満州全土における独立の機運はやがて昭和7(1932)年3月に日・朝・満・蒙(もう)・漢の諸民族(しょみんぞく)の協和、すなわち五族協和(ごぞくきょうわ)を理想に掲(かか)げて満州国(まんしゅうこく)の建国が宣言され、清朝(しんちょう)最後の皇帝であった溥儀(ふぎ)が執政(しっせい)として迎(むか)えられました。なお、溥儀はこの2年後に満州国の皇帝に即位(そくい)します。
当時の犬養毅(いぬかいつよし)内閣は満州国の承認に消極的(しょうきょくてき)でしたが、五・一五事件で犬養内閣が崩壊(ほうかい)すると(詳しくは後述します)、次に成立した斎藤実(さいとうまこと)内閣は昭和7年9月に両国間で日満議定書(にちまんぎていしょ)を締結(ていけつ)して、満州国を承認しました。
ちなみに日満議定書の主な内容は満州における日本の権益の承認や満州国防衛(ぼうえい)のための日本軍の駐屯(ちゅうとん、軍隊が一定の地にとどまっていること)だけであり、これは満州事変以前と基本的に変わっていません。ちなみに誕生したばかりの満州国には、国家の運営を手助けするために多数の日本人が要職に就(つ)きました。
なお、満州国建国後の昭和8(1933)年5月に日中軍事停戦協定(にっちゅうぐんじていせんきょうてい、別名を塘沽停戦協定=タンクーていせんきょうてい)が結ばれて満州事変が終息(しゅうそく)しました。この後、日中間においては昭和12(1937)年の盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)まで停戦状態が続きます(詳しくは後述します)ので、この事実だけでもいわゆる「十五年戦争」の嘘(うそ)がはっきりします。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
またまた、頭が大混乱になりました。
おそらく、私が習った歴史教育と
今知る中国の近現代史が、全く、違うからなのでしょうね。
というのも、
満州は、正式な国だったということです。
ということは、この満洲国は、中国とは、全く違うということになりますね。
よく、中国人が、満州を偽満と言い、中国の一部を日本が占領して、創った傀儡政権の国だと語っていて、私もそう頭が洗脳されていたのですが、
そう考えると
黒田先生、日本人の頭の中を再インストールしないと駄目ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
満州国の立ち位置についてはもう少し先で詳しく紹介しますので、ここでは割愛します。
もし満州国が我が国の傀儡国家として植民地のような厳(きび)しい対応をしていれば、少なくとも執政(後の皇帝)となった溥儀(ふぎ)を強引にその座に就(つ)かせたはずなのですが、実際には溥儀は自(みずか)ら望んで執政や皇帝の地位に就きました。
なぜなら、清国はもともと満州から中国大陸に進出した国家であり、満州国の建国は元来(がんらい)の発祥(はっしょう)の地に清朝が復活したことを意味していたからです。だからこそ、溥儀は父祖(ふそ)の故郷である満州への帰還を自ら希望したのであり、言わば満州族の正当な皇帝が故郷に戻(もど)っただけなのです。
さらに言えば、万里(ばんり)の長城(ちょうじょう)の北に位置する満州は、それまで歴史的に中国の領土になったことは一度もありません。確かに清朝は満州を自己の領土としましたが、同時にそれは中国が満州に併合(へいごう)されたことを意味していました。
また、満州国の統治者として満州族の本来の皇帝が就任するというアイディアは、民族自決(みんぞくじけつ、各民族が自らの意志によって、その帰属や政治組織、あるいは政治的運命を決定し、他民族や他国家の干渉を認めないとする集団的権利のこと)という意味でも理に適(かな)っており、当時の国際常識からすれば非常に穏健(おんけん)な方法でした。何しろ他の列強は1915(大正4)年にアメリカがハイチを侵攻(しんこう)した際に約20年間も占領(せんりょう)し続けたように、明らかな侵略(しんりゃく)の意図(いと)を持っていたのが当然だったからです。





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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
非常に納得できました。
ただ、満州国について知るには、日本の歴史だけではなく、支那の歴史そのものも知らないと
わからないですね。
清という国が、満州人という異民族によって
創られた国という大前提を知らないと
満州国が、傀儡政権だと錯覚してしまうのだと
思います。
なまじ、日本の知識者も偏った少ない知識で
論じるから、歪んだ近現代史になってしまうような気がします。
さらに
溥儀については、映画『ラストエンペラー』を観て、溥儀は、日本軍に利用された悲劇な人物と思っていたのですが、実際は、かなり、違うようですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
満州国についてまともに語るのであれば、満州族のことについてもっとよく勉強しないと話になりません。
溥儀の件はいずれ戦後に詳しく紹介しますが、終戦直後に彼の生命の危険もあったという背景もあります。
ぴーち おはようございます!
