には、たぶん最期まで気がつかなかった。それどころか逆に昭和天皇に敵意すら抱く。
短兵急で狭量になる可能性は誰にでもあります。油断すると自らの主義主張に縛られて視野が狭くなります。
この事件の教訓です。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰る一面は確かにあると思われますね。
ぴーち おはようございます!
極端な話。
お金が無くとも人は幸福感を味わう事が出来ますよね。
と言うことは、皇道派は単に富を得ることだけが
幸せだと感じていた野心の塊の様な存在だったという事でしょうかね?
世の中、確かにお金は沢山あった方が良いとは思いますが、お金持ちだからと言って必ずしも「幸福」では無いはずです。
見える部分だけを比較して、他人は幸福であると
決めつけてしまうのは、余りにも短絡的過ぎましたね。
あるいは一番欲しいものを他人が所有していると、それを是が非でも奪い取りたいと思う自分自身の心の貧しさが結果的に悪い方向へ流れて行くのかもしれないですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのような見方も十分考えられますね。
自分たちは正義であっても、他人から見れば必ずしもそうではないのですが…。