徳川幕府(とくがわばくふ)から東山天皇(ひがしやまてんのう)の勅使饗応役(ちょくしきょうおうやく)に命じられた赤穂藩主(あこうはんしゅ)の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)こと浅野長矩(あさのながのり)は、彼の指南役(しなんやく)であった吉良上野介(きらこうずけのすけ)こと吉良義央(きらよしひさ)による数々のいじめに耐(た)えかね、ついに江戸城松の廊下(ろうか)において刃傷(にんじょう)に及(およ)ぶも、無念にも上野介を討ち漏(も)らしてしまいました。
浅野はお家断絶(いえだんぜつ)のうえ即日切腹(そくじつせっぷく)、一方の吉良には一切お咎(とが)めなし。幕府による理不尽(りふじん)ともいえる裁(さば)きに対して、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)こと大石義雄(おおいしよしお)をはじめとする旧赤穂藩の四十七士(しじゅうしちし)は数々の苦難を乗り越(こ)えて吉良家の屋敷(やしき)へ討ち入り、ついに主君の仇を討ったのです。
私たちが良く知っている「忠臣蔵」は日本人の好みに最も相応(ふさわ)しい物語であるといえますが、実は最近の歴史研究では全(まった)く別の評価となりつつあるのを皆(みな)さんはご存知(ぞんじ)でしょうか。





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ぴーち こんにちは!
確かに今では年末年始の風物詩となって
いますよね^^
ずっと座って最初から最後まで
テレビの前で見たことは無いですが
あれってほぼ半日以上放送してませんか?(∀`*ゞ)エヘヘ
真説があるんですか^^
明日の記事をたのしみしますね!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 昔はテレビドラマで半日かけてやっていたこともありましたし、あるいは映画も普通よりも時間をかけて丁寧に描いていますね。
真説ですが、まずは最近の学説から紹介させていただきます。その内容は…。
「仮名手本・忠臣蔵」…
鹿児島のタク 現在TVや映画の「忠臣蔵」関係は,今だに元禄末期の「仮名手本・忠臣蔵」等がベーシックにあるでしょう。全くの劇作ですから…。
本当の歴史というものを証明できるとすれば,…全く異なることは当たり前でしょうね。
以前と比べれば,年末のテレビや映画の数はすごく減ったでしょう。でも,私もこの手の「忠臣蔵」を観るとついつい涙が出てしまいます。
偽作とは知っていても,これはもはや「仕方がない」の世界です。でも,真実(真相)を知りたいですね。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 我が国の「歴史に残る名作」は、仮に偽作であったとしても某国のように「全くのでっち上げ」ではなく、必ず何らかの「下敷き」が存在しているものです。
今回の講座もその観点から詳しく説明していきたいと思っております。
刃傷が起きた日である旧暦(きゅうれき)元禄(げんろく)14年3月14日(1701年4月21日)は、天皇の意思を直接伝えるために派遣(はけん)された勅使が江戸城内に入って将軍と面談し、天皇のお言葉を受けた将軍が挨拶(あいさつ)を返すという、勅語奉答(ちょくごほうとう)と呼ばれる最大の儀式(ぎしき)が行われる日でした。
そんな重要な日に、よりによって江戸城内で刃傷を起こして儀式をぶち壊(こわ)しにしたのが浅野であり、襲(おそ)われた吉良は城内で刀を抜(ぬ)くのがご法度(はっと)であったことから無抵抗(むていこう)でした。つまり、刃傷沙汰(ざた)の本質は「喧嘩(けんか)」ではなく、浅野による一方的な「傷害事件(しょうがいじけん)」だったというのです。
確かに結果だけを見ればその通りかもしれませんが、私たちが忠臣蔵の世界で良く知っているのが、浅野が勅使饗応役としての任務(にんむ)の過程(かてい)で受けた「吉良による陰湿(いんしつ)ないじめ」であり、儀式当日にも吉良から面前(めんぜん)で罵倒(ばとう)され、堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒(お)が切れたからこそ、すべてを投げ捨てて浅野が刃傷に及んだのだ、と誰しもが考えることでしょう。
しかし、そのようなことは現実には「有り得ない」のです。





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ぴーち なるほど、そもそも
江戸城で執り行われた儀式の前の事情から
よく把握しておかないと、浅野内匠頭がどうして
その様な行動を起こしたのかという事が理解出来ずに、一方的に吉良上野介に馬鹿にされた腹いせに・・といういかにもまことしやかに語られた様な話に出来上がってしまう訳ですか・・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
まことしやかに語られた事情には裏があるわけですが、その裏の見方にも問題がある、というのが今回の講座の真髄でもあります。
吉良上野介の人柄…!?
鹿児島のタク 吉良上野介義央の「お人柄」として有名な話がありますね。
(お人柄なんて,その書いた人(の立場)によってどうにでも『歴史書!?』に書かれてしますのでしょうが…。)
吉良氏の領地だった三河国幡豆郡(吉良町もその一部)では,吉良氏は「名君」だったという“伝説”…この場合歴史と言っていいのか?…が残っていますね。
特に,「吉良の赤馬」は有名で,吉良上野介はこの馬に乗って領内を視察し,領民にとって比較的,“有難い”領主だったという類の著作物はいろいろな場所で出てきます。
でも,こう考えると,何が真実で,どうなっているのかよく分からない。…歴史学は,このような点でも難しいですね。
「忠臣蔵」は偽作というか劇作として楽しめればいいし,でも,歴史の真実に一歩でも近づきたいというのが一般の人々なのではないでしょうか。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 確かに吉良上野介が「名君」であったことは有名な話です。
ただし、「名君の吉良を討つなんてとんでもない」という見方も一方的の裏返しとなります。
歴史学は両方の視点、あるいはまったく別の観点から見出すべきものでもあります。
しかし、これらを現代に置(お)き換(か)えればどうなるでしょうか。重要な営業などの接待(せったい)において、相手に対して葬式(そうしき)のような料理を出させ、さらには宿泊先の掃除(そうじ)すら出来ていないような有様(ありさま)だった場合、接待の指導並(なら)びに監督(かんとく)役の吉良は相手にどう申し開きをするでしょうか。
「いや、これらはすべて担当者である浅野の不始末(ふしまつ)であって、私には一切責任がありません」。
そんな言い訳(わけ)が通用するはずありませんよね。つまり、浅野の勅使饗応役としての任務に落ち度があっては指南役の吉良の責任が真っ先に問われるのですから、忠臣蔵で見られるような「吉良による浅野へのいじめ」は現実には有り得ないのです。
では、刃傷当日の「吉良による浅野への罵倒」はどうなのでしょうか。