こうして伺っていると、
これまで実しやかに語られてきた歴史というのは、確かに史実に基づいた確かなものも多い中、、ほんの一部の人間の思惑や、欲望余る外国による捏造説によって、全く別物のシナリオに書き換えられてしまうという危険を常に孕んでいるものなのですね。
そして何も知らない(或いは知ろうとしない)私のような人間は、簡単に嘘を刷り込まれ、それが正しいものだと誤解してしまう・・。
そう考えると、黒田さんの様に常に歴史に疑問を
持ち、冷静な目で見つめていく姿勢が大切であるのだと改めて感じました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 僭越ながら、仰るとおりだと私も思います。
純粋な人間ほどだましやすい。だからこそ歴史教育には大きな責任が伴うんです。
ただ、事情はどうあれ満州国が日本の影響(えいきょう)を強く受けているという事実は動かしがたいものがあるかもしれませんが、これも国際的な慣例(かんれい)からすればそう珍(めずら)しいことではないのです。例えばモナコ公国(こうこく)は長い間フランスの保護国(ほごこく)として外交権を委(ゆだ)ねていましたが、だからといってモナコがフランスの傀儡政権(かいらいせいけん)だという見方が成立するでしょうか。
それに満州国は我が国のみが承認したわけではありません。満州の権益を狙(ねら)っていたアメリカは満州事変を九ヵ国条約違反(いはん)として我が国を非難(ひなん)しましたが、イギリスは「満州国の独立宣言は九ヵ国条約によって禁じられない」という見解を示し、満州国を事実上容認しました。
なぜなら、満州事変や満州国の建国が日本人居留民(きょりゅうみん)の保護を目的としていたことを、同じように中国大陸に利権を持っていたイギリスが理解していたからです。また、イギリスにとっては自国の利権を侵害(しんがい)さえしなければ、満州国の存在が対ソ連の防波堤(ぼうはてい)としてかえって好都合(こうつごう)であることを見抜(みぬ)いていたと思われます。
ただし、国民政府が柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)を日本の侵略(しんりゃく)として国際連盟(こくさいれんめい)へ提訴(ていそ)したため、その後に連盟理事会が満州へ調査団を派遣(はけん)することになり、昭和7(1932)年にイギリスのリットンを団長とするいわゆるリットン調査団が約5ヵ月にわたって日本や満州・中国など各地を訪問した後、同年10月にリットン報告書を連盟理事会に提出しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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晴雨堂ミカエル リットン調査団の報告が満州国の「偽満性」と日本一国が領土的野心から起こした侵略行為の証拠と位置づけられている感がありますが、これは相当に誤解とマスコミと歴史家の故意による「編集」があります。
ネタばれになるので、コメントはここまでにしましょう。黒田氏の次回の解説に期待します。
満州国にたいする批判について
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
まず、このことを考えるうえで、2つの視点から
考えると観えてきますね。
<中国の歴史から、観ると>
仮に、満州国が日本の強い影響を受けていた国だとしても
中国の歴史からすると、
◆ 中国の中にいろいろな国に分割されている歴史がほとんどであり、中国統一王朝自体、わずかでしかないということ。
◆ 中国は、三国志の時代に人口が10分の1に減り、それ以来、大量の異民族が流入し、完全に異民族が支配して、創った王朝も存在しているということ。
(元、清など)
とりたてて、満州が日本の影響を受けていたからといって、批判される理由にはならない。
<当時の世界常識から、観ると>
イギリス、フランスなどのヨーロッパでは、戦争と植民地支配の歴史から、
日本の満州国への介入を世界常識と考えていた。
明治以来、日本は、ヨーロッパから、その当時の世界常識を学んで、それを基にした行動なので、
今の価値観で、その当時の日本の行為を批判しても、全く、無意味である。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 ご配慮いただきありがとうございました。
こちらも31日のご見解で改めてコメントいたします。
青田さんへ
黒田裕樹 冷静な分析だと私も思います。
日本史に限定する分野でなく、世界史レベルで判断すると満州国の真実がはっきり見えてきますね。
