昭和2(1927)年の中国大陸では蒋介石(しょうかいせき)の国民革命軍(こくみんかくめいぐん)による北伐(ほくばつ)が急激(きゅうげき)に進み、北京(ペキン)・天津(てんしん)方面から山東半島(さんとうはんとう)へと迫(せま)りつつありましたが、山東半島には数多くの日本人が居留(きょりゅう)していたほか莫大(ばくだい)な投資を行っていたため、南京事件(ナンキンじけん)や漢口事件(かんこうじけん)といった悲劇(ひげき)を繰(く)り返さないためにも、これらの人的(じんてき)あるいは物的(ぶってき)な保護(ほご)が政府の大きな課題となりました。
昭和2年5月、田中内閣はイギリスやアメリカ・フランス・イタリアといった諸外国(しょがいこく)に事前に連絡(れんらく)し、反対がないことを確認したうえで山東半島へ向けて出兵しました。これを第一次山東出兵(だいいちじさんとうしゅっぺい)といいます。
第一次山東出兵の後に蒋介石が北方軍閥(ほっぽうぐんばつ)に敗(やぶ)れて北伐を中止すると、山東半島における危機(きき)が去ったとみなした日本軍は同年9月までに撤兵(てっぺい)しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
失敗を教訓にして、慎重に物事を進めて行ったことが、結果的に山東出兵の場合は成功に終わったという事なのですね。
やはり最初に押さえておくべき駒はしっかりと押さえておくことも戦略としては大切ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、第一次山東出兵は協調外交の失敗を生かした田中内閣による積極外交の一つでした。
ただ、外交というのは一国だけでできることではなく、相手国による想定外の行為があった場合にはもろくも崩れてしまう危険性を常に秘めているものでもあるんですよね。
一方、田中義一(たなかぎいち)内閣は昭和2(1927)年6月に東京で日中の外交官や軍人など関係者を招集(しょうしゅう)して東方会議(とうほうかいぎ)を開き、中国における我が国日本の権益を守るため、積極的に防衛対策(ぼうえいたいさく)を行うことが決められました。
翌1928(昭和3)年、蒋介石が北伐(ほくばつ)を再開すると田中内閣は第二次山東出兵(だいにじさんとうしゅっぺい)を行い、多数の日本人が居留していた済南(さいなん)を警備(けいび)しました。5月になって蒋介石の国民革命軍(こくみんかくめいぐん)が済南に入城(にゅうじょう)すると、日章旗(にっしょうき)を損傷(そんしょう)したり排日ビラを貼付(ちょうふ)したりするなどの反日行為を行ったため、日本軍が抗議(こうぎ)しました。
これに対し、蒋介石は「済南の治安は革命軍が責任を持って確保するので、城内の日本軍による警備を撤去(てっきょ)してほしい」と申し入れしてきたので、蒋介石を信用した日本軍は夜を徹(てっ)して兵を引きあげました。
しかし、そのことが信じられないような虐殺事件(ぎゃくさつじけん)を招(まね)いてしまうことになるのです。
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ぴーち こんにちは!
それが今でも何かと根に持たれている「南京事件」の発端なのですね。
何処の国でも、戦争の相手国となった国に
対して憎しみを植え付けるような教育を
強いるものだとは思いますが、
特に中国、韓国、北朝鮮などの国々はその思いが
強いようですね。
犬やネコの様な下等動物は、一度自らに危害を加えた存在を生涯に渡り、警戒し続けると言いますが、
人間はそれ以上に学習能力も高い生き物ですから、いつまでも根に持ってそれにばかり固執するのは、人間以下の能力しか持ちあわせていないという様に思われても仕方がないように思います。
勿論、語弊のある言い方であることは承知の上です。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 今回の虐殺事件はチャイナがことさらに主張するいわゆる「南京大虐殺」とはまた別になります。
詳細は明日(7日)に紹介しますが、我が国が一方的に受けた悲劇であることだけは間違いありません。
日本が謝罪????
