人間社会の現実をありのままに描写(びょうしゃ)する自然主義(しぜんしゅぎ)が作者自身のありのままを写(うつ)しとるだけの私小説(ししょうせつ)へと変化していったのに対し、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)や菊池寛(きくちかん)らは雑誌「新思潮(しんしちょう)」を発刊(はっかん)して、知性を重視して人間の心理を鋭(するど)くえぐり出した理知主義(りちしゅぎ)の文学を発表し、新思潮派(しんしちょうは)と呼(よ)ばれました。
芥川龍之介の代表的な作品には「羅生門(らしょうもん)」「鼻(はな)」「杜子春(とししゅん)」「河童(かっぱ)」などがあり、現代の国語の教科書にも採用されています。
菊池寛の代表的な作品には「恩讐(おんしゅう)の彼方(かなた)に」「父帰(ちちかえ)る」などがあります。また、菊池は大正12(1923)年に月刊誌(げっかんし)の「文藝春秋(ぶんげいしゅんじゅう)」を創刊しています。
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ぴーち こんにちは!
菊池寛の「父帰る」はモノクロの映画作品で
鑑賞した事がありますが、未だに印象深い作品として脳裏に残っていますね・・
そう言えば、主人公の父の名前は黒田さんという方だったような・・(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 「父帰る」は3回映画化されていますが、一番新しいのが60年前ですからね。
>そう言えば、主人公の父の名前は黒田さんという方だったような・・(^^ゞ
さすがよくご存知ですね(^^♪
私は父親になったことはありませんし(爆)、父も失踪しておりませんが(^^ゞ
一方、雑誌「スバル」では独自(どくじ)の唯美主義(ゆいびしゅぎ)を主張した耽美派(たんびは)があらわれ、永井荷風(ながいかふう)が「腕(うで)くらべ」を、谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)が「痴人(ちじん)の愛(あい)」を著(あらわ)しました。
また、横光利一(よこみつりいち)や川端康成(かわばたやすなり)らが新しい感覚と表現を主張した新感覚派(しんかんかくは)もこれに続きました。
詩では高村光太郎(たかむらこうたろう)や萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)らが口語(こうご)による自由詩を発表し、短歌では伊藤左千夫(いとうさちお)門下の斎藤茂吉(さいとうもきち)が島木赤彦(しまきあかひこ)らとともにアララギ派を確立しました。
この他、俳句では河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)らが従来の五七五調の形にとらわれない新自由律俳句(しんじゆうりつはいく)を開拓(かいたく)しています。
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ぴーち こんにちは!
実は中学の時に自分が本格的に小説らしきものを最初に読ませていただいたのが、武者小路実篤の「友情」でした(^^ゞ
タイトルの清いイメージとは別に男女の三角関係という少々背伸びをした内容だったことで
あの当時は何となく後ろめたい気持ちで読んでおりましたが、
今思うと、純情であったのだなと懐古します(*^_^*)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 武者小路実篤の「友情」は色々と考えさせられる作品ですよね。
個人主義を尊重する白樺派ならではですが、青少年の純情さが懐かしく思えます。
オバrev 大正という時代は、明治と昭和に挟まれた短い時代だったこともあって、あまり印象にないですが、現代の教育や研究や文学、芸術への影響という点では実際の長さ以上に大きな時代だったんじゃないかなと思いながら読ませて頂きました。
何しろ、小・中・高と日本史の授業でまともにこの時代まで進んだことないもんで(^^ゞ
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、大正時代は我が国の現代の文化にもつながることの多い様々な実績を残しています。
時代は短くとも中身は濃いですね。
確かに勉強する機会がないですね(´・ω・`)
ぜひとも私の講座で勉学に励んでくださいm(_ _)m
大正時代には庶民(しょみん)の娯楽(ごらく)としての読み物である大衆文学(たいしゅうぶんがく)も流行しました。大正14(1925)年に大衆雑誌(たいしゅうざっし)の「キング」が創刊され、たちまち100万部を突破(とっぱ)する売れ行きとなりました。
大正11(1922)年には「サンデー毎日」が創刊され、週に一回発行される週刊誌(しゅうかんし)も人気を集めたほか、関東大震災(かんとうだいしんさい)後には「現代日本文学全集」のように一冊一円で販売(はんばい)する円本(えんぽん)や岩波文庫などの文庫本も登場しました。
その他の大衆文学としては、鈴木三重吉(すずきみえきち)が創刊した児童文学雑誌「赤(あか)い鳥(とり)」を基本とした北原白秋(きたはらはくしゅう)らによる童謡運動(どうよううんどう)が始まったり、中里介山(なかざとかいざん)の「大菩薩峠(だいぼさつとうげ)」や吉川栄治(よしかわえいじ)・直木三十五(なおきさんじゅうご)らの時代小説、あるいは江戸川乱歩(えどがわらんぽ)らの探偵小説(たんていしょうせつ)などが人気を呼(よ)んだりしました。
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ぴーち こんにちは!