しかし、我が国にとってリットン調査団の主張は到底(とうてい)承認できるものではありませんでした。なぜなら、満州における我が国の軍事行為は日本人居留民の保護という正当な理由がありましたし、またそのために現地の満州族による国家を建国したということは、欧米列強による植民地化に伴(ともな)う簒奪行為(さんだつこうい)とは雲泥(うんでい)の差がありました。
加えて満州への進出は、アメリカやイギリスなどがブロック経済と化していく中で、資源を持たない我が国が生き残るための正当な手段であるとともに、広大な満州の権益以外に我が国が頼れるものがないに等しいという深刻(しんこく)な事情もあったのです。
それなのに、欧米列強は自分たちが好き勝手に植民地から収奪(しゅうだつ)しておきながら、我が国日本による正当かつ人道的な統治行為を一切認めようともしない。これまで我が国は世界の一流国をめざして欧米列強と妥協(だきょう)に妥協を重ねてきたが、これ以上の欧米による身勝手にもはや我が国が付き合う必要はないのではないか―。
そんな我が国の思いが、国際的に重大な決断をすることにつながったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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晴雨堂ミカエル リットン報告は、日本の領土的野心による軍事行動の末に誕生した満州国を裏付ける証拠と受け取られています。
これは現地民族の蜂起によるものというより日本軍が主導した点をリットンらが指摘した事を後世のマスコミや歴史家が強調したものですが、御存知のようにリットンはそれだけを言ったのではありません。
たとえば、主権を有するはずの中国が満州に関心を示さず、その結果中央政府の管理も行き届いてない地方で日本人居留民が危険に晒されている点(ゆえに中国主権下の自治政府という結論か)。
隣接国(日本を指すか)の領土的野心で行われた単純な事件ではない点。
関東軍が自衛のために行なった動機は否定しない点。
中国の日本製品ボイコットなど一連の反日行動は不法と認めた点。
中国主権下の自治政府樹立後の行政の外国人顧問は満州が抱える特殊事情により主に日本人から選ぶ点。
概ね黒田氏が述べた当時の国際情勢と国際法と国際常識を背景にした内容(欧米の依怙贔屓はあるが)です。
ところが後世のマスコミや歴史家は日本軍の暴走のみを強調し定説としました。
このところの黒田氏は少し焦り過ぎている感がします。もう少し丁寧にしないと、世間はオウムの上祐の強弁と同列視します。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 まずはっきりさせなければならないことは、拙ブログは単なる「黒田史観」の公開の場ではない、ということです。
あまりにも偏向が多すぎる昨今の歴史教育に物申すだけではなく、我が国の立場を基本とはしながらも、可能な限り公平な立場で歴史教育の一環として史実を紹介する、というのが大前提です。
おかげさまで拙ブログには毎日多くの皆様のご訪問をいただいておりますが、基本的にはご訪問者一人一人がそれぞれの歴史観というものを持っておられ、ご自身との対比の中で新たな歴史に興味をお持ちいただく、というのも重要なステップです。
とはいえ、数多くのご訪問者の中にはオーソドックスを基本とする私の説ではご不満の方もおられるかもしれません。しかし、開設以来丸4年間、ずっと続けている当ブログの姿勢は今後も変えるつもりはございませんし、そもそも数多くのブログ読者に対して一所懸命に書き上げてきたブログの見解を否定する勢いで、他人がいきなり自己の見解を主張し出すのみならず、あまつさえ強弁だなどとと意見するなど、臆病者の私には僭越すぎてとても出来たものではありません。
なお、開設以来じっくりと歴史教育ブログとしてのスタンスを練り上げてきた私としては、少なくとも全く焦ってなどいないことを申し上げておきます。
これを理解するには
青田です。 黒田先生、晴雨堂ミカエル様
こんばんは
青田です。
このリットン調査団は、当時の日本人からすると
欧米列強が自分達の都合のいいように働きかけるために機関に思えたと思います。
つまり、この当時の欧米列強は、
一見、紳士的なようにふるまいながら
その裏側では、しっかりと自分の利益を得ることが出来る国だということを当時の日本人は、知っていたということです。
特に自分達のしてきたことは、棚に置いて。。
たとえば、
● イギリスは、4億人のインドを4000人にイギリス人で、統治するために、部族間の対立を煽って、インドを植民地支配しました。(400年間も植民地支配をしてきたこと。)
しかし、リットン調査団は、インドに行って、