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ぴーち こんばんは!
確かに、現代に置き換えれば
指南役である吉良上野介の采配は、よくありがちな状況であり、その言葉に部下がいちいち恨みを
持つようになるとしたら、それこそ上司の命はいくらあっても足りませんよね(^^ゞ
そう考えると、「忠臣蔵」の話は双方の意見を公平な立場の者が書き記したものではなく、一方だけの意見だけで描かれた物語であるように思えて来ました。
よく「いじめ」問題で、「虐められた」と申告した者の意見だけを聞くと、確かに可哀想に聞こえて来ますが、虐めを行ったとされる人物に理由を求めた時に、虐めようと思って言った言葉ではないと、それが虐めであったという事すら、認識していないという事もありますよね。
やはり双方側の意見を聞くと一方だけの話を
聞いた時とは随分、展開が異なっているものですよね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、物事の善悪の判断は一方的な意見だけで判断できるものではありません。
少なくとも「吉良のいじめ」があり得ないことは容易に想像できますね。
江戸元禄期の生産能力
鹿児島のタク 「200畳(じょう)に及ぶ屋敷の畳替(たたみが)えは無用である」…。(史実!?)
「忠臣蔵」では,この話がよく出てきますね。
筋書きでいけば,一晩で(非常に短期間で),浅野家は江戸中の畳生産関係者に,頼み込んで作っています。
もし,これが本当なら,江戸時代元禄期の畳の生産能力が,これほどすごかったと言えるでしょう。
畳は,今でこそ機械で作っています。もう原料も現在では「イグサ」ではなく,化学繊維みたいなものかもしれませんが…当時は,マニファクチャー(工場制手工業)と言うのが,それほど発達していなかった(?)でしょうから…。
何といっても,我々の感覚からすると,産業革命を起こした英国がすごい…となる。
でも,やっぱり,この時期の江戸(日本)はすごい。江戸一極集中がよいか悪いかは別として,江戸は,ある時期から,人口が世界一の年になっていますね。
この短期間で「畳200畳」を作り上げつ能力が当時の日本人にあったということは,現在の日本の持っている技術力や人材がその当時から綿々と受け継がれているということになりそうな気がします。(考え過ぎでしょうか?)
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 残念ながら、忠臣蔵における「200畳の畳替え」は本文中にもあるように史実では有り得ません。
ただし、数日の間にそれだけの数の畳替えをする必要はあったでしょうから、当時から技術の高さがあったということに間違いはないでしょう。
鳳麒 どうも初めまして。
そうですよね。これらの説は創作の『忠臣蔵』の影響を受けた俗説ですよね。
こんな真似をしたら、第一に責任者である吉良こそが御咎めを受けるのですから、わざわざそんな自分で自分の首を絞めるような真似などする筈がありませんよね。
「梶川と吉良が立ち話をしていると、誰かが吉良の後ろから『この間(かん)の遺恨(いこん)覚(おぼ)えたるか』と声をかけて斬(き)り付けてきた。驚(おどろ)いて誰がやったのかと見れば浅野であり、吉良が浅野の方へ振(ふ)り向くと顔に太刀(たち)を浴びせられた」。
「あわてて逃(に)げようとする吉良に対して浅野がまた二太刀浴びせ、吉良が倒(たお)れたところでようやく梶川が浅野を押しとどめた」。
つまり、浅野は卑怯(ひきょう)にも吉良を後ろからいきなり斬り付けたというのです。そこには「吉良による浅野への罵倒」などあるはずもなく、しかも老人の吉良に対して壮年(そうねん)の浅野が何太刀も浴びせながら、殺害することすらできませんでした。
実は、この「殺害できなかった」ことが浅野自身の「資質(ししつ)」による影響(えいきょう)ではないか、という見方もあるのです。





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ぴーち こんにちは!
仰るとおり、後ろからいきなり斬りつけるという
行為そのものが本当であれば、かなり卑怯な手口であることは間違いありませんよね。
卑怯な手口でしか相手に立ち向かえないという
事事態、それだけの資質しか備えていなかったという事でもありますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんですよね。
ここで問題になるのは、浅野がなぜ卑怯とも言える手法を取ったかということになります。
次回(15日)でその流れを明らかにしたいと思います。
オバrev う~ん、なるほど~!
歴史的事実と、歴史的認識には大きなズレがあるという典型ですかね。
何の疑いもなく赤穂浪士を信じていましたが、眼から鱗とはこのことです。
と言うか、歴史ってのはこういうものかとも思いました^^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
ただ、ネタバレしない程度に先に申しあげますが、今紹介している見方にも「何か」が足りないのです。
歴史は本当に深いですね。
浅野内匠頭…大失態!!!
鹿児島のタク “もしもしもし”,「耐え難い屈辱」を吉良上野介から受けていたとしても,浅野内匠頭は,やってはならないことをやってしまったと考えます。
江戸城内で,このような重要な日に,刃傷に及べば,どういうことになるか…。そんなこと,大名なら当然知っていなければなりません。
話は変わりますが,江戸城内では,大名の家格に応じて,詰め所が決まっています。そこで,大名同士でいろいろなコミュニケーションをとったり,情報交換をしたりすることがあったことでしょう。そのような場面で,他の大名に対してある種の“遺恨”を持つのは,日常茶飯事であったと想像できます。
でも,大名たるもの,「耐えがたき屈辱」を受けても,じっと我慢をするのが当然なのであります。
江戸城内で,刃傷事件など起こせば,最悪の場合「改易」である。その瞬間,自分の部下は全員「失業者」になってしまうのだ…。
だから,想像するに,大名の嫡子は幼いころから,このような件について「しっかりとした躾・立ち振る舞い」の指導・訓練を受けていたはずで,このように浅野内匠頭のような行動に出てはならないのだと思います。
大名と言うと,どうせ「バカ殿」が多かったろう…というイメージをもたされているが,実は,非常につらい立場であり,「胆力」がなければ,やっていけなかったという認識を,我々はもっともってもいいのではないかと考える今日この頃です。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
問題は「そこまで分かっていながら浅野がなぜ刃傷に及んだのか」ということです。
最近の通説では本文にあるように「浅野自身の資質に問題があった」となっておりますが、その真相は…。
鳳麒 「遺恨覚えたるか!」の台詞は創作だという話もありますが、真相は果たして?
不意打ちを仕掛けておきながら、結局トドメを刺し損ねた。しかも老人を相手に。
だから浅野は馬鹿殿、資質に欠ける暗君。
こういった評価は疑問に思いますね。
もはや世は戦国時代ではなく、平和になってから百年も経っていたのですから、生まれてこの方、人を殺した経験がなく、為に武器の扱いに不慣れだったとしても、別に何ら不思議ではないでしょう。
この頃には戦国の世を生きた世代は皆死んでいて、誰も実戦経験などなかったのですから。
仮に武芸の稽古を積んでいたとしても、実際の斬り合いとなるとまた話は別です。
だから行為自体は決して褒められたものではない、という事は別として、殺すのに失敗したというだけの事で暗君扱いは、さすがに違うと思います。
こういった評価を下すのは、北条氏政の「汁掛け飯」「麦の昼飯」の逸話を鵜呑みにして、だから器量がなかったのだと貶すのと同じだと思います。
そして徳川秀忠を関ヶ原の遅参の件ですっかり味噌を付けてしまった事だけを論って、「人柄が好いだけが取り柄の凡君」の烙印を押すのと同じだと思います。
もっとも氏政の方のは後世の創作で、仮に史実だったとしても、言い掛かりでしかありませんが。
様々な記録によれば、浅野には「痞(つかえ)」という持病があったとされています。「痞」とは「胸が塞(ふさ)がって苦しいこと」ですが、最近では「気が塞ぐ」といういわゆる鬱(うつ)の状態を指(さ)しているというのが定説になっているようです。
つまり、饗応役の頃(ころ)の浅野は精神的に不安定となっており、不幸にも儀式当日に「鬱」がピークに達し、いわゆる錯乱(さくらん)状態になってしまったのではないか、というのです。また、それを裏付(うらづ)ける間接的な証拠(しょうこ)として、浅野が江戸城内において帯刀(たいとう)が許されている脇差(わきざし)で「斬り付けている」ということが挙げられます。
脇差のような短い刀であれば、斬るよりも刺(さ)す方が相手を確実に殺傷(さっしょう)できます。それなのに、浅野は何度も斬り付けるだけで刺そうとはしませんでしたから、このあたりにも精神的に追い込(こ)まれて尋常(じんじょう)でない様子がうかがえる、というのです。
しかし、浅野が精神的に追い込まれていたにせよ、家臣の大石ならば何らかの事実を知っているはずではないでしょうか。何しろ大石は吉良邸(てい)への討ち入りの際に「浅野内匠頭家来口上書(けらいこうじょうしょ)」を書き残しているのですから。
ところが、その口上には「浅野が吉良を討とうとした理由」が何も書かれていないのです。





