大正元(1912)年には11億円近い債務国(さいむこく)だった我が国が、大正9(1920)年には27億円以上の債権国(さいけんこく)となるなど、その影響は凄(すさ)まじく、日本国内は史上空前の大戦景気(たいせんけいき)を迎(むか)えることになりました。
特に造船業や海運業は、世界的な船舶不足(せんぱくぶそく)もあって、我が国は世界第3位の海運国となり、多くの船成金(ふななりきん)が生まれました。また鉄鋼業では、八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)の拡張や民間製鉄会社の設立が進んだほか、満鉄(まんてつ)の鞍山(あんざん)製鉄所も設立されたことで、生産が飛躍的(ひやくてき)に増加しました。
また、これまでドイツからの輸入に頼っていた薬品・染料・肥料などの分野では、代わりに国産の化学工業が発達しました。輸入が途絶(とだ)えたからといって決してあわてることなく、国内の産業を活性化させて「ピンチをチャンスに変える」という芸当(げいとう)は、この頃(ころ)からすでに我が国のお家芸(いえげい)だったんですね。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
なるほど、第一次世界大戦の時の
大戦景気を味わった事で、第二次世界対戦時にも
日本の世論は、戦争でもあってくれた方が良いなどと景気回復を祈る意味で、開戦当時は
好意的だったのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 第一次世界大戦の際、主戦場がヨーロッパ大陸だったため我が国は戦争によって本土が被害を受けるという可能性はほとんどありませんでした。そのため、戦争の「プラス面」のみを享受したので大戦景気を迎えました。
しかし、第二次世界大戦の場合、エネルギー問題などで我が国が追いつめられていたため、景気回復というよりも「座して死を待つくらいなら」という、悲壮な覚悟をもっての「好意的」であったといえるかもしれません。
教訓から学ぶ
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
この好景気は、有名ですよね。
神戸の鈴木商店は、成りあがりの象徴として、
語られています。
私は、この大正時代の景気、昭和のバブルの景気を考える時、好景気は、大事ですけど
常に精神性も大事にし、危機感を持たないといけないという気がします。
イギリスのチャーチルが、
『好景気は、全ての矛盾を覆い隠す。』という名言を残しています。
現在、安倍氏が、経済対策(景気対策)を中心にしていることは、大賛成です。
ただ、同時に日本人としての精神性も、政策としてやらないと、国として、弱る気がします。
(安倍氏なら、やってくれると信じていますが)
青田さんへ
黒田裕樹 大戦景気は昭和末期から平成初期にかけてのバブル景気と比較されることがよくありますからね。
仰るとおり、景気に浮かれるだけでなくその後の対策もしっかりとしておかなければなりません。
現政権がこういった「歴史に学ぶ」姿勢を見せてくれれば心強いですね。
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-
また電気機械など機械産業の国産化も進んで、重化学工業が工業生産全体の約30%を占(し)めるようになりました。大戦景気は我が国の工業生産の構造をも変えてしまったのです。
大戦景気によって、工業生産額は約5倍に拡大し、大正8(1919)年には農業生産額を上回りました。また工場労働者数は、大正3(1914)年の約85万人から大正8年には約150万人にまで達し、重化学工業の発展に伴(ともな)って、男子労働者の数が大幅(おおはば)に増えました。
このように、第一次世界大戦は我が国内に大きな影響をもたらしたのですが、戦争というものは、いつかは終わります。それは大戦といえども例外ではなく、様々な需要(じゅよう)を生み出した戦争が終われば、やがて我が国の景気が後退(こうたい)してしまうのは必然(ひつぜん)でもありました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
今日は帰宅後にパソコンの調子が悪く
シャットダウンしたり、立ち上げたりして
ようやく復旧致しました(^^ゞ
今の時間となってしまい、申し訳ありませんm(__)m
電気が開通した歴史とにはまだまだ浅いのですね。