調査をしていませんし、たとえ、インドの独立は
提案されていなかったと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 青田さんのおっしゃるとおりだと思います。
国際的な組織の発想は今も昔も基本的にかわっていませんからね。
わかりました。この話はこれで終わりにしましょう。
晴雨堂ミカエル 念のため申し上げますが、私は黒田氏のお説に以前より共感・支持を表明してきた者です。
申し上げたのは極めてシンプル、政治的に微妙な問題に踏み込んだ講座を行うゆえ、もう少し丁寧な解説が必要、ということです。
現在は中国側に迎合した歴史観が文科省の検定で承認されていますから、保守的な市民でもそれが正しい、あるいは常識と思い込んでいる人は多々います。だからもう少し説明が必要だと感じたのです。
口頭で講座を受ける方々はある程度の内容を理解した上で、あるいは期待して参加されていますので、若干説明を割愛しても好意的に理解してくれますが、blogは極端にいえば70億の人間を前に教鞭をとるようなものです。油断すると事実を述べているのに強弁だの曲解だのと陥れられます。
いつになく言葉多い返信コメントに若干気がかりを感じますが、「焦っていない」との弁、信じましょう。
4年前なら何も申し上げません。黒田氏の地道な活動の結果、今日の発展を迎えたからこそ逆に老婆心から申し上げている点はご理解ください。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 ご理解いただき感謝いたします。
揚げ足取りはいつの時代にも存在しますが、確固たる信念を持って対処したいものですね。
採択後に松岡洋右(まつおかようすけ)ら日本代表団が勧告案を可決した総会の場から退席すると、翌3月に日本は国際連盟からの脱退(だったい)を通告し、昭和10(1935)年に認められました。これまで述べてきたように、我が国が国際連盟を脱退した背景には、欧米列強による理不尽(りふじん)ともいえる身勝手さに妥協(だきょう)の限界を感じたという複雑(ふくざつ)な事情もありました。
その後、我が国日本は昭和9(1934)年12月にワシントン海軍軍縮条約の廃棄(はいき)を通告し、翌昭和10(1935)年12月には第二次ロンドン海軍軍縮会議が開かれたものの意見が合わず、我が国は翌昭和11(1936)年1月に脱退しました。
そしてワシントン海軍軍縮条約並(なら)びにロンドン海軍軍縮条約はいずれも昭和11(1936)年12月に失効(しっこう)し、以後は無制限の建艦競争(けんかんきょうそう)が各国で繰(く)り広げられるようになるのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
国家の概念ですが、
満州を国としないのであれば、
ヨーロッパやアメリカは、国ではありません。
(アメリカ)
ヨーロッパから、移民してきた白人が
インディアンが殺しまくり、黒人奴隷を連れてきて、創った国です。
これを、アメリカの白人は、『フロンティア』と
言い方に変えています。
もし、満州が国ではないのなら、アメリカは、100%国ではありません。
(ヨーロッパ)
フランス革命まで、ヨーロッパの王族は、親戚同士です。
たとえば、スゥエーデンの王族は、フランスの王族の分家でした。
さらに、民族も違い、宗教も違い、文化も違う状態でした。
それを、ナポレオンの登場以降に、防衛のために
国という概念を無理に創りました。
ヨーロッパは、日本人が考える以上の血の歴史の繰り返しです。
溥儀が皇帝として存在している満州を国ではなければ、ヨーロッパの国は、国ではないですね。
(日本人の誤解の原因)
(1)日本は、万世一系の天皇が存在し
単一民族、同じ言葉、同じ文化なので、
これが国だという固定観念があります。
その概念があるから、今の感覚で、日本の知識人が、満州は国ではないと考えたと思います。
(2)戦後、日本は、アメリカ、ヨーロッパの映画が多く入り、アメリカ、ヨーロッパにたいして
クリーンなイメージを持ったがゆえに
欧米の主張=善、それに反する日本の主張=悪
というのが、自然に植え付けられたと思います。
やはり、近現代史は、世界史を知らないと
欧米の主張が正しいと洗脳されてしまいますね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
現状では世界史が必修となっており、その点では特に問題はありませんが、日本史を含めた近現代史の充実がもっと望まれますね。
欧米の歴史観に振り回されるなんて真っ平御免です。
しのぶもじずり 天皇陛下が、松岡洋右の面会を拒否したという話を聞いてます。
あそこは、やっぱり我慢のしどころだったのでは?