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ぴーち こんにちは!
Σヽ( ゚д゚)ノ ワッ!!
忘れてました(((( ;゚д゚))))アワワワワ
お誕生日、おめでとうございます


これからは実年齢はプラスされても、
精神年齢はマイナス方向でいきたいですね(^^)v
所で、精神的な病が絡む事件は
厄介ですよね・・。本人の意志ではなく
すべて病のせいにされてしまうのも
実際に危害を加えられた者の立場からすれば、
憤りを感じますね。(T_T)
応援凸
HAPPY☆BIRTHDAY
クラチー お誕生日おめでとうございま~す!
おお…現在の自分の2倍…!
これからも講演頑張ってください!
(*゚д゚*)
浅野くんの性格論のところですか。
鬱病は今だから有名ですが、
当時は鬱について詳しくなさそうですね。
誰かケアしてあげなよ~。
。゚(゚´Д`゚)゚。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございますm(_ _)m
精神年齢のマイナス方向、良いですね。マイナス過ぎて子供にならないようにしなければ(爆)。
精神面での病気は仰るとおり、本人のみならず周囲を不幸に巻き込んでしまうところが確かに厄介ですね。
クラチーさんへ
黒田裕樹 倍ですか(^^ゞ
自分も随分歳をとったものです。
鬱に対するケアが理解され出したのは最近のことですからね。
江戸時代の頃はとてもそんな状況ではなかったでしょう…。
あっという間に五十ですよ。
晴雨堂ミカエル おめでとうございます。また一年、生き延びましょうぞ。
四十の半ばにきたら五十はすぐそこです。私が四十になった時は、意外に若い、まだまだ青春や、と思ったものですが、あっという間に四十七、半年前から五十肩に悩まされています。
忙しさにかまけて身体のケアを怠ると、一気に老化が襲ってきますから、気をつけてください。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 お祝いと励ましのお言葉有難うございます。
確かに身体のケアは重要ですね。一昨年末にヘルニアを発症してからは特に気を付けております。
誕生日おめでとうございます。
鹿児島のタク 44歳の誕生日おめでとうございます。
四捨五入すると,最後の40台の誕生日ですよ。来年は45歳…四捨五入すると50歳ですから…。(笑)
実は,私が45歳で,四捨五入すると50歳になりました。昔から言うでしょう。「人間50年 化天の内を比ぶれば…」(敦盛)
信長は49歳で「死」…私には,あと4年しか残っていないのかなと思ってしまいます。(泣)
さてさて,「精神的なプレッシャー⇒ある種の“精神疾患”説」ですね。
ここまで来ると,難しいですね。どうしても,今のところ私の中では,“想像”の域を大きくでないです。それを裏らづける資料出てくることが楽しみです。
でも,新しい史料等が出てくると,また,歴史が明らかにされる…。それを,また楽しみにしています。
結局また,その説もひっくり返されるのでしょうけれども…。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 お祝いのお言葉有難うございます。
現代は長生きが当たり前ですのでもっと頑張りたいですね(笑)。
確かに歴史は新資料の発見によって定説が覆されることがよくあります。
それはそれで結構なことなのですが、肝心な「何か」を意識して忘れさせることはプロパガンダにつながり、危険なことでもあるのです。
「去年三月、内匠頭儀(ぎ)、伝奏御馳走(でんそうごちそう)の儀につき、意趣(いしゅ)を含(ふく)み罷(まか)りあり、殿中(でんちゅう)に於(お)いて、忍(しの)び難(がた)き儀ご座候(ざそうろう)か、刃傷に及び候(そうろう)…」。
主君である浅野が吉良に斬り付けた理由については「忍び難き儀ご座候か」、すなわち「何か我慢(がまん)できないところがあったのか」と書かれており、家臣ですら肝心(かんじん)なことがよく分かっていないということがうかがえます。
以上の考えをまとめれば、元禄赤穂事件における江戸城内の刃傷沙汰は浅野による勝手な「暴発(ぼうはつ)」がもたらした「不幸な出来事」であり、被害者でしかなかった吉良に対して大石らが討ち入ったのは私刑(しけい)、すなわち「リンチ」であったという結論も有り得ることになってしまうのです。





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ぴーち こんばんは!
確かに今日のお話の様な結末なら
今で言うと「集団リンチ事件」として
扱われて当然ですね(^^ゞ
理由なき反抗・・
いえいえ、理由なき犯行であったのなら
尚更ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そのとおりです。現在の「元禄赤穂事件」の考察もこれまで述べてきたようなものが主流になりつつあります。
しかし、実は「肝心なもの」が(あるいは意図的に)抜け落ちてしまっているのです。
詳しくは次回(17日)以降に紹介します。
「赤穂浪士」よりも「薩摩義士」を!
鹿児島のタク 「赤穂浪士」の一連の話が,ここまで広まり,現代まで親しまれているのには,いろいろな理由などが考えられるのでしょうね。
○ 討ち入りがあったとき,江戸の市民が非常に喜んだらしいという記録が残っています。当時は犬公方として有名な5代将軍「綱吉」の時代…。この綱吉の政治(実際は老中がするのでしょうが…)に対して江戸市民が非常な不満を持っていたとの背景もあるとされます。(まあ,武士の鑑…。武士は威張っているが,ここまでよくやった…。等の江戸市民の心情)
○ この「赤穂浪士事件」に対しては,多くの藩や,その藩の学者がいろいろな意見を文献と残しておりますが,意外と,批判的な記録が多く残っています。
○ 明治になって,外国に相対するときに,日本人の精神や文化を説明する際に「忠臣蔵」は非常に都合がよかった。(「忠臣蔵」だけではありませんが…。)
私は,鹿児島県人ですから…。全く全国的には知られていませんが,「宝暦治水事件」をもっと多くの人々に知ってほしいです。
これについては,“単なる”「主君の仇を討った。」「敵をうった!」という…『赤穂浪士』とは異なり,ある種の「ヒューマニズム」があります。これは,幕府が薩摩藩に命じた,いわゆる「お手伝い普請」ですから薩摩藩としては断わりようがないわけですが…,あまり,日本人に知られていません。
いろいろな著作物が出ていますが,『弧愁の岸』(杉本苑子)等の小説は,割と資料を調べ上げて書かれているので,機会があれば読んでいただけたらと思います。
すいません。「最後に郷土愛」が出てしまいました。鹿児島いいところですよ。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 本編とは関係のないお話ですが、郷土愛によるものですからね。
確かに世の中にはまだまだ埋もれたエピソードが多いです。
少しずつでも明らかになっていけばよいですね。
鳳麒 「喧嘩両成敗にならず、浅野が一方的に切腹させられたなんて、幕府の裁定は不公平だ!」
という批難もありますが、実は当然の措置だったんですよね。
江戸城内では如何なる理由があろうとも、刀を鯉口三寸切らせたら死罪、という法が当時はあったようですから。
それにそもそも「喧嘩」にもなってませんからね。
「喧嘩になった」というのは、両者とも刀を抜いていた場合であって、吉良の方は一切抜かず、刀を鞘に収めたまま防いだのですから、「喧嘩」は成立していません。
寧ろ事件後に吉良は、そういう咄嗟の非常事態に陥りながらも、冷静さを失わず、刀を抜かずに対処した振る舞いを、幕府で称賛されている位ですから。
そう、そういう事態には吉良のように刀を鞘に収めたまま対処するのが作法で、それならば法的に問題ない訳です。
だから喧嘩両成敗を適用させず依怙贔屓したという批判は成立しません。
このような最大級の不敬罪を犯した浅野は、本来ならば不名誉な斬首になる所でした。
それを切腹という名誉ある死に方を許されたのですから、これは幕府の温情ですよ。
もしそうであるのならば、なぜ忠臣蔵が300年以上も日本人の心をつかんで離(はな)さないのかを理解することができないではありませんか。
結論を言えば、そのような見方はもちろん全くの間違(まちが)いです。歴史というものは目に見える事実を追っただけではその「真実」はつかめず、前後の大きな流れを理解しなければ「隠(かく)された大きな意味を持つメッセージ」を見極(みきわ)めることができないのであり、それは元禄赤穂事件においても例外ではありません。
では、元禄赤穂事件や忠臣蔵の「隠されたメッセージ」とはいったい何なのでしょうか。そのカギを握(にぎ)る人物こそが「山鹿素行(やまがそこう)」なのです。