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
現在、中国が、『日本に戦時中の謝罪をしろ。』とよく、主張しますが、
それを言うなら、
『中国にも謝罪して欲しいですね。』(怒)
ただ、反日感情は、今だけではなく、この頃から
中国政府のプロパガンダであったことを考えると
そんなに日本が嫌いなら、現代において
日本企業も中国に進出する必要はないし、
中国人も日本に来る必要はない。
なぜなら、
日本の企業は、アホみたいに中国に進出して
中国の繁栄を支援しているのは
『まさしく、敵に塩を送る。』ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
過去の歴史を抹殺され、全く違うものを教えられているから逆の道を走ろうとする。
その結果がどうなるのか、次回(7日)の更新がその「貴重な教訓」になるはずですが…。
国民革命軍による非人道的(ひじんどうてき)な虐殺行為に激高(げきこう、興奮して激しく怒ること)した我が国は直(ただ)ちに第三次山東出兵(だいさんじさんとうしゅっぺい)を行って済南城を攻撃(こうげき)すると、革命軍は夜陰(やいん)に乗(じょう)じて城外に脱出(だっしゅつ)し、日本軍が済南を占領(せんりょう)しました。これら一連の事件は済南事件(さいなんじけん)と呼(よ)ばれています。
当時の欧米列強(おうべいれっきょう)は日本軍による軍事行為を正当防衛(せいとうぼうえい)と認めましたが、済南で日本軍が中国の便衣兵(べんいへい、いわゆるゲリラのこと)を射殺(しゃさつ)した際、その中に中国の外交官も含(ふく)まれていたことから、中国は「日本軍が無抵抗(むていこう)の外交官を虐殺した」と喧伝(けんでん、盛んに言いふらすこと)したほか、国際連盟(こくさいれんめい)に提訴(ていそ)するなどして我が国を激(はげ)しく非難(ひなん)しました。
ところで、我が国の歴史教科書では済南事件についての記述(きじゅつ)はあるものの、なぜか中国側による虐殺行為が一切(いっさい)書かれていないため、なぜ日本軍が国民革命軍を攻撃(こうげき)したのかという理由が分からなくなっています。
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ぴーち こんにちは!
中国と言う国は、自己防衛の為に有ること無いこと周りに
言いふらすのは、昔からの「お家芸?」だったんですね(^^ゞ
何事も最初に手を出してしまった方が不利な扱いを受けるということは物の道理だと思うんですがね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 全くもってそのとおりです。
言いがかりも甚だしいですが、それを我が国が不利になるように導こうとする教科書の姿勢にもあきれてものが言えません。
中国の手口
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私の記憶が正しければ、この時、虐殺された
日本人の検死体の写真を731部隊の写真として
ねつ造し、それを中国人に喧伝したいう説がありますね。
日本人の価値観からすると、『異常で、卑劣な行為』ですが、中国の価値観からすると普通のようです。
それを
中国の歴史は、世界常識とは、全く、違うことを日本人は、理解していません。
たとえば、
◎ 古来、中国では、飢えると、子供を殺して
それを鍋にして、食べて生き延びることを平気でしています。
◎ 『さらに、敵に死体に鞭を打つ。』も行っています。
およそ、人間の所業と思えないことを中国では、歴史上、行っています。
現代でも、日本人が中国と付き合って、日本人は
驚いていますが、
中国と付き合うなら、最低でも、正確な近現代史を知っておくべきですね。
もう、イイ加減、日本人の日本の価値観と中国の価値観が違う事を理解ないと、日本の国力を弱めるだけですね。
有名な事件ですな。
晴雨堂ミカエル この事を護憲派の知人に話すと決まって「なぜ中国の領地に日本人居留地がある?侵略したからではないのか」「当時の国際法なんか関係ない」などと反してきます。
日頃は人権問題の話題になると「欧米では常識」、チベットやウイグルの人権侵害には「中国の国内問題」といい放つ。
げんきんなものです。
しかし「発展途上国」だった頃の中国と違い、今は明白にアメリカと覇を競う超大国、しかも中国の長い歴史で侵略されるよりする方が多い国、いい加減に護憲派も目を覚まさなければいかんのですが。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
今こそ日本人自身が「歴史に学ぶ」べきだと思います。済南事件の真実を知らずしてチャイナとの付き合いはできません。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 自分に都合の悪いことは無茶な捻じ曲げをしても恥じることのない典型例ですね。
反省のない人間に未来はありませんが、それを他人に巻き込むことの罪がもっと大きいです。
日本人の誤解
青田です。 黒田先生
おはようございます。
青田です。
この前、ある経営学の講師の人が
『これからは、中国の時代。』と言っていたので
私が
『中国との近現代史』の話をすると
その講師は
『昔の話をしたら、駄目だ。今の中国と昔の中国とは、違う。』と言われました。