しのぶもじずりさんへ
黒田裕樹 国際連盟脱退に関しては非常に判断が難しいところですね。
我が国には我が国の事情があるのですが、もう少し深く掘り下げてみたいと思います。
ぴーち おはようございます!
まさに、「仏の顔も三度」
という心境にまで、世界は我が国を
呆れさせてしまった訳ですね。
日本を粗末に扱えば、どうなるのか・・
少々、おどろおどろしい言い回しになって
しまいましたが、私はこの日本を蔑ろに
したり、軽んじたりする世の中は、
どん底まで破滅を齎すキッカケに陥るものと
思いますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
国際連盟脱退に関しては我が国には我が国の立場があり、それをしっかりと理解してこそ評価が可能です。
こうした関東軍による独断の背景には、いわゆる統帥権干犯問題(とうすいけんかんぱんもんだい)がありました。なぜなら「軍部は内閣の指示を受ける必要がない」という思いが軍部において下剋上(げこくじょう)の空気を生み出し、やがて「大義のためなら上官(じょうかん)の言うことを聞かなくてもよい」という雰囲気(ふんいき)が軍部全体を支配するようになったからです。
関東軍の独断で行われた満州事変は、本来ならば軍令違反(ぐんれいいはん)で厳罰(げんばつ)の対象でした。しかし、元(もと)はといえば自分たちがつくり出した下剋上の雰囲気なだけに、軍の首脳部(しゅのうぶ)は彼らに対して何も言えず、また政府も軍部に遠慮(えんりょ)して強く出られませんでした。
そんな政府や軍首脳の対応を見た一部の青年将校(せいねんしょうこう)の中から、いずれ「大義のためなら何をしても許される」という考えが生まれていくのは自然な流れでもありました。この後、我が国は軍部を中心とした様々な事件が発生するとともに、彼らの行動を誰(だれ)も止められなくなってしまうようになるのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
日本は、
この時期は、本来、国難にたいして、一致団結しないといけないのに
内部抗争状態だった気がします。
◆ 政治家は、政党同士の権力闘争。
◆ 政治家vs軍部。
◆ 軍部内では、上層部と現場との対立。
◆ 軍内部での派閥争い。
しかし、
明治時代は、政治家・軍人(海軍・陸軍)・財界が一致団結して、頑張っていました。
やはり、明治時代の優秀なリーダーがいなくなり、タガが外れるとこういう状態になるのですね。
これは、現代での教訓だと思います。
日本も、東北沖地震で、一致団結しないといけないのに
某政権の3年3ヶ月間は、バラバラな状態でしたから。。。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
国内に関してはもう少し進めて考察したいと思います。
ぴーち おはようございます!