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ぴーち こんにちは!
仰るとおり、現代でも「集団リンチ事件」或いは薬物中毒による事件、精神病という病の為の犯行となどと言う事件が発生する度に、一時は話題に挙がり、世間を震撼させたりしますが、1年もすれば、「そんな事あったかしら」と人々の記憶の中でですら、葬られてしまいますね。
隠されたメッセージをとは何だったのでしょうか。気になります。
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オバrev 山鹿素行・・・確かに名前は聞いたことがあります・・・が、学者?何をした人かまでは記憶にないです orz
仰るとおり、この事件の真相が分からないとその評価もできません。黒田先生ならその真実に迫ってくれると期待していますよ(^o^)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 忠臣蔵を「集団リンチ」で片づけてしまうのは、あまりにも現代の価値観でしか物事を見ていませんね。
次回(18日)から「隠されたメッセージ」をじっくりと解き明かしていきたいと思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 山鹿素行の名は最近ではほとんど聞かされる機会がないですからね…。
いよいよ次回(18日)から真相に迫ります。オバrevさんのご期待に添えればよいのですが(^^ゞ
朱子学への対抗・批判
鹿児島のタク 黒田氏のブログを読むには,予習と復習が必要!?なのでたいへんだ。このままでは,続かないので,これからは気楽に行こうと思ってます。
山鹿素行は幕府の正当聖学である「朱子学」を攻撃したために,何と「赤穂藩」流されたという実績を持つ人物ですね。
元禄文化の時代には,この「朱子学」に反対する学者が比較的多く出てきていますね。有名なのは,あの大塩平八郎に代表される「陽明学」…。
山鹿素行がすごいのは,それまでの「中華思想」の「中華」を本朝,…つまり「日本」だと考えた点ですね。有名な書に『中朝事実』という著書があることを復習しました。
日本は,確かに江戸時代よりだいぶ以前に,文化・文明について,中国を“師匠”としてきた部分は大きいですが,いわゆる「冊封体制」には,入っていないと考えるのが「一般的」でしょうね。
古代の一時期に,中国の皇帝から”天皇”(当時は天皇との称号は使っていない)が,確か「鎮西将軍」等に任じられている例はあるし,福岡県志賀島で発見された「漢倭(人弁なし)奴国王」(一応:かんのわのなこくおう)と読むという説が強です。
しかし,基本的には,「臣下の礼」をとったわけではないと考えるべきでしょうね。
有名な本朝から大陸王朝への文書としては,聖徳太子とされる「日出ずる処の天子,書を日の没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや…」。
時代が降りて「東天皇,書を西皇帝に致す…。」などとある通り,日本はいわゆる「中華国」と対等だった。
その点が,お隣の「朝鮮半島の王朝」と決定的に違う。
それには,勿論,朝鮮半島とは地理的条件が違いますからね~。朝鮮半島は,陸続きで“中華国”とつながっていたことが,ある意味,最大の不幸だったでしょう。
これから,山鹿素行に「陽の目」が当たりますね。楽しみです。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰る流れは確かのその通りです。
ただ、山鹿素行についてはこれからブログ上で紹介しますので、あまりネタバレ的な内容をお話しされると当方も辛いのですが…(^^ゞ
楽しい~
万金丹 こんにちは~黒田さん
"「元禄赤穂事件」の真実"シリーズ
とても楽しいですよ~
こんな隠された秘話を待ってました!
今年もカープが"セ"の荒らしの目
になるのは間違いないです
後は中畑君がどんだけ
ジャイアンツをイジメられるかですね!
万金丹さんへ
黒田裕樹 こちらこそお言葉有難うございます。
今年のカープも仰るとおり楽しみですね。
江戸時代初期の学者であった山鹿素行も初めは朱子学を学んでいましたが、時が経(た)つにつれて朱子学に疑問を抱(いだ)くようになり、寛文(かんぶん)5年(=1665年)に「聖教要録(せいきょうようろく)」を著(あらわ)しました。
聖教要録は武士道とは何かを説(と)き明かしたものでしたが、その中で朱子学を批判(ひはん)したために幕府の怒(いか)りを買い、翌寛文6(1666)年に、以前に家臣として仕(つか)えていた「ある藩」へ流罪(るざい)となりました。
実は、その藩こそが赤穂藩であり、当時の藩主は浅野内匠頭長矩の祖父(そふ)にあたる浅野長直(あさのながなお)でした。赤穂藩では山鹿素行を流人(るにん)ではなく師(し)として迎(むか)え、素行は藩士たちに学問を教えることになったのですが、その中に幼(おさな)き日の大石内蔵助義雄がいたのです。





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ぴーち こんにちは!
と、このお話の流れからすると
大石内蔵助は藩主である浅野内匠頭の仇討ちというよりも、
恩師である山鹿氏の為に何かできないものかと
子供の頃から心にいつも秘めていた・・という事でしょうかね。
たまたま、浅野内匠頭が失態を犯した事をチャンス到来と捉え、幕府に立ち向かって行った・・大石内蔵助の真意はそうだったかも知れないという事ですか・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、それも一理ありますね。
今後の展開で大石の考えを明らかにしていきたいと思いますが、忠義の精神も息づいていたことは間違いないと思われます。
そして、その日本の中心として存在するのが「万世一系(ばんせいいっけい)の皇室(こうしつ)」であり、神代(かみよ)以来絶(た)えることなく続く皇室こそが我が国の国体(こくたい、国家としての体制のこと)かつ中心であるという皇室尊崇論(こうしつそんすうろん)を説きました。
そんな山鹿素行の教えを熱心に学んだ赤穂藩が「尊皇(そんのう)の藩」となり、また当時の藩主長直の孫(まご)である浅野内匠頭長矩や若くして素行の薫陶(くんとう)を受けた大石内蔵助義雄らが「尊皇の士」となったのはむしろ当然だったのです。
では、もう一方の吉良上野介義央はどうだったのでしょうか。
吉良家は足利幕府(あしかがばくふ)以来の名家(めいか)でしたが、江戸時代になって徳川幕府に高家(こうけ)として取り立てられ、幕府の儀典(ぎてん)関係を取り仕切る家として存続(そんぞく)しました。つまり、吉良家は「幕府大事」の家柄(いえがら)であり、上野介義央自身も徳川幕府のために高家の身分を利用して「暗躍(あんやく)」することになるのです。