ただ、昭和3年頃の日本人も、そう考えて、中国と付き合って、大損したのでしょうね。
それにしても、清王朝崩壊以前の中国と、それ以降の中国とは、全く、別の異質なものを感じます。
というのも、外国との付き合い方が、????だからです。(欧米列強にも責任はあると思いますが)
青田さんへ その2
黒田裕樹 「昔と今は違う」。典型的な「歴史に学ばぬ愚者」ですね。
易姓革命が続いたチャイナは確かに全く別の王朝に生まれ変わりますが、その本質は現代にいたるまで全く変わっておりません。
とんだ経営学の講師がいた者ですが、他山の石としなければなりませんね。
尖閣諸島よりも怖い現実
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
この時、日本軍は、中国にいる日本人を守るために出兵しました。
だから、欧米列強は、正当防衛と認めました。
これを、現代に置き換えて考えると
ぞっとします。
というのも、中国に進出している企業の日本人が襲われても、
自衛隊は、中国に派兵できません。
いわば、現代は、中国に日本人の人質を取られているのと同じですね。
尖閣諸島の問題は、自衛隊法を改正したら、対応することも可能ですが、
そう考えると、ぞっとします。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
だからこそ新憲法の制定が問われているのであり、また万が一の場合は憲法を超えて救出に向かわなければなりません。
「平和を愛する諸国民の構成と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」と言っている場合ではないのです。
北京へ迫る蒋介石の国民革命軍(こくみんかくめいぐん)と満州を守る日本軍とに挟(はさ)まれた張作霖は総退却(そうたいきゃく)を決断し、昭和3(1928)年6月に再起(さいき)を期して北京から満州へと列車で移動しましたが、同月4日に奉天(ほうてん、現在の瀋陽=しんよう)郊外(こうがい)で列車ごと爆破(ばくは)されて死亡しました。
この張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)は当時「満州某重大事件(まんしゅうぼうじゅうだいじけん)」と報(ほう)じられ、国民には真相(しんそう)が知らされていませんでしたが、やがて事件の首謀者(しゅぼうしゃ)として関東軍(かんとうぐん)の河本大作大佐(こうもとだいさくたいさ)が浮(う)かび上がりました。
田中義一(たなかぎいち)首相は昭和天皇の思召(おぼしめ)しもあって事件の関係者の厳重処分(げんじゅうしょぶん)を決断しましたが閣僚(かくりょう)や陸軍の反対を受けてしまい、結局事件をうやむやにしたうえで翌昭和4(1929)年6月に調査結果を昭和天皇に上奏(じょうそう、天皇に意見や事情などを申し上げること)しました。
当時はまだ28歳とお若かった昭和天皇のお顔の色がにわかに変わると、田中首相に対してお怒りの声を発せられました。
「この前の約束と話が違(ちが)うではないか!」
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ぴーち こんにちは!
この当時の政府の立場というのは、軍と天皇の
板挟み的な存在だったのですね。
どちらにもお伺いを立てなければいけない立場に少々、同情してしまいますが、それでも首相そのものにも事なかれ主義的な思惑が伺えますね。やはり何処か筋を一本通した考え方を持ちあわせていなければ、国の最終判断を預けるには田中首相は頼りない存在であったのかもしれませんね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり当時の田中首相にも同情すべき余地はありますが、有事の責任者が優柔不断では話になりません。
とはいえ、この事件は当時では解決不可能だった側面もありますので何とも言えませんが(詳しくは後述します)。
大混乱
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
この時代の歴史を知ると、いつも、思うのは
『この当時の日本は、中国に関わって、何かメリットがあったのだろうか?』という疑問です。
というのも、全く、メリットが見えてこないからです。
この当時の中国情勢は、今から、振り返っても複雑で、ややこしく、混沌とした状況です。
今、振り返っても、そう思うのですから
当時の日本政府は、頭の中が大混乱状態だったと思います。
とても、利益を得るどころではない気がします。
私は、この当時の日本(特に軍事官僚)は、中国バブル(中国に進出すれば、何かイイことがある。)と思い込んで、エネルギーを消耗しているだけのような気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 昔も今もチャイナへの幻想ともいえる利権に群がる姿勢は変わっていませんね。
せめて満州だけであればまだよかったのですが(もともとチャイナの領土ではありませんので)。
日本人の性善説
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
日本が、中国情勢を楽観的に考えすぎた理由として、
思想面の違いがあると思います。
古代中国では、最初、論語が書かれました。
