大正時代には学問も各分野において様々な発展を遂(と)げました。人文科学においては東洋史学の白鳥庫吉(しらとりくらきち)や内藤虎次郎(ないとうとらじろう、別名を湖南=こなん)が、日本古代史の研究として津田左右吉(つだそうきち)らがあらわれました。
それ以外には政治学で吉野作造(よしのさくぞう)が民本主義(みんぽんしゅぎ)を唱(とな)えたほか、法学では美濃部達吉(みのべたつきち)が、民俗学では柳田国男(やなぎだくにお)らがあらわれました。
このうち美濃部達吉は大正元(1912)年に「憲法講話(けんぽうこうわ)」を刊行して、法人としての国家が統治権(とうちけん)の主体であり、天皇は憲法に従って統治権を行使する国家の最高機関として存在するという天皇機関説(てんのうきかんせつ)を唱えました。
また、柳田国男は農村に古くから伝わっている民間伝承(でんしょう)や風習・祭礼などを通じて我が国の民衆文化を明らかにする民俗学(みんぞくがく)を確立しました。
この他(ほか)、ロシア革命の影響(えいきょう)は学問研究の分野にも及(およ)び、経済学では河上肇(かわかみはじめ)が大正5(1916)年に「貧乏物語(びんぼうものがたり)」を著(あらわ)してマルクス経済学を紹介(しょうかい)しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
32万ヒットオメデトウございます!素晴らしい数字ですね!これからも頑張ってくださいね^^
大正時代は15年間と言いますが、この短い期間には
沢山の才能が開花された時期でもあるんですね^^私は柳田国男くらいしかお名前は聞いたことがありませんでしたので、勉強になりましたm(__)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございますm(_ _)m
最近は約一ヵ月で10,000HITを達成できるようになりました。これも皆様のお蔭です。
仰るとおり、大正期は年代こそ短いですが、数々の文化が花開いた時期でもあります。
これからしばらくの間は様々な文化について紹介しますので、よろしくお願いします。
また、研究機関として理化学研究所(りかがくけんきゅうじょ)が大正6(1917)年に創立されたり、航空研究所・鉄鋼研究所・地震研究所などが相次(あいつ)いで設立されたりしました。
ところで、この当時の教育の普及(ふきゅう)はめざましく、義務教育の就学率(しゅうがくりつ)はほぼ100%となったほか、中等・高等教育機関も充実(じゅうじつ)しました。
例(たと)えば中学校の数は大正4(1915)年には321校であったのが大正14(1925)年には500校を超(こ)え、また生徒数も大正9(1920)年の約17万人から昭和5(1930)年には約34万人と倍増(ばいぞう)しています。
なお、原敬内閣(はらたかしないかく)は高等教育機関の充実を進め、旧制高等学校が大幅(おおはば)に増加したほか、大正7(1918)年には大学令(だいがくれい)を公布して、総合大学である官立(かんりつ)の帝国大学以外にも単科大学や公立・私立の設置を認めました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
たった10年間程で随分と学校の数も、生徒の数も増えたものですね!
現在もまだ義務教育は中学校までとなっていますが、近い将来、高等教育も義務化になるんのでしょうかね?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、当時の教育の水準は高まる一方だったっですね。
高校の義務教育化ですか…。確かにほとんどの中学生が高校に進学しますが、こればかりは分かりませんね。