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ぴーち こんにちは!
やはり吉良上野介も何かしらの暗躍行為があったのですね。
何かしらそうした不穏な動きがあったからこそ、
そのしっぺ返しが思わぬ所から起こったのかもしれませんね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、吉良上野介は「ある不穏な動き」をします。
詳しくは次回(20日)に紹介しますが、当時の政治体制がよくあらわれた話ですね。
井上真太郎 お久しぶりです。ブログ凄い人気ですね。毎日の更新がすごいなーと思います。教師としても頑張ってらっしゃるみたいで。健康に気をつけて引き続き頑張ってください!
井上真太郎さんへ
黒田裕樹 これはどうもお久しぶりです。
ブログを開設してもうすぐ丸4年ですが、毎日更新を心がけて走り続けたらここまで来てしまいました。
今後も歩みを止めることなく頑張ります。
オバrev なるほど~、さすが大阪人の黒田先生。
見事に突っ込んでますね・・・えっ?ボケとツッコミの突っ込みとは違う^^;
それにしても浅野内匠頭は吉良上野介に斬りかからざるを得なかった背景があったんでしょうね・・・この流れからいくと(?o?)
歴史は、やはりそれを動かす力によって必然的にその方向に動いていくもんだなと思います。その背景を探っていかないと真実は見えてこないかもしれませんね。
次の記事が楽しみです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 いえいえ、突っ込みは大阪人の生命ですから(笑)。
仰るとおり、今後は吉良と浅野に隠された背景を探っていくことになります。
ご期待ください!
この事実一つだけでも天皇に対する幕府の姿勢(しせい)が分かるようなものですが、やがて幕府は天皇の譲位(じょうい)にまで口を挟(はさ)むようになりました。例えば、承応(じょうおう)3年11月(1655年1月)に18歳で即位(そくい)された後西天皇(ごさいてんのう)は若くして非常に英邁(えいまい、人格や才知が特別に優れていること)なお方(かた)でしたが、優秀な天皇の存在は朝廷を統制したい幕府にとっては都合の悪いことでした。
そこで、後西天皇のご在位時に伊勢神宮(いせじんぐう)や京都御所(きょうとごしょ)、あるいは江戸で大火事が相次いだ(特に江戸の火事は「明暦(めいれき)の大火」として有名です)ことから、「災害(さいがい)が多いのは天皇の徳が足りないからだ」という理由で寛文3(1663)年に強引に後西天皇を退位(たいい)させ、わずか10歳の霊元天皇(れいげんてんのう)を即位させました。
実は、この折(おり)に朝廷に対して退位の工作を行った人物こそが若き日の吉良上野介義央であり、後に彼はこの功績によって従四位(じゅしい)に昇進しています。
なお、京都御所は寛文元(1661)年に炎上(えんじょう)しましたが、その後の修復(しゅうふく)を幕府から命じられたのが赤穂藩主の浅野長直でした。長直は当時赤穂城(あこうじょう)を新築中でしたが、天守閣(てんしゅかく)の建造を断念(だんねん)までして御所を見事に再建(さいけん)しています。





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ぴーち こんにちは!
そうですよね。
己の野望を達成する為には、いかなる事にも
首を突っ込んで、理不尽な理由をこじつけては
相手を失脚させようとしますね。
けれど、一度はそれで成功したと思われる事でも、天知る 地知る 我知る 人知るではありませんが、必ずや後に痛い目に遭わされるものですよね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、野望実現のためには人間は手段を選びません。
ただ、それゆえに当人も同じ報いを受けることになります。
吉良上野介の場合も、その背後にいる勢力も同じなんですよね。
これらの事実や歴史の流れから分かるように、浅野家は「尊皇」、吉良家は「幕府大事」と当時の国家意識がまるで「水と油」のように全く異(こと)なっていました。そして運命のいたずらか、両家が勅使饗応役並びにその指南役として勅使下向(げこう)の接待を担当(たんとう)することになってしまったのです。
実は、両家の組み合わせは天和(てんな)3年(=1683年)に一度あり、この時は浅野内匠頭長矩が無事に饗応役を務(つと)め上げましたが、当時の長矩は17歳と若かったため、吉良上野介義央の言いなりにならざるを得なかったと考えられます。
そもそも「尊皇」の浅野家からすれば、勅語奉答の儀式以外の勅使の席次(せきじ)は将軍よりも上座(かみざ)であるべきですが、「幕府大事」の吉良家からすれば将軍家が上座となるのが当然でした。それ以外にも勅使以外の席次や料理を出す順序、あるいはお部屋の位置に至(いた)るまで、両者の意見がことごとく対立するのは目に見えていました。
饗応役と指南役との意見が異なれば、指南役の考えが優先されるのが常(つね)ではありましたが、二度目の饗応役となった元禄14年は長矩も35歳の堂々たる大名(だいみょう)です。その心中(しんちゅう)はさぞかし無念であり、持病の「痞」も悪化して錯乱状態となり、ついに刃傷に及んでしまった、という考えも成り立ちそうですが、私はそれだけではないと思っております。
殿中での刃傷は本人の切腹はもちろん藩は取り潰(つぶ)しとなり、多くの家臣が路頭(ろとう)に迷(まよ)うという一大事です。それが分かっていながら刃傷に及び、しかも脇差で斬り付けるというまるで錯乱したような激(はげ)しい怒りを呼んだ「ある出来事」が両者の間にあったとは考えられないでしょうか。





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ぴーち おはようございます!
まずは、33万ヒットおめでとうございます♪
「ある出来事」とは一体・・・?
また、後ほどお邪魔させていただきますね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お祝いのお言葉有難うございます。
「ある出来事」。
これを検証するために、まずは今日(2月22日)にふさわしい内容の更新をすることになります。ご期待ください!

平成24(2012)年8月、韓国(かんこく)の当時の李明博(イ・ミョンバク)大統領(だいとうりょう)は我が国日本の固有(こゆう)の領土でありながら不法に占拠(せんきょ)を続けている竹島(たけしま)に上陸しただけでなく、以下のような天皇を侮辱(ぶじょく)した声明を発表しました。
「日王(にちおう、韓国による天皇をさげすんだ呼び方)は韓国民に心から土下座(どげざ)したいのなら来い。重罪人(じゅうざいにん)に相応しく手足を縛(しば)って、頭を踏(ふ)みつけて、地面に擦(す)り付けて謝(あやま)らせてやる。重罪人が土下座もしない、言葉で謝るだけならふざけた話だ。そんな馬鹿な話は通用しない、それなら入国は許さない」。
皆さんはこれを聞いてどんな感情をお持ちになりますか。普通の日本人であれば激しい憤(いきどお)りを感じるのは当然ですし、世界に誇(ほこ)れる万世一系の皇室が我が国にご存在することの気高(けだか)さ、そして有難さを理解している人間ならば「殺気(さっき)」がよぎっても決して不思議ではありません。
現代の私たちですらそうなのですから、「尊皇」の藩主である浅野内匠頭長矩が「幕府大事」の吉良上野介義央に対して何らかの事情によって咄嗟(とっさ)に「殺気」がよぎり、反射的(はんしゃてき)に刃傷に及んだ、とは考えられないでしょうか。
直接の原因は吉良と梶川与惣兵衛との「会話」にあると思われます。