論語は、『人間は、本来、善である。』という『性善説』を前提に立っています。
それは、日本に入ってきて、定着しました。
しかし、古代中国では、その後、孟子、韓非子という思想家が『人間は、本来、悪である。』という『性悪説』を基に帝王学を説きました。
秦の始皇帝から、この『性悪説』が歴代の王朝の思想根底になり、定着化し、それが現代の中国人の根底にもあると思います。
しかし、
なぜか、日本には、孟子、韓非子は、入っていません。(あるいは、定着していません。)
ただ、中国と渡り合うには、徳川家康のような
『性悪説の塊』のような人間でないと無理ですね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 確かにそういえますね。
家康や毛利元就クラスでないと無理でしょう。
ただ、一度地獄を味わった政治家ならば、同じ轍を踏まないという断固たる決意がプラスに働くことがあるかもしれません。
そのためにも今回の張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)に関する厳正(げんせい)な処分(しょぶん)を下(くだ)すように田中首相に命じられたのですが、約束を破って曖昧(あいまい)な報告しかできなかった首相を昭和天皇はお許しになれず、そのお怒りが以下のお言葉を生み出してしまいました。
「辞表(じひょう)を出してはどうか」。
昭和天皇から直接辞職(じしょく)を迫(せま)られた田中義一(たなかぎいち)首相は大きなショックを受け、5日後の7月2日に内閣総辞職をすると、それから3ヵ月も経(た)たない同年9月29日に死亡してしまいました。
なお、立憲政友会(りっけんせいゆうかい)の田中内閣が総辞職したことによって、憲政会(けんせいかい)と政友本党(せいゆうほんとう)とが合同して誕生(たんじょう)した立憲民政党(りっけんみんせいとう)の浜口雄幸(はまぐちおさち)が新たに内閣を組織(そしき)しましたが、その際(さい)に幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)が再び外務大臣(がいむだいじん)となったことにより、この後の我が国は復活した協調外交(きょうちょうがいこう)という名の「弱腰(よわごし)外交」によって更(さら)なる大きな混乱を招(まね)いてしまうのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
確かに日本の常識は世界の非常識などと言われてしまうことがありますが、
日本人同士なら通用しても、外国人にははっきり物申さないと通用しない所がありますね。
今回のテロ事件に関しても、首相は
人命第一を強く訴えたにも関わらず、テロ組織の方からは、「日本人の命は特別なのか?」という疑念が余計に相手の感に触ったという話を一部の報道で聞きましたが、日本人の言わんとする「命の尊厳」と、外国人が根本的に考えている人の命の重さに最初から温度差がある以上、そこの所のデリケートな意味合いが相手に通用しないのが、残念な所でもあります。
応援凸
男子の本懐。
晴雨堂ミカエル たしか北大路欣也氏が浜口首相に扮した「男子の本懐」のTVドラマがありましたね。御覧になられた事はありますか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
日本人の常識は国内のみにとどめ、対外的には世界の常識で堂々と渡り合わねばなりません。
その意味においても、この段階での協調外交の復活は我が国にとって痛恨の極みでもありました(詳しくは3月以降に更新します)。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 あいにく未見ですね。
浜口首相にまつわる話は第34回講座の更新後になる予定です。
ご自身の発せられた言葉が内閣を総辞職させただけでなく、首相自身を死に追いやったかもしれないという結果が、日頃(ひごろ)から責任感のお強かった陛下(へいか)に大きな影響(えいきょう)をもたらすことになり、昭和天皇は「内閣が私に上奏(じょうそう、天皇に意見や事情などを申し上げること)することは、たとえ自分の考えと反対の意見であったとしても裁可(さいか)を与えることにしよう」とご自身に誓(ちか)われました。
この後、昭和天皇はご自身のお考えを公的に述べられることは原則としてありませんでしたが、例外として内閣とは無関係に政治的な問題を決断される機会が2回ありました。それは昭和11(1936)年2月の二・二六事件(に・にろくじけん)と、昭和20(1945)年8月のいわゆる「終戦のご聖断(せいだん)」です。
なお、張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)は関東軍(かんとうぐん)の河本大作大佐(こうもとだいさくたいさ)が首謀者(しゅぼうしゃ)であったと長い間考えられてきましたが、最近の研究ではソ連のコミンテルンによる謀略(ぼうりゃく)ではないかという説も出てきています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
(※次回[2月11日]からは第34回歴史講座の内容の更新を開始します)





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ぴーち こんにちは!