そう言えば、我が県の西北に位置する温泉宿などもついこの間までは電気も通っておらずに「ランプの宿」として名を馳せていたものです。
昭和も終わりを迎える頃にようやく・・ですからね(^^ゞ
それでも電気が当たり前の様に使える様になった現代では、ランプやろうそくの火で過ごす夜など
逆に新鮮に感じて、風情がありますがね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうでしたか、それは大変でしたね。復旧なさって何よりでした。
電気は古いようで結構新しいものですよね。
風情も良いですが、安定した電気の供給こそ現代の生命線だとも思えます。
オバrev 昭和の激動は、この大戦景気から始まったんですね(*_*;
戦後恐慌と言っても、振り返って歴史をみれば当然の結果ですよね。でもその後も日本ではバブル景気とバブル崩壊を繰り返していますけど・・・
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおりつながっていますし、好景気の後に不景気が来るのも歴史の必然です。
現代の我が国は出口の見えない不況に入っているといわれ続けていましたが、どうやら光が見えつつあるようですね。
そして大正9(1920)年には、株価の暴落(ぼうらく)をきっかけとして戦後恐慌(せんごきょうこう)が起こり、銀行で取り付け騒(さわ)ぎが続出したほか、綿糸(めんし)や生糸(きいと)の相場が半値(はんね)以下に暴落したことで、紡績業(ぼうせきぎょう)や製糸業(せいしぎょう)が事業を縮小(しゅくしょう)せざるを得なくなって失業者が増えたほか、物価の下落によって中小農民が没落(ぼつらく)しました。
さらには、こうした不況(ふきょう)に追い打ちをかけるかのように、大正12(1923)年9月1日午前11時58分に関東大震災(かんとうだいしんさい)が発生し、東京を含む京浜地帯(けいひんちたい)は壊滅的(かいめつてき)な被害(ひがい)を受けて、日本経済は大きな打撃(だげき)を受けました。
震災によって多くの銀行の手形が決済不能となり、政府は日本銀行に約4億3,000万円という巨額(きょがく)の特別融資(とくべつゆうし)をさせて何とか一時はしのいだものの、不況の慢性化(まんせいか)でその後の決済が思うように進まず、3年後の大正15(1926)年になっても約2億円の未決済分が残っていました。
なお、関東大震災による混乱によって、無政府主義者の大杉栄(おおすぎさかえ)と伊藤野枝(いとうのえ)が憲兵大尉(けんぺいたいい)の甘粕正彦(あまかすまさひこ)によって殺害されたり、様々な事情によって多数の朝鮮人が生命の危険にさらされるといった騒ぎも発生したりした一方で、その朝鮮人を命がけで保護した民間人や警察官もいました。政府はこうした非常事態に対して戒厳令(かいげんれい)を出し、事後の対策を講じました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
そうですか。
不運は一度起こると連鎖的にズルズルと
引きずられるように起きてくるものですね。
条件は違えども
何やら状況が今の日本と酷似しているようにも
感じられますが、止まない雨は無いと信じて
前進していけば、必ず道は開けるのだと
この時代と今の日本がこうしてあることに
希望を持ちたいと改めて思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに「負の連鎖」というのは続きますよね。
ですが、仰るように前進を続ければいつかは必ず道が開けるものです。
希望を持って毎日を過ごしたいものですね。
日本の宿命
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
よく、考えると
不況・天災は、常に前提として、考えていないといけないのかもしれませんね。
① 景気・不景気は、経済の流れとして
ある程度は、避けられい。
不景気をどれだけ、最小限に抑えるかが、重要。
② 日本は、台風と地震は、地理的に、地政学的に避けられない。
・ 台風は、毎年、来る。
・ 地震は、必ず、起きる。
(地政学上そうなっている。)
だからといって、日本生きているかぎり、座して、不幸が来ないのを祈っていても仕方ないので、
日本人自身が、知恵を絞って、前進するしかないですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
避けられない運命であるのならば、いかに被害を最小限に食いとどめるかを真っ先に考えなければいけません。