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ぴーち こんにちは!
元李大統領は己の保身の為に
本当に見苦しい発言をしたものです。
日本の天皇に対して、
このような謂れの無いことを
公式に発表しなければならないとは、
韓国と言う国そのものの考え方、体制が
欠陥だらけで、腐りきっているということを
言っているのと同じだと思いました。
憤りを通り越して、哀れみさえ感じます。
さて、吉良と梶川との会話が気になります^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私も全く同意見です。
軽率な発言が、国家として絶対に消すことのできない大きな汚点を残しましたね。
さて「会話」ですが、大統領の発言に匹敵することと言えば…。
奇跡!?
クラチー 遅ればせながら330,000HIT、
おめでとうございます!
(^∀^)
そして、竹島の日にこの話題が被るとは凄いですね。
ひょっとしてコレは、
竹島自身からの何かのメッセージでは…!?
(゚。゚;)
おめでとうございます。
晴雨堂ミカエル blogも講座も御盛況、地道な活動の成果ですね。
民主化以降の韓国大統領は再選できないので任期末期になると急速に求心力を失います。
日本では落選した大物候補者をターゲットに警察は選挙違反容疑で「落武者狩り」を行うが、韓国では人気が衰えた大統領に狩りを仕掛ける。日本の政界と違い、子分に忠誠度はかなり低いので、内部リークなどの裏切りも多い。
だから民主化以降の歴代大統領はみな保身のために反日言動を繰り返す。真の愛国的行動で日本を批判している訳ではない。本当に志ある反日なら、逆に今上陛下へ唐突な品のない罵詈雑言を外交文にしないはずです。
クラチーさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
別に狙ったわけでなく、全くの偶然だったんですが…。
そういえば昨年9月の聖徳太子の講演も尖閣諸島の国有化で国内が揺れていた時期でしたし、運命のようなものを感じます。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
確かに仰るとおりですね。保身のための言動であれば、なおさら悪質だといえるでしょう。
それまでの吉良による勅使への仕打ちに対して懸命(けんめい)に耐え続けてきた浅野も、天皇への悪口を耳にして不意に「殺気」がよぎり、堪忍袋の緒が切れると同時に吉良への怒りが爆発(ばくはつ)し、我(われ)を忘れて錯乱状態のようになって刃傷に及んだのです。
刃傷後の取り調べで浅野は吉良への「遺恨」を認めましたが、その理由が吉良による数々の天皇に対する「不敬(ふけい)」であることが分かっていても、それを自(みずか)らが口にすることは天皇の恥(はじ)にもなりかねないため、原因の一切を語らずに堂々と切腹しました。
一方の吉良は「浅野の乱心(らんしん)であり、遺恨はない」と証言しましたが、もちろん自分の勅使に対する数々の仕打ちや城内での不用意な一言が刃傷につながったことは分かっていました。しかし、それを口にすれば自分だけでなく幕府の立場をも危(あや)うくしかねないため、敢(あ)えて「分からない」ととぼけたのであり、悪口を耳にした梶川も同じ考えで記録から「吉良の天皇に対する悪口」を省(はぶ)きました。
しかし、主君と同じ「尊皇の士」である大石内蔵助義雄らの目はごまかせなかったのです。





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ぴーち こんにちは!
なるほど!確かに仰るような推測が
ぴったりあてはまりそうですね^^
壁に耳あり、障子に目あり。
やはり、いつ何時も
不用意に人の陰口など口外すべきでは
無い様ですね。
まわり回って、必ず自分へ返って来る
ものですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ご賛同くださり有難うございます。
元禄赤穂事件は私たちに大きな教訓を残していると実感しております。
管理人のみ閲覧できます
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「天皇に対する侮辱は尊皇の士として絶対に許すことはできない」。そう固く誓ったからこそ、大石らは数々の試練を乗り越えた末(すえ)、翌元禄15年12月14日(1703年1月30日)深夜に吉良邸内へ討ち入り、上野介の首級(しゅきゅう)を挙げたのです。
ところで、「忠臣蔵」の世界では討ち入りの際に山鹿流(やまがりゅう)の陣太鼓(じんだいこ)を打ち鳴らしたことが有名ですが、実際には吉良邸の裏門(うらもん)を木槌(きづち)で打ち破る音か、あるいは銅鑼(どら)の音(ね)がそのように聞こえたからではないかとされており、真実のほどは分かりません。
しかし、大石をはじめ討ち入った四十七士の心の中には藩を挙げて学び続けた「山鹿流」の精神が息づいており、少なくとも各自(かくじ)の胸の奥で陣太鼓が高らかに鳴り響(ひび)いていたことは間違いありません。





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ぴーち こんにちは!
なるほど、ここまで読ませていただき
忠臣蔵の真相をより深く知る事が出来ました事、
感謝申し上げますm(__)m
人を殺める事は、自分も死ぬ覚悟がなければならないと言いますが、大石内蔵助は自分の命を掛けてでも、守りたい理由があったのですね。
ただ、そういう思いというのはなかなか世間には
伝わらないものですので、最高最善のパフォーマンスとして後世に語り継がれなければならないものだと思います。
そういう意味では、討ち入りをした中の一人を逃して、この事実を広く知らしめて欲しいという
大石内蔵助の心中は、自分たちの真意を分かって貰いたいという思いで満ち溢れていたのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 こちらこそありがとうございます。
仰るとおり、忠臣蔵は決してリンチなどではなく、日本人として守るべきものを守るための生命をかけた戦いだったのです。
逃げたとされる寺坂吉右衛門には様々な説がありますね。
主君である浅野がすべてをなげうって吉良に刃傷に及んだ背景に「尊皇vs.幕府」があったことは大石らも当然分かっていました。しかし、そのことを公言(こうげん)すれば幕府によって揉(も)み消されるに決まっていますし、討ち入った理由に「尊皇vs.幕府」があったことを幕府に暗示(あんじ)させるためにもむしろ書かない方が良いと判断したと思われます。
そんな大石らの思惑(おもわく)は、討ち入り後の態度にも見受けられます。吉良の首級を挙げた大石らは、その足で主君が眠る高輪(たかなわ)の泉岳寺(せんがくじ)へ向かい、首級を墓前(ぼぜん)に供(そな)えましたが、もし大石らの考えが「主君の仇である吉良を討つ」だけであったならば、一同がその場で切腹を遂(と)げたことでしょう。
しかし現実には大石らは幕府に対して「自首(じしゅ)」し、自らの生死を幕府に委(ゆだ)ねました。彼らはなぜお預(あず)けの身となってまでして生き恥をさらしたのでしょうか。
もちろんそれは、幕府に対し「今度こそ『尊皇vs.幕府』の決着をつけてほしい」という願いがあったからに他(ほか)なりません。