天皇であっても、人間には変わりはなく
特にお若い頃にはそういうお話もあった事でしょうね。けれど、優れた人物というのは、その失敗を二度と繰り返さない様に心がけ、進歩を遂げる所に違いがあると思います。
歴史とは後の研究成果によってはそれまでの史実とは全く異なることが発見されることがある様ですね。それ故に人々は歴史のロマンを馳せ、また事実を究明する為の研究に夢中になれるのかも知れませんね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、昭和天皇は過去の過ちを決して繰り返されない英邁な君主であらせられました。
そのようなすぐれた国家元首をいただく我が国は何と恵まれていることでしょうか。
1991年のソ連崩壊後、当時の秘密資料が続々と明らかになってきています。
張作霖爆殺事件だけでなく、近現代史への意識を根こそぎ変えなければならない事象に私たちは今後も遭遇することでしょう。
明治憲法と現憲法の連続性
鹿児島のタク 私は戦後の昭和40年代に生まれ,学校教育を受けて者です。まさに,戦後民主主義教育を受けたという“ある種”の「自負」があります。
勿論,歴史の流れとしては,戦争という悲惨な出来事からしても…「当然のことながら」戦前というもの「否定」から入り込むのは仕方のないことであり,当然でしょう。
戦前というのはとんでもない”時代”で民主主義的な制度が整っていなかった。明治憲法の弱点やある種の封建的な面が悪質であるということを強調して教えられてように思います。
でも,現憲法について今改めて考えてみると,…いろいろな考え方があって難しいところでしょうが…明治憲法との「連続性」が思っているよりも残っているということを感じます。例えば,天皇の所謂「国事行為」等もです。
明治憲法と現憲法の「非連続性」と「連続性」を考えただけでも,興味深いものがあります。
「元首」と「象徴」
鹿児島のタク 外国から見たら,日本国の国家元首は「天皇」でしょうね。これは間違いなくそうです。
学術的には,日本の国家元首は誰かということについて,①天皇 ②内閣総理大臣 ③衆議院議長の3つがあげられるという説も読んだことがあります。(すみません。出典を忘れてしまいました。)
最近,私の中でよく分からなくなってしまったのは,「象徴」と「元首」はどちらが「格上・格下」かということです。…こんなことを考えるlこと自体が,非生産的で,馬鹿げているかも知れませんが…。
これを,明らかにしている「規定」の文章等見たことがありません。
この「象徴」という“あやふや”な文言が出てきたのは,現憲法が作成される過程で米国側の案の中に「symbol」という英単語が入ったからだと認識していますが,これは正しいでしょうか?
私が言いたいのは,最近考えるのですが,もしかしたら,「元首」より「象徴」の方が,“格上”なのではないかと思ってしまうのです。
天皇が「国家元首」となったのは(明文化)されたのは,明治憲法が最初かと思いますが…。それ以前の天皇の本質からして,古代や一部の歴史的時期を除けば,天皇の立場は本来「象徴天皇」
であったということは,私の大好きな(勝手に好きなのですが…)故司馬遼太郎氏等も,よくその文章の中に書いています。
「元首」という言葉の意味・定義が自分の中でよくできていません。
例えば,米国のオバマ大統領が,訪日の際,天皇陛下にお会いされた時のこと,握手しながら,礼(おじぎ)をされました。オバマ大統領は間違いなく米国の「国家元首」です。このことは,米国の一部のマスメディアによって,屈辱的だとの報道もありましたが,あまり米国内で広まらなかった,問題にならなかったと認識しています。
よって,「元首」より「象徴」の方が“格上”などとは私は申し上げません。
天皇の「象徴」…この象徴と言う言葉は…まずい…日本国憲法第1条「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とあるんだ…。2つの立場がある…。
天皇のある種の「象徴性」…もっと踏み込んだある種の「神聖性」は,天皇の本質が,もしかしたら「神道」というある種の“宗教”…日本古来の…神道が宗教かどうかの議論もあるかもしれませんが,…その「総神主」という立場であられることもあると考えています。
ただ,天皇といえども,憲法に規定されているということは,ある種の“超法規的な存在”ではなく,国家の支配下にあるということになってしまうといういい方は当然できるでしょうし,現にそうなっています。
現に,今上天皇はその御即位のときの御言葉で,「日本国憲法により即位した。」との意の言葉をお使いになられました。
「天皇」…私たち日本人は,どう考えているのか。日ごろあまり意識していない…天皇のことについて…実は,このことがもしかしたら,とても大切なことだと思うことがあります。
本日は,何と「建国記念の日」…この国の行く末が…穏やかでありますように!
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 私たちは、歴史教育においてある意味「プロパガンダ」に騙されている一面がります。
明治憲法と日本国憲法の連続性も、元首と象徴との違いも、まずは「プロパガンダ」の仮面を脱ぎ捨ててから考えないと話にならないでしょう。
そのためには、私たちにとって国家誕生という重要な日である「紀元節」を「建国記念の日」という無味乾燥な名前で祝わなければならないという現実もしっかりと見据えなければなりません。