一部の行き過ぎた行動は、日本のイメージを
強調してしまう事にも繋がりますよね。
それがより良いイメージならまだしも、一端悪いイメージに捉えられてしまったら、それを払拭するのは容易な事ではありませんし。。
特に日本の事を良く知らない外国相手でしたら、
尚更、たった一部の人間の考え方が、日本全体の考え方だと誤解される可能性は大きいと思います。視野を広く持ち、常に国際社会の中の一人という事を意識することが
大切だと思いました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
結果として軍部の暴走を許したことが我が国のイメージの悪化につながったことは一理ありますが、実はそれだけというわけでもないのです。
次回(3日)の更新でもう少し詳しく掘り下げてみたいと思います。
満州国の建国にしても、もし政府が主体となって事前に欧米列強を中心に根回(ねまわ)しを行い、諸外国(しょがいこく)の承認のもとに満州国の独立を援助(えんじょ)していれば、話は全く異(こと)なっていたことでしょう。しかし、現実には政府は諸外国に対して軍部の独走という異常事態を上手に説明できず、列強が「日本は二重政府の国か」と我が国に対する不信感を強める結果となり、それが満州国の不承認、さらには我が国の国際連盟からの脱退(だったい)にまでつながってしまったのです。
その後の満州国ですが、昭和20(1945)年に我が国が終戦を迎(むか)えるまでの十数年間で飛躍的(ひやくてき)な発展を遂(と)げました。しかし、我が国の敗戦とともに満州国の歴史は闇(やみ)に葬(ほうむ)られ、現在において満州族は地球上から滅亡(めつぼう)の危機(きき)にさらされているという厳(きび)しい現実があります。
政争に明け暮(く)れて国益を見失った政党政治や、国民の生活の現状(げんじょう)よりも世界に向けたアピールを優先した金解禁(きんかいきん)がもたらした昭和恐慌(しょうわきょうこう)、世界中でブロック経済が進む中で取り残されそうになる資源のない国・日本、協調の名のもとに相手になめられ続けるだけだった幣原外相による弱腰外交(よわごしがいこう)、さらには統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)を盾(たて)にした軍部の暴走…。
これらの複雑(ふくざつ)な背景が重なり合うことによって満州事変から満州国建国の流れが生まれ、やがて我が国日本は国際社会の信頼を失うとともに未曽有(みぞう)の混乱を迎えることになってしまうのですが、それらは少なくとも「侵略戦争(しんりゃくせんそう)」という言葉だけで片付(かたづ)けられるような単純(たんじゅん)な問題ではないことは明らかです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
(※次回[4月4日]からは第35回歴史講座の内容の更新を開始します)





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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
『満州事変以降の未曾有の大混乱』は、
いろいろな問題が複雑に絡んで、起きたことなんですね。
よく考えると、当たり前ですよね。
なぜなら、
『一つの問題』というのは、『複雑な問題』が絡んで起きているというのが物事の真理だからです。
しかし、アングロサクソン(アメリカ、英国など)の文化では、
必ず、『自分が正しい、相手が悪い、』
という一元論で考えて、それで、『おしまい』としてしまう所があります。
その証拠に彼らは、『謝罪』という慣習がありません。『謝罪』すると自分の『非』を認めて
さらに相手から、無理難題を要求されることを知っているからです。
それだけ、彼らは、戦いの文化が日本よりも長い体と思いますが。
逆に、日本人は、スグに『謝罪』をする習慣があります。
『謙虚さ』『慎みやすさ』が美徳な文化があるからかもしれませんが。
ただ、歴史教育においては、一元論で、単純に
一つの原因(日本だけが悪い)という考えになると非常に危険ですね。
なぜなら、世界には、『日本人』の価値観で、動いているわけではないからです。
ただ、この頃の日本の状況を考えると、『何ともやりきれない気持ち。』になってしまいます。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、一元論で片付けては絶対にいけない問題です。
しかし、日本人の贖罪意識がすぐに謝ろうということになってしまう。
戦国時代の感性を思い出すべきかもしれません。
ぴーち おはようございます!
やはり国内の情勢が安定していないと
良からぬ結果に陥るものですね。
1つの原因となる事とは、色々な要素が複雑に重なりあって、生じたものだとは思いますが、
軍部を「かかあ天下」にさせてしまったのも、
「亭主関白」である政府の余りに弱腰な姿勢にあった事が要因だった訳ですね。
ちなみに「かかあ天下」の家庭は案外円満だといいいますが、家の中では主導権を握っても、外では互いの立ち位置をちゃんと弁えて亭主を立てる
事ができるからだと言いますが、
奥さんが外でも暴走する様な家庭では、世間の評判はもとより、家庭も崩壊する危機に見舞われてしまうのは免れない事なのかも知れません。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 奥さんが外でも暴走する様な家庭では、世間の評判はもとより、家庭も崩壊する危機に見舞われてしまうのは免れない事なのかも知れません。
なるほど、確かに仰るとおりですね。
分かりやすいたとえをありがとうございます。