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ぴーち こんばんは!
>「浅野が吉良を討とうとした理由」が書かれていませんでした。
恥ずかしながら、この時点で
その事実を存じませんでしたm(__)m
(いつもながら、勉強不足ですみません(^^ゞ)
仰るとおり、吉良上野介を討ち取るだけの
目的なら、墓前にて全員が切腹を果たす事と
なるでしょうね。
生き恥を晒してまでも、幕府の沙汰を待った
大石内蔵助は、そこで幕府に対して
一縷の望みを掛けて
下駄を預けたのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、大石らが幕府に自らの進退をゆだねた段階で、単なる敵討ちとは全く異なることがわかります。
そんな重要な事情を理解しようとせずに「赤穂事件はリンチである」と短絡的に片付けようとする人々は何を考えているのでしょうか。
しかし、ここで大石らを打ち首にすれば、今後の幕府と朝廷との関係がますます悪化(あっか)するのは目に見えていました。だからこそ彼らに武士の名誉(めいよ)としての「切腹」の処分を下(くだ)したのです。
一方、大石らの切腹と同時に吉良家は取り潰しとなってしまいました。先述したとおり「幕府に忠実な高家」であったはずの吉良家に対して、なぜ幕府は冷たい裁きを行ったのでしょうか。実は、大石らの討ち入り以前から吉良家は既(すで)に幕府に見限られていたのです。
幕府は大石らの討ち入り前の江戸での動きを事前につかんでいました。これは大石自身も証言している事実ですが、それでも幕府が大石らの行動を妨害(ぼうがい)せずに敢えて討たせたのは、皇室に憎(にく)まれすぎた吉良家が幕府にとって有害でしかなかったからでした。
だからこそ幕府は大石らの動きを見て見ぬふりをしていましたが、討ち入り後に大石らが自害せず、幕府に裁定を委ねたところまで見抜いていたかどうかまでは分かりません。





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ぴーち こんにちは!
幕府が事前に大石らの動きに気づいていて、
見て見ぬふりをしていたということが、
事実だとしたら・・
かなり汚い手口ですね(*_*;
そして我関せずとばかりに、うそぶく幕府に対して
大石内蔵助が裁きを迫った事については、
人として尤もな思いであると感じました。
応援凸
吉良側から見れば・・。
晴雨堂ミカエル 吉良側から見れば、幕府の意を受け難しい朝廷工作を展開し実積をあげ幕府の権威権力はもはや「国家主権」、朝廷は一種の宗教法人的存在にしたのに、純粋真っ直ぐ君の浅野に暴力を振るわれ、十分なフォローもされず悪者扱いで切り捨てられる。
そればかりか、やってもいない浅野君へのイジメの数々を歌舞伎などで喧伝され、大石ら暴徒に対し武士らしく太刀をふるって応戦したのに、検死報告書でも裏付けられているのに、往生際悪く官位をひけらかせて悪態をついたかのように喧伝され、挙げ句にお家とり潰し。
私が吉良なら徳川を末代まで祟ってやるでしょう。
綱吉以後、徳川宗家の血統が絶えて紀州家に取って代われ、さらに御三家の一つ水戸家が尊皇を声高に叫んで幕末の幕政を混乱させ、水戸家の血筋の慶喜が幕府を閉める。
吉良の祟りですな。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
幕府と知れば体のいい吉良家の「処分」だったのかもしれませんが、世の中そんなに甘くはないです。
大石ら四十七士の勇気と決断に感服ですね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、吉良家の怨霊化ですか。
この後の幕府の歴史を見ればさもありなん、という思いがしますね。
討ち入りから4年後の宝永(ほうえい)3年(=1706年)には、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)が赤穂事件を題材(だいざい)にした人形浄瑠璃「碁盤太平記(ごばんたいへいき)」を書き上げて大坂(おおさか、現在の大阪)の竹本座(たけもとざ)にて上演(じょうえん)され、以後も浄瑠璃や歌舞伎の人気題材となりました。
そして、これらの流れの集大成(しゅうたいせい)となったのが、二代目竹田出雲(たけだいずも)らの合作(がっさく)で、奇(く)しくも刃傷事件から47年後の寛延(かんえん)元年(=1748年)に大坂で人形浄瑠璃として上演された「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」でした。
仮名手本忠臣蔵といえば浄瑠璃や歌舞伎などで現代にまで続く大ヒット作として有名ですが、その理由として日本人好みのドラマ性以外に「もう一つの隠されたメッセージ」があることを皆さんはご存知でしょうか。





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ぴーち こんにちは!
なるほど。
江戸の太平時代に突然起きた事件であったが故に
余計にこの話は大きく取り沙汰された訳だったんですね。
時代が後押しをしたという理由もあるんですね。
応援凸
オバrev いやいや驚きました。
まさに眼から鱗の元禄赤穂事件ですが、さらにこれが歪められた史実である忠臣蔵となるのに、まだ隠されたメッセージがあるとは(゜o゜;・・・歴史って、どこまでが事実でどこまでが作り事なのか分からないところがありますね。
裏で動く力によってプラスがマイナスにもなって歴史的事実として認識されているものがまだまだあるということでしょうね。
となると日本史も、再度論理的に様々な背景を検証して事実を突き止めるという、研究の余地がまだまだあるということですか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、相当にインパクトのあった事件だったと思われます。
それだけに庶民の関心も高く、やがては仮名手本忠臣蔵として結実するわけですね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 その通りです。
私たちは目の前にある事実だけで物事を考えがちですが、それだけでは真実の姿は見えてきません。
仮名手本忠臣蔵にもあっと驚くメッセージが隠されているのです。
その意味においては、日本史の研究はまだまだ道半ばだといえるでしょう。
当時は徳川幕府による封建社会(ほうけんしゃかい)であり、江戸時代の史実に基づく物語は上演を禁じられていたためにわざわざ太平記の世界を借りたのですが、仮名手本忠臣蔵には誰にでも「元禄赤穂事件の引き写し」と分かる様々な要素が散(ち)りばめられています。
例えば「仮名手本」は「いろは四十七文字」のことであり、討ち入った旧赤穂藩の四十七士と掛(か)けていますし、「忠臣蔵」は「忠臣大石内蔵助」からか、あるいは「蔵(くら)に一杯(いっぱい)になるほど多くの忠臣」という意味が込められています。
また高師直や塩谷判官高貞はそれぞれ実在の人物ですが、高師直は吉良の役職である「高家」を、塩谷判官は赤穂の名産である「塩」をそれぞれ掛けており、さらには判官の家老である大星由良之助の妻は「お石(いし)」であり、二人合わせて「大石」となります。
ただし、仮名手本忠臣蔵にはこれら以外にも「別のメッセージ」があります。それは物語のもっと奥深(おくふか)くに隠されており、またそのカギを握るのは仮名手本忠臣蔵がどこで初演されたのかということと、高師直の「官職名(かんしょくめい)」です。