江戸川乱歩の描く世界は嫌いではありませんね(^^ゞ
ミステリーものが流行る世の中は、比較的平和な世の中である証拠でもあるようなので、
大正時代も現代の様に、人々のくらしが
安定し、平和な時代であったという事がこのことからも伺えますね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 江戸川乱歩といえば明智小五郎ですよね。私は明智光秀の名を初めて聞いたときに「あれ?小五郎さんの名前をパクってるのか?」と勘違いしました(爆)。
確かにミステリーが流行るとそんなイメージがありますよね。
そういえば今日(平成25年1月26日)の誰かさんの歴史講座の内容も…。
音楽では山田耕筰(やまだこうさく)が本格的な交響曲(こうきょうきょく)の作曲や演奏(えんそう)を行い、大正14(1925)年には我が国初の交響楽団(こうきょうがくだん)である日本交響楽協会(にほんこうきょうがくきょうかい)を設立しました。
その後、大正15(1926)年には日本交響楽協会から近衛秀麿(このえひでまろ)が脱退(だったい)し、新交響楽団(しんこうきょうがくだん)を立ち上げました。現在のNHK交響楽団のルーツです。この他、声楽家(せいがくか)ではオペラ歌手の三浦環(みうたたまき)が国際的な名声(めいせい)をつかみました。
大正から昭和にかけては文部省唱歌(もんぶしょうしょうか)や童謡(どうよう)も人々の間で親(した)しまれるようになりました。前述(ぜんじゅつ)の山田耕筰も「この道」「からたちの花」「赤とんぼ」「ペチカ」「待ちぼうけ」など数多くの作品を残しています。
なお、これは蛇足(だそく)ですが、山田耕筰は関西大学(かんさいだいがく)の学歌(がっか)も作曲しています。
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ぴーち こんにちは!
へぇ~(゚д゚)!
山田耕筰が黒田さんのご出身大学
の学歌をですか!
とても名誉ある事で、素晴らしいですね♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、名誉あることです。
交響楽団を創設した山田耕筰らしい勇壮な曲が関大のイメージにピッタリなんですよね。
なお、横山大観は「生々流転(せいせいるてん)」、下村観山は「白狐(びゃっこ)」などの作品が有名です。
洋画では、大正3(1914)年に文展(ぶんてん)から分離(ぶんり)した民間の美術団体である二科会(にかかい)の梅原龍三郎(うめはらりゅうざぶろう)や安井曽太郎(やすいそうたろう)、あるいは春陽会(しゅんようかい)の岸田劉生(きしだりゅうせい)らが活躍(かつやく)しました。
岸田劉生は娘の麗子(れいこ)を描(えが)いた作品で知られており、また二科会が開催する二科展(にかてん)は芸能人がしばしば入選することで有名です。
また、彫刻(ちょうこく)では詩人でもあった高村光太郎(たかむらこうたろう)の「手」が知られています。
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(※これで大正時代は終了です。次回[1月29日]からは昭和時代・戦前の更新を開始します)





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ぴーち こんにちは!
私はどちらかというと西洋画の展覧会などには足を運ぶことが多いですが、日本画の展覧会は有名な方のものは一度も本物を目の前にしたことがありません(^^ゞ
岸田劉生の「麗子像」はダヴィンチの「モナリザ」に匹敵するくらい謎めいた雰囲気があり、今でもあのほほ笑みについて物議を醸しているようですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私は美術館へ行くこと自体が稀ですので、もっと芸術にお目にかからねばなりませんね(^^ゞ
麗子像は歴史の教科書にはたいてい載っている有名な絵ですからね。確かにモナリザに通じるものがありそうです。