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ぴーち こんにちは!
太平の世であったが故に
様々な文化が花開き、また、花開いただけにはとどまらずに、より深く物事を推測したり、
或いは小細工を施したり、そう言った細かな所にまで
発展させていくことが出来る世の中であった事が、悪く言わせていただくと、暇人が、余計な尾ひれや、
個人の思惑が介入する事で、より真実から遠のいてしまったのではないでしょうかね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、そういう見方もありますね。
確かに仮名手本忠臣蔵には作者が住んでいた地域の強烈な思い入れが隠されています。
詳しくは次回(1日)の更新をご覧ください。
大坂といえば元々は豊臣秀吉(とよとみひでよし)が大坂城(おおさかじょう)を建築したことなどで発展(はってん)しましたが、徳川家康(とくがわいえやす)によって豊臣家が滅(ほろ)ぼされた際に大坂は火の海となって多くの人々が殺されたり、あるいは捕まって身売りされたりするなど散々(さんざん)な目にあいました。
それらの「恨み」は時が流れて表面上は水に流しても心の奥底(おくそこ)では決して忘れることはなく、せめて架空(かくう)の世界でだけでも恨みを晴らしたい、という思いが募(つの)っていたそんな折に元禄赤穂事件が起きたのです。
元禄赤穂事件の背景に「尊皇vs.幕府」があったことを見抜いた大坂の浄瑠璃作者たちは、幕府の咎めを受けることなく何とかして舞台の上で浅野主従(しゅじゅう)の願いと自分たちの思いを果たすことができないかと考え、苦労の末に編(あ)み出したのが「仮名手本忠臣蔵」なのでした。
なぜそう言い切れるのでしょうか。それは、高師直の官職名が「武蔵守(むさしのかみ)」だからです。





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晴雨堂ミカエル 実は仮名手本忠臣蔵は子供の頃から興味がありました。
初めて観た「忠臣蔵」はNHK大河ドラマで、タイトルは失念しましたが石坂浩二が柳沢を演じた40年近く前の作品です。
ところがこの仮名手本は登場人物の名前が違う。登場する人物の多くは実在だが史実無茶苦茶、強引に元禄の忠臣蔵を南北朝時代に嵌め込んだ設定に面白い違和感を感じたものです。
中高生時代、私なりに調べた結果、ほぼ黒田氏と同様の見解に至りました。
しかし当時は「深読み過ぎる」「間違い」「七不思議の観すぎ」などと周囲から嘲笑を受けたものです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 大河ドラマは「元禄太平記」ですね。ネーミングが仮名手本忠臣蔵と対をなしています。
深読みしすぎですか…。まぁいろんな考えの人がおられますからね。
ぴーち こんばんは!
なるほど、関西の方はその頃からの恨みつらみを
忠臣蔵という願ってもない史実に重ね、そこから物語が大火の様に隅々まで広がったという事でしたか。
しかし
それによって、長年の恨みが無事晴れたのでしょうか・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 「恨みを晴らす」効果は確かにあったと思います。
ただ、その手法がいかにも日本人らしく手が込んでいるんですよね(^^ゞ
詳しくは次回(2日)の更新をご覧いただくことになりますが、いかにも「大人」のやり方だと思います。
つまり、江戸時代の人々にとって「武蔵守」とは「徳川将軍」を意味していたとともに、敵役(かたきやく)の「高武蔵守師直」が舞台の上で「死ぬ」ことによって「将軍家の死」を表現していたのです。だからこそ大坂の人々は、仮名手本忠臣蔵を旧赤穂藩へのオマージュ(敬意を表すためにつくられた作品のこと)とするとともに、舞台の上での「将軍殺し」に喝采(かっさい)を送ったのでした。
大評判(だいひょうばん)となった仮名手本忠臣蔵は程(ほど)なく江戸でも歌舞伎として上演されるようになりましたが、徳川将軍のお膝元(ひざもと)の江戸では「将軍殺し」は無視されて旧赤穂藩へのオマージュのみが強調され、年月が経つとともに「元禄赤穂事件のドラマ化」が進みました。
やがて徳川幕府が滅んで明治の御代(みよ)となり、実名を出すタブーがなくなった頃には元禄赤穂事件は「忠臣蔵」という日本人好みの物語として発展を遂げただけでなく、天皇による「お墨付(すみつ)き」まで賜(たまわ)るようになったのです。





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ぴーち こんにちは!
江戸時代の様に、他の国との接触が無かった時代だからこそ、日本国内で一度勃発した対立やら戦やらは、いつまでも人々に遺恨して、何かあればその恨みを晴らさんと息巻いていたのでしょうね。
現代の様に、外国との盛んな接触がある時代では、同じ国内で言い争いや、紛争などを起こしていれば、それこそ、外国から攻め込まれるチャンスとみなされてしまうので、それどころでは
ありませんがね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに仰るとおりですね。
国内が平和であったからこその対立なのかもしれません。
幕末においても最終的には天皇の名のもとに中央集権国家が紆余曲折を経て建設されていますからね。外国であれば内乱状態が続いてここまでたどり着くことはないでしょう。
明治天皇が大石らを顕彰されたのは徳川幕府が倒れてまだ日が浅く、東京の市民にいまだに幕府への敬慕(けいぼ)が色濃(いろこ)く残っていたことから、同じように市民に根強い人気があった忠臣蔵にあやかったのではという説もありますが、やはりここは「尊皇の士」であった大石らに対する「嘉賞」のお気持ちがお有りになられたと素直に拝察(はいさつ)すべきではないでしょうか。
忠臣蔵の「物語」は明治以後もますます磨(みが)きがかかり、やがて映画や小説の世界でも人気を博(はく)すようになりました。第二次世界大戦で我が国が敗戦した後にGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部、れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ)によって一時は禁止されたもののやがて復活し、映画が全盛期(ぜんせいき)を迎えた昭和30年代には制作会社が競(きそ)って「忠臣蔵」を上映(じょうえい)したほか、昭和39(1964)年にはNHKの大河(たいが)ドラマで取り上げられるなど、TVドラマ化も進みました。
しかし、21世紀に入ってからは忠臣蔵の映像化が少なくなり、TVでもほとんど見られなくなっているのは残念な限りですが、その背景として「忠臣蔵は架空の話で正しくは元禄赤穂事件であり、また吉良は被害者でしかなく討ち入りは大石らによる『リンチ』に他ならない」という「間違ったイメージ」が存在するのであればとんでもないことではないでしょうか。





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晴雨堂ミカエル これまで浅野が刃傷に及んだ動機付けとして、手っ取り早く吉良の陰湿なイジメを持ち出しました。その次元の低い動機の方が残念ながら世間の納得が得やすい。
また浅野が逆上しなければならないほどの原因を作るために吉良を相応の悪者にしなければならない。せいぜい背景に旗本と大名の対立を出すぐらいでした。
大河ドラマでこれもタイトルを失念しましたが勘三郎が大石を演じた作品では、四千石の旗本でありながら十万石の国持大名並の官位を持つ吉良への風当たりの強さを描写していました。
私が推察するに、江戸で忠臣蔵を上演するにあたり、当時の幕府も吉良を悪者として切り捨てたので、情報操作や言論操作の高度な政治手法を使っている自覚はあまり無かったかもしれませんが歌舞伎を利用したと思っています。
近年になって、従来の忠臣蔵では黒田氏が冒頭で語ったような不自然な点が多々指摘されて、吉良と浅野が再評価されるとともに、尊皇の部分は数百年の間に忘れ去られ、あるいはタブーになったと思います。
戦後は尊皇はタブーですから。
ぴーち こんばんは!
世の中が落ち着かず、絶えず目まぐるしく
揺れ動いている時代には、人々は深く物事を突き詰めている余裕は無いので、単純に「勧善懲悪」的な物語がウケたのかも知れませんね。
現代の様に再び、平和な世の中が長く続くと、そこで再び、人々は事の真相を知りたがる傾向が強くなり、また求められるようになって来たのでは無いでしょうか。
応援凸
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かにタブー視されている一面がありますね。
だとすればなおさらもっと真実を広める必要がありそうです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに時代によって感性が変わることがあるのかもしれませんね。
真相を求める好奇心は良いですが、現代の感覚だけでとらえることの危険性を表しているような